変わり種小説
ぱんぱんに膨らんだ鞄に蓋をした。いつもはノートや鉛筆しか入れてなかったけど、今日はそれなりに大荷物になっちゃった。これでも減らしたつもりだったんだけど。
飲み物を入れる水筒に、タオル二枚。着替えは荷物になるから本当に必要な分だけにして、防寒具はいつでも使えるように鞄の外にくくりつけた。
いつか弟のために使おうと思って貯めていたお小遣いを小さな革袋に入れる。ぎゅっと口を閉めて空気と一緒に気持ちの栓を抜いた。ほんの少し切ないような気持ちだけど、これは自分のために使うことにしたから。このもやもやは邪魔になりそうだから置いていこう。
一通り荷造りが終わって、息を吐く。視界の隅につややかな黒が飛び込んできた。タオルを手にして歩み寄る。おばあちゃんがくれたピアノに触れるのも今日が最後だから、きちんと気持ちを込めて手入れをしていかなきゃ。
毎日弾いていた鍵盤にそっと触れて、ありがとうって気持ちを込めながら丁寧に拭き取っていく。人差し指でそっと押すと透き通った音色が響き渡った。このピアノと離れるのは少し寂しいけれど、きっと遠くからおばあちゃんが見ててくれるから平気。
窓の外を見る。今日もあの日と同じで、お日様の光が心地良い。自然と顔が緩んだ。
コン、コン、コンとノックが三回。あの人が呼びに来てくれたんだ。のんびりしすぎちゃったかな、急がないと。
鞄の肩紐に腕を通して、大きく深呼吸をして。
「今行きます」
と答えて扉を開けた。
◐ ◐ ◐
食器を乗せたトレーをベッドサイドテーブルの上に置く。お母さんに言われたとおり、今晩のメニューはたっぷりの野菜を煮込んだシチュー。お父さんのほうへ振り向くと、柔らかく笑ってこっちを見上げていた。
「ありがとう、テーラ。君も食事をして早く寝なさい」
「うん。……ねえ、お父さん」
うっかり聞いちゃいけないことを聞きかけて口をつぐむ。口を手で押さえても、目は右足のほうに釘付けになって離れない。
お父さんの右足は変な方向に曲がって、包帯に隠れないところまでがどす黒い色に変わっていた。少しずつ腐ってきて嫌なにおいがする。炭鉱の仕事で怪我をしてから、もう曜日が一周回っちゃってる。
「私なら大丈夫。神の導きに従っていれば平気だよ」
嘘。この前の戦争に負けてから、『かみさま』はいなくなったんだって聞いてるもん。それにお父さんの顔だって真っ青で、今も少し震えてるのに。
スカートのすそを握りしめて唇を噛む。これ以上は困らせるだけって分かってたから、言いたいことをぎゅっと押し込んで頷いた。顔を見られないように背を向けて部屋を出る。キッチンに置いてあった自分の分の食事を持って階段をのぼっていった。
ご飯を食べ終わって、ベッドに倒れこむ。お父さんやお母さんのことを考えると胸がいっぱいで、あまりおいしく感じなかった。食器を回収して洗わなきゃいけないんだけど、今はこのもやもやと向き合うので精一杯。
お父さんとお母さんの今の姿を頭の中で噛みしめる。小説家だったお父さんとベビーシッターだったお母さんは、戦争に負けてからお国のために働くように言われたんだって。一週間前にお父さんが炭鉱で落盤に巻き込まれて、三日前にお母さんが織物の機械に挟まれて。お父さんは右足、お母さんは両手が使えなくなった。ほかの国ではもう死んじゃいそうな人でも助かることがあるらしいけど、負けたばっかりのこの国じゃそんなのおとぎ話に過ぎないから。
かみさまはいなくなった。「『かみ』の導きの下に」って言ってた協会の人たちは何も言わなくなった。夜にお祈りしなさい、かみさまに与えられた体は大事にしなさいって言ってたのに。生きるも死ぬもかみさまのお導きだっておっしゃってた人たちは、もういないんだ。
体を起こして、ピアノに手を触れる。毎日近所の子たちに弾いて聞かせてたのに、今はもう誰も近寄ってくれない。傷や血を見るのはいけないことだって感覚が刷り込まれてるんだ。
この前までは私がピアノを弾いて、近所の子たちと一緒にお母さんが笑ってて。誰もいなくなった後でお父さんも「うまかったぞ」って褒めてくれてたのに。
窓の外を見ると、綺麗なお星さまが空いっぱいに光っていた。窓を開けていつもやっていたみたいにお祈りをする。目の端から涙がこぼれていった。
かみさま、かみさま。お父さんとお母さんを助けてください。
かみさまはいなくなったって聞いてるけど、それならもう私たちを導くのもやめちゃったんでしょ。それなら二人を生かしてください、連れて行かないでください。二人ともすごく、すごくいい人なんだから。弟も奉公に行ったきり帰ってこないし、もう私の家族はお父さんとお母さんだけなの。手足が腐って苦しむ顔なんて見たくないよ。
どうか。どうか助けて。
◐ ◐ ◑
鍵盤の上で指を躍らせる。いつもやっていたみたいに、お父さんとお母さんにも聞こえるように。かみさまがいなくなっちゃってもきっと、おばあちゃんのピアノは心を支えてくれるから。
一曲弾き終わって一息ついたとき、窓の外でかすかな音がした。振り向くと青い小鳥が窓の枠でぐったりしているのが見えた。窓のガラスが見えなくてぶつかっちゃったのかな、左の翼が変な方向に曲がっていた。
風にあおられて小鳥が下に落ちた。助けてあげたくても手当の仕方が分からないから……しばらくの間は面倒を見よう。死んじゃったら埋めてあげなきゃ。そう思って立ち上がって、息をのむ。少し目を離したその一瞬で、真っ黒な服の人が現れたから。シルクハットをかぶっていて、ステッキを持っていた。遠目にしか見えないけれど、なんだか右足が鳥の足に似てるような……気のせいかな。
その人が足元の小鳥に気づいて拾い上げた。後ろを向いて少ししたら、あの鳥が元気に飛び立った。折れていたはずの翼が色とりどりの綺麗な羽になっていた。
あっと声を上げる。その声に気が付いたのか、シルクハットの人がこっちを見上げた。帽子の下の顔は緑色で、縦に切れ込みの入った大きな一ツ目がこっちを見つめている。不思議な顔、あんな姿の人は見たことない。それにあの人、小鳥の怪我を治して……なおして?
あんな風に骨が折れちゃったら、この国じゃもう治せない。それなのにあの人は一瞬で治しちゃった。
そんなことができるのって、かみさまくらいしかいないんじゃない? かみさまがうちに来て、お父さんとお母さんを助けに来てくれたのかも。
部屋を飛び出して一段飛ばしで階段を駆け降りる。かみさまがどこかに行っちゃう前に呼び止めなきゃ。
「かみさまだ! かみさまが来てくれたよ!」
二人の部屋の方を向いて叫ぶ。ノックが三回聞こえて、勢いよく玄関を開けた。
そこには見上げるほど大きな人が……かみさまが立っていた。緑色の顔はウロコに覆われていて、大きな一ツ目でこっちをじっと見下ろしている。かみさまは黒い棒みたいな細い指でシルクハットをちょっと持ち上げた。びっくりしてちょっと後ずさる。大きい目玉に見つめられて、ちょっとの間だけ息をするのを忘れていた。
窓から見たときよりもずっと大きくて、人とは違った見た目をしてて。けれど怖いって気持ちよりも好奇心が勝った。
この人は、どうやって小鳥を治したんだろう? お父さんやお母さんも治るのかな。
気を取り直して、背筋をしゃんと伸ばす。今までお姉さんとして振舞ってきたんだもん、ちょっとくらい怖くたって頑張れるよ。
「かみさまですよね? 来てくれてありがとうございます!」
頭を下げて礼をすると、かみさまはぱちぱちとまばたきしていた。首を微かに傾げてるけど、どうしたのかな。言葉が分からないのかな?
「テーラ、どうしたの? お客様?」
「お客様ならここまでお通ししなさい」
お母さんとお父さんの声が聞こえた。こっちです、と奥に案内する。お父さんの部屋にお母さんも来てたらしくて、二人でベッドの上に腰かけていた。
かみさまはシルクハットを脱いで胸元に当て、軽く頭を下げた。鳥のような足、棒みたいな手、それからウロコに覆われた一ツ目の頭。人には見えない姿にびっくりしたのか、二人の顔が一気に強ばった。お父さんがお母さんの肩を抱えて、守ろうとしてるみたいにも見える。
「だ、誰? その……この辺りで見かけない人だけど。テーラの知り合い?」
「かみさまだよ! さっきね、翼が折れた小鳥を一瞬で治しちゃったの!」
「治した、か。ふむ……」
お父さんがあごに手を当てて何か考えてた。それを覗き込むようにお母さんが見守ってる。お母さんの両手は三角巾で吊られていて、包帯に巻かれた姿がとても痛々しかった。
「もしかして、貴方は医者の方ですか」
お父さんが聞くと、かみさまは頷いた。イシャ……って何だろう。聞いたことない。
「イシャって?」
「小説の資料を探しているときに見たことがあるんだ。この国の外、我らが神を崇めていない地方では医療が発展しているらしい。失敗することもあるが、成功すれば病気もすっかり治ってしまうそうだ」
「じゃあ、この人がしていたのもイリョウってものなのかしら」
「分からない。そうだとしても……私が話に聞いていた医者は、ちゃんと人間の姿をしていたはずなんだが」
ひそひそ話し始めたお父さんとお母さんからそっと離れる。こういう難しい話に入っていくのはまだ早いって言われてたから。大人ってすごく大変だと思う。怖い見た目の……イシャさん? と二人きりみたいな状況でちょっぴり落ち着かない。こういうときはピアノを弾くのが一番いいよね。
こっそりお父さんの部屋から抜け出して階段をのぼる。二階にある私の部屋に入ると、何でかイシャさんも着いてきてた。部屋の扉の前で中を指さして、首を傾げてる。指の先にはピアノがあった。見たことないのかな、ピアノ。気になったけど、部屋の中に招くのはまだちょっと怖いなあ。
本当は中に入れた方がいいのかもしれないけど、そこまで気が回らなかったフリをしてピアノの前に座った。深呼吸して、いつもみたいにピアノの前で指を踊らせる。何度も弾いてきた曲だからもう楽譜を見なくても弾けるんだ。軽やかに、明るく楽しく。お母さんから教わったように、聞いた人が明るい気持ちになれるように弾くんだ。
一曲弾き終わって息をつくと、拍手の音が聞こえてきた。イシャさんが扉の外に立ったままピアノを聞いてくれてたみたい、手のひらのない細い手をぱちぱちと打ち鳴らしている。顔の表情なんて分からないけど、なんだか微笑んでる気がした。
「あの、良かったら座ってください。そこじゃ落ち着いて聴けないでしょう?」
机から椅子を引き出してピアノのそばに置く。イシャさんはお辞儀をしてから部屋に入り、椅子に座って目を閉じた。足をそろえて膝に手を置く姿勢がとても綺麗だけど、私の椅子じゃ長い足が収まりきらないみたい。近くにほかの椅子もないし、イシャさんはじっと座ったままだから気にしなくていいのかな。
ピアノを弾く。思いついた曲を一通り、私の指が疲れるまで。最後の曲が終わった頃には、イシャさんはそんなに悪い人じゃないんじゃないかと思えてきた。だってこんな風に目を閉じて、真剣に聴いてくれるんだもの。
下の階からお母さんの呼ぶ声が聞こえてきた。ピアノの蓋を閉じて階段を降りると、後ろからイシャさんもついてきた。お父さんの部屋にいた二人は、さっきまでよりほんの少しだけ険しい、難しい顔をしていた。
「テーラ。その人と一緒にいて、怖いこととかはなかった?」
「え? うん、全然。イシャさん、見た目は怖いけどいい人みたいだよ。さっきだってね、ピアノをすごく真剣に聴いてくれたの!」
思ったことをそのまま説明したら、二人の顔が和らいだ。お父さんが手招きしたから、二人の間のところに座りに行く。
「私たちね、今二つのうちのどっちを選ぶかで迷ってるの。神の導きに従って死を待つか、イシャの方に治してもらうか。治療も成功するかどうか分からないし、もし失敗したらそのまま死んじゃうかもしれない」
お母さんの顔は柔らかかった。多分お父さんとお母さんの中では、もうどっちを選ぶかは決まってるんだと思う。それでも聞いてきたのは、イシャさんが信じられる人かどうか知りたいのと……それからきっと、私にもしもの時の心の準備をさせるため。
怖くないって言ったらうそになるよ。けど、私はね。
「お父さんとお母さんがずっと辛そうにしてるほうがしんどいよ」
ぎゅっと抱きしめたくても、痛そうで出来ない。いつ全身が腐っちゃうかの心配はもうしたくない。
それに、もしもあの小鳥に起こったみたいな奇跡がまた起こせるのなら――その力で、二人のことも治してほしい。また元気になってほしい。
二人は頷いて、ちょっと笑って見せた。それからイシャさんに顔を向けて、頭を下げる。
「お願いします。娘を一人遺して逝きたくありません、手術をしてください」
もう、覚悟はできましたから。
お父さんの言葉に、イシャさんは大きく頷いた。どこからか鞄を取り出して大きく開く。近くの机に道具を置いて、お父さんの足元に膝をついた。包帯を解いて黒く変色した足を見つめていく。血や傷を見ちゃいけないって言われ続けた私たちにとっては凄く特別なことを、その人はいとも簡単に行っていた。
何だか居心地が悪くなってそっと部屋を出る。階段の上の部屋に入ったけど、下の様子が気になって何にも手が付かない。
お父さんとお母さん、大丈夫かな。治るって言ってたけど本当に治るのかな、だってもう手足が黒くなっちゃってたのに。あの小鳥みたいに怪我してすぐならやりやすいかもしれないけど……。もし本当に治るなら、それって凄いな。お父さんもお母さんも死なずに済むんだ。あんな風に怪我しちゃったらまず間違いなく死んじゃうって言われてたのに、死ななくて済むんだ。成功してほしいなぁ。
どれくらい待っただろう。青緑色だった空の色に少しずつ赤みがさしてきて、紫色やピンク色、オレンジ色がにじんできたころ。ベッドで足をぱたぱたさせていたら、ドアを三回ノックされた。ノックしてきたのは、二人の手足を治してくれてたはずのイシャさん。
「お父さんとお母さんは……どうなりましたか?」
恐る恐る尋ねると、イシャさんが扉から少し身を引いた。通っていいってことかな。
階段を降りて、お父さんの部屋のドアに声をかける。中からお母さんの返事が返ってきてドアノブを捻った。
お父さんとお母さんの手足には包帯が巻かれていた。と言ってもそれは前みたいに黒いところ全部じゃなくて、治すときに切った部分だけみたいだけど。お父さんの下着の下から膝にかけて包帯が巻かれている。その包帯よりも下の方には、茶色の短い毛と黒いひづめが生えていた。元々太もものあった辺りにひざがきて、ひざのあった辺りに足首が来ている。足首より下は凄く細くなっていた。
お父さんの足の付け根から下が、馬の足になっていた。
「テーラ。お母さんの手、綺麗でしょう? 最初はびっくりしたけど、しばらく見てたら気に入っちゃったわ」
難しい顔をしてるお父さんの横で、お母さんが自分の両腕に目をやった。胸元から包帯でぐるぐる巻きにされて肩がしっかり固定されてる。肩の包帯よりも先は真っ白な羽毛で覆われていた。光の反射でほんのり黄色に見える羽根がたくさん生えてて、そのまま飛んでいけそうな。そんな大きな翼が生えていた。
「すごい――」
それ以外に言葉が出てこなかった。
だって、あのまま手足が腐って死んじゃうかと思った。どうやって治すのか全然わかんなかったけど、まさかほかの動物の体になるなんて。お父さんもお母さんも今はあんまり痛そうじゃないし、足首や羽根の先もちゃんと動かせてた。全然違う生き物同士をくっつけるなんておとぎ話でも聞いたことない。どうやってくっつけたのか、知りたくてたまらなかった。
こんなことができちゃうイシャさんってすごい。どうやったのか知りたい。
そんな気持ちに突き動かされて、イシャさんのもとに駆け寄った。ちょっと肩を震わせてこっちを見下ろしてる。
「すごいすごい、どうやったんですか? 私こんな風に新しい体をくっつけられるなんて聞いたことなくて、すごい、夢みたい! 本当にありがとうございます!」
思ったことをそのまま口に出したら、イシャさんが目を細めた。何も喋らないから何を考えてるかは分からないけど、言いたいことは何となく分かる気がする。
「こら、質問攻めにしない。困ってるでしょう?」
困ってる、のかな。言葉を選んでるというか、どう伝えればいいか悩んでるように見えた気がする。それでも困らせたことに変わりはないかな。
「ごめんなさい……」
「分かればいいのよ。私たちはまだ体を調べなきゃいけないみたいだから、終わったらすぐ食べれるようにご飯を作っててくれる?」
お母さんに言われてキッチンに向かう。ドアを閉めてから布巾をとって水でよく絞る。テーブルを拭いてたら、何か小さいものを弾き飛ばしちゃった。
からん、こんって音を立てて床に落ちたものを拾い上げる。それは見覚えのないカギだった。持ち手のところやカギの細工のところに文字みたいなものが彫ってあって、綺麗な細工がされている。細かい傷があって古そうだけど、それでも高いものなんじゃないかと思うくらいきれいだった。勝手に触っちゃいけないと思うのに目が離せない。頭を振って気を取り直す。
「えっと。これ、イシャさんのだよね」
イシャさんの荷物は椅子の上に置いてあった。あんまり奥にしまっちゃったらなくしたってびっくりしちゃうよね。ポケットの中に入れておいて、後で触っちゃったことを謝ろう。
そう思って、しまいやすいように指先で持ち替えた。
まるでカギ穴に刺したみたいにカギの先が消えた。目をこする間にも白い光があふれてくる。カギの先からどんどん広がっていって、大きな四角になっていった。目の前がまぶしくてぎゅっと目を閉じる。
まぶたの向こうの光が消えて、ちょっとずつ目を開ける。半分くらい開けたところでびっくりして思いっきり息をのんだ。さっきまで椅子とテーブル、それからイシャさんの荷物が置いてあったはずなのに。目の前にはそんなものなくて、ただ見上げるくらい大きな扉があった。後ろに下がろうとしたら、足がもつれて後ろに倒れちゃった。
尻もちをついた音が聞こえたんだと思う。イシャさんが部屋から出てきて、タテ長の目を思いっきり開いた。
「あ、こ、これはその。私、カギをカバンの中にしまおうとして」
何を考えてるかわからないってすごく怖い。体が震えてるのが分かった。何が起きてるのかは分からないけど、何かやっちゃいけないことをしちゃった気がする。イシャさんのくつの音と、鳥の足の爪の音が交互に近づいてくる。ぎゅっと目を閉じたら、肩を優しく叩かれた。目を開いてみてもイシャさんが怒って何かをしてくる感じじゃない。少しずつ胸のドキドキが収まってくる。
「あの、勝手に触ってごめんなさい。カギを落としちゃったから拾っただけで、悪いことをしようとしてたんじゃないの」
目を閉じてゆっくり頷いた。私のやったことには怒ってないのかな。
やっと落ち着けたから、もう一回扉を見上げてみた。扉のスキマからはさっきの白い光が漏れてて、向こう側がどうなってるのかは分からない。丸いドアノブがついていて、よく見ると木の扉に細かくカギと同じデザインが彫ってあった。
目の前にいきなり現れてずっと消えない扉。気になるかならないかって言ったら、そりゃあ気になる。イシャさんの不思議な力に何か関係あるのかな。この向こうはどうなってるんだろう。
「この向こうってどうなってるんですか? いきなり扉が出てきたけど、これって何?」
肩から手を離して、そのまま目の前に差し出された。されるがままに手を借りて立つ。その手をそのままに扉へと向き直った。反対の手でドアノブをつかんで回す。
扉の先は見たこともない世界だった。
石畳が敷き詰められた地面に、石でできた家。狭い道にぎゅうぎゅう詰め込まれるように屋台が出ていて、見たこともない果物やお肉を売っていた。青色のリンゴとかを片手に買い物をしてる人、売っている人……みんなイシャさんみたいに人とは違う姿をしていた。大人くらいの大きさのトカゲさんや、パーツがつぎはぎの人。見たこともない姿をしてる人もいた。建物や屋台、人が詰め込まれた隙間から、薄い紫色の空がちらりと見えた。
目の前がきらきら光ってる気がした。胸のあたりがドキドキ言ってて、体が熱くなった気がする。
見たこともないいろんな人がいて、いろんなものがあって。この世界ではきっとイシャさんみたいに不思議なことができる人はいっぱいいるんだ。姿の雰囲気から、扉の向こうから来た人なんだって簡単に想像がつく。扉を一枚挟んだ向こう側にこんな世界があるなんて想像もしなかった。
扉を閉めて顔を覗き込まれる。これでいい? って聞かれてる気がする。つないでいた手をほどいて大きく頭を下げた。
「ありがとうございます! すごく……すっごく、楽しかった!」
顔は変わらないけど、イシャさんがちょっと笑った気がした。カギをポケットにしまってお父さんたちのいる部屋に戻っていく。まだドキドキしてて、はーっと息を吐きだした。
お父さんとお母さんの手足が治って、カギで開けた扉の向こうにはあんなすごい世界があって。近所の子たちのお姉ちゃんとしてふるまうように言われてきたのに、そういう大事なことも忘れちゃうくらいにたくさんのキセキが起きる。イシャさんはかみさまじゃなかったけど、私にすごいものをたくさん見せてくれる人だったんだ。
布巾を手に机を拭きなおしてご飯の準備に戻る。よく見慣れた家なのに何だかとってもきれいに見える。足元がふわふわしてて、胸の奥にはじんわりとさっきの熱が残っていた。
◐ ◑ ◑
シュジュツっていうのをしてから何回目かの朝が来た。朝起きて階段を下りて行ったら、テーブルを囲んでた三人が一斉にこっちを向いた。お父さんが自分のご飯を食べてて、お母さんはもう食べ終わったみたい。イシャさんはご飯を食べないみたいで、読めない文字で書かれた本を読んでた。椅子に座ってたお母さんが両腕を広げる。走ってお母さんの胸元に飛び込んでぎゅうっと抱きしめてもらった。お母さんの手はふわふわだから、つい眠っちゃいそう。
「おはよう、テーラ」
「おはようお母さん。ふふ、あったかい」
「寝ちゃだめよ? 冷めないうちに食べなさい、お父さんが作ってくれたんだから」
席に着いたらお父さんがパンとスープを置いてくれた。祈りをささげてパンをちぎって食べる。お父さんの作ってくれたスープはあったかくて、優しい味がした。
「具合はどう?」
「あの痛みが嘘みたいよ。手が使えないのはちょっと不便だけど、貴女や子供たちを抱きしめられるからいいの。死んじゃうよりずっとね」
「歩くのにも慣れてきた。お母さんの代わりに、これからは私が家事をするつもりさ」
青白い顔で暗い目をしていたのがウソみたい。二人ともすごくイキイキしてて、事故が起きる前よりも元気になってた。
私がご飯を食べ終わったころに、お父さんが咳払いをして注目を集めた。イシャさんのほうを向いて頭を下げる。
「治療してくださり、本当にありがとうございます。お陰様で、いつ死んでしまうかと怯えて過ごすこともなくなりました」
イシャさんの目が細くなった。胸元に手を当ててお辞儀をする。いつ見てもきれいな動作で、つい見とれちゃいそう。
「さて。治してもらった以上、治療代を払わなきゃいけないわけだが……我々の使う貨幣でいいものだろうか」
「チリョウダイ?」
「血の穢れを祓ってくださる手当師にお金を払うのと同じだよ。治してもらったなら、相応の対価を払わなければならないんだ」
お父さんとお母さんの話を聞いてて、今まで考えもしなかったことが目の前に浮かび上がってきた。チリョウダイ……そうだよね。手当師さんがかみさまの代わりにケガを見て包帯を巻いてくれるのと同じだもん、お金いるんだよね。お父さんの右足とお母さんの両手だと、いったいいくらくらいになるんだろう。あんまり裕福じゃないけど、ちゃんと払えるのかな。分からないことがたくさんある。
「この国のお金でいいのなら可能な限り用意はするけど、足りるかどうかは分からないわね。せめて何か別のもので払えればいいんだけど」
お母さんが机の上に翼の手を置いて考えこむ。別のもので、と言っても……うちは農家さんじゃないから、野菜で払うこともできないし。
そう考えてるときに、ふと弟のことを思い出した。二年前に奉公に出て働いてるあの子は、戦争が終わってからちっとも帰ってこなくなった。名家の人も大変なのかもしれないけど、今大事なのはそこじゃない。『八歳の弟が名家で働いてる』ってことのほうが大事だ。
「私、イシャさんのお手伝いしに行きたい!」
手を挙げてそう言ったら、お父さんとお母さん、一緒にイシャさんもびっくりした顔をしていた。そんなに変なことは言ってないと思う。弟が働いてる、お仕事を手伝うことでお金を払う代わりにできる。それなら私も同じことができるってことでしょ?
「チリョウダイの代わりにできるかは分からないけど、奉公に出れば役に立てるでしょ? この国のお金よりよっぽどいいと思うんだ」
「テーラ、分かってるのかい。このお医者さんはいろんなところを巡って、人々を治して回ってるんだ。旅の途中に危ないことがあるかもしれない、お医者さんの手を借りなくても自分の身は自分で管理できるようにならなくちゃいけないんだぞ」
お父さんの目はまっすぐで、真剣だった。心配してるから言ってくれてるんだって分かってたから、胸を張って言い返す。
「分かってるよ、仕事の話はいろんな人から聞いてるもん。知りたいんだ、この国の外のこと。イシャさんの住んでた世界のこと、チリョウのことも! もっともっと勉強して、いつか私もイシャさんみたいになりたい!」
部屋が一気に静かになった。五つの目が一斉にこっちを見てるのはちょっと怖かったけど、目をそらさないで見つめてた。数分くらい経ったかな、お母さんがちょっとずつ笑い始めた。
「ふふ。そんなにまっすぐな目をされちゃ、駄目だって言えないわね」
お父さんが目を見開いてお母さんのほうを向いた。立ち上がってまっすぐお母さんを見つめてる。
「テーラは女の子なんだ、まだ十一歳だぞ。旅ができるかどうか……」
「この子は私たちが臥せってるときも弱音を吐かずに頑張ってくれたわ。ピアノも上手で器用で、すごく頑張り屋さんよ。きっと大丈夫」
思えば今までお姉ちゃんとしか扱ってこなかった、これがこの子の最初のわがままよ。聞いてあげたいって思うじゃない?
ふわふわの手で頭をなでられて、気持ちよくて目を閉じる。お父さんが深呼吸して、肩の力を抜いてこっちに向き直った。その目はさっきよりも柔らかくて、見てて安心できた。いつもと同じ、ちょっと離れたところから見守ってくれる目。
「すまない、テーラ。心配だからとあんなことを」
「ううん、気にしてないよ。もっと反対されるかと思った」
「お母さんと同じさ。初めて自分のやりたいことを主張した娘の願い、かなえてやりたいと思うだろう?」
微笑んで、それからイシャさんのほうを見た。喋らないまま私たちを代わる代わる見ていた一ツ目が、お父さんの顔を映し出してる。
「テーラは器用でよく気が回って、優しい良い子です。貴方がよろしければ……この子を働かせてやってください。お願いします」
深く頭を下げたお父さんと私を交互に眺めて、イシャさんは席を立った。私の目の前まで歩いてきて右手を差し出す。喋れないイシャさんの動作がどういう意味かなんて言葉がなくてもはっきり分かった。
「これからよろしくお願いします」って握手した手は細くて、それでいて私よりもずっと大きかった。
◑ ◑ ◑
私の部屋の前でイシャさんが待っていてくれた。何も喋らないイシャさんが最初はちょっと怖かったけど、今は少し落ち着く気がする。信じてもいい人、優しい人だってわかってるからかな?
階段を下りてリビングについたら、お父さんとお母さんが二人で待ってくれていた。お父さんがこっちに歩いてくる。馬の足だから歩くときにちょっと音が響くけど、それも全然気にしなくなっていた。小さなナイフを私の手に握らせてくる。
「え、これ、お父さんが使ってた……」
「餞別として持っていきなさい。どういうところを旅するかは分からないが、いざとなれば木の幹を傷つけて水分を確保したり護身用にしたりできるはずだよ」
鞘から抜いてみたら、ナイフに私の顔が映って見えた。木の持ち手は深い色をしていて、ずっと大事に使われてきたんだって分かる。
「それと、これはお母さんからだ。大事に取っておいて、ひもじくなったら食べなさい」
一緒に渡されたのは、私の大好きな干しレーズンだった。布の小さな袋にお母さんの手作りのレーズンがたくさん詰まってて、何だか目の奥がじんと熱くなった。一緒に行くって言ったことは後悔してないけど、やっぱりさみしい。次はいつ帰ってこられるかもわからないし、帰ってこられないかもしれない。イシャさんの世界に行ったら自分だけじゃなかなか移動はできないと思うから。
にじんできた涙をぬぐってカバンをおろした。レーズンは雨で湿気ったりしないようにカバンの奥に、ナイフはいつでも使えるように鞘ごと腰のあたりに結び付けて隠しておく。カバンをもう一回背負った私の顔と体をふわふわの腕が包み込んだ。
「元気でね、テーラ」
「……うん」
「体に気を付けるのよ。何かあったらすぐイシャさんに頼りなさいね」
「うん」
お母さんも少し涙声で、こっちもつられて泣きそうになった。あったかい。腕のところに羽が生えても、お母さんの腕の暖かさは変わらなかった。
「君ならきっといい助手になれるさ。体を壊さない程度に頑張ってきなさい」
お父さんの声。頭をそっと撫でて手が離れていく。物静かでちょっと厳しくて優しいお父さんは、ちょっとだけイシャさんと似てる気がした。
お母さんの腕が離れていく。お父さんとお母さんは、私とイシャさんを見つめて笑っていた。弟のときと同じように、遠い地で同じ月を見上げる家族の健康を祈るように。
イシャさんがポケットからあのカギを取り出した。カギ穴に入れて回すような動作をすると、光があふれて扉が出てくる。あの時見せてもらったのと同じ、違う世界への旅に出るための扉。イシャさんの旅への最初の一歩だ。
ドアノブを引いて扉を開ける。イシャさんに無言で促されて、にっこり全力で笑顔を作って。
「いってきます!」
と別れを告げて、新しい生活への一歩を踏み出した。
了
飲み物を入れる水筒に、タオル二枚。着替えは荷物になるから本当に必要な分だけにして、防寒具はいつでも使えるように鞄の外にくくりつけた。
いつか弟のために使おうと思って貯めていたお小遣いを小さな革袋に入れる。ぎゅっと口を閉めて空気と一緒に気持ちの栓を抜いた。ほんの少し切ないような気持ちだけど、これは自分のために使うことにしたから。このもやもやは邪魔になりそうだから置いていこう。
一通り荷造りが終わって、息を吐く。視界の隅につややかな黒が飛び込んできた。タオルを手にして歩み寄る。おばあちゃんがくれたピアノに触れるのも今日が最後だから、きちんと気持ちを込めて手入れをしていかなきゃ。
毎日弾いていた鍵盤にそっと触れて、ありがとうって気持ちを込めながら丁寧に拭き取っていく。人差し指でそっと押すと透き通った音色が響き渡った。このピアノと離れるのは少し寂しいけれど、きっと遠くからおばあちゃんが見ててくれるから平気。
窓の外を見る。今日もあの日と同じで、お日様の光が心地良い。自然と顔が緩んだ。
コン、コン、コンとノックが三回。あの人が呼びに来てくれたんだ。のんびりしすぎちゃったかな、急がないと。
鞄の肩紐に腕を通して、大きく深呼吸をして。
「今行きます」
と答えて扉を開けた。
◐ ◐ ◐
食器を乗せたトレーをベッドサイドテーブルの上に置く。お母さんに言われたとおり、今晩のメニューはたっぷりの野菜を煮込んだシチュー。お父さんのほうへ振り向くと、柔らかく笑ってこっちを見上げていた。
「ありがとう、テーラ。君も食事をして早く寝なさい」
「うん。……ねえ、お父さん」
うっかり聞いちゃいけないことを聞きかけて口をつぐむ。口を手で押さえても、目は右足のほうに釘付けになって離れない。
お父さんの右足は変な方向に曲がって、包帯に隠れないところまでがどす黒い色に変わっていた。少しずつ腐ってきて嫌なにおいがする。炭鉱の仕事で怪我をしてから、もう曜日が一周回っちゃってる。
「私なら大丈夫。神の導きに従っていれば平気だよ」
嘘。この前の戦争に負けてから、『かみさま』はいなくなったんだって聞いてるもん。それにお父さんの顔だって真っ青で、今も少し震えてるのに。
スカートのすそを握りしめて唇を噛む。これ以上は困らせるだけって分かってたから、言いたいことをぎゅっと押し込んで頷いた。顔を見られないように背を向けて部屋を出る。キッチンに置いてあった自分の分の食事を持って階段をのぼっていった。
ご飯を食べ終わって、ベッドに倒れこむ。お父さんやお母さんのことを考えると胸がいっぱいで、あまりおいしく感じなかった。食器を回収して洗わなきゃいけないんだけど、今はこのもやもやと向き合うので精一杯。
お父さんとお母さんの今の姿を頭の中で噛みしめる。小説家だったお父さんとベビーシッターだったお母さんは、戦争に負けてからお国のために働くように言われたんだって。一週間前にお父さんが炭鉱で落盤に巻き込まれて、三日前にお母さんが織物の機械に挟まれて。お父さんは右足、お母さんは両手が使えなくなった。ほかの国ではもう死んじゃいそうな人でも助かることがあるらしいけど、負けたばっかりのこの国じゃそんなのおとぎ話に過ぎないから。
かみさまはいなくなった。「『かみ』の導きの下に」って言ってた協会の人たちは何も言わなくなった。夜にお祈りしなさい、かみさまに与えられた体は大事にしなさいって言ってたのに。生きるも死ぬもかみさまのお導きだっておっしゃってた人たちは、もういないんだ。
体を起こして、ピアノに手を触れる。毎日近所の子たちに弾いて聞かせてたのに、今はもう誰も近寄ってくれない。傷や血を見るのはいけないことだって感覚が刷り込まれてるんだ。
この前までは私がピアノを弾いて、近所の子たちと一緒にお母さんが笑ってて。誰もいなくなった後でお父さんも「うまかったぞ」って褒めてくれてたのに。
窓の外を見ると、綺麗なお星さまが空いっぱいに光っていた。窓を開けていつもやっていたみたいにお祈りをする。目の端から涙がこぼれていった。
かみさま、かみさま。お父さんとお母さんを助けてください。
かみさまはいなくなったって聞いてるけど、それならもう私たちを導くのもやめちゃったんでしょ。それなら二人を生かしてください、連れて行かないでください。二人ともすごく、すごくいい人なんだから。弟も奉公に行ったきり帰ってこないし、もう私の家族はお父さんとお母さんだけなの。手足が腐って苦しむ顔なんて見たくないよ。
どうか。どうか助けて。
◐ ◐ ◑
鍵盤の上で指を躍らせる。いつもやっていたみたいに、お父さんとお母さんにも聞こえるように。かみさまがいなくなっちゃってもきっと、おばあちゃんのピアノは心を支えてくれるから。
一曲弾き終わって一息ついたとき、窓の外でかすかな音がした。振り向くと青い小鳥が窓の枠でぐったりしているのが見えた。窓のガラスが見えなくてぶつかっちゃったのかな、左の翼が変な方向に曲がっていた。
風にあおられて小鳥が下に落ちた。助けてあげたくても手当の仕方が分からないから……しばらくの間は面倒を見よう。死んじゃったら埋めてあげなきゃ。そう思って立ち上がって、息をのむ。少し目を離したその一瞬で、真っ黒な服の人が現れたから。シルクハットをかぶっていて、ステッキを持っていた。遠目にしか見えないけれど、なんだか右足が鳥の足に似てるような……気のせいかな。
その人が足元の小鳥に気づいて拾い上げた。後ろを向いて少ししたら、あの鳥が元気に飛び立った。折れていたはずの翼が色とりどりの綺麗な羽になっていた。
あっと声を上げる。その声に気が付いたのか、シルクハットの人がこっちを見上げた。帽子の下の顔は緑色で、縦に切れ込みの入った大きな一ツ目がこっちを見つめている。不思議な顔、あんな姿の人は見たことない。それにあの人、小鳥の怪我を治して……なおして?
あんな風に骨が折れちゃったら、この国じゃもう治せない。それなのにあの人は一瞬で治しちゃった。
そんなことができるのって、かみさまくらいしかいないんじゃない? かみさまがうちに来て、お父さんとお母さんを助けに来てくれたのかも。
部屋を飛び出して一段飛ばしで階段を駆け降りる。かみさまがどこかに行っちゃう前に呼び止めなきゃ。
「かみさまだ! かみさまが来てくれたよ!」
二人の部屋の方を向いて叫ぶ。ノックが三回聞こえて、勢いよく玄関を開けた。
そこには見上げるほど大きな人が……かみさまが立っていた。緑色の顔はウロコに覆われていて、大きな一ツ目でこっちをじっと見下ろしている。かみさまは黒い棒みたいな細い指でシルクハットをちょっと持ち上げた。びっくりしてちょっと後ずさる。大きい目玉に見つめられて、ちょっとの間だけ息をするのを忘れていた。
窓から見たときよりもずっと大きくて、人とは違った見た目をしてて。けれど怖いって気持ちよりも好奇心が勝った。
この人は、どうやって小鳥を治したんだろう? お父さんやお母さんも治るのかな。
気を取り直して、背筋をしゃんと伸ばす。今までお姉さんとして振舞ってきたんだもん、ちょっとくらい怖くたって頑張れるよ。
「かみさまですよね? 来てくれてありがとうございます!」
頭を下げて礼をすると、かみさまはぱちぱちとまばたきしていた。首を微かに傾げてるけど、どうしたのかな。言葉が分からないのかな?
「テーラ、どうしたの? お客様?」
「お客様ならここまでお通ししなさい」
お母さんとお父さんの声が聞こえた。こっちです、と奥に案内する。お父さんの部屋にお母さんも来てたらしくて、二人でベッドの上に腰かけていた。
かみさまはシルクハットを脱いで胸元に当て、軽く頭を下げた。鳥のような足、棒みたいな手、それからウロコに覆われた一ツ目の頭。人には見えない姿にびっくりしたのか、二人の顔が一気に強ばった。お父さんがお母さんの肩を抱えて、守ろうとしてるみたいにも見える。
「だ、誰? その……この辺りで見かけない人だけど。テーラの知り合い?」
「かみさまだよ! さっきね、翼が折れた小鳥を一瞬で治しちゃったの!」
「治した、か。ふむ……」
お父さんがあごに手を当てて何か考えてた。それを覗き込むようにお母さんが見守ってる。お母さんの両手は三角巾で吊られていて、包帯に巻かれた姿がとても痛々しかった。
「もしかして、貴方は医者の方ですか」
お父さんが聞くと、かみさまは頷いた。イシャ……って何だろう。聞いたことない。
「イシャって?」
「小説の資料を探しているときに見たことがあるんだ。この国の外、我らが神を崇めていない地方では医療が発展しているらしい。失敗することもあるが、成功すれば病気もすっかり治ってしまうそうだ」
「じゃあ、この人がしていたのもイリョウってものなのかしら」
「分からない。そうだとしても……私が話に聞いていた医者は、ちゃんと人間の姿をしていたはずなんだが」
ひそひそ話し始めたお父さんとお母さんからそっと離れる。こういう難しい話に入っていくのはまだ早いって言われてたから。大人ってすごく大変だと思う。怖い見た目の……イシャさん? と二人きりみたいな状況でちょっぴり落ち着かない。こういうときはピアノを弾くのが一番いいよね。
こっそりお父さんの部屋から抜け出して階段をのぼる。二階にある私の部屋に入ると、何でかイシャさんも着いてきてた。部屋の扉の前で中を指さして、首を傾げてる。指の先にはピアノがあった。見たことないのかな、ピアノ。気になったけど、部屋の中に招くのはまだちょっと怖いなあ。
本当は中に入れた方がいいのかもしれないけど、そこまで気が回らなかったフリをしてピアノの前に座った。深呼吸して、いつもみたいにピアノの前で指を踊らせる。何度も弾いてきた曲だからもう楽譜を見なくても弾けるんだ。軽やかに、明るく楽しく。お母さんから教わったように、聞いた人が明るい気持ちになれるように弾くんだ。
一曲弾き終わって息をつくと、拍手の音が聞こえてきた。イシャさんが扉の外に立ったままピアノを聞いてくれてたみたい、手のひらのない細い手をぱちぱちと打ち鳴らしている。顔の表情なんて分からないけど、なんだか微笑んでる気がした。
「あの、良かったら座ってください。そこじゃ落ち着いて聴けないでしょう?」
机から椅子を引き出してピアノのそばに置く。イシャさんはお辞儀をしてから部屋に入り、椅子に座って目を閉じた。足をそろえて膝に手を置く姿勢がとても綺麗だけど、私の椅子じゃ長い足が収まりきらないみたい。近くにほかの椅子もないし、イシャさんはじっと座ったままだから気にしなくていいのかな。
ピアノを弾く。思いついた曲を一通り、私の指が疲れるまで。最後の曲が終わった頃には、イシャさんはそんなに悪い人じゃないんじゃないかと思えてきた。だってこんな風に目を閉じて、真剣に聴いてくれるんだもの。
下の階からお母さんの呼ぶ声が聞こえてきた。ピアノの蓋を閉じて階段を降りると、後ろからイシャさんもついてきた。お父さんの部屋にいた二人は、さっきまでよりほんの少しだけ険しい、難しい顔をしていた。
「テーラ。その人と一緒にいて、怖いこととかはなかった?」
「え? うん、全然。イシャさん、見た目は怖いけどいい人みたいだよ。さっきだってね、ピアノをすごく真剣に聴いてくれたの!」
思ったことをそのまま説明したら、二人の顔が和らいだ。お父さんが手招きしたから、二人の間のところに座りに行く。
「私たちね、今二つのうちのどっちを選ぶかで迷ってるの。神の導きに従って死を待つか、イシャの方に治してもらうか。治療も成功するかどうか分からないし、もし失敗したらそのまま死んじゃうかもしれない」
お母さんの顔は柔らかかった。多分お父さんとお母さんの中では、もうどっちを選ぶかは決まってるんだと思う。それでも聞いてきたのは、イシャさんが信じられる人かどうか知りたいのと……それからきっと、私にもしもの時の心の準備をさせるため。
怖くないって言ったらうそになるよ。けど、私はね。
「お父さんとお母さんがずっと辛そうにしてるほうがしんどいよ」
ぎゅっと抱きしめたくても、痛そうで出来ない。いつ全身が腐っちゃうかの心配はもうしたくない。
それに、もしもあの小鳥に起こったみたいな奇跡がまた起こせるのなら――その力で、二人のことも治してほしい。また元気になってほしい。
二人は頷いて、ちょっと笑って見せた。それからイシャさんに顔を向けて、頭を下げる。
「お願いします。娘を一人遺して逝きたくありません、手術をしてください」
もう、覚悟はできましたから。
お父さんの言葉に、イシャさんは大きく頷いた。どこからか鞄を取り出して大きく開く。近くの机に道具を置いて、お父さんの足元に膝をついた。包帯を解いて黒く変色した足を見つめていく。血や傷を見ちゃいけないって言われ続けた私たちにとっては凄く特別なことを、その人はいとも簡単に行っていた。
何だか居心地が悪くなってそっと部屋を出る。階段の上の部屋に入ったけど、下の様子が気になって何にも手が付かない。
お父さんとお母さん、大丈夫かな。治るって言ってたけど本当に治るのかな、だってもう手足が黒くなっちゃってたのに。あの小鳥みたいに怪我してすぐならやりやすいかもしれないけど……。もし本当に治るなら、それって凄いな。お父さんもお母さんも死なずに済むんだ。あんな風に怪我しちゃったらまず間違いなく死んじゃうって言われてたのに、死ななくて済むんだ。成功してほしいなぁ。
どれくらい待っただろう。青緑色だった空の色に少しずつ赤みがさしてきて、紫色やピンク色、オレンジ色がにじんできたころ。ベッドで足をぱたぱたさせていたら、ドアを三回ノックされた。ノックしてきたのは、二人の手足を治してくれてたはずのイシャさん。
「お父さんとお母さんは……どうなりましたか?」
恐る恐る尋ねると、イシャさんが扉から少し身を引いた。通っていいってことかな。
階段を降りて、お父さんの部屋のドアに声をかける。中からお母さんの返事が返ってきてドアノブを捻った。
お父さんとお母さんの手足には包帯が巻かれていた。と言ってもそれは前みたいに黒いところ全部じゃなくて、治すときに切った部分だけみたいだけど。お父さんの下着の下から膝にかけて包帯が巻かれている。その包帯よりも下の方には、茶色の短い毛と黒いひづめが生えていた。元々太もものあった辺りにひざがきて、ひざのあった辺りに足首が来ている。足首より下は凄く細くなっていた。
お父さんの足の付け根から下が、馬の足になっていた。
「テーラ。お母さんの手、綺麗でしょう? 最初はびっくりしたけど、しばらく見てたら気に入っちゃったわ」
難しい顔をしてるお父さんの横で、お母さんが自分の両腕に目をやった。胸元から包帯でぐるぐる巻きにされて肩がしっかり固定されてる。肩の包帯よりも先は真っ白な羽毛で覆われていた。光の反射でほんのり黄色に見える羽根がたくさん生えてて、そのまま飛んでいけそうな。そんな大きな翼が生えていた。
「すごい――」
それ以外に言葉が出てこなかった。
だって、あのまま手足が腐って死んじゃうかと思った。どうやって治すのか全然わかんなかったけど、まさかほかの動物の体になるなんて。お父さんもお母さんも今はあんまり痛そうじゃないし、足首や羽根の先もちゃんと動かせてた。全然違う生き物同士をくっつけるなんておとぎ話でも聞いたことない。どうやってくっつけたのか、知りたくてたまらなかった。
こんなことができちゃうイシャさんってすごい。どうやったのか知りたい。
そんな気持ちに突き動かされて、イシャさんのもとに駆け寄った。ちょっと肩を震わせてこっちを見下ろしてる。
「すごいすごい、どうやったんですか? 私こんな風に新しい体をくっつけられるなんて聞いたことなくて、すごい、夢みたい! 本当にありがとうございます!」
思ったことをそのまま口に出したら、イシャさんが目を細めた。何も喋らないから何を考えてるかは分からないけど、言いたいことは何となく分かる気がする。
「こら、質問攻めにしない。困ってるでしょう?」
困ってる、のかな。言葉を選んでるというか、どう伝えればいいか悩んでるように見えた気がする。それでも困らせたことに変わりはないかな。
「ごめんなさい……」
「分かればいいのよ。私たちはまだ体を調べなきゃいけないみたいだから、終わったらすぐ食べれるようにご飯を作っててくれる?」
お母さんに言われてキッチンに向かう。ドアを閉めてから布巾をとって水でよく絞る。テーブルを拭いてたら、何か小さいものを弾き飛ばしちゃった。
からん、こんって音を立てて床に落ちたものを拾い上げる。それは見覚えのないカギだった。持ち手のところやカギの細工のところに文字みたいなものが彫ってあって、綺麗な細工がされている。細かい傷があって古そうだけど、それでも高いものなんじゃないかと思うくらいきれいだった。勝手に触っちゃいけないと思うのに目が離せない。頭を振って気を取り直す。
「えっと。これ、イシャさんのだよね」
イシャさんの荷物は椅子の上に置いてあった。あんまり奥にしまっちゃったらなくしたってびっくりしちゃうよね。ポケットの中に入れておいて、後で触っちゃったことを謝ろう。
そう思って、しまいやすいように指先で持ち替えた。
まるでカギ穴に刺したみたいにカギの先が消えた。目をこする間にも白い光があふれてくる。カギの先からどんどん広がっていって、大きな四角になっていった。目の前がまぶしくてぎゅっと目を閉じる。
まぶたの向こうの光が消えて、ちょっとずつ目を開ける。半分くらい開けたところでびっくりして思いっきり息をのんだ。さっきまで椅子とテーブル、それからイシャさんの荷物が置いてあったはずなのに。目の前にはそんなものなくて、ただ見上げるくらい大きな扉があった。後ろに下がろうとしたら、足がもつれて後ろに倒れちゃった。
尻もちをついた音が聞こえたんだと思う。イシャさんが部屋から出てきて、タテ長の目を思いっきり開いた。
「あ、こ、これはその。私、カギをカバンの中にしまおうとして」
何を考えてるかわからないってすごく怖い。体が震えてるのが分かった。何が起きてるのかは分からないけど、何かやっちゃいけないことをしちゃった気がする。イシャさんのくつの音と、鳥の足の爪の音が交互に近づいてくる。ぎゅっと目を閉じたら、肩を優しく叩かれた。目を開いてみてもイシャさんが怒って何かをしてくる感じじゃない。少しずつ胸のドキドキが収まってくる。
「あの、勝手に触ってごめんなさい。カギを落としちゃったから拾っただけで、悪いことをしようとしてたんじゃないの」
目を閉じてゆっくり頷いた。私のやったことには怒ってないのかな。
やっと落ち着けたから、もう一回扉を見上げてみた。扉のスキマからはさっきの白い光が漏れてて、向こう側がどうなってるのかは分からない。丸いドアノブがついていて、よく見ると木の扉に細かくカギと同じデザインが彫ってあった。
目の前にいきなり現れてずっと消えない扉。気になるかならないかって言ったら、そりゃあ気になる。イシャさんの不思議な力に何か関係あるのかな。この向こうはどうなってるんだろう。
「この向こうってどうなってるんですか? いきなり扉が出てきたけど、これって何?」
肩から手を離して、そのまま目の前に差し出された。されるがままに手を借りて立つ。その手をそのままに扉へと向き直った。反対の手でドアノブをつかんで回す。
扉の先は見たこともない世界だった。
石畳が敷き詰められた地面に、石でできた家。狭い道にぎゅうぎゅう詰め込まれるように屋台が出ていて、見たこともない果物やお肉を売っていた。青色のリンゴとかを片手に買い物をしてる人、売っている人……みんなイシャさんみたいに人とは違う姿をしていた。大人くらいの大きさのトカゲさんや、パーツがつぎはぎの人。見たこともない姿をしてる人もいた。建物や屋台、人が詰め込まれた隙間から、薄い紫色の空がちらりと見えた。
目の前がきらきら光ってる気がした。胸のあたりがドキドキ言ってて、体が熱くなった気がする。
見たこともないいろんな人がいて、いろんなものがあって。この世界ではきっとイシャさんみたいに不思議なことができる人はいっぱいいるんだ。姿の雰囲気から、扉の向こうから来た人なんだって簡単に想像がつく。扉を一枚挟んだ向こう側にこんな世界があるなんて想像もしなかった。
扉を閉めて顔を覗き込まれる。これでいい? って聞かれてる気がする。つないでいた手をほどいて大きく頭を下げた。
「ありがとうございます! すごく……すっごく、楽しかった!」
顔は変わらないけど、イシャさんがちょっと笑った気がした。カギをポケットにしまってお父さんたちのいる部屋に戻っていく。まだドキドキしてて、はーっと息を吐きだした。
お父さんとお母さんの手足が治って、カギで開けた扉の向こうにはあんなすごい世界があって。近所の子たちのお姉ちゃんとしてふるまうように言われてきたのに、そういう大事なことも忘れちゃうくらいにたくさんのキセキが起きる。イシャさんはかみさまじゃなかったけど、私にすごいものをたくさん見せてくれる人だったんだ。
布巾を手に机を拭きなおしてご飯の準備に戻る。よく見慣れた家なのに何だかとってもきれいに見える。足元がふわふわしてて、胸の奥にはじんわりとさっきの熱が残っていた。
◐ ◑ ◑
シュジュツっていうのをしてから何回目かの朝が来た。朝起きて階段を下りて行ったら、テーブルを囲んでた三人が一斉にこっちを向いた。お父さんが自分のご飯を食べてて、お母さんはもう食べ終わったみたい。イシャさんはご飯を食べないみたいで、読めない文字で書かれた本を読んでた。椅子に座ってたお母さんが両腕を広げる。走ってお母さんの胸元に飛び込んでぎゅうっと抱きしめてもらった。お母さんの手はふわふわだから、つい眠っちゃいそう。
「おはよう、テーラ」
「おはようお母さん。ふふ、あったかい」
「寝ちゃだめよ? 冷めないうちに食べなさい、お父さんが作ってくれたんだから」
席に着いたらお父さんがパンとスープを置いてくれた。祈りをささげてパンをちぎって食べる。お父さんの作ってくれたスープはあったかくて、優しい味がした。
「具合はどう?」
「あの痛みが嘘みたいよ。手が使えないのはちょっと不便だけど、貴女や子供たちを抱きしめられるからいいの。死んじゃうよりずっとね」
「歩くのにも慣れてきた。お母さんの代わりに、これからは私が家事をするつもりさ」
青白い顔で暗い目をしていたのがウソみたい。二人ともすごくイキイキしてて、事故が起きる前よりも元気になってた。
私がご飯を食べ終わったころに、お父さんが咳払いをして注目を集めた。イシャさんのほうを向いて頭を下げる。
「治療してくださり、本当にありがとうございます。お陰様で、いつ死んでしまうかと怯えて過ごすこともなくなりました」
イシャさんの目が細くなった。胸元に手を当ててお辞儀をする。いつ見てもきれいな動作で、つい見とれちゃいそう。
「さて。治してもらった以上、治療代を払わなきゃいけないわけだが……我々の使う貨幣でいいものだろうか」
「チリョウダイ?」
「血の穢れを祓ってくださる手当師にお金を払うのと同じだよ。治してもらったなら、相応の対価を払わなければならないんだ」
お父さんとお母さんの話を聞いてて、今まで考えもしなかったことが目の前に浮かび上がってきた。チリョウダイ……そうだよね。手当師さんがかみさまの代わりにケガを見て包帯を巻いてくれるのと同じだもん、お金いるんだよね。お父さんの右足とお母さんの両手だと、いったいいくらくらいになるんだろう。あんまり裕福じゃないけど、ちゃんと払えるのかな。分からないことがたくさんある。
「この国のお金でいいのなら可能な限り用意はするけど、足りるかどうかは分からないわね。せめて何か別のもので払えればいいんだけど」
お母さんが机の上に翼の手を置いて考えこむ。別のもので、と言っても……うちは農家さんじゃないから、野菜で払うこともできないし。
そう考えてるときに、ふと弟のことを思い出した。二年前に奉公に出て働いてるあの子は、戦争が終わってからちっとも帰ってこなくなった。名家の人も大変なのかもしれないけど、今大事なのはそこじゃない。『八歳の弟が名家で働いてる』ってことのほうが大事だ。
「私、イシャさんのお手伝いしに行きたい!」
手を挙げてそう言ったら、お父さんとお母さん、一緒にイシャさんもびっくりした顔をしていた。そんなに変なことは言ってないと思う。弟が働いてる、お仕事を手伝うことでお金を払う代わりにできる。それなら私も同じことができるってことでしょ?
「チリョウダイの代わりにできるかは分からないけど、奉公に出れば役に立てるでしょ? この国のお金よりよっぽどいいと思うんだ」
「テーラ、分かってるのかい。このお医者さんはいろんなところを巡って、人々を治して回ってるんだ。旅の途中に危ないことがあるかもしれない、お医者さんの手を借りなくても自分の身は自分で管理できるようにならなくちゃいけないんだぞ」
お父さんの目はまっすぐで、真剣だった。心配してるから言ってくれてるんだって分かってたから、胸を張って言い返す。
「分かってるよ、仕事の話はいろんな人から聞いてるもん。知りたいんだ、この国の外のこと。イシャさんの住んでた世界のこと、チリョウのことも! もっともっと勉強して、いつか私もイシャさんみたいになりたい!」
部屋が一気に静かになった。五つの目が一斉にこっちを見てるのはちょっと怖かったけど、目をそらさないで見つめてた。数分くらい経ったかな、お母さんがちょっとずつ笑い始めた。
「ふふ。そんなにまっすぐな目をされちゃ、駄目だって言えないわね」
お父さんが目を見開いてお母さんのほうを向いた。立ち上がってまっすぐお母さんを見つめてる。
「テーラは女の子なんだ、まだ十一歳だぞ。旅ができるかどうか……」
「この子は私たちが臥せってるときも弱音を吐かずに頑張ってくれたわ。ピアノも上手で器用で、すごく頑張り屋さんよ。きっと大丈夫」
思えば今までお姉ちゃんとしか扱ってこなかった、これがこの子の最初のわがままよ。聞いてあげたいって思うじゃない?
ふわふわの手で頭をなでられて、気持ちよくて目を閉じる。お父さんが深呼吸して、肩の力を抜いてこっちに向き直った。その目はさっきよりも柔らかくて、見てて安心できた。いつもと同じ、ちょっと離れたところから見守ってくれる目。
「すまない、テーラ。心配だからとあんなことを」
「ううん、気にしてないよ。もっと反対されるかと思った」
「お母さんと同じさ。初めて自分のやりたいことを主張した娘の願い、かなえてやりたいと思うだろう?」
微笑んで、それからイシャさんのほうを見た。喋らないまま私たちを代わる代わる見ていた一ツ目が、お父さんの顔を映し出してる。
「テーラは器用でよく気が回って、優しい良い子です。貴方がよろしければ……この子を働かせてやってください。お願いします」
深く頭を下げたお父さんと私を交互に眺めて、イシャさんは席を立った。私の目の前まで歩いてきて右手を差し出す。喋れないイシャさんの動作がどういう意味かなんて言葉がなくてもはっきり分かった。
「これからよろしくお願いします」って握手した手は細くて、それでいて私よりもずっと大きかった。
◑ ◑ ◑
私の部屋の前でイシャさんが待っていてくれた。何も喋らないイシャさんが最初はちょっと怖かったけど、今は少し落ち着く気がする。信じてもいい人、優しい人だってわかってるからかな?
階段を下りてリビングについたら、お父さんとお母さんが二人で待ってくれていた。お父さんがこっちに歩いてくる。馬の足だから歩くときにちょっと音が響くけど、それも全然気にしなくなっていた。小さなナイフを私の手に握らせてくる。
「え、これ、お父さんが使ってた……」
「餞別として持っていきなさい。どういうところを旅するかは分からないが、いざとなれば木の幹を傷つけて水分を確保したり護身用にしたりできるはずだよ」
鞘から抜いてみたら、ナイフに私の顔が映って見えた。木の持ち手は深い色をしていて、ずっと大事に使われてきたんだって分かる。
「それと、これはお母さんからだ。大事に取っておいて、ひもじくなったら食べなさい」
一緒に渡されたのは、私の大好きな干しレーズンだった。布の小さな袋にお母さんの手作りのレーズンがたくさん詰まってて、何だか目の奥がじんと熱くなった。一緒に行くって言ったことは後悔してないけど、やっぱりさみしい。次はいつ帰ってこられるかもわからないし、帰ってこられないかもしれない。イシャさんの世界に行ったら自分だけじゃなかなか移動はできないと思うから。
にじんできた涙をぬぐってカバンをおろした。レーズンは雨で湿気ったりしないようにカバンの奥に、ナイフはいつでも使えるように鞘ごと腰のあたりに結び付けて隠しておく。カバンをもう一回背負った私の顔と体をふわふわの腕が包み込んだ。
「元気でね、テーラ」
「……うん」
「体に気を付けるのよ。何かあったらすぐイシャさんに頼りなさいね」
「うん」
お母さんも少し涙声で、こっちもつられて泣きそうになった。あったかい。腕のところに羽が生えても、お母さんの腕の暖かさは変わらなかった。
「君ならきっといい助手になれるさ。体を壊さない程度に頑張ってきなさい」
お父さんの声。頭をそっと撫でて手が離れていく。物静かでちょっと厳しくて優しいお父さんは、ちょっとだけイシャさんと似てる気がした。
お母さんの腕が離れていく。お父さんとお母さんは、私とイシャさんを見つめて笑っていた。弟のときと同じように、遠い地で同じ月を見上げる家族の健康を祈るように。
イシャさんがポケットからあのカギを取り出した。カギ穴に入れて回すような動作をすると、光があふれて扉が出てくる。あの時見せてもらったのと同じ、違う世界への旅に出るための扉。イシャさんの旅への最初の一歩だ。
ドアノブを引いて扉を開ける。イシャさんに無言で促されて、にっこり全力で笑顔を作って。
「いってきます!」
と別れを告げて、新しい生活への一歩を踏み出した。
了