現代ベース小説
墓場の真ん中に人影があった。暗くてよく見えないけど、背の高さから考えると男の影だろう。梅雨が近づいているせいで空が分厚い雲に覆われている。灯りは一つもない。もっとよく見えるように、墓石の陰を伝って距離をつめる。近づくにつれて、人影がはっきりしてくる。マントを着ているらしいそいつは、静かに佇んでいた。砂利を踏む音が聞こえる。誰か来た。ふらふらとおぼつかない足取りで現れたのは、俺のよく知ってる女だった。マントの人影のほうに歩いていく。二人は抱き締めあい、じっと見つめあう。そのうち焦れたようにマントが女の頭を抱えて――首筋にかじりついた。思わず息をのむ。女は体の全てを相手にゆだね、恍惚としている。そのあまりに非現実的な光景を前に、目の前が真っ暗になった。
「ほう……最近の日本国では覗きが流行っているのかね? あまり褒められたものではないな」
一瞬意識が飛んでいたらしく、意地の悪い声で起こされた。目を開いて目の前の人物を睨み付ける。濃いグレーの髪と瞳が目に入った。黒いマントと首にひらひらのついたスーツは、墓石だらけのこの場所には似つかわしくない。出てくる時代と場所を間違えたような姿のそいつの左腕には、さっき噛みつかれていた女が抱え込まれている。眠り込んでしまったらしく、微かに寝息が聞こえた。
「きみは彼女の知り合いか? もしそうならば、親御さんに伝えておいてはくれないか。鳥居美咲 さんのことは、私が全ての責任を持つと」
黒マントの身勝手な言葉は、俺の怒りを買うには十分だった。立ち上がって胸ぐらを掴み上げる。相手の方が背が高いせいでしがみついてるみたいになっちまったけど、やってることの意味は通じたらしい。眉間に微かにシワを寄せる。
「何をする? せっかくセットしたクラバットにシワがつくではないか」
鼻につく態度で、俺よりも服のシワの心配をしてやがる。会って数分もしてないのに、的確に神経を逆撫でしてくる。腹のたつ野郎だ。けど、殴るのは早い。落ち着け。まずはじめに聞いておかなきゃいけないことがある。こらえろ。そっと息を整えて、なるべくドスの利いた声で問いかける。
「テメェ、何もんだ? 美咲に何をしやがった!」
怒鳴り付けるように質問を投げつけられて、鬱陶しそうに顔をしかめる。一瞬考え事をするように目を逸らしたが、すぐににやり、と口角をつり上げてきた。
「これは失礼……自己紹介を忘れていたな」
右手を胸にあて、軽く頭を下げる。無駄のない綺麗な動作と共に、男は口を開いた。
「私は、吸血鬼だ。美咲嬢からは合意で血を飲ませて頂いた。名前は……そうだな。ドラキュラ伯爵、とでも呼ぶがいい」
現実にはありえないことを、ひどく現実味のないことを、そいつははっきりとした口調で言い切った。そういえば、こいつの肌はやけに青白い。周りが暗いせいだと思ってたけど違うらしい。さっきのことがあるし、美咲の首筋に小さな歯形が残っているから、百歩譲って吸血鬼であることは認めるとして。確かドラキュラ伯爵ってのは、有名な小説の登場人物の名前だったはずだ。まさか、実在する人物だったのか?
「そんな訳がなかろう。私は本来イングランド人だ、ルーマニアやトランシルバニアとは縁がない」
質問に答えながらそっと右手で俺の手を包み込む。触れるか触れないかのところで止めてはくれたが、それでも背筋が冷たくなる。掴んでいたひらひらが溶けるように消えた。ヤツは体を起こし、いつの間にか元に戻っていた首元の布切れを丁寧に整えている。俺と正面から向き合うと、鼻で笑って馬鹿にしたような態度をとってきた。
「覗きをしたり、人の首根っこを捕まえて脅迫したりするような青年に名乗る名はないのでね。適当にでっち上げた偽名を名乗るぐらいが丁度良かろう。ところで、そういうきみは何者かね? 何故そこまで美咲嬢に固執する?」
明らかにこっちを見下した目付きに、とうとう怒りを抑えきれなくなった。美咲を襲ったのは向こうだ。勝手なことをしているのはあいつの方だ。なのに、ふざけた態度をとりやがって! 拳を繰り出す。攻撃が当たる前に、緩く首を締められる。やつの手は動いていない。その代わり銀色だった目が赤く光っている。礼儀をわきまえろ、逆らったら殺すってか。仕方なく握っていた手を下ろした。息が出来るようになって咳き込む。くそ、覚えてろよ。
「……坂東康生 、高二。美咲は俺の幼馴染みだ」
睨みを利かせながら簡単な自己紹介を済ませる。ドラキュラは哀れむように眉を下げた。口元が変わらず笑っているのがうざい。
「幼馴染み、か。つまり、きみの想いは彼女には通じていないわけだな」
ぎくり、と固まる。吸血鬼には心を読む力でもあるのか? あいつはニヤニヤしながら俺の肩に手を置いた。服から伝わってくる熱は、生き物にしては冷たく、無機質にしては熱い。数十秒前に息を引き取った死体に触れられてるみたいだ。魂が抜けて、刻一刻と冷たくなっていく最中のよう。明らかに人とは違う半端な体温が、嫌でも目の前の存在の異質さを自覚させる。気分が悪い。寒気がする。俺の腕はぷつぷつと鳥肌がたち始めていた。
「可哀想に。得体のしれない化け物に掴みかかるほど想っているというのに、彼女は全くそれに気付かない。辛いだろう? それなら、もう終わりにしてしまえばよい。私に任せてくれれば、必ず彼女を幸せにできる。どうかね? 悪い提案ではなかろう?」
かがんで、俺の耳元で囁く。ねっとりした言い方が嫌悪感を抱かせる。話す度に耳元にかかる吐息も、肌と同じで生ぬるい。第一吸血鬼ってものは、半分死んでる化け物って意味じゃゾンビと似たようなものだ。そんなやつに色目を使われても嫌な気分になるだけ。気持ち悪い、吐きそうだ。生理的な嫌悪を何とか抑えて、刺すような目付きで睨む。左手は爪が突き刺さりそうなほどに固く握る。
「っざけんな!」
怒りに任せて拳を振るう。ヤツの顔がもやになって、俺の左手は空を切った。前のめりに倒れそうになる。右手で体を受け止められて、立たされる。改めて見たあいつの目は、どこか哀しげだった。
「何か悪いことでも言ったかね? 彼女との血の契約は既に交わされている。つまり、これから先は私と同じ吸血鬼となり、永久に愛し合って生きるのだ。人間とは脆く儚く、そして醜い。彼女の幸せを考えれば、私と共になることこそが最善の策ではないか?」
血の契約ってのは、血を飲んだことらしい。確かに、あいつが吸血鬼になりたかったならそれは正しい。けど俺の知ってる美咲は、そんなことを望むやつじゃない。あいつは人間なんだ。勝手に好きな人を吸血鬼にされて、ハイ残念でした諦めなさいと言われて、納得できる訳ねぇだろ!
「それはあんたの都合だろ。美咲は人間だ。吸血鬼の都合を押し付けんな!」
どうしても、美咲を連れてくってんなら。
歯を食い縛る。目の前のスカした野郎に目を据える。あいつに人差し指を突きつけて、怒りをぶつけるように叫ぶ。
「俺があんたを止めてやる。殺してでも、刺し違えてでも美咲を取り返してやるッ!」
しんと静まり返る。ドラキュラは急に真顔になって見つめてきた。
「今、殺すと言ったか?」
低い、静かな声。それまで笑っていた分、真剣な表情に気圧される。身構えながら次の言葉を待つと、やつは右手を目一杯広げた。みるみるうちに、さっき以上の笑顔になる。
「そうか……よく言ってくれた! さあ、早く私を殺すがいい!」
夜が明けてから、学校で美咲に会った。昨夜のことは覚えていないらしく、俺を見ても何も言ってこない。というか、何もしない。ノートも取らず、誰とも話さず、ただ何もないところを見つめている。目が虚ろで、体は常にふらふらと揺れている。数日前からずっとこんな調子だ。友達が体を揺すっても、目の前で話しかけても反応しない。何の脈絡もなく教室を出ていくこともよくある。クラスメイト達はそんな美咲を気味悪がって、だんだん避けるようになった。そりゃ気味悪いとも思うよな。だって元々の美咲は、明るくて優しくて、誰に対しても公平に接するやつだったから。それが今じゃ、いつ何をするか分からない夢遊病みたいな状態になっている。美咲の親御さんも色んな病院に連れて行ったらしいけど、脱け殻みたいになった原因は掴めなかった。そりゃそうだ、誰が吸血鬼のせいだなんて考えるもんか。俺だって、美咲が変わっちまった原因を掴むために行動を追ってなかったら、吸血鬼なんて信じなかった。
ドラキュラの「殺してくれ」発言のあと。いきなりのことに戸惑いを隠せない俺に、吸血鬼は「今すぐでなくとも良い」と微笑んだ。武器を調達する時間を与える代わりに、一晩自分の話し相手になってほしいと頼んできたんだ。正直、今の状況に頭がついていけてない。現実ではありえない存在に会って、殺してくれと当の本人に頼まれて、吸血鬼を殺すための武器を調達して、今晩殺す相手と話をする。フィクションよりも現実味のないことが次々と俺に降り注ぐ。けど、美咲を助けるためなら、俺はなんだってやってやるんだ。
彼女について話をするために、美咲の家を訪ねた。吸血鬼なんて信じてもらえないのは分かってる。けど、今一番辛いはずの親御さんたちを放ってはおけない。たまにご飯を食べさせてくれたりした恩を、こういう時だからこそ返したい。玄関をノックする。美咲の親父さんとお袋さんが顔を出す。二人の目元は赤い。何日もの間泣いて過ごしてるんだろう。
「ああ……康生くんか。よく来てくれたね。上がっていくかい?」
「いえ、ここで結構です。あの、美咲の状態は……?」
申し訳ないけど、今回は親父さんの誘いを受けることはできない。吸血鬼との約束に遅れちまうからな。口の中でそんな言葉を飲み込んで、美咲について尋ねてみた。二人が目をそらして俯く。美咲を一番近くで見ている人達だ、心を痛めるのはよく分かる。
「相変わらずだよ。何をしても反応しない、何をするか分からない……まるで違う世界にでもいるみたいだ」
隈の出た顔で苦笑する親父さん。違う世界ってのは間違ってはいないけど、俺からそんなことを言い出しても変人扱いされるだけだから黙っておく。長いこと家ぐるみで付き合っていた仲を、こんなことでこじらせたくない。
「何の病気なのか、いくら調べても分からないのよ。どの病院でも異常なし、って言われるの。あの状態で異常がないわけないでしょ? 必ず原因を突き止めて、美咲を元に戻してみせるわ」
お袋さんの強気な態度も相変わらずだ。きっといろんな人のために気丈にふるまっているんだろうな。不安だなんて絶対に言葉には出さないけれど、真っ赤になった目と疲れ切った顔を見れば本音はすぐに分かってしまう。
二人の疲れきった顔を見て、言葉が出なくなった。そうだよな。俺がいくら美咲のことが好きで、いくら心配していたとしても……この人達の想いにはかなわない。かなうわけがないんだ。
「あ、あの! 俺……美咲の為なら、何でもしますから。何か力になれることがあるなら、遠慮なく言って下さい」
紡ぐべき言葉を探してそう口にしたら、二人は僅かに目を見開いた。顔を合わせて、少し話し合う。やがて俺の方を見て、親父さんは口を開いた。
美咲の家からふらふらと出ていって、近所の骨董屋に入った。今にも潰れそうな古い店……今までは興味も持たなかったその店で、薄汚れたナイフを手に取る。銀で出来たそれを目の前にかざすと、俺の気持ちに答えるように鈍い光を放った。
「あの子を、守ってやってくれないか」
何か出来ることがあったら言ってくれと頼んだとき、親父さんはただそれだけ答えた。本当は、何が起きているか薄々察しているのかもしれない。何かを知っていたのかもしれない。それでも何も尋ねず、全てを委ねてくれたんだ。
ふと、美咲を好きになった頃を思い出した。明るくてお人好しな幼馴染みを好きになったのは、中学生の頃だっけ。人当たりのいい美咲を妬んで陰口を叩くやつらがいたから、全員ぶん殴ってやったんだ。大問題になったよ。それまで俺は真面目で大人しいキャラだったから、友達や先生から怖がられた。殴った理由は言わなかったから、いつ暴れだすか分からないとでも思われたらしい。そんなとき、美咲だけは態度を変えなかったんだ。俺が暴れた理由も知らないのに、何も聞かずに喧嘩傷の手当てをしてくれた。何で他の連中みたいに理由を聞かないのか尋ねると、あいつは「康生のことだから、ちゃんと考えがあったに決まってる。それを話せない理由があるなら、こっちから聞くのはヤボでしょ?」と笑った。絶対の信頼を置いてくれる美咲に、たった一人残ってくれた味方に、俺は惚れ込んだんだ。
そのあとは、美咲の力になれるように頑張った。あえて不良らしさを演じ、美咲を側で守り続けた。あいつはそんなことは知らなかったけどな。青あざを作った俺に「また喧嘩したの? モテなくなっても知らないぞー」と笑いながら手当てしてくれた。美咲が俺の気持ちに気付いてなくていい。だって、そばにいられるだけで幸せだから。
だからこそ。あんなひどいやり方で美咲の心を奪った吸血鬼を、俺は絶対許さない。
銀のナイフを握りしめて、自分自身に誓った。
昨日から空を覆っていた雲から、バケツをひっくり返したような雨が降る。梅雨特有の最悪な天候の中、俺は一人で家を出た。目的地は、吸血鬼との決戦の場だ。恐れをなして逃げ出すかと思ってたけど、奴は墓場の入り口に立って俺を待っていた。
「ほう。恐れをなして逃げ出すかと思っていたが……きみを見くびりすぎたようだな。申し訳ない」
どうやら、相手も同じことを考えていたらしい。たったそれだけのことなのに、考えを読まれているようで鳥肌が立つ。寒気がするのは雨に濡れたせいじゃないだろう。奴はにい、と笑って空を仰いだ。
「今日はいい天気だな」
「……これが?」
拍子抜けして思わず聞き返す。今この瞬間にも、雨粒が地面に叩きつけられている。雲が出ているせいもあって視界が悪い。確かに闇討ちには最適かもしれないが、お世辞にも気分のいいものじゃない。
「我が母国に比べたら優しいものだ。最も、人間だった頃の私は英国紳士としての誇りを持って、雨具なしでロンドンの街を闊歩したものだが」
そういえば、元はイギリス人だったって言ってたな。遠くを見つめて昔を懐かしみながら話す姿は、とても楽しそうだ。目の前の存在は化け物のはずなのに、何故かそういった動作は人間臭く見えた。
「話したいことってのは、思い出話か?」
「うむ。それもあるが、どちらかというと身の上話だな」
言葉の途中で急にどこかに歩き出す。逃げるのかと思って後をつけてみたら、たどり着いたのは朽ち果てる寸前のおんぼろ寺だった。所々雨漏りしているが、まだ建物としての形は保っているらしい。
「かけたまえ。風邪は引きたくないだろう?」
寺の縁側に勝手に腰掛け、まるで自分の家に招くように促す。……いや、案外昼間はここで身を隠しているのかもしれない。黒いマントつきスーツの男の姿が、この古寺にやけに馴染んでいる。足を組んで座る吸血鬼の横に、少し距離を開けて腰掛けた。俺をちらりと見て満足げに笑うと、奴は外に目をやったまま語り始めた。
本人曰く、元々はイギリスの名士だったらしい。王室の為に尽力し、自らの財産で公共の場を整えたり、悪人をしょっぴいたりしていたそうだ。
「証拠はあるのか? それに、そんないいやつが何で吸血鬼なんかに?」
「正式な文献を当たれば、私の本名が残っているはずだ。吸血鬼になった理由については私にも分からん。大方、私に恨みを持った子悪党が呪いでもかけたんだろう。イングランドは黒魔術の国だからな」
俺の揚げ足取りにも特に動じない。こいつのいう本名だって偽装したものかもしれないし、黒魔術なんて眉唾物だ。けれど、真剣な語り口を聞いていたら、知らないうちにそんな突っ込みを入れる気もなくなっていた。
寿命で死んで吸血鬼として蘇ったときも、ほとんど何も感じなかったらしい。当時の世界は、ルネサンスの影響で芸術の分野が大きく発展していた。それらを見続けることができるのが純粋に嬉しかったそうだ。
「生きていた頃の私には、大切な人などいなかった。だから、永久に生きるというのがどういうことか理解していなかったのだ。……そんなとき、彼女と出会った」
赤毛の髪にぱっちり開いた目、幼く見える容姿と屈託のない笑顔。リサと名乗るその女性は、吸血鬼の心をすっかり奪ってしまった。「自分を保つためには仕方がない」と吸血行為に対して割り切っていた彼に、迷いを生じさせるほどに。彼女と深く愛し合い、血を吸うことは止めていた。
「自分を保つため……と言うのは、少々分かりづらいか。吸血鬼にとって血は安定剤なのだ。自らの力を、理性を、潰えないよう繋ぎ止めておくためのもの。だから十数年程度ならば血に頼らなくても問題はない。彼女と会ってからは、血を吸うことを罪深いことだと感じるようになった」
けど、幸せなときは長くは続かなかった。リサは生まれつき体が弱く、数年後に病死してしまった。彼女を看取っていた吸血鬼の感情は、深い海の底に沈み込んだ。彼にとって彼女は初めて愛した人であり、守るためなら命も惜しくないと思わせるほど大切な人だったんだ。
「彼女は、置いていくことになってごめんなさい、と私に謝りながら眠りについた。謝るのは私の方だというのに。彼女の為ならこの命を捧げても構わないと思っていたのに、実際は彼女を死なせてからものうのうと生きている。――自分が赦せなかったよ」
そう語る吸血鬼の目には、僅かに水が溜まっていた。話を鵜呑みにするまいと身構えていた俺も、いつの間にか言葉が出なくなっている。気持ちが痛いほど理解できるからこそ、疑うことが出来なかった。
リサが死んで、吸血鬼は初めて不老不死の体を呪った。彼女の後を追って何度も自殺したそうだ。けれど、何度やっても死ねなかった。死んだときの苦しみを感じたまま砂になり、数ヶ月後には元の姿に戻ってしまうのだとか。絶望を胸の内に抱えたまま、数百年の時を過ごした。幾つもの国をふらふらと渡り歩き、時々思い出したように自殺し、蘇生する。いつからか血を吸うことはなくなっていた。時折意識を飛ばし、衝動的に自傷行為に走り、それでも死ぬことは出来ない。荒んでいく人格と自分への憤り、死ねないことへの絶望を抱えて、たった一人で苦しんでいたんだ。
「そんな折に、ここにたどり着き……美咲嬢と出会った。驚いたよ。黒い髪の色以外は、リサと瓜二つだったのだから」
精神的に参っていた吸血鬼は、出会い頭に美咲の肩を抱いてかつての恋人の名前を呼んだ。いきなりのことに戸惑いながらも、美咲は優しくなだめて話を聞いた。あいつはそういうやつだ。誰に対しても平等に、優しく対応する。けど今回は相手が悪かった。
『リサさんは、きっと嬉しいと思ってくれるんじゃないかな。だって、数百年経った今でもこんなに貴方に愛してもらってるんだもの』
美咲の素直な意見を、吸血鬼はそのまま飲み込んだ。――「リサ」の言葉として。血を長らく口にしておらず、冷静さを欠いていたあの状況で、美咲とリサの区別をつけることは出来なかったんだ。
『もしリサさんが生まれ変わって貴方と会えたら、今度は彼女も吸血鬼になってもらえばいいんじゃない? そうすれば、ずっと一緒にいられるでしょ』
柔らかく微笑みながらそういう美咲が、吸血鬼の目にはリサそのものに見えた。リサが、吸血鬼になる。今まではそんなこと、思い付きもしなかった。そうか、そうだな。そうすれば、永久に一緒にいられるんだな。そう考えたら、今度はそれしか考えられなくなったらしい。
『そう……か。リサはそう思うのか』
ドラキュラに余裕なんてなかった。美咲の次の言葉を聞くより前に、首筋にかじりつく。数百年ぶりの濃厚な血の味が口の中に広がる。正気に返った時は、既に大量の血を飲んでしまっていたらしい。こうなってしまったら、後は吸血鬼になるしかないという。
「……美咲は、助けられるんだろうな」
自分でも驚くほど静かな声が出た。こいつの過去は確かに痛ましいと思うけど、それと美咲は関係ないはずだ。どんな事情があろうと、俺は美咲を助ける。その決意は揺らがない。
「私が一度死ねば、それまで私がしたことはリセットされる。美咲嬢も元に戻るはずだ」
返答に安心して大きく息をつく。吸血鬼を殺すだけでいいなら簡単だ。話によるとこいつも死にたいと思っていたらしいし、死ねばきっとあの世のリサと会えるだろう。それなら俺のすることは悪いことじゃない。吸血鬼殺しは、美咲とドラキュラのためにすることなんだから。自分の中の何かに言い訳しながら、懐の中のナイフを取り出す。骨董屋で買った銀のそれを目にして、吸血鬼は怪訝そうに目を細めた。
「本当にやってくれるのか? 私の命を奪う、相応の覚悟はしているのだろうな?」
この期に及んで怖じ気づいたのか。逃げ出そうとしてるのか。一瞬そう思った。けれど、吸血鬼の表情を見てそうじゃないと気付いた。標的は怯えたり、取り乱したりなんてしていなかった。寧ろどこまでも落ち着いて、自分を殺す立場の俺を心配していたんだ。
「何故そんなことを気にするんだ、とでも言いたげな顔だな。……私は私なりに反省しているのだよ。キミ達に悪いことをしてしまった、とな」
曖昧に笑って口を開く。ナイフを構えた俺を気にすることなく、外の景色を眺めている。雨は相変わらず地面を叩きつけていた。どこを見ているのか分からない、どこか虚ろな目で語り続ける。
「本来ならば、私がどうにかしなければならない問題なのだ。だが、実際は今でも迷っている。仮にもう一度生き返ってしまったとして、私はまた一人になってしまう――吸血鬼らしくないかもしれないがね、孤独というものがどうしようもなく恐ろしいのだよ」
どこの誰だったかが、『孤独を愛しなさい』とかいう格言を残したという話をふと思い出す。百年程度で死ぬ俺達人間なら、それもいいかもしれない。けどそれは、吸血鬼には通用しなかった。何百年という途方もない時間を生きた存在にとっては、孤独なのが当たり前なのかもしれない。ただこいつの場合は、人の温もりを知ってしまった。だからこそ、誰かに見て欲しかったんだろう。それ自体はよく分かる。
「キミは怒るかもしれないが、一つ提案させてくれ。美咲嬢が私だけのものになってしまうのが嫌なら、キミも吸血鬼にならないか。私は美咲嬢の傍にいられれば満足なのだ……キミ達の友として、三人で静かに暮らせる場所に行こう。どうかね?」
問題は、その欲求が他人を巻き込んでしまうことだ。美咲を勝手に吸血鬼にしといて、今度は俺まで巻き込もうってか。俺は美咲を取られたことに怒ってんじゃない、美咲の意思を無視して手をかけたことに腹をたててんだよ!
「――ッざけんな!」
堪忍袋の緒が切れる音がした。左手で胸ぐらを掴み上げて床に押し倒す。右手のナイフを首筋に添えて、涼しい顔をしてる宿敵に怒鳴り付ける。
「美咲や俺は吸血鬼じゃねぇ、生きてる人間だ! 吸血鬼の勝手な幻想を押し付けんな!」
俺の言葉に傷ついたのか、苦しげに顔を歪めて目を逸らされた。考えてみれば、こいつも元々は人間だったわけで。本来同族だった人間から突っぱねられたのが痛かったのかもしれない。
「そうだな……すまなかった」
低い声で謝られる。しおらしい態度を取られても、どうにも出来ない。微妙に殺しづらくなって、吸血鬼から体を起こした。
「あんたの境遇には同情する。けど、それとこれとは別だ」
この言葉は嘘じゃない。俺の感情とやるべきことに関係はない。けど……もう少しうまくいく方法はないのか? 美咲もドラキュラも、両方が助かる選択肢は? 考えても答えが出てこない。
「まぁ……あんたって吸血鬼がいたことぐらいは覚えといてやるよ。それでいいだろ?」
唯一思い付いた手向けが、存在を覚えていることだった。人が本当に死ぬのは、誰からも忘れ去られたときである。いつだったか、そんな言葉を聞いたような気がするから。吸血鬼もそれで納得したのか、僅かに頷いて「――Thank you」と呟いた。
雨が全ての雑音をかき消していく。俺と吸血鬼は暫く黙ったまま向かい合っていた。もう思い残すことはない。さあ、私を殺してくれたまえ。そう聞こえた気がした。だからナイフを改めて握り直して、獲物の左胸に添える。吸血鬼は微かに首を振ると、俺の手を握ってナイフの位置を自ら修整した。生ぬるいと感じていた体温は、雨に濡れて冷たくなった俺には丁度よかった。目を閉じて、深呼吸を一つ。覚悟が決まった。
右手に力を込めて吸血鬼の胸を貫く。ずぶり、ずぶりと凶器が突き刺さっていく。思っていた以上に生々しい感触に戦いた。黒いスーツがだんだん暗赤色に染まっていく。意思に関係なく、俺の体ががくがく震えだす。視界が滲む。歪んだ世界の中で銀色に蝕まれながら、それでも吸血鬼は笑っている。本当に幸せそうに、笑っている。右腕の力が抜けていって、ふとした拍子にナイフが抜けた。胸から赤い液体が噴き出す。勢いよく飛び出したそれは、俺も吸血鬼も関係なく、全てを鮮やかな赤に染めていく。
マグマのように熱く、粘ついたものを浴びると同時に、俺の意識は遠退いていった。
あれから一ヶ月。美咲は何事もなかったかのように元に戻っていた。話によると、あの古寺で気絶していた俺を探してくれたのも彼女らしい。吸血鬼にされかけたことなど、様子がおかしかったころのことは何も覚えていなかったという。けど俺は、あれ以来美咲には触れられなくなっていた。吸血鬼を殺した瞬間に、重大なことに気付いたせいだ。
「ねえ、康生ってば! 最近何か冷たくない?」
今日も美咲は俺に話しかけてくれる。それなのに俺は何も言えず、黙って立ち去るしかない。純粋に心配して声をかけてくれてるのは分かってる。けど、それ以外にどうしたらいいのか分からなくなっちまったんだ。
何でドラキュラは、俺に殺されるのをあんなに躊躇っていたのか。理由は単純だった。「俺が若い人間だったから」だ。
きっと俺はどこかで、吸血鬼なんて化け物なんだ、と思い続けていたんだろう。どんな物語でも化け物は倒される運命にある。知らないうちに、自分は物語の主人公だとでも思い込んでいたのかもしれない。けど実際は、生きている命と変わりはなかった。あの肉を切り裂く感触は、血の熱さは、死んだ存在のものじゃなかった。明らかに命を持った生き物のそれだったんだ。
――俺は、この手で、ひとつの命を絶った。それも、人間と意思を通じることのできる存在を、狩り取ったんだ。
認識する度に、胸が痛くなる。何度も蘇るとか、そんなことは関係なくて。手の中に残ったのは、自分から他の命を奪ったという事実だけ。殺した時のあの感触が手から離れない。まるで自分が得体のしれない何かになってしまったような、言い知れぬ違和感と嫌悪感がついて回る。美咲に触れたらこれが移ってしまいそうで、気持ち悪い。その罪の重さに耐えきれなくならないように、俺に思い直させようとしてくれてたんだ。
けど、俺は悩んだりしない。確かに罪悪感に押し潰されそうになるけど、負けたりしない。だってドラキュラと約束したから。あいつのことを覚えておいてやる、と誓ったから。
自分の罪を滅ぼすため。美咲を遠くから見守り、ドラキュラの存在を胸に留めて。
俺、坂東康生は、今日という日を生きている。
人ならざるモノ 了
「ほう……最近の日本国では覗きが流行っているのかね? あまり褒められたものではないな」
一瞬意識が飛んでいたらしく、意地の悪い声で起こされた。目を開いて目の前の人物を睨み付ける。濃いグレーの髪と瞳が目に入った。黒いマントと首にひらひらのついたスーツは、墓石だらけのこの場所には似つかわしくない。出てくる時代と場所を間違えたような姿のそいつの左腕には、さっき噛みつかれていた女が抱え込まれている。眠り込んでしまったらしく、微かに寝息が聞こえた。
「きみは彼女の知り合いか? もしそうならば、親御さんに伝えておいてはくれないか。
黒マントの身勝手な言葉は、俺の怒りを買うには十分だった。立ち上がって胸ぐらを掴み上げる。相手の方が背が高いせいでしがみついてるみたいになっちまったけど、やってることの意味は通じたらしい。眉間に微かにシワを寄せる。
「何をする? せっかくセットしたクラバットにシワがつくではないか」
鼻につく態度で、俺よりも服のシワの心配をしてやがる。会って数分もしてないのに、的確に神経を逆撫でしてくる。腹のたつ野郎だ。けど、殴るのは早い。落ち着け。まずはじめに聞いておかなきゃいけないことがある。こらえろ。そっと息を整えて、なるべくドスの利いた声で問いかける。
「テメェ、何もんだ? 美咲に何をしやがった!」
怒鳴り付けるように質問を投げつけられて、鬱陶しそうに顔をしかめる。一瞬考え事をするように目を逸らしたが、すぐににやり、と口角をつり上げてきた。
「これは失礼……自己紹介を忘れていたな」
右手を胸にあて、軽く頭を下げる。無駄のない綺麗な動作と共に、男は口を開いた。
「私は、吸血鬼だ。美咲嬢からは合意で血を飲ませて頂いた。名前は……そうだな。ドラキュラ伯爵、とでも呼ぶがいい」
現実にはありえないことを、ひどく現実味のないことを、そいつははっきりとした口調で言い切った。そういえば、こいつの肌はやけに青白い。周りが暗いせいだと思ってたけど違うらしい。さっきのことがあるし、美咲の首筋に小さな歯形が残っているから、百歩譲って吸血鬼であることは認めるとして。確かドラキュラ伯爵ってのは、有名な小説の登場人物の名前だったはずだ。まさか、実在する人物だったのか?
「そんな訳がなかろう。私は本来イングランド人だ、ルーマニアやトランシルバニアとは縁がない」
質問に答えながらそっと右手で俺の手を包み込む。触れるか触れないかのところで止めてはくれたが、それでも背筋が冷たくなる。掴んでいたひらひらが溶けるように消えた。ヤツは体を起こし、いつの間にか元に戻っていた首元の布切れを丁寧に整えている。俺と正面から向き合うと、鼻で笑って馬鹿にしたような態度をとってきた。
「覗きをしたり、人の首根っこを捕まえて脅迫したりするような青年に名乗る名はないのでね。適当にでっち上げた偽名を名乗るぐらいが丁度良かろう。ところで、そういうきみは何者かね? 何故そこまで美咲嬢に固執する?」
明らかにこっちを見下した目付きに、とうとう怒りを抑えきれなくなった。美咲を襲ったのは向こうだ。勝手なことをしているのはあいつの方だ。なのに、ふざけた態度をとりやがって! 拳を繰り出す。攻撃が当たる前に、緩く首を締められる。やつの手は動いていない。その代わり銀色だった目が赤く光っている。礼儀をわきまえろ、逆らったら殺すってか。仕方なく握っていた手を下ろした。息が出来るようになって咳き込む。くそ、覚えてろよ。
「……
睨みを利かせながら簡単な自己紹介を済ませる。ドラキュラは哀れむように眉を下げた。口元が変わらず笑っているのがうざい。
「幼馴染み、か。つまり、きみの想いは彼女には通じていないわけだな」
ぎくり、と固まる。吸血鬼には心を読む力でもあるのか? あいつはニヤニヤしながら俺の肩に手を置いた。服から伝わってくる熱は、生き物にしては冷たく、無機質にしては熱い。数十秒前に息を引き取った死体に触れられてるみたいだ。魂が抜けて、刻一刻と冷たくなっていく最中のよう。明らかに人とは違う半端な体温が、嫌でも目の前の存在の異質さを自覚させる。気分が悪い。寒気がする。俺の腕はぷつぷつと鳥肌がたち始めていた。
「可哀想に。得体のしれない化け物に掴みかかるほど想っているというのに、彼女は全くそれに気付かない。辛いだろう? それなら、もう終わりにしてしまえばよい。私に任せてくれれば、必ず彼女を幸せにできる。どうかね? 悪い提案ではなかろう?」
かがんで、俺の耳元で囁く。ねっとりした言い方が嫌悪感を抱かせる。話す度に耳元にかかる吐息も、肌と同じで生ぬるい。第一吸血鬼ってものは、半分死んでる化け物って意味じゃゾンビと似たようなものだ。そんなやつに色目を使われても嫌な気分になるだけ。気持ち悪い、吐きそうだ。生理的な嫌悪を何とか抑えて、刺すような目付きで睨む。左手は爪が突き刺さりそうなほどに固く握る。
「っざけんな!」
怒りに任せて拳を振るう。ヤツの顔がもやになって、俺の左手は空を切った。前のめりに倒れそうになる。右手で体を受け止められて、立たされる。改めて見たあいつの目は、どこか哀しげだった。
「何か悪いことでも言ったかね? 彼女との血の契約は既に交わされている。つまり、これから先は私と同じ吸血鬼となり、永久に愛し合って生きるのだ。人間とは脆く儚く、そして醜い。彼女の幸せを考えれば、私と共になることこそが最善の策ではないか?」
血の契約ってのは、血を飲んだことらしい。確かに、あいつが吸血鬼になりたかったならそれは正しい。けど俺の知ってる美咲は、そんなことを望むやつじゃない。あいつは人間なんだ。勝手に好きな人を吸血鬼にされて、ハイ残念でした諦めなさいと言われて、納得できる訳ねぇだろ!
「それはあんたの都合だろ。美咲は人間だ。吸血鬼の都合を押し付けんな!」
どうしても、美咲を連れてくってんなら。
歯を食い縛る。目の前のスカした野郎に目を据える。あいつに人差し指を突きつけて、怒りをぶつけるように叫ぶ。
「俺があんたを止めてやる。殺してでも、刺し違えてでも美咲を取り返してやるッ!」
しんと静まり返る。ドラキュラは急に真顔になって見つめてきた。
「今、殺すと言ったか?」
低い、静かな声。それまで笑っていた分、真剣な表情に気圧される。身構えながら次の言葉を待つと、やつは右手を目一杯広げた。みるみるうちに、さっき以上の笑顔になる。
「そうか……よく言ってくれた! さあ、早く私を殺すがいい!」
夜が明けてから、学校で美咲に会った。昨夜のことは覚えていないらしく、俺を見ても何も言ってこない。というか、何もしない。ノートも取らず、誰とも話さず、ただ何もないところを見つめている。目が虚ろで、体は常にふらふらと揺れている。数日前からずっとこんな調子だ。友達が体を揺すっても、目の前で話しかけても反応しない。何の脈絡もなく教室を出ていくこともよくある。クラスメイト達はそんな美咲を気味悪がって、だんだん避けるようになった。そりゃ気味悪いとも思うよな。だって元々の美咲は、明るくて優しくて、誰に対しても公平に接するやつだったから。それが今じゃ、いつ何をするか分からない夢遊病みたいな状態になっている。美咲の親御さんも色んな病院に連れて行ったらしいけど、脱け殻みたいになった原因は掴めなかった。そりゃそうだ、誰が吸血鬼のせいだなんて考えるもんか。俺だって、美咲が変わっちまった原因を掴むために行動を追ってなかったら、吸血鬼なんて信じなかった。
ドラキュラの「殺してくれ」発言のあと。いきなりのことに戸惑いを隠せない俺に、吸血鬼は「今すぐでなくとも良い」と微笑んだ。武器を調達する時間を与える代わりに、一晩自分の話し相手になってほしいと頼んできたんだ。正直、今の状況に頭がついていけてない。現実ではありえない存在に会って、殺してくれと当の本人に頼まれて、吸血鬼を殺すための武器を調達して、今晩殺す相手と話をする。フィクションよりも現実味のないことが次々と俺に降り注ぐ。けど、美咲を助けるためなら、俺はなんだってやってやるんだ。
彼女について話をするために、美咲の家を訪ねた。吸血鬼なんて信じてもらえないのは分かってる。けど、今一番辛いはずの親御さんたちを放ってはおけない。たまにご飯を食べさせてくれたりした恩を、こういう時だからこそ返したい。玄関をノックする。美咲の親父さんとお袋さんが顔を出す。二人の目元は赤い。何日もの間泣いて過ごしてるんだろう。
「ああ……康生くんか。よく来てくれたね。上がっていくかい?」
「いえ、ここで結構です。あの、美咲の状態は……?」
申し訳ないけど、今回は親父さんの誘いを受けることはできない。吸血鬼との約束に遅れちまうからな。口の中でそんな言葉を飲み込んで、美咲について尋ねてみた。二人が目をそらして俯く。美咲を一番近くで見ている人達だ、心を痛めるのはよく分かる。
「相変わらずだよ。何をしても反応しない、何をするか分からない……まるで違う世界にでもいるみたいだ」
隈の出た顔で苦笑する親父さん。違う世界ってのは間違ってはいないけど、俺からそんなことを言い出しても変人扱いされるだけだから黙っておく。長いこと家ぐるみで付き合っていた仲を、こんなことでこじらせたくない。
「何の病気なのか、いくら調べても分からないのよ。どの病院でも異常なし、って言われるの。あの状態で異常がないわけないでしょ? 必ず原因を突き止めて、美咲を元に戻してみせるわ」
お袋さんの強気な態度も相変わらずだ。きっといろんな人のために気丈にふるまっているんだろうな。不安だなんて絶対に言葉には出さないけれど、真っ赤になった目と疲れ切った顔を見れば本音はすぐに分かってしまう。
二人の疲れきった顔を見て、言葉が出なくなった。そうだよな。俺がいくら美咲のことが好きで、いくら心配していたとしても……この人達の想いにはかなわない。かなうわけがないんだ。
「あ、あの! 俺……美咲の為なら、何でもしますから。何か力になれることがあるなら、遠慮なく言って下さい」
紡ぐべき言葉を探してそう口にしたら、二人は僅かに目を見開いた。顔を合わせて、少し話し合う。やがて俺の方を見て、親父さんは口を開いた。
美咲の家からふらふらと出ていって、近所の骨董屋に入った。今にも潰れそうな古い店……今までは興味も持たなかったその店で、薄汚れたナイフを手に取る。銀で出来たそれを目の前にかざすと、俺の気持ちに答えるように鈍い光を放った。
「あの子を、守ってやってくれないか」
何か出来ることがあったら言ってくれと頼んだとき、親父さんはただそれだけ答えた。本当は、何が起きているか薄々察しているのかもしれない。何かを知っていたのかもしれない。それでも何も尋ねず、全てを委ねてくれたんだ。
ふと、美咲を好きになった頃を思い出した。明るくてお人好しな幼馴染みを好きになったのは、中学生の頃だっけ。人当たりのいい美咲を妬んで陰口を叩くやつらがいたから、全員ぶん殴ってやったんだ。大問題になったよ。それまで俺は真面目で大人しいキャラだったから、友達や先生から怖がられた。殴った理由は言わなかったから、いつ暴れだすか分からないとでも思われたらしい。そんなとき、美咲だけは態度を変えなかったんだ。俺が暴れた理由も知らないのに、何も聞かずに喧嘩傷の手当てをしてくれた。何で他の連中みたいに理由を聞かないのか尋ねると、あいつは「康生のことだから、ちゃんと考えがあったに決まってる。それを話せない理由があるなら、こっちから聞くのはヤボでしょ?」と笑った。絶対の信頼を置いてくれる美咲に、たった一人残ってくれた味方に、俺は惚れ込んだんだ。
そのあとは、美咲の力になれるように頑張った。あえて不良らしさを演じ、美咲を側で守り続けた。あいつはそんなことは知らなかったけどな。青あざを作った俺に「また喧嘩したの? モテなくなっても知らないぞー」と笑いながら手当てしてくれた。美咲が俺の気持ちに気付いてなくていい。だって、そばにいられるだけで幸せだから。
だからこそ。あんなひどいやり方で美咲の心を奪った吸血鬼を、俺は絶対許さない。
銀のナイフを握りしめて、自分自身に誓った。
昨日から空を覆っていた雲から、バケツをひっくり返したような雨が降る。梅雨特有の最悪な天候の中、俺は一人で家を出た。目的地は、吸血鬼との決戦の場だ。恐れをなして逃げ出すかと思ってたけど、奴は墓場の入り口に立って俺を待っていた。
「ほう。恐れをなして逃げ出すかと思っていたが……きみを見くびりすぎたようだな。申し訳ない」
どうやら、相手も同じことを考えていたらしい。たったそれだけのことなのに、考えを読まれているようで鳥肌が立つ。寒気がするのは雨に濡れたせいじゃないだろう。奴はにい、と笑って空を仰いだ。
「今日はいい天気だな」
「……これが?」
拍子抜けして思わず聞き返す。今この瞬間にも、雨粒が地面に叩きつけられている。雲が出ているせいもあって視界が悪い。確かに闇討ちには最適かもしれないが、お世辞にも気分のいいものじゃない。
「我が母国に比べたら優しいものだ。最も、人間だった頃の私は英国紳士としての誇りを持って、雨具なしでロンドンの街を闊歩したものだが」
そういえば、元はイギリス人だったって言ってたな。遠くを見つめて昔を懐かしみながら話す姿は、とても楽しそうだ。目の前の存在は化け物のはずなのに、何故かそういった動作は人間臭く見えた。
「話したいことってのは、思い出話か?」
「うむ。それもあるが、どちらかというと身の上話だな」
言葉の途中で急にどこかに歩き出す。逃げるのかと思って後をつけてみたら、たどり着いたのは朽ち果てる寸前のおんぼろ寺だった。所々雨漏りしているが、まだ建物としての形は保っているらしい。
「かけたまえ。風邪は引きたくないだろう?」
寺の縁側に勝手に腰掛け、まるで自分の家に招くように促す。……いや、案外昼間はここで身を隠しているのかもしれない。黒いマントつきスーツの男の姿が、この古寺にやけに馴染んでいる。足を組んで座る吸血鬼の横に、少し距離を開けて腰掛けた。俺をちらりと見て満足げに笑うと、奴は外に目をやったまま語り始めた。
本人曰く、元々はイギリスの名士だったらしい。王室の為に尽力し、自らの財産で公共の場を整えたり、悪人をしょっぴいたりしていたそうだ。
「証拠はあるのか? それに、そんないいやつが何で吸血鬼なんかに?」
「正式な文献を当たれば、私の本名が残っているはずだ。吸血鬼になった理由については私にも分からん。大方、私に恨みを持った子悪党が呪いでもかけたんだろう。イングランドは黒魔術の国だからな」
俺の揚げ足取りにも特に動じない。こいつのいう本名だって偽装したものかもしれないし、黒魔術なんて眉唾物だ。けれど、真剣な語り口を聞いていたら、知らないうちにそんな突っ込みを入れる気もなくなっていた。
寿命で死んで吸血鬼として蘇ったときも、ほとんど何も感じなかったらしい。当時の世界は、ルネサンスの影響で芸術の分野が大きく発展していた。それらを見続けることができるのが純粋に嬉しかったそうだ。
「生きていた頃の私には、大切な人などいなかった。だから、永久に生きるというのがどういうことか理解していなかったのだ。……そんなとき、彼女と出会った」
赤毛の髪にぱっちり開いた目、幼く見える容姿と屈託のない笑顔。リサと名乗るその女性は、吸血鬼の心をすっかり奪ってしまった。「自分を保つためには仕方がない」と吸血行為に対して割り切っていた彼に、迷いを生じさせるほどに。彼女と深く愛し合い、血を吸うことは止めていた。
「自分を保つため……と言うのは、少々分かりづらいか。吸血鬼にとって血は安定剤なのだ。自らの力を、理性を、潰えないよう繋ぎ止めておくためのもの。だから十数年程度ならば血に頼らなくても問題はない。彼女と会ってからは、血を吸うことを罪深いことだと感じるようになった」
けど、幸せなときは長くは続かなかった。リサは生まれつき体が弱く、数年後に病死してしまった。彼女を看取っていた吸血鬼の感情は、深い海の底に沈み込んだ。彼にとって彼女は初めて愛した人であり、守るためなら命も惜しくないと思わせるほど大切な人だったんだ。
「彼女は、置いていくことになってごめんなさい、と私に謝りながら眠りについた。謝るのは私の方だというのに。彼女の為ならこの命を捧げても構わないと思っていたのに、実際は彼女を死なせてからものうのうと生きている。――自分が赦せなかったよ」
そう語る吸血鬼の目には、僅かに水が溜まっていた。話を鵜呑みにするまいと身構えていた俺も、いつの間にか言葉が出なくなっている。気持ちが痛いほど理解できるからこそ、疑うことが出来なかった。
リサが死んで、吸血鬼は初めて不老不死の体を呪った。彼女の後を追って何度も自殺したそうだ。けれど、何度やっても死ねなかった。死んだときの苦しみを感じたまま砂になり、数ヶ月後には元の姿に戻ってしまうのだとか。絶望を胸の内に抱えたまま、数百年の時を過ごした。幾つもの国をふらふらと渡り歩き、時々思い出したように自殺し、蘇生する。いつからか血を吸うことはなくなっていた。時折意識を飛ばし、衝動的に自傷行為に走り、それでも死ぬことは出来ない。荒んでいく人格と自分への憤り、死ねないことへの絶望を抱えて、たった一人で苦しんでいたんだ。
「そんな折に、ここにたどり着き……美咲嬢と出会った。驚いたよ。黒い髪の色以外は、リサと瓜二つだったのだから」
精神的に参っていた吸血鬼は、出会い頭に美咲の肩を抱いてかつての恋人の名前を呼んだ。いきなりのことに戸惑いながらも、美咲は優しくなだめて話を聞いた。あいつはそういうやつだ。誰に対しても平等に、優しく対応する。けど今回は相手が悪かった。
『リサさんは、きっと嬉しいと思ってくれるんじゃないかな。だって、数百年経った今でもこんなに貴方に愛してもらってるんだもの』
美咲の素直な意見を、吸血鬼はそのまま飲み込んだ。――「リサ」の言葉として。血を長らく口にしておらず、冷静さを欠いていたあの状況で、美咲とリサの区別をつけることは出来なかったんだ。
『もしリサさんが生まれ変わって貴方と会えたら、今度は彼女も吸血鬼になってもらえばいいんじゃない? そうすれば、ずっと一緒にいられるでしょ』
柔らかく微笑みながらそういう美咲が、吸血鬼の目にはリサそのものに見えた。リサが、吸血鬼になる。今まではそんなこと、思い付きもしなかった。そうか、そうだな。そうすれば、永久に一緒にいられるんだな。そう考えたら、今度はそれしか考えられなくなったらしい。
『そう……か。リサはそう思うのか』
ドラキュラに余裕なんてなかった。美咲の次の言葉を聞くより前に、首筋にかじりつく。数百年ぶりの濃厚な血の味が口の中に広がる。正気に返った時は、既に大量の血を飲んでしまっていたらしい。こうなってしまったら、後は吸血鬼になるしかないという。
「……美咲は、助けられるんだろうな」
自分でも驚くほど静かな声が出た。こいつの過去は確かに痛ましいと思うけど、それと美咲は関係ないはずだ。どんな事情があろうと、俺は美咲を助ける。その決意は揺らがない。
「私が一度死ねば、それまで私がしたことはリセットされる。美咲嬢も元に戻るはずだ」
返答に安心して大きく息をつく。吸血鬼を殺すだけでいいなら簡単だ。話によるとこいつも死にたいと思っていたらしいし、死ねばきっとあの世のリサと会えるだろう。それなら俺のすることは悪いことじゃない。吸血鬼殺しは、美咲とドラキュラのためにすることなんだから。自分の中の何かに言い訳しながら、懐の中のナイフを取り出す。骨董屋で買った銀のそれを目にして、吸血鬼は怪訝そうに目を細めた。
「本当にやってくれるのか? 私の命を奪う、相応の覚悟はしているのだろうな?」
この期に及んで怖じ気づいたのか。逃げ出そうとしてるのか。一瞬そう思った。けれど、吸血鬼の表情を見てそうじゃないと気付いた。標的は怯えたり、取り乱したりなんてしていなかった。寧ろどこまでも落ち着いて、自分を殺す立場の俺を心配していたんだ。
「何故そんなことを気にするんだ、とでも言いたげな顔だな。……私は私なりに反省しているのだよ。キミ達に悪いことをしてしまった、とな」
曖昧に笑って口を開く。ナイフを構えた俺を気にすることなく、外の景色を眺めている。雨は相変わらず地面を叩きつけていた。どこを見ているのか分からない、どこか虚ろな目で語り続ける。
「本来ならば、私がどうにかしなければならない問題なのだ。だが、実際は今でも迷っている。仮にもう一度生き返ってしまったとして、私はまた一人になってしまう――吸血鬼らしくないかもしれないがね、孤独というものがどうしようもなく恐ろしいのだよ」
どこの誰だったかが、『孤独を愛しなさい』とかいう格言を残したという話をふと思い出す。百年程度で死ぬ俺達人間なら、それもいいかもしれない。けどそれは、吸血鬼には通用しなかった。何百年という途方もない時間を生きた存在にとっては、孤独なのが当たり前なのかもしれない。ただこいつの場合は、人の温もりを知ってしまった。だからこそ、誰かに見て欲しかったんだろう。それ自体はよく分かる。
「キミは怒るかもしれないが、一つ提案させてくれ。美咲嬢が私だけのものになってしまうのが嫌なら、キミも吸血鬼にならないか。私は美咲嬢の傍にいられれば満足なのだ……キミ達の友として、三人で静かに暮らせる場所に行こう。どうかね?」
問題は、その欲求が他人を巻き込んでしまうことだ。美咲を勝手に吸血鬼にしといて、今度は俺まで巻き込もうってか。俺は美咲を取られたことに怒ってんじゃない、美咲の意思を無視して手をかけたことに腹をたててんだよ!
「――ッざけんな!」
堪忍袋の緒が切れる音がした。左手で胸ぐらを掴み上げて床に押し倒す。右手のナイフを首筋に添えて、涼しい顔をしてる宿敵に怒鳴り付ける。
「美咲や俺は吸血鬼じゃねぇ、生きてる人間だ! 吸血鬼の勝手な幻想を押し付けんな!」
俺の言葉に傷ついたのか、苦しげに顔を歪めて目を逸らされた。考えてみれば、こいつも元々は人間だったわけで。本来同族だった人間から突っぱねられたのが痛かったのかもしれない。
「そうだな……すまなかった」
低い声で謝られる。しおらしい態度を取られても、どうにも出来ない。微妙に殺しづらくなって、吸血鬼から体を起こした。
「あんたの境遇には同情する。けど、それとこれとは別だ」
この言葉は嘘じゃない。俺の感情とやるべきことに関係はない。けど……もう少しうまくいく方法はないのか? 美咲もドラキュラも、両方が助かる選択肢は? 考えても答えが出てこない。
「まぁ……あんたって吸血鬼がいたことぐらいは覚えといてやるよ。それでいいだろ?」
唯一思い付いた手向けが、存在を覚えていることだった。人が本当に死ぬのは、誰からも忘れ去られたときである。いつだったか、そんな言葉を聞いたような気がするから。吸血鬼もそれで納得したのか、僅かに頷いて「――Thank you」と呟いた。
雨が全ての雑音をかき消していく。俺と吸血鬼は暫く黙ったまま向かい合っていた。もう思い残すことはない。さあ、私を殺してくれたまえ。そう聞こえた気がした。だからナイフを改めて握り直して、獲物の左胸に添える。吸血鬼は微かに首を振ると、俺の手を握ってナイフの位置を自ら修整した。生ぬるいと感じていた体温は、雨に濡れて冷たくなった俺には丁度よかった。目を閉じて、深呼吸を一つ。覚悟が決まった。
右手に力を込めて吸血鬼の胸を貫く。ずぶり、ずぶりと凶器が突き刺さっていく。思っていた以上に生々しい感触に戦いた。黒いスーツがだんだん暗赤色に染まっていく。意思に関係なく、俺の体ががくがく震えだす。視界が滲む。歪んだ世界の中で銀色に蝕まれながら、それでも吸血鬼は笑っている。本当に幸せそうに、笑っている。右腕の力が抜けていって、ふとした拍子にナイフが抜けた。胸から赤い液体が噴き出す。勢いよく飛び出したそれは、俺も吸血鬼も関係なく、全てを鮮やかな赤に染めていく。
マグマのように熱く、粘ついたものを浴びると同時に、俺の意識は遠退いていった。
あれから一ヶ月。美咲は何事もなかったかのように元に戻っていた。話によると、あの古寺で気絶していた俺を探してくれたのも彼女らしい。吸血鬼にされかけたことなど、様子がおかしかったころのことは何も覚えていなかったという。けど俺は、あれ以来美咲には触れられなくなっていた。吸血鬼を殺した瞬間に、重大なことに気付いたせいだ。
「ねえ、康生ってば! 最近何か冷たくない?」
今日も美咲は俺に話しかけてくれる。それなのに俺は何も言えず、黙って立ち去るしかない。純粋に心配して声をかけてくれてるのは分かってる。けど、それ以外にどうしたらいいのか分からなくなっちまったんだ。
何でドラキュラは、俺に殺されるのをあんなに躊躇っていたのか。理由は単純だった。「俺が若い人間だったから」だ。
きっと俺はどこかで、吸血鬼なんて化け物なんだ、と思い続けていたんだろう。どんな物語でも化け物は倒される運命にある。知らないうちに、自分は物語の主人公だとでも思い込んでいたのかもしれない。けど実際は、生きている命と変わりはなかった。あの肉を切り裂く感触は、血の熱さは、死んだ存在のものじゃなかった。明らかに命を持った生き物のそれだったんだ。
――俺は、この手で、ひとつの命を絶った。それも、人間と意思を通じることのできる存在を、狩り取ったんだ。
認識する度に、胸が痛くなる。何度も蘇るとか、そんなことは関係なくて。手の中に残ったのは、自分から他の命を奪ったという事実だけ。殺した時のあの感触が手から離れない。まるで自分が得体のしれない何かになってしまったような、言い知れぬ違和感と嫌悪感がついて回る。美咲に触れたらこれが移ってしまいそうで、気持ち悪い。その罪の重さに耐えきれなくならないように、俺に思い直させようとしてくれてたんだ。
けど、俺は悩んだりしない。確かに罪悪感に押し潰されそうになるけど、負けたりしない。だってドラキュラと約束したから。あいつのことを覚えておいてやる、と誓ったから。
自分の罪を滅ぼすため。美咲を遠くから見守り、ドラキュラの存在を胸に留めて。
俺、坂東康生は、今日という日を生きている。
人ならざるモノ 了