現代ベース小説
真っ暗なところでたゆたっている。胸に、焼けつくような激しい痛みを覚えながら。
ほのかに明るいところに吸い込まれる。暴れて抵抗するが、その努力も虚しくそこに引きずり込まれた。……否、引きずり出された、と言うべきか。
ぱちり、と目を開く。小さな石の柱が沢山並ぶ、辛気くさい建物が目に飛び込んできた。手を見ると、砂が一粒ずつ私にくっついていき、私を形作っている最中だった。体を起こす。頭がずきずきと痛む。記憶が混ざりあって、ぐちゃぐちゃになっているようだ。一旦、記憶を整理するか。
私は、吸血鬼だ。名は――そういえば、この体になってからはそんなもの持っていなかったな。人間だった頃の名を名乗るのも馬鹿らしい。あの頃の、英国で称えられていた頃の私と、今の私は全くの別物なのだから。
いや、待てよ。確か、ひとつ。名乗った名があったな。あれは……そうだ。とある小説の登場人物になぞらえて、「ドラキュラ伯爵」と名乗ったのだったな。
あからさまな偽名を使った理由は――そうだ、あの少年だ。頭の中にかかっていたもやが、一気に晴れる。
思い出した。私を、殺してくれた少年を。想い人を吸血鬼である私から取り返すために、私の苦しみを終わらせるために銀のナイフで私の心臓を貫いた、心優しく勇敢な少年を。名は確か――坂東 康生 と言ったかな。
ナイフを突き刺したときの、彼の怯えきった顔を思い出す。この時代の人間は、虫ぐらいしか殺したことがないはずだ。この極東の平和な国の民ならば尚更。ああ、そんな穢れなき少年の手を血で染めておきながら、私は、
「また、死ねなかったのか――」
静かに呟き、胸に手を添えた。どくん、どくんと、忌々しい心臓は動き続けている。もう、いいのではないのか。私が何をしたと言うんだ。私は、いつになれば死を赦されるのだ。
ぎり、と歯ぎしりをする。鋭く尖った犬歯が唇を裂き、鉄の味が舌の上に広がった。自分の、半分屍となった体の血を飲み、僅かに平静を取り戻した。
大きく深呼吸をする。
私は、これから……どうすべきなのだろう。この町を出るべきだろうか。
吸血鬼にしてしまいそうだった少女には、もう会わない方がいいだろう。他人の空似とは思えぬほどのあの顔を見たら、また妙な気が起きてしまいそうだ。
では、誰にも知られぬよう立ち去ってしまおうか……いや、その前にやることがある。私を殺してくれた少年に、改めて謝罪しなければ。
少年の家を探すため、コウモリの羽を出して羽ばたく。こんな真夜中なら、私の黒のスーツとマントは目立つまい。首に巻いた白いクラバットは目立つかもしれんが……まぁ、許容範囲内だろう。歩いたよりは飛んだ方が効率がいいしな。
ふわりと浮かび、空に舞う。今日は新月らしく、所々に灯りがついている地上の方が明るいくらいだ。闇に紛れるために、高く、高く飛び上がる。
目を凝らして、彼の家を探す。他人の家を透視で覗くのは気が引けるが、仕方あるまい。じっと見つめて……ふと、町の中でもひときわ強い光を放つ建物に目が止まった。あれは確か、コンビニエンスストア、と言うんだったか。夜中に営業していて収支のバランスが取れているのか否かは謎だが、これだけ明るく灯していれば確かに夜間でも目につくだろうな。
あの少年は少々斜に構えたところがあったから、もしかしたら深夜にはこういう場所で時間を潰しているかもしれない。そう考え、ざっと店内を透視する。
一通り見渡したが、それらしい人物は見当たらない。はずれか。
次の建物を探そうとした私の視界に、ふとあるものが留まった。廃棄処分されるのであろうごみ袋の中に棄てられた、懐かしい食べ物。昔――リサと共に食べた、
どくん、心臓が跳ねる。
数百年ぶりに目にした料理。トマトとひき肉の風味を閉じ込めたソースを、パスタに絡めた、彼女の得意料理……ボロネーゼ。それがきっかけとなり、昔の記憶が、想いが、洪水のように押し寄せる。
――吸血鬼さんは、本当にこれが好きなのね。そんなに美味しそうに食べてくれるなら、作りがいがあるわ。
懐かしい、いとおしい声が蘇る。
心臓が、うるさく私の体内で蠢く。
――また悩み事? そんなに下ばかり向いてたら、綺麗なものが見えないわよ。さ、ご飯にしましょう。ご飯を食べて、美術品を見に行けば、辛いことなんて消えてなくなっちゃうわよ、きっと。
私が唯一、愛した女性。
生前は天涯孤独だった私が、吸血鬼になってから出会うことができた、運命の人。
――わたしが生きている限りは、側にいてあげる。だから、もう寂しがらないで。わたしを頼って。お願い。
私が、命に換えても守り抜くと誓って……守れなかった女性。
綺麗な赤毛の彼女は、私の脳裏に浮かび、微笑みを浮かべ、
何も、見えなくなった。
目の前が真っ白になり、頭の中でちかちかと何かが弾け、
私は、力の限り咆哮をあげた。
そこから自分がどう行動したのかは、どうしても思い出せない。
気付いたときには、最初に倒れていた古寺の中にいた。……何故か胸に、ボロネーゼをひとつ、しっかりと抱え込んだまま。どうやら、また正気を保てなくなってしまったらしい。
目を閉じて、先ほどの店の様子を視る。特に騒ぎにはなっていないらしいな。ということは、廃棄処分になるはずだった袋の中から持ち出してしまったのだろうか。
さて、この食料はどうしようか。途方に暮れる。
さっきの店に戻しに行くか? いや、見つかったら面倒なことになる。さっきこのパスタを拝借したときには奇跡的に見つからなかったようだが、次もまた見つからないという保証はどこにもないからな。この時代の日本では、私が人間だった時代の、この服装は浮いてしまうことは分かりきっている。姿を見られて、不審者だとでも思われたら面倒だ。催眠をかけて記憶を弄るのにも限度があるからな。
……どうせ廃棄処分されてしまうのなら、いっそこのまま失敬してしまおうか。そんな邪な考えが頭をよぎる。
どうせ私は『人ならざるモノ』だ、人の法律では裁けまい。罪の意識はなくはないが、そもそも吸血鬼として己を保つために墓場の遺体を漁って喰らっていたのだから、これ以上の罪を犯したところで穢れの程度はさほど変わらないだろう。それならば、たまには……思い出に浸り、人間のものを口にするのも悪くないかもしれないな。
手に熱を集め、容器越しにパスタを温める。あまりやりすぎると容器が溶けてしまうかもしれないからな、ほどほどにしなければ。
ある程度温め、包装を開ける。湯気と共に立ち上るトマトの香りが、私の鼻孔を刺激した。……そういえば、フォークを拝借するのを忘れていたな。まぁいい、念力で適量を口に運ぶか。
少し念じ、パスタを数本分丸めて口に入れる。数百年ぶりのトマトの風味が、ひき肉のうま味が、舌の上でじわりと広がった。咀嚼する。パスタの絶妙な固さにより、よく噛み締めて食べるよう自然と誘導されているかのようだ。噛む度にハーブの香りが広がり、さらに味に深みを増していく。うむ。リサの作った本場のパスタには遠く及ばないが、悪くはないな。
パスタを食べながら、かつての恋人の顔を思い出す。元々天涯孤独だった私が吸血鬼になり、完全に化け物に堕ちてしまう前に、人間らしさを思い出させてくれた人だ。
幾度となく食卓を共にし、夜間に美術館を回った。病弱で体が弱く、昼間に出歩けないリサと、吸血鬼であるが故に夜にしか行動できない私は、自然と惹かれあっていったのだ。
――私は、命に換えても君を守り抜いてみせる。だから、どうか、側にいてくれ。
――嬉しいわ。ありがとう、吸血鬼さん。
赤毛の彼女は、背中までくる、まっすぐで美しい髪を揺らしながら答えた。若干、悲しげな微笑みを浮かべながら。
あのとき彼女は、既に己の死期を悟っていたのかもしれない。今になって考えると、そんな気がしてくるのだ。当時の私には、そんなこと考えもしなかったのだが。
しばらくした後に、彼女は病で息を引き取った。何も、何もできなかった。吸血鬼としての私は、万能に見えて……実際は、無力だったのだと思い知らされた。
人の血を飲んで惨めに、永久に生きながらえ、その癖なんの役にも立てない。そんな無能な吸血鬼に、存在している意味などあるのだろうか。私は、何故死ねないのだろう。もう、楽にしてくれ。リサの元に行けるとは思っていない、せめて、ゆっくり眠りにつかせてくれ。死の苦しみを、生の苦しみを味わうのは、もうたくさんだ。
はらり。何かが、私の頬を伝った。私の眼から、はらはらとこぼれていく。涙など、とうに枯れたと思っていたのだが――。
「っ、ぐ……う、うう、」
止まらない。止まらない。涙とは、どう止めるものだったか。もう、忘れてしまった。困るな、せっかくのボロネーゼが、塩水で台無しになってしまうではないか。
「う、あ、あああああ……っ!」
ぼろぼろと大粒の雫がこぼれ、私の服を濡らしていく。
これの止めかたも、自分のありかたも、何も分からずに。私にできることは、ただ幼子のように泣きじゃくることだけだった。
しばらく泣いて、涙が出なくなった。鼻水をすすりながら、思い出深い料理を完食する。人間の食べ物というのも、たまには良いものだな。生前の頃を思い出し、当時の冷静さを少しだけ取り戻せたような気がする。
空が白んできている。最初はかの少年を探そうと思っていたが……私が変にうろつくと、何かのきっかけで正気を失ってしまったときに、また何をやらかすか分からない。それに、少年にとっては、私の存在自体がトラウマになっている可能性がある。下手なことはしないに越したことはない。
そうだな。血ならば、動物のものでも構わないのだ。定期的に動物の血を補給して、しばらくこの古寺に居候させてもらおうか。私を殺してくれた心優しき少年が私の存在に気付いて、会うかどうか選択できるよう、夜の間は細々とヴァイオリンでも弾きながら過ごすとしようか。
そんなことを考えながら、朝日を避けるように寺の奥で軽い眠りについた。
了
ほのかに明るいところに吸い込まれる。暴れて抵抗するが、その努力も虚しくそこに引きずり込まれた。……否、引きずり出された、と言うべきか。
ぱちり、と目を開く。小さな石の柱が沢山並ぶ、辛気くさい建物が目に飛び込んできた。手を見ると、砂が一粒ずつ私にくっついていき、私を形作っている最中だった。体を起こす。頭がずきずきと痛む。記憶が混ざりあって、ぐちゃぐちゃになっているようだ。一旦、記憶を整理するか。
私は、吸血鬼だ。名は――そういえば、この体になってからはそんなもの持っていなかったな。人間だった頃の名を名乗るのも馬鹿らしい。あの頃の、英国で称えられていた頃の私と、今の私は全くの別物なのだから。
いや、待てよ。確か、ひとつ。名乗った名があったな。あれは……そうだ。とある小説の登場人物になぞらえて、「ドラキュラ伯爵」と名乗ったのだったな。
あからさまな偽名を使った理由は――そうだ、あの少年だ。頭の中にかかっていたもやが、一気に晴れる。
思い出した。私を、殺してくれた少年を。想い人を吸血鬼である私から取り返すために、私の苦しみを終わらせるために銀のナイフで私の心臓を貫いた、心優しく勇敢な少年を。名は確か――
ナイフを突き刺したときの、彼の怯えきった顔を思い出す。この時代の人間は、虫ぐらいしか殺したことがないはずだ。この極東の平和な国の民ならば尚更。ああ、そんな穢れなき少年の手を血で染めておきながら、私は、
「また、死ねなかったのか――」
静かに呟き、胸に手を添えた。どくん、どくんと、忌々しい心臓は動き続けている。もう、いいのではないのか。私が何をしたと言うんだ。私は、いつになれば死を赦されるのだ。
ぎり、と歯ぎしりをする。鋭く尖った犬歯が唇を裂き、鉄の味が舌の上に広がった。自分の、半分屍となった体の血を飲み、僅かに平静を取り戻した。
大きく深呼吸をする。
私は、これから……どうすべきなのだろう。この町を出るべきだろうか。
吸血鬼にしてしまいそうだった少女には、もう会わない方がいいだろう。他人の空似とは思えぬほどのあの顔を見たら、また妙な気が起きてしまいそうだ。
では、誰にも知られぬよう立ち去ってしまおうか……いや、その前にやることがある。私を殺してくれた少年に、改めて謝罪しなければ。
少年の家を探すため、コウモリの羽を出して羽ばたく。こんな真夜中なら、私の黒のスーツとマントは目立つまい。首に巻いた白いクラバットは目立つかもしれんが……まぁ、許容範囲内だろう。歩いたよりは飛んだ方が効率がいいしな。
ふわりと浮かび、空に舞う。今日は新月らしく、所々に灯りがついている地上の方が明るいくらいだ。闇に紛れるために、高く、高く飛び上がる。
目を凝らして、彼の家を探す。他人の家を透視で覗くのは気が引けるが、仕方あるまい。じっと見つめて……ふと、町の中でもひときわ強い光を放つ建物に目が止まった。あれは確か、コンビニエンスストア、と言うんだったか。夜中に営業していて収支のバランスが取れているのか否かは謎だが、これだけ明るく灯していれば確かに夜間でも目につくだろうな。
あの少年は少々斜に構えたところがあったから、もしかしたら深夜にはこういう場所で時間を潰しているかもしれない。そう考え、ざっと店内を透視する。
一通り見渡したが、それらしい人物は見当たらない。はずれか。
次の建物を探そうとした私の視界に、ふとあるものが留まった。廃棄処分されるのであろうごみ袋の中に棄てられた、懐かしい食べ物。昔――リサと共に食べた、
どくん、心臓が跳ねる。
数百年ぶりに目にした料理。トマトとひき肉の風味を閉じ込めたソースを、パスタに絡めた、彼女の得意料理……ボロネーゼ。それがきっかけとなり、昔の記憶が、想いが、洪水のように押し寄せる。
――吸血鬼さんは、本当にこれが好きなのね。そんなに美味しそうに食べてくれるなら、作りがいがあるわ。
懐かしい、いとおしい声が蘇る。
心臓が、うるさく私の体内で蠢く。
――また悩み事? そんなに下ばかり向いてたら、綺麗なものが見えないわよ。さ、ご飯にしましょう。ご飯を食べて、美術品を見に行けば、辛いことなんて消えてなくなっちゃうわよ、きっと。
私が唯一、愛した女性。
生前は天涯孤独だった私が、吸血鬼になってから出会うことができた、運命の人。
――わたしが生きている限りは、側にいてあげる。だから、もう寂しがらないで。わたしを頼って。お願い。
私が、命に換えても守り抜くと誓って……守れなかった女性。
綺麗な赤毛の彼女は、私の脳裏に浮かび、微笑みを浮かべ、
何も、見えなくなった。
目の前が真っ白になり、頭の中でちかちかと何かが弾け、
私は、力の限り咆哮をあげた。
そこから自分がどう行動したのかは、どうしても思い出せない。
気付いたときには、最初に倒れていた古寺の中にいた。……何故か胸に、ボロネーゼをひとつ、しっかりと抱え込んだまま。どうやら、また正気を保てなくなってしまったらしい。
目を閉じて、先ほどの店の様子を視る。特に騒ぎにはなっていないらしいな。ということは、廃棄処分になるはずだった袋の中から持ち出してしまったのだろうか。
さて、この食料はどうしようか。途方に暮れる。
さっきの店に戻しに行くか? いや、見つかったら面倒なことになる。さっきこのパスタを拝借したときには奇跡的に見つからなかったようだが、次もまた見つからないという保証はどこにもないからな。この時代の日本では、私が人間だった時代の、この服装は浮いてしまうことは分かりきっている。姿を見られて、不審者だとでも思われたら面倒だ。催眠をかけて記憶を弄るのにも限度があるからな。
……どうせ廃棄処分されてしまうのなら、いっそこのまま失敬してしまおうか。そんな邪な考えが頭をよぎる。
どうせ私は『人ならざるモノ』だ、人の法律では裁けまい。罪の意識はなくはないが、そもそも吸血鬼として己を保つために墓場の遺体を漁って喰らっていたのだから、これ以上の罪を犯したところで穢れの程度はさほど変わらないだろう。それならば、たまには……思い出に浸り、人間のものを口にするのも悪くないかもしれないな。
手に熱を集め、容器越しにパスタを温める。あまりやりすぎると容器が溶けてしまうかもしれないからな、ほどほどにしなければ。
ある程度温め、包装を開ける。湯気と共に立ち上るトマトの香りが、私の鼻孔を刺激した。……そういえば、フォークを拝借するのを忘れていたな。まぁいい、念力で適量を口に運ぶか。
少し念じ、パスタを数本分丸めて口に入れる。数百年ぶりのトマトの風味が、ひき肉のうま味が、舌の上でじわりと広がった。咀嚼する。パスタの絶妙な固さにより、よく噛み締めて食べるよう自然と誘導されているかのようだ。噛む度にハーブの香りが広がり、さらに味に深みを増していく。うむ。リサの作った本場のパスタには遠く及ばないが、悪くはないな。
パスタを食べながら、かつての恋人の顔を思い出す。元々天涯孤独だった私が吸血鬼になり、完全に化け物に堕ちてしまう前に、人間らしさを思い出させてくれた人だ。
幾度となく食卓を共にし、夜間に美術館を回った。病弱で体が弱く、昼間に出歩けないリサと、吸血鬼であるが故に夜にしか行動できない私は、自然と惹かれあっていったのだ。
――私は、命に換えても君を守り抜いてみせる。だから、どうか、側にいてくれ。
――嬉しいわ。ありがとう、吸血鬼さん。
赤毛の彼女は、背中までくる、まっすぐで美しい髪を揺らしながら答えた。若干、悲しげな微笑みを浮かべながら。
あのとき彼女は、既に己の死期を悟っていたのかもしれない。今になって考えると、そんな気がしてくるのだ。当時の私には、そんなこと考えもしなかったのだが。
しばらくした後に、彼女は病で息を引き取った。何も、何もできなかった。吸血鬼としての私は、万能に見えて……実際は、無力だったのだと思い知らされた。
人の血を飲んで惨めに、永久に生きながらえ、その癖なんの役にも立てない。そんな無能な吸血鬼に、存在している意味などあるのだろうか。私は、何故死ねないのだろう。もう、楽にしてくれ。リサの元に行けるとは思っていない、せめて、ゆっくり眠りにつかせてくれ。死の苦しみを、生の苦しみを味わうのは、もうたくさんだ。
はらり。何かが、私の頬を伝った。私の眼から、はらはらとこぼれていく。涙など、とうに枯れたと思っていたのだが――。
「っ、ぐ……う、うう、」
止まらない。止まらない。涙とは、どう止めるものだったか。もう、忘れてしまった。困るな、せっかくのボロネーゼが、塩水で台無しになってしまうではないか。
「う、あ、あああああ……っ!」
ぼろぼろと大粒の雫がこぼれ、私の服を濡らしていく。
これの止めかたも、自分のありかたも、何も分からずに。私にできることは、ただ幼子のように泣きじゃくることだけだった。
しばらく泣いて、涙が出なくなった。鼻水をすすりながら、思い出深い料理を完食する。人間の食べ物というのも、たまには良いものだな。生前の頃を思い出し、当時の冷静さを少しだけ取り戻せたような気がする。
空が白んできている。最初はかの少年を探そうと思っていたが……私が変にうろつくと、何かのきっかけで正気を失ってしまったときに、また何をやらかすか分からない。それに、少年にとっては、私の存在自体がトラウマになっている可能性がある。下手なことはしないに越したことはない。
そうだな。血ならば、動物のものでも構わないのだ。定期的に動物の血を補給して、しばらくこの古寺に居候させてもらおうか。私を殺してくれた心優しき少年が私の存在に気付いて、会うかどうか選択できるよう、夜の間は細々とヴァイオリンでも弾きながら過ごすとしようか。
そんなことを考えながら、朝日を避けるように寺の奥で軽い眠りについた。
了