変わり種小説
「なぁカルダ、早く行こうぜ。遅刻しちゃうよ」
友達に声をかけられても動くことは出来なかった。彼の肩の向こう、地面をじっと見つめる。チラッと見ただけだと黒っぽい布の塊が落ちているように見える。けれどたまに腕らしいものが動いているところから、あれはヒトだと分かった。起き上がろうとする度に道行くみんなに容赦なく踏みつけられて、見ているだけで胸が痛む。
「……ごめん、ちょっと遅れる。先に行ってて」
「何だ、また忘れ物か? 気を付けろよー、お前遅刻回数リーチかかってんだから」
三十分くらいで来れそうだって報告しといてやるから、それまでに来るんだぞ!
そう告げて駆け出していく。目の前にある塊を踏みつけながら、まるで何も見えていないかのように。いつもボクを気遣ってくれるアイツでさえあんな風に人を踏んでいけるのだと思い知らされて、唇を噛み締める。
いつからだろう。この国のことが好きなのに、それでもどこか居心地が悪くなってきたのは。時々仕事をしないで奇行に走る『キグルイさん』が出て、体制に背く不穏分子だと警戒されて、最後には光の届かない深い谷底に突き落とされる。少し前まで隣で働いていたヒトがいなくなって平然としている皆がどうしようもなく怖くなったのはいつからだろう。皆と一緒にいることが辛くなったのは。
黒いものに駆け寄って触れてみる。ほんのり温かい。うつ伏せになっているらしい体をひっくり返すと、雪みたいに真っ白な肌が見えた。体はボクたちよりもかなり大きくて、濃い灰色のフードには薄い布が縫い付けられていた。布の下の顔は整っていて、男性が女性かもよく分からない。
この辺りじゃ見かけない顔に少し見入ったけれど、すぐに我に返った。頬をぺちぺち叩いて気持ちを切り替える。このままじゃまた踏まれちゃうから、安全な場所に運ばないと。倒れてるヒトを抱き上げる。体は大きいのに、ビックリするほど軽かった。
自分の家に連れてきて、ベッドに寝かせる。奇妙なことに、地面に倒れていたはずの彼の服はホコリ一つ着いていなかった。靴を履かずに素足であることも合わさって、不思議な人だという印象が強くなる。首に巻いた濃藍のマフラーを緩めてフードを取った。色のない髪が重力に従って下へと吸い寄せられる。光を反射して白っぽい髪の房から沢山の色が出てくる様子に思わず目を奪われた。
呻き声が漏れた。横になったヒトを覗き込むと、ゆっくりと目が開かれた。
息を呑む。
その瞳は暗闇のように真っ暗で、髪とは真逆に何の光も跳ね返そうとしなかった。それはまるで、何もかも吸い込んでいるかのようで。地の全てを照らす陽王 陛下の治世では滅多に見られない暗い場所、罪を犯した疑いのある人が突き落とされる谷の底を連想させる。
「──ここ、は?」
開いた口から出てきたのは、低くて高い音。まるでソプラノとバスの人が同時に喋っているような、不協和音に近い声。聞いていて何故か心がざわつく。頭の中に直接言葉をねじ込まれている感覚に近い。
「す、すみません、倒れてたからって勝手に連れてきちゃって……」
思わず敬語になる。陽王陛下の下で働くヒトは皆同じ立場なのに、この人は何だかボク達とは決定的に違う気がした。見た目とかそういう問題じゃなく、根本から違う存在のような。ぎくしゃくするボクを見上げて、その人は両目を細めた。ピクリとも笑わないせいで余計怖く見える。
「助けてくれたってことかな。ありがとう」
「いやそんな、ヒトとして当然のことをしただけっていうか。それより名前と今日の担当部署を教えてください、このままだと欠勤扱いになっちゃうでしょ。代わりに連絡しておきますから」
「名前なんて聞く必要あるかい? 私という存在は他にいないんだ、わざわざ個人を識別する必要はないだろう?」
「は、はぁ……」
まさか名前を聞いただけの簡単な質問にも答えてもらえないとは。黒づくめの服を着て素足で外にいたりする時点で変な人だとは思っていたけれど、何だか厄介なものを拾っちゃった気もする。
「じゃあお仕事は何ですか? この辺りじゃ見かけない顔ですけど、今日はどこの担当なんです?」
「難しい質問だね。私は夜の世界からこちらに観光に来ただけの旅人だから……仕事と呼べるものは、そうだね。『夜』という時間を売って回ることくらいかな。それを踏まえると『夜の商人』と呼ぶのが適切かもしれない」
「たびびと、よるの商人……聞いたことない仕事ですね。そんな当番あったかなぁ」
というより、『よる』ってなんだろう。
どこかで聞いたことがあるような気はするけれど……としばらく考えて、ようやく思い出す。
そうだ、昔話で聞いたことがある。陛下が空を支配する前、この国には『昼』と『夜』ってふたつの時間があったんだって。『夜』の時間は地に注ぐ光がないのをいいことに犯罪者が自由に振る舞って、一日の半分は自分が巻き込まれないように身を潜めてなきゃいけなかったんだって。
そんな風にいいヒトが苦しまなきゃいけない世界が嫌で、陽王陛下は空に太陽を固定した。そこから昼の国ができて、犯罪者が活動できないようにお互いを見張って仕事を続ける制度ができたんだと。それが『昼の国』のできた理由だって聞いた気が。
もしこのヒトの言ってることが本当なら、昼の国とは違う世界から来たことになる。そんな国があるのかは分からないから、結局は眉唾ものにすぎないんだけど。
あるいは。彼はひょっとしたら夜の世界なんてものがあると思い込んでる『キグルイさん』かも、と邪推しかけて首を振る。いくら何でも本人に向かって
「あなたは与えられた仕事を放り投げて他人より自分の利害を優先する犯罪者予備軍ですか」
「陽王陛下から賜った仕事や規律を蔑ろにし、コミュニティの輪から抜けて良からぬことを企んでいるのですか」
とは聞けない。
例え怪しい相手だとしても、同じ光の下で生活しているヒトを白い目で見たり地面の奥深くに追いやったりするのは酷だと思う。キグルイさん相手なら何をしても許される、みたいな空気は少し行き過ぎだと感じていた。理解できないからって切り捨てるのはあまりに惨い。
異世界から来たヒトだろうがキグルイさんだろうが、あのまま放っておいたらこのヒトは間違いなく行き倒れていただろう。そう考えると、助けたのはボクの良心を守るためだけじゃなくて街の衛生状態を維持することにも繋がったはずだ。だからボクのしたことは独りよがりじゃないって、きっと陛下も分かってくださるはず。
そんなことをぐるぐると考えていたら、商人さんは掛け布団を鼻の上まで被せてこちらに視線を投げてきた。体を起こすのはまだ辛いのかもしれない。
「名前や仕事に興味はないけれど、現在進行形で受けている恩はきちんと返したいところだね。勝手にベッドを借りてしまって申し訳ない、少し陽の光を浴びすぎたらしい。お礼の品付きで家主に返したいのは山々なんだが、生憎今は動けないんだ……睡眠の邪魔をしてしまうな」
やたら白い肌のせいで顔色が悪いのかどうか判断がつかない。口はよく回るので仮病のような気もするけれど、ベッドを占領していることを気にしているのはほんの少しだけ好感が持てた。いや、ここで開き直られても具合の悪そうな相手を外に放り出すようなことはしないけれど。かぶりを振って笑顔を向けた。
「すいみん? というものはよく分かりませんけど、気にしなくて大丈夫です。そのベッドは仕事の合間に数分くらい体を休めるだけで、普段はあまり使わないから」
「この国では眠ることもないのかい? 何と味気ない……娯楽も発展せず、機械のようにひたすら働かせて。陽王とやらは臣民を愛する気があるのかな。ただの労働力としか見ていないか、あるいは下々から自由を奪わなければ安心できないほど信頼がないのか。どちらにせよ哀れなことだ。人との繋がりを神聖視しているみたいだけれど、肝心の国がこれでは人々の精神は摩耗していくばかりだろう」
ブツブツと呟いている商人さんから一歩距離を置く。悪いヒトじゃないとは思うんだけれど、何だか怖い。起きてから今までずっと真顔だし、あまりに会話が飛躍しすぎている。ベッドの話から何で国の批判に繋がったんだろう。どこまでも変わったヒトだ。彼とまともな会話はできない気もする。
陽王陛下を悪く言われるのはあまり気分が良くない。やんわり反論しようとした言葉は、扉から飛び込んできた乱暴なノックの音に掻き消された。ボクを責める単語に怒鳴り声。慌てて時計を見たら、三十分はとっくの昔に過ぎていた。心臓が縮こまる。
「ご、ごごご、ごめんなさい! 今行きます!」
商人さんへの挨拶もそこそこに家を飛び出す。鬼のような形相の監視係さんに見下ろされて全身が冷たくなった。
どうか、無事に今日の業務を終えられますように。
恐ろしさのあまり、他人事のように願うことしかできなかった。
足取りが重い。今はとにかく、あの柔らかいベッドで沈むように横になりたい。大きなため息と共にドアを開ける。
「おかえりなさい。お世話になった身だからね、お疲れ様、くらいは言っておこうか」
二人が同時に喋っているような声、全体的に黒っぽい服装。足首に着けたアンクレットが歩く度にシャラシャラと音を立てる。何を考えているかも分からない不審者、自称異世界人の商人に出迎えられた。
何がおかえりなさいだ、ここはボクの家なのに。
虫の居所が悪いせいで些細なことにもイライラしてしまう。キッと相手を睨みつけた。
「まだいたんですか」
「ああ、もう大分動けるようにはなったけれどね。鍵の保管場所が分からなくて戸締りができそうになかったから、勝手に出ていっていいのか悩んだのさ」
「それじゃさっさと出ていってください。迷惑です」
ハッキリと切り捨てると、彼の目が見開かれた。初めて表情らしいものを見せたけれど、口元は微動だにしない。やっぱり得体の知れないヒトだ。こちらにゆっくり歩み寄って、服を掴んで手を引いてくる。椅子に向かい合うように座らされたけれど、ここはボクの家だぞ。
「どうしたのかな、君らしくもない。……いや、私は数時間前に助けてもらった程度の付き合いしかない訳だが、行き倒れている不審人物を家に連れてきて看病するお人好し、という認識はそれほど間違ってはいないはずだろう?」
お人好し。少し前までは確かにいい人であろうと思っていた。彼を助けたのも後悔はしないと、そう考えていた。
けれどボクは自分で思っていたよりも弱かったらしい。自分のしたことで取り返しのつかない結果を引き起こした途端、これほどまでに後悔してしまう。目元にじわりと涙がにじんだ。
「それですよ。よく分からないモノの面倒を優先して仕事の時間に遅れるなんてって、自宅療養を勧められたんだ!」
「休めるならいいことじゃないか。君達昼の住人は少し働きすぎだ、休んでもバチは当たらないだろう?」
「ちっとも良くない!」
叫んだ拍子に立ち上がる。椅子が大きな音を立てて倒れた。商人は表情のない目でじっとこちらを見上げている。その顔を見ていると無性に腹が立つ。拳をぎゅっと握って人差し指を澄ました顔に突き付けた。
「あなたは知らないでしょうけどね、この国では仕事が一番大事なんです。仕事をすることで国民として認められるし、当番制で色んなヒトと関わり合うことでやっと信頼を得られるんですよ」
裏を返せば、仕事をしなければ一切認められないということだ。
元々ボク達は何もしなくても生きられる丈夫な体を持っているけれど、それでも昔のように労働を勧められているのは『犯罪をする暇をなくすため』というところが大きい。決められた仕事をこなしていれば悪いことをする余裕もなくなるからだ。国の発展と犯罪の抑止を兼ねたいいシステムだと思う。少し殺伐とはしているけれど、そこは疑いようもない。事実、トラブルといえばたまにキグルイさんが出る程度で、犯罪なんて起こったことがないんだから。
この国では、仕事は国民としての義務だ。それなのに当番から外されるということは、仕事を任せてもらえる程度の信頼すらもなくしたということになる。信頼を培う機会すら与えられなくなる、全国民に着用を義務付けられている腕輪からの位置情報で四六時中監視される。家から出ればすぐに不穏分子として摘発されるだろう。キグルイさんになってしまった、と思われるかもしれない。そうなれば行き着く先は谷の底だ。
つまり、自宅療養と言われた時点で復帰は絶望的なのだ。仮にまた働けるようになったとしても、長い間『自宅療養者』の汚名が付きまとう。ずっと白い目で見られ続けるなんて耐えられない。
そういった旨を説明すると、黒衣のヒトは俯いた。表情筋をどこかに落としてきたとしか思えないほどの真顔だが、態度から何となくしんみりしているようにも見える。団体生活が主な場でヒトから距離を置くのがどういうことなのか、分からないわけではないらしい。
「そこまで酷い状況だったとは……軽はずみなことを言って失礼した。そして同時に今までの非礼をお詫びしたい。この国がやたら仕事にこだわるとは思っていたけれど、まさかそこまでの地獄郷 だとは想像だにしなかったんだ。君はそれほどの危険を冒して私を助けてくれたのだね」
「分かったら出ていってよ。もうあなたには関わりたくない」
「ああ、勿論。ひとつだけ商談をしたらすぐに出ていくさ。商談というより、この場合は提案というべきかもしれないがね」
顔を上げて目を合わせてくる。真っ黒な瞳に見つめられて喉の奥が鳴った。何故かこの目に見られると寒気が止まらない。自分の立っている場所そのものをひっくり返されるような、逃れられない予感がする。軽いめまいを覚えてテーブルに手をついた。
「よく話が長いと言われるからね、単刀直入に言おう。夜の世界に遊びに来る気はないかい?」
単刀直入に言われても分からない。そもそも彼の話はまどろっこしいのだ、近くで延々と詩を詠まれている気分になる。聞きたいと思っているときはいいが、普段からその口調だと少し鬱陶しい。
椅子を元に戻して座り直す。説明を促すと、懐に手を突っ込んで何かを取り出した。手のひらの中に収まってしまうほど小さな小瓶だ。中は紺色の煙らしいものが入っていて、時折チカチカと弱い光を放っている。蓋はコルク製で、蓋とビンの首とを繋ぐように紐が括りつけてあった。携帯にも便利なようにか、手持ち用の輪もついている。
「この小瓶は、持ち主を夜の世界に繋げる門の役割をしていてね。蓋を開ければ夜を一時的に体感できるのさ。元に戻りたくなったら蓋を閉めればいいだけだ、簡単だろう?」
確かに簡単だ。それが本当なら、瓶の蓋の開け閉めで世界の移動が疑似体験できることになる。そんな技術はこの国にはないから、もし本物だとしたら色んな常識がひっくり返るんじゃなかろうか。最初から胡散臭かったが、いよいよ詐欺めいてきた。こういう手合いは手っ取り早く矛盾を指摘して追い払うに限る。ボクは肩を竦めた。
「夜は犯罪のはびこる時間でしょう。そういう手合いは詐欺だと習いましたよ」
「まさか、その話を本気で信じているのかい? 昼は暖かで何の疑いもなく皆平等に幸せになれると、心の底から思えるのかな」
商人の次に出すべき言葉が見つからなかった。みっともなく目を泳がせる。
皆が平等に幸せになれるのなら、ボクは自宅療養にはなっていないと思う。少しレールを外れただけでキグルイさんと呼ばれ、ヒトとして扱われず、最後には捨てられる。そんな体制に疑問を持たなかったといえば嘘になる。公に口に出したらどうなるか分かったもんじゃなかったから言ったことはないけれど。
「確かに夜は暗いし静かだ。けれどそれは犯罪者のためじゃなくて、本来は全ての人を癒すためのものだったんだよ。昼の付き合いで疲れた人々を静かでほんのり冷たい風で癒す、それが恐らく大半の人にとっての夜だ。昼だろうが犯罪者は活動することもあるだろうに、汚名を全て夜に被せて素知らぬ振りをされるからね。その辺全部無視して罪を被せられるのはこちらとしては些か気分が悪いな」
ボクの顔をしっかりと見ながら続ける。暗闇の色をした瞳が、言論が、こちらを縫い止めていく。
「昼が管理された時間なら、夜は自由の時間だ。一緒にいたい人がいるならその人といればいいし、一人になりたいなら一人でいればいい。何も強制されない、全て自分の望み通りになる世界。それが夜 だ。ああ、治安のことなら心配しないでほしい。私のように『各地を回りながらのんびり仕事をしたい』『気が向いたときに好きな職につきたい』という奇特な連中が集まって自警団に近いものを作っているからね、困ったことがあれば彼らに言えば大体は解決する」
自由の時間、という表現は正直かなり惹かれるものがあった。昼の国ではそんなものはなかったから。長い休み時間なんて取ったら疑われる。魅力的ではあるけれど、あまりにも都合がよすぎる。それが今のところの印象だった。片眉を上げてテーブルに両肘をついた。そのまま手を組む。
「何でボクにそんな話を?」
「同情している、と言っても怒らないでくれるかい?」
彼にしては珍しくストレートに白状され、目を丸くした。軽く首を傾げている。右手の人差し指を出し、肘をついたままゆらゆらと揺らしていた。
「元は確かに怖いもの見たさというか、下品な言い方をすれば金の湧き出る泉だと思ったさ。自由を謳歌している夜とは真逆に、自分で自分を苦しめる文化を発展させてきた国があるって聞いたからね。疲れ果てた人々に自由な夜を売って回れば大儲けできる……と、考えなかったと言えば嘘になる」
けれど、君に助けられて気が変わったんだ。
気のせいか、微妙に口元が緩んだ気がした。
「死んだ目をしている人々の中で、君だけはリスクを分かった上で私を助けてくれた。あのときは倒れてしばらく意識があったんだがね、助けを求めても無視され続けるのは流石に精神に堪える。表情には出ていないかもしれないが、これでも本気で感謝しているんだよ? 君のような優しい人には是非こちらでのびのびと過ごしてほしい、と思ってしまうくらいにはね」
お代はいらない。これは私なりの感謝の気持ちだと思ってほしい、受け取ってくれるだけで充分なんだ。
小瓶を差し出しながら、柔らかい口調で言われれば揺らいでしまう。あーだのうーだの、口の中で言葉になり損なった音を転がしている。
夜の世界というものには興味がある。昼と違って夜は太陽が昇ってないらしいけど、自由の時間というものがどういうものか気になって仕方がない。そういった好奇心は旺盛な性質だった。
どうせ自宅療養って言われたんだから、試せるものは試してみたら。夜がろくでもないものだったら二度と使わなければいいんだから。
耳元で悪魔が囁く。警戒心と好奇心の競り合いで勝ったのは後者の方だった。
「それじゃ、ちょっとだけ試してみようかな」
小瓶に手を伸ばした。渡されたガラスのそれはやたら軽くて、気を抜いたらなくしてしまいそうだ。腰のベルトに紐を括り付ける。商人は椅子から立ち上がって優雅に一礼した。動きに全くの無駄がなく、慣れているのが分かる。これであとは表情がもう少し柔らかければ最高の印象を与えられるだろうに、と他人事ながら考えた。
「受け取ってくれてありがとう、本当に嬉しいよ。それでは約束通り、私はここらで退出するとしよう。邪魔になってもいけないからね」
もし君が夜の世界を気に入ったなら、どこかで故郷に帰った私に会うこともあるだろう。そのときは友人の一人として歓迎し、色々とオススメの場所を案内しよう。再会を楽しみに待っているよ。では失敬。
立石に水を流すようにスラスラと喋りながら、商人はドアから出ていった。一人残され、生唾を飲み込む。
せっかくだから今すぐ試してみたい。
「い、いい、よね」
蓋に手をかける。少し力を入れただけで簡単に外れた。瓶の中からもうもうと煙が上がる。ボクを包み込むように舞い上がって、全身を覆っていく。この消しゴムほどの大きさの瓶によくこれほどの煙が入っていたものだ。
紺の煙を吸い込んでしまって咳き込む。次に目を開いたときには、ボクの家は明らかに様変わりしていた。
ずっと外から聞こえていたざわめきは全く聞こえない。少し辺りは暗いけれど、そこらに光の玉がふわふわと浮いていたので何も見えない訳ではなかった。窓を見ると、光がこちらにあるためか反射して鏡のようになっている。桃色の目とオレンジから青のグラデーションになった髪を持つツインテールの見慣れたヒトが、おっかなびっくりこちらを覗き込んでいた。
気温は昼の国よりも低いけれど、寒いわけじゃない。身震いしたりほんのり汗ばんだりすることのない丁度いい気温で、暗さに慣れれば慣れるほど気持ちが解されていく。
夜はヒトを癒す時間だ、って言ってたっけ。なるほど、これなら納得だ。荒れた気持ちもヒトと関わる疲れも、こうしてのんびりと過ごすだけでも飛んでいきそうだ。
玄関のドアの方に好奇心が疼く。家の中でこれなら、外はもっと変わっているんだろうな。見てみたい。ヒトと関わるのも自由だって言ってたし、もしかしたら集会所みたいなところがあるのかもしれない。
一度好奇心が疼き出したら止まらない。ドアノブを捻って外に飛び出した。光の玉はそこらにふよふよと浮いていて、何だか幻想的で綺麗だった。
* * *
おや、もう外に出てきたのかい? 今回は好奇心の強そうな子だとは思っていたけれど、そこまでのうっかり者だとは思わなかったよ。こちらとしては口車に乗せやすくてやりやすかったけれどね? でも、人の言うことはもう少し疑った方がいい。初対面の人が相手なら尚更だ。
嘘は吐いていない。
昼の国での風習に興味がなかったのは本当だし、何としてでもあの子──カルダと言ったか──を夜の世界に案内したかったのも本当だ。けれど、本当のことを全て話した とまで言った覚えはないよ?
昼の国の体制なら全て把握している。彼、いや、彼女か? 下調べの段階で両性具有だということは分かっていたから、ここでは便宜上彼女 と呼ぶことにしよう。彼女が昼の国を息苦しく思っていたことも、困っている人を見かけたら放っておけないせいで何度も遅刻して怒られていることも分かっていたさ。
だからこそ夜 の世界に欲しいと思った。
こちらに引き込んで友達になれたら、と思ったんだよ。
私は本来夜の世界の住人。昼に完全に適応できている人物は夜の存在なんて知る術もない。私のような闇は光に照らされて消えてしまうだろう。私が見えるのは、夜という時間に無意識でも焦がれている存在だけさ。彼女は誰も私を助けないことに心を痛めていたようだけれど、うん、それは当たり前だ! だって見えていなかったんだから!
夜の世界の住民は自由を愛している。それは同時に自分の心の赴くままに行動しているということで、管理されたままで満足できる昼の住民とは相容れない存在だ。私も例外ではない。欲しいものがあったら何がなんでも手に入れなければ気が済まない性質でね?
繰り返すけれど、嘘は吐いていない。
小瓶は持ち主を夜の世界に繋げる門だとは言ったけれど、体ごと夜の世界に移動できるとは言っていない。あの小瓶は、言ってみるなら夜の世界体験コースといったところだ。五感で夜を味わえる、というだけで、体は現実のまま、昼のまま。それでも家の中で休んでいる分には何の問題もなかったんだけれどね?
なんだっけ、腕輪の位置情報で四六時中監視されるんだっけ? 自宅療養を言い渡された状態で外に出たら不穏分子として摘発されるとも言っていたか。夜の世界に五感を寄越したままなら、その様子はさぞ『気が狂ったように』見えるだろうね。
いつだったか。私の小瓶を受け取った人物が谷底に至る寸前、全てを知って「悪魔」「死神」と罵ったことがある。確かにそうも見えるだろう、自覚はしているさ。けれど、これはボクなりの温情でもあるんだよ?
昼の世界は冷たい場所だ。太陽に照らされた明るさや暖かさとは裏腹に、人々の間に流れる空気は冷え切っている。娯楽もないままにお互いを監視しあって仕事を続けるなんて、こっちから見れば正気の沙汰じゃない。そんなことを続けていたら、私が何もしていなくてもいずれ狂ってしまうだろう。この世界で狂いそうになった人は寧ろまともなんだ。頑張りすぎて壊れてしまう前に、本当に狂ってしまう前に自由を謳歌できる世界に行くことの何が悪いんだい?
私は夜を愛している。
あの静けさを、心地よい風を、自由さを愛している。それの魅力をよく分かっている。
少なくとも「昼の側の世界に生まれたから」というだけで馬車馬の如く働かされ続けた彼らよりも、よっぽど自分の世界を愛しているつもりさ。
だからもっと多くの人に知ってほしい。もっとこの素晴らしさを分かち合う友人が欲しい。
こちらの世界に移住させるには一度肉体の死を迎えてもらわなければいけないから、キグルイさんとやらに誤解されるよう仕向けているけれど……このやり方だって本意じゃないんだ。本当だよ? これから自分の世界を案内するお客さんに無碍なことをしたい訳がないじゃないか!
人によっては狂っていると言うだろう。やり方が残酷なのは承知している。安心してほしい、谷底に落とされて体がバラバラになった時があの小瓶の本領を発揮するときだ。持ち主の魂を安全に夜の世界まで届けて、生前と全く同じ身体をプレゼントしよう。
ああ、楽しみだ。本当の意味で自由を手に入れた彼女は楽しんでくれるかな。私を見たらなんと言うだろう? 殺意か、それとも感謝を向けてくれるのかな。どちらにせよ、こっちに強い感情を向けてくるという事実だけで鳥肌が立つほど嬉しいんだよ。
ああ、次に会うときが楽しみで笑みを抑えきれない。
けれどまだだ、まだ足りない。私は寂しがり屋で博愛主義だから、苦しむ人を見かけたら救いたくなる 。
さて、次は誰にしようかな。
了
友達に声をかけられても動くことは出来なかった。彼の肩の向こう、地面をじっと見つめる。チラッと見ただけだと黒っぽい布の塊が落ちているように見える。けれどたまに腕らしいものが動いているところから、あれはヒトだと分かった。起き上がろうとする度に道行くみんなに容赦なく踏みつけられて、見ているだけで胸が痛む。
「……ごめん、ちょっと遅れる。先に行ってて」
「何だ、また忘れ物か? 気を付けろよー、お前遅刻回数リーチかかってんだから」
三十分くらいで来れそうだって報告しといてやるから、それまでに来るんだぞ!
そう告げて駆け出していく。目の前にある塊を踏みつけながら、まるで何も見えていないかのように。いつもボクを気遣ってくれるアイツでさえあんな風に人を踏んでいけるのだと思い知らされて、唇を噛み締める。
いつからだろう。この国のことが好きなのに、それでもどこか居心地が悪くなってきたのは。時々仕事をしないで奇行に走る『キグルイさん』が出て、体制に背く不穏分子だと警戒されて、最後には光の届かない深い谷底に突き落とされる。少し前まで隣で働いていたヒトがいなくなって平然としている皆がどうしようもなく怖くなったのはいつからだろう。皆と一緒にいることが辛くなったのは。
黒いものに駆け寄って触れてみる。ほんのり温かい。うつ伏せになっているらしい体をひっくり返すと、雪みたいに真っ白な肌が見えた。体はボクたちよりもかなり大きくて、濃い灰色のフードには薄い布が縫い付けられていた。布の下の顔は整っていて、男性が女性かもよく分からない。
この辺りじゃ見かけない顔に少し見入ったけれど、すぐに我に返った。頬をぺちぺち叩いて気持ちを切り替える。このままじゃまた踏まれちゃうから、安全な場所に運ばないと。倒れてるヒトを抱き上げる。体は大きいのに、ビックリするほど軽かった。
自分の家に連れてきて、ベッドに寝かせる。奇妙なことに、地面に倒れていたはずの彼の服はホコリ一つ着いていなかった。靴を履かずに素足であることも合わさって、不思議な人だという印象が強くなる。首に巻いた濃藍のマフラーを緩めてフードを取った。色のない髪が重力に従って下へと吸い寄せられる。光を反射して白っぽい髪の房から沢山の色が出てくる様子に思わず目を奪われた。
呻き声が漏れた。横になったヒトを覗き込むと、ゆっくりと目が開かれた。
息を呑む。
その瞳は暗闇のように真っ暗で、髪とは真逆に何の光も跳ね返そうとしなかった。それはまるで、何もかも吸い込んでいるかのようで。地の全てを照らす
「──ここ、は?」
開いた口から出てきたのは、低くて高い音。まるでソプラノとバスの人が同時に喋っているような、不協和音に近い声。聞いていて何故か心がざわつく。頭の中に直接言葉をねじ込まれている感覚に近い。
「す、すみません、倒れてたからって勝手に連れてきちゃって……」
思わず敬語になる。陽王陛下の下で働くヒトは皆同じ立場なのに、この人は何だかボク達とは決定的に違う気がした。見た目とかそういう問題じゃなく、根本から違う存在のような。ぎくしゃくするボクを見上げて、その人は両目を細めた。ピクリとも笑わないせいで余計怖く見える。
「助けてくれたってことかな。ありがとう」
「いやそんな、ヒトとして当然のことをしただけっていうか。それより名前と今日の担当部署を教えてください、このままだと欠勤扱いになっちゃうでしょ。代わりに連絡しておきますから」
「名前なんて聞く必要あるかい? 私という存在は他にいないんだ、わざわざ個人を識別する必要はないだろう?」
「は、はぁ……」
まさか名前を聞いただけの簡単な質問にも答えてもらえないとは。黒づくめの服を着て素足で外にいたりする時点で変な人だとは思っていたけれど、何だか厄介なものを拾っちゃった気もする。
「じゃあお仕事は何ですか? この辺りじゃ見かけない顔ですけど、今日はどこの担当なんです?」
「難しい質問だね。私は夜の世界からこちらに観光に来ただけの旅人だから……仕事と呼べるものは、そうだね。『夜』という時間を売って回ることくらいかな。それを踏まえると『夜の商人』と呼ぶのが適切かもしれない」
「たびびと、よるの商人……聞いたことない仕事ですね。そんな当番あったかなぁ」
というより、『よる』ってなんだろう。
どこかで聞いたことがあるような気はするけれど……としばらく考えて、ようやく思い出す。
そうだ、昔話で聞いたことがある。陛下が空を支配する前、この国には『昼』と『夜』ってふたつの時間があったんだって。『夜』の時間は地に注ぐ光がないのをいいことに犯罪者が自由に振る舞って、一日の半分は自分が巻き込まれないように身を潜めてなきゃいけなかったんだって。
そんな風にいいヒトが苦しまなきゃいけない世界が嫌で、陽王陛下は空に太陽を固定した。そこから昼の国ができて、犯罪者が活動できないようにお互いを見張って仕事を続ける制度ができたんだと。それが『昼の国』のできた理由だって聞いた気が。
もしこのヒトの言ってることが本当なら、昼の国とは違う世界から来たことになる。そんな国があるのかは分からないから、結局は眉唾ものにすぎないんだけど。
あるいは。彼はひょっとしたら夜の世界なんてものがあると思い込んでる『キグルイさん』かも、と邪推しかけて首を振る。いくら何でも本人に向かって
「あなたは与えられた仕事を放り投げて他人より自分の利害を優先する犯罪者予備軍ですか」
「陽王陛下から賜った仕事や規律を蔑ろにし、コミュニティの輪から抜けて良からぬことを企んでいるのですか」
とは聞けない。
例え怪しい相手だとしても、同じ光の下で生活しているヒトを白い目で見たり地面の奥深くに追いやったりするのは酷だと思う。キグルイさん相手なら何をしても許される、みたいな空気は少し行き過ぎだと感じていた。理解できないからって切り捨てるのはあまりに惨い。
異世界から来たヒトだろうがキグルイさんだろうが、あのまま放っておいたらこのヒトは間違いなく行き倒れていただろう。そう考えると、助けたのはボクの良心を守るためだけじゃなくて街の衛生状態を維持することにも繋がったはずだ。だからボクのしたことは独りよがりじゃないって、きっと陛下も分かってくださるはず。
そんなことをぐるぐると考えていたら、商人さんは掛け布団を鼻の上まで被せてこちらに視線を投げてきた。体を起こすのはまだ辛いのかもしれない。
「名前や仕事に興味はないけれど、現在進行形で受けている恩はきちんと返したいところだね。勝手にベッドを借りてしまって申し訳ない、少し陽の光を浴びすぎたらしい。お礼の品付きで家主に返したいのは山々なんだが、生憎今は動けないんだ……睡眠の邪魔をしてしまうな」
やたら白い肌のせいで顔色が悪いのかどうか判断がつかない。口はよく回るので仮病のような気もするけれど、ベッドを占領していることを気にしているのはほんの少しだけ好感が持てた。いや、ここで開き直られても具合の悪そうな相手を外に放り出すようなことはしないけれど。かぶりを振って笑顔を向けた。
「すいみん? というものはよく分かりませんけど、気にしなくて大丈夫です。そのベッドは仕事の合間に数分くらい体を休めるだけで、普段はあまり使わないから」
「この国では眠ることもないのかい? 何と味気ない……娯楽も発展せず、機械のようにひたすら働かせて。陽王とやらは臣民を愛する気があるのかな。ただの労働力としか見ていないか、あるいは下々から自由を奪わなければ安心できないほど信頼がないのか。どちらにせよ哀れなことだ。人との繋がりを神聖視しているみたいだけれど、肝心の国がこれでは人々の精神は摩耗していくばかりだろう」
ブツブツと呟いている商人さんから一歩距離を置く。悪いヒトじゃないとは思うんだけれど、何だか怖い。起きてから今までずっと真顔だし、あまりに会話が飛躍しすぎている。ベッドの話から何で国の批判に繋がったんだろう。どこまでも変わったヒトだ。彼とまともな会話はできない気もする。
陽王陛下を悪く言われるのはあまり気分が良くない。やんわり反論しようとした言葉は、扉から飛び込んできた乱暴なノックの音に掻き消された。ボクを責める単語に怒鳴り声。慌てて時計を見たら、三十分はとっくの昔に過ぎていた。心臓が縮こまる。
「ご、ごごご、ごめんなさい! 今行きます!」
商人さんへの挨拶もそこそこに家を飛び出す。鬼のような形相の監視係さんに見下ろされて全身が冷たくなった。
どうか、無事に今日の業務を終えられますように。
恐ろしさのあまり、他人事のように願うことしかできなかった。
足取りが重い。今はとにかく、あの柔らかいベッドで沈むように横になりたい。大きなため息と共にドアを開ける。
「おかえりなさい。お世話になった身だからね、お疲れ様、くらいは言っておこうか」
二人が同時に喋っているような声、全体的に黒っぽい服装。足首に着けたアンクレットが歩く度にシャラシャラと音を立てる。何を考えているかも分からない不審者、自称異世界人の商人に出迎えられた。
何がおかえりなさいだ、ここはボクの家なのに。
虫の居所が悪いせいで些細なことにもイライラしてしまう。キッと相手を睨みつけた。
「まだいたんですか」
「ああ、もう大分動けるようにはなったけれどね。鍵の保管場所が分からなくて戸締りができそうになかったから、勝手に出ていっていいのか悩んだのさ」
「それじゃさっさと出ていってください。迷惑です」
ハッキリと切り捨てると、彼の目が見開かれた。初めて表情らしいものを見せたけれど、口元は微動だにしない。やっぱり得体の知れないヒトだ。こちらにゆっくり歩み寄って、服を掴んで手を引いてくる。椅子に向かい合うように座らされたけれど、ここはボクの家だぞ。
「どうしたのかな、君らしくもない。……いや、私は数時間前に助けてもらった程度の付き合いしかない訳だが、行き倒れている不審人物を家に連れてきて看病するお人好し、という認識はそれほど間違ってはいないはずだろう?」
お人好し。少し前までは確かにいい人であろうと思っていた。彼を助けたのも後悔はしないと、そう考えていた。
けれどボクは自分で思っていたよりも弱かったらしい。自分のしたことで取り返しのつかない結果を引き起こした途端、これほどまでに後悔してしまう。目元にじわりと涙がにじんだ。
「それですよ。よく分からないモノの面倒を優先して仕事の時間に遅れるなんてって、自宅療養を勧められたんだ!」
「休めるならいいことじゃないか。君達昼の住人は少し働きすぎだ、休んでもバチは当たらないだろう?」
「ちっとも良くない!」
叫んだ拍子に立ち上がる。椅子が大きな音を立てて倒れた。商人は表情のない目でじっとこちらを見上げている。その顔を見ていると無性に腹が立つ。拳をぎゅっと握って人差し指を澄ました顔に突き付けた。
「あなたは知らないでしょうけどね、この国では仕事が一番大事なんです。仕事をすることで国民として認められるし、当番制で色んなヒトと関わり合うことでやっと信頼を得られるんですよ」
裏を返せば、仕事をしなければ一切認められないということだ。
元々ボク達は何もしなくても生きられる丈夫な体を持っているけれど、それでも昔のように労働を勧められているのは『犯罪をする暇をなくすため』というところが大きい。決められた仕事をこなしていれば悪いことをする余裕もなくなるからだ。国の発展と犯罪の抑止を兼ねたいいシステムだと思う。少し殺伐とはしているけれど、そこは疑いようもない。事実、トラブルといえばたまにキグルイさんが出る程度で、犯罪なんて起こったことがないんだから。
この国では、仕事は国民としての義務だ。それなのに当番から外されるということは、仕事を任せてもらえる程度の信頼すらもなくしたということになる。信頼を培う機会すら与えられなくなる、全国民に着用を義務付けられている腕輪からの位置情報で四六時中監視される。家から出ればすぐに不穏分子として摘発されるだろう。キグルイさんになってしまった、と思われるかもしれない。そうなれば行き着く先は谷の底だ。
つまり、自宅療養と言われた時点で復帰は絶望的なのだ。仮にまた働けるようになったとしても、長い間『自宅療養者』の汚名が付きまとう。ずっと白い目で見られ続けるなんて耐えられない。
そういった旨を説明すると、黒衣のヒトは俯いた。表情筋をどこかに落としてきたとしか思えないほどの真顔だが、態度から何となくしんみりしているようにも見える。団体生活が主な場でヒトから距離を置くのがどういうことなのか、分からないわけではないらしい。
「そこまで酷い状況だったとは……軽はずみなことを言って失礼した。そして同時に今までの非礼をお詫びしたい。この国がやたら仕事にこだわるとは思っていたけれど、まさかそこまでの
「分かったら出ていってよ。もうあなたには関わりたくない」
「ああ、勿論。ひとつだけ商談をしたらすぐに出ていくさ。商談というより、この場合は提案というべきかもしれないがね」
顔を上げて目を合わせてくる。真っ黒な瞳に見つめられて喉の奥が鳴った。何故かこの目に見られると寒気が止まらない。自分の立っている場所そのものをひっくり返されるような、逃れられない予感がする。軽いめまいを覚えてテーブルに手をついた。
「よく話が長いと言われるからね、単刀直入に言おう。夜の世界に遊びに来る気はないかい?」
単刀直入に言われても分からない。そもそも彼の話はまどろっこしいのだ、近くで延々と詩を詠まれている気分になる。聞きたいと思っているときはいいが、普段からその口調だと少し鬱陶しい。
椅子を元に戻して座り直す。説明を促すと、懐に手を突っ込んで何かを取り出した。手のひらの中に収まってしまうほど小さな小瓶だ。中は紺色の煙らしいものが入っていて、時折チカチカと弱い光を放っている。蓋はコルク製で、蓋とビンの首とを繋ぐように紐が括りつけてあった。携帯にも便利なようにか、手持ち用の輪もついている。
「この小瓶は、持ち主を夜の世界に繋げる門の役割をしていてね。蓋を開ければ夜を一時的に体感できるのさ。元に戻りたくなったら蓋を閉めればいいだけだ、簡単だろう?」
確かに簡単だ。それが本当なら、瓶の蓋の開け閉めで世界の移動が疑似体験できることになる。そんな技術はこの国にはないから、もし本物だとしたら色んな常識がひっくり返るんじゃなかろうか。最初から胡散臭かったが、いよいよ詐欺めいてきた。こういう手合いは手っ取り早く矛盾を指摘して追い払うに限る。ボクは肩を竦めた。
「夜は犯罪のはびこる時間でしょう。そういう手合いは詐欺だと習いましたよ」
「まさか、その話を本気で信じているのかい? 昼は暖かで何の疑いもなく皆平等に幸せになれると、心の底から思えるのかな」
商人の次に出すべき言葉が見つからなかった。みっともなく目を泳がせる。
皆が平等に幸せになれるのなら、ボクは自宅療養にはなっていないと思う。少しレールを外れただけでキグルイさんと呼ばれ、ヒトとして扱われず、最後には捨てられる。そんな体制に疑問を持たなかったといえば嘘になる。公に口に出したらどうなるか分かったもんじゃなかったから言ったことはないけれど。
「確かに夜は暗いし静かだ。けれどそれは犯罪者のためじゃなくて、本来は全ての人を癒すためのものだったんだよ。昼の付き合いで疲れた人々を静かでほんのり冷たい風で癒す、それが恐らく大半の人にとっての夜だ。昼だろうが犯罪者は活動することもあるだろうに、汚名を全て夜に被せて素知らぬ振りをされるからね。その辺全部無視して罪を被せられるのはこちらとしては些か気分が悪いな」
ボクの顔をしっかりと見ながら続ける。暗闇の色をした瞳が、言論が、こちらを縫い止めていく。
「昼が管理された時間なら、夜は自由の時間だ。一緒にいたい人がいるならその人といればいいし、一人になりたいなら一人でいればいい。何も強制されない、全て自分の望み通りになる世界。それが
自由の時間、という表現は正直かなり惹かれるものがあった。昼の国ではそんなものはなかったから。長い休み時間なんて取ったら疑われる。魅力的ではあるけれど、あまりにも都合がよすぎる。それが今のところの印象だった。片眉を上げてテーブルに両肘をついた。そのまま手を組む。
「何でボクにそんな話を?」
「同情している、と言っても怒らないでくれるかい?」
彼にしては珍しくストレートに白状され、目を丸くした。軽く首を傾げている。右手の人差し指を出し、肘をついたままゆらゆらと揺らしていた。
「元は確かに怖いもの見たさというか、下品な言い方をすれば金の湧き出る泉だと思ったさ。自由を謳歌している夜とは真逆に、自分で自分を苦しめる文化を発展させてきた国があるって聞いたからね。疲れ果てた人々に自由な夜を売って回れば大儲けできる……と、考えなかったと言えば嘘になる」
けれど、君に助けられて気が変わったんだ。
気のせいか、微妙に口元が緩んだ気がした。
「死んだ目をしている人々の中で、君だけはリスクを分かった上で私を助けてくれた。あのときは倒れてしばらく意識があったんだがね、助けを求めても無視され続けるのは流石に精神に堪える。表情には出ていないかもしれないが、これでも本気で感謝しているんだよ? 君のような優しい人には是非こちらでのびのびと過ごしてほしい、と思ってしまうくらいにはね」
お代はいらない。これは私なりの感謝の気持ちだと思ってほしい、受け取ってくれるだけで充分なんだ。
小瓶を差し出しながら、柔らかい口調で言われれば揺らいでしまう。あーだのうーだの、口の中で言葉になり損なった音を転がしている。
夜の世界というものには興味がある。昼と違って夜は太陽が昇ってないらしいけど、自由の時間というものがどういうものか気になって仕方がない。そういった好奇心は旺盛な性質だった。
どうせ自宅療養って言われたんだから、試せるものは試してみたら。夜がろくでもないものだったら二度と使わなければいいんだから。
耳元で悪魔が囁く。警戒心と好奇心の競り合いで勝ったのは後者の方だった。
「それじゃ、ちょっとだけ試してみようかな」
小瓶に手を伸ばした。渡されたガラスのそれはやたら軽くて、気を抜いたらなくしてしまいそうだ。腰のベルトに紐を括り付ける。商人は椅子から立ち上がって優雅に一礼した。動きに全くの無駄がなく、慣れているのが分かる。これであとは表情がもう少し柔らかければ最高の印象を与えられるだろうに、と他人事ながら考えた。
「受け取ってくれてありがとう、本当に嬉しいよ。それでは約束通り、私はここらで退出するとしよう。邪魔になってもいけないからね」
もし君が夜の世界を気に入ったなら、どこかで故郷に帰った私に会うこともあるだろう。そのときは友人の一人として歓迎し、色々とオススメの場所を案内しよう。再会を楽しみに待っているよ。では失敬。
立石に水を流すようにスラスラと喋りながら、商人はドアから出ていった。一人残され、生唾を飲み込む。
せっかくだから今すぐ試してみたい。
「い、いい、よね」
蓋に手をかける。少し力を入れただけで簡単に外れた。瓶の中からもうもうと煙が上がる。ボクを包み込むように舞い上がって、全身を覆っていく。この消しゴムほどの大きさの瓶によくこれほどの煙が入っていたものだ。
紺の煙を吸い込んでしまって咳き込む。次に目を開いたときには、ボクの家は明らかに様変わりしていた。
ずっと外から聞こえていたざわめきは全く聞こえない。少し辺りは暗いけれど、そこらに光の玉がふわふわと浮いていたので何も見えない訳ではなかった。窓を見ると、光がこちらにあるためか反射して鏡のようになっている。桃色の目とオレンジから青のグラデーションになった髪を持つツインテールの見慣れたヒトが、おっかなびっくりこちらを覗き込んでいた。
気温は昼の国よりも低いけれど、寒いわけじゃない。身震いしたりほんのり汗ばんだりすることのない丁度いい気温で、暗さに慣れれば慣れるほど気持ちが解されていく。
夜はヒトを癒す時間だ、って言ってたっけ。なるほど、これなら納得だ。荒れた気持ちもヒトと関わる疲れも、こうしてのんびりと過ごすだけでも飛んでいきそうだ。
玄関のドアの方に好奇心が疼く。家の中でこれなら、外はもっと変わっているんだろうな。見てみたい。ヒトと関わるのも自由だって言ってたし、もしかしたら集会所みたいなところがあるのかもしれない。
一度好奇心が疼き出したら止まらない。ドアノブを捻って外に飛び出した。光の玉はそこらにふよふよと浮いていて、何だか幻想的で綺麗だった。
* * *
おや、もう外に出てきたのかい? 今回は好奇心の強そうな子だとは思っていたけれど、そこまでのうっかり者だとは思わなかったよ。こちらとしては口車に乗せやすくてやりやすかったけれどね? でも、人の言うことはもう少し疑った方がいい。初対面の人が相手なら尚更だ。
嘘は吐いていない。
昼の国での風習に興味がなかったのは本当だし、何としてでもあの子──カルダと言ったか──を夜の世界に案内したかったのも本当だ。けれど、
昼の国の体制なら全て把握している。彼、いや、彼女か? 下調べの段階で両性具有だということは分かっていたから、ここでは便宜上
だからこそ
こちらに引き込んで友達になれたら、と思ったんだよ。
私は本来夜の世界の住人。昼に完全に適応できている人物は夜の存在なんて知る術もない。私のような闇は光に照らされて消えてしまうだろう。私が見えるのは、夜という時間に無意識でも焦がれている存在だけさ。彼女は誰も私を助けないことに心を痛めていたようだけれど、うん、それは当たり前だ! だって見えていなかったんだから!
夜の世界の住民は自由を愛している。それは同時に自分の心の赴くままに行動しているということで、管理されたままで満足できる昼の住民とは相容れない存在だ。私も例外ではない。欲しいものがあったら何がなんでも手に入れなければ気が済まない性質でね?
繰り返すけれど、嘘は吐いていない。
小瓶は持ち主を夜の世界に繋げる門だとは言ったけれど、体ごと夜の世界に移動できるとは言っていない。あの小瓶は、言ってみるなら夜の世界体験コースといったところだ。五感で夜を味わえる、というだけで、体は現実のまま、昼のまま。それでも家の中で休んでいる分には何の問題もなかったんだけれどね?
なんだっけ、腕輪の位置情報で四六時中監視されるんだっけ? 自宅療養を言い渡された状態で外に出たら不穏分子として摘発されるとも言っていたか。夜の世界に五感を寄越したままなら、その様子はさぞ『気が狂ったように』見えるだろうね。
いつだったか。私の小瓶を受け取った人物が谷底に至る寸前、全てを知って「悪魔」「死神」と罵ったことがある。確かにそうも見えるだろう、自覚はしているさ。けれど、これはボクなりの温情でもあるんだよ?
昼の世界は冷たい場所だ。太陽に照らされた明るさや暖かさとは裏腹に、人々の間に流れる空気は冷え切っている。娯楽もないままにお互いを監視しあって仕事を続けるなんて、こっちから見れば正気の沙汰じゃない。そんなことを続けていたら、私が何もしていなくてもいずれ狂ってしまうだろう。この世界で狂いそうになった人は寧ろまともなんだ。頑張りすぎて壊れてしまう前に、本当に狂ってしまう前に自由を謳歌できる世界に行くことの何が悪いんだい?
私は夜を愛している。
あの静けさを、心地よい風を、自由さを愛している。それの魅力をよく分かっている。
少なくとも「昼の側の世界に生まれたから」というだけで馬車馬の如く働かされ続けた彼らよりも、よっぽど自分の世界を愛しているつもりさ。
だからもっと多くの人に知ってほしい。もっとこの素晴らしさを分かち合う友人が欲しい。
こちらの世界に移住させるには一度肉体の死を迎えてもらわなければいけないから、キグルイさんとやらに誤解されるよう仕向けているけれど……このやり方だって本意じゃないんだ。本当だよ? これから自分の世界を案内するお客さんに無碍なことをしたい訳がないじゃないか!
人によっては狂っていると言うだろう。やり方が残酷なのは承知している。安心してほしい、谷底に落とされて体がバラバラになった時があの小瓶の本領を発揮するときだ。持ち主の魂を安全に夜の世界まで届けて、生前と全く同じ身体をプレゼントしよう。
ああ、楽しみだ。本当の意味で自由を手に入れた彼女は楽しんでくれるかな。私を見たらなんと言うだろう? 殺意か、それとも感謝を向けてくれるのかな。どちらにせよ、こっちに強い感情を向けてくるという事実だけで鳥肌が立つほど嬉しいんだよ。
ああ、次に会うときが楽しみで笑みを抑えきれない。
けれどまだだ、まだ足りない。私は寂しがり屋で博愛主義だから、苦しむ人を見かけたら
さて、次は誰にしようかな。
了