現代ベース小説
文字の羅列を目で追う度、それまで見ていた景色に新たな色が与えられたようだった。その時の胸の高鳴りは今でも忘れられない。五年ほど前の話である。当時の私は胸の内を覆う暗雲にすっかり敗してしまっており、何をするにも億劫ではしゃぐ学友たちをどこか遠くから眺めていた。特にどこかを病んでいたという訳ではない。ただ恋だの何だのときゃあきゃあはしゃぐのが何処か馬鹿馬鹿しく、彼女たちの語ることが絵空事にしか見えなかったのだ。そもそも十年そこそこ歩んできた程度の価値観でその後の人生の共に歩く相方を見つけるなど夢のまた夢だ、とどこか諦観していたのも浮いていた理由の一つだろう。幼少より読書家で孤独を気に病む性質ではなく、その意味で中学生にしてはませていた。本を読んで主人公たちの見る世界を追体験し、あれこれと茶々を入れることが私にとって最大限の娯楽であった。現実と違い、文章は嘘を吐かない。文字という形で起こす際に簡略化された思考や感情を追うくらいが、元来それほど人間好きでない私には丁度良かったのだ。
そんな私にとって、先生の文章はまさに革命であった。どこか人を寄せ付けない雰囲気で、されど人付き合い自体を嫌悪している訳ではない主人公が日常のありふれた出来事で少しずつ成長していく、素っ気なくも暖かい文で綴られた物語。
何故そんなに面白くなさそうな面をしているのだ、と問われ、答えに窮する。自分はそれほどまでに無愛想な顔をしていたのだろうか。ただ普通に相槌を打っていただけでそう言われてしまうのであれば、それは生来の仏頂面のせいであろうに。
「何でもない」と笑顔を作る。また肺の奥底に黒い靄 が溜まっていく。
個性に手をかけ、ごきり、とへし折った際の感触には、いつまで経っても慣れそうになかった。
(中略)
「息苦しいよな」と彼は言った。自分の感覚を否定せず、かと言って何か意見を押し付けることもない。それは静かな共感であった。たった一言同意されただけだというのに、その一言で息苦しさが軽くなる。何と現金なことだろうか。
そうだね、と返したときの自分は、恐らく近日中で最も自然な笑顔だったろう、とどこか他人事のように考えていた。
主人公は物静かな人柄として描かれており、人と関わることが得意でない私にとっては非常に共感できるものであった。華やかという訳ではない日々をそれなりに生き、時に後ろを振り返りながら歩む道程が、当時中学生であったであった少女にとって心の支えになっていたのだ。著名な作家という訳でなかった彼女の本を少ない小遣いで買い漁り、貪るように読んだ。本が恋人なのかと揶揄されたこともあったが、それすら気にならなかった。私にとって先生の文章は無くてはならない動力源であり、心臓を動かす力だったのだから。人生の全てを掛けて先生の文を追っていたいと願う程に崇拝していた。先生の脳髄から溢れる言葉に埋もれていられれば、他には何もいらないとすら思っていた。
そんなささやかな日常が崩れたのは一瞬のことであった。
彼女の訃報を目にしたのは、書店に並ぶ本の帯が最初であった。五十一歳という若さでこの世を去ったらしい。私を置いて逝った先生の死因を公開されず、読者の一人でしかなかった女子大生が葬式に招かれることも当然なかった。
心臓が、止まった。
先生を中心に回っていた歯車は動きを止め、胸元にぽかりと空いた穴からは常に何かが滴り落ちるようだった。それが血か、それとも涙か。それは己にも見当がつかない。世界は全てが灰色に染まり、どこか遠くへ行ってしまったようだった。あれほど何度も読み、一字一句書き出した先生の著作でさえ、視界が滲んでしまい字を追うことすらままならない。先生の書いた文章は、全て完璧に諳んじることが出来るほど読み込んでいたというのに。
「人の寿命ばっかりは仕方ない部分もあるんじゃないかな」
魂が抜けてしまった私を見かねたのか、友人Uは会うなりそう切り出した。私が先生を心から尊敬していることを知っている彼女は、まるで私の傷心を理解しているかのように話し続ける。
「あの先生ならきっと、天国でも書き続けてるよ。遺された側に出来るのは、しっかりお別れすることだと思う」
当たり障りのない綺麗な言葉。それは私の求めているものではなかった。こんなときにこそ欲しいのは、全てを分かってくださっている先生の優しい言葉なのに。先生が私を置いていってしまったら、そこには新たな感情を込められることはもう皆無なのだ。こうして先生の作品を真似て心を落ち着けようとしても、風穴からするりと漏れ出してしまう。
つい先日、想いの丈を綴った手紙をしたためたばかりなのだ。先生への溢れんばかりの敬愛を、先生のような立派な人になりたい、私も先生のような作品が書きたいという切なる想いを届けたばかりだというのに。
私がどんなに先生の文字を受け取っても、先生がこちらの存在を認識することはない。手も文字も届かない果てへ、一人で旅立ってしまわれたのだ。
ただ、好きです、と。
あなたの小説で救われましたと、一言伝えたいだけだったのに。
「先生がこの空の下で呼吸をしていないこと、あの厳しくも優しい文章が二度と生み出されないことが私にとっての悲劇なのだ。それを悲しむことの何が悪いと言うのだろう」
思いの一部を吐き出すと、Uは口を引き結んだ。眉間に皺を寄せ、困惑を隠し切れずにいる。
己を救ってくれた存在に心を砕くことが、手の届かぬ場所にすり抜けていってしまったと嘆くことがそれほど可笑しなことだろうか。
途方に暮れるUを置いて下宿へと歩を進める。大学の講義はまだ残っていたが、出席してもろくに海馬に届かないのは目に見えていた。今はただ、胸元に空いた穴から零れる生温い体液を塞き止めることに尽力したかった。
大学のキャンパスから歩いて十五分程度の場所に私の下宿先があった。小綺麗な校内とは異なり、建物の陰にひっそりと、肩身の狭そうに建つ、築二十年ほどの安下宿。かびでも生えそうな暗く狭い部屋は存外居心地の良いものだった。陽当たりが良く広大な大学の敷地は常に人が溢れていて、喧騒に頭を揺さぶられるのだ。明るい人の声に合わせて無理に笑顔を作ることもなく、好きな本に埋没して静かに過ごすことができる環境は貴重であった。
居城の扉を開けると、ポストに見慣れない封筒が差し込まれていた。素っ気ない茶封筒に癖のある字で私の宛名が書かれている。裏面に何気なく目を向け、時間が静止した。
先生の名が、そこにあった。
しばし動きを止め、我に返る。鍵を開けて扉を開き、靴を脱ぐ動作すらもどかしかった。鋏で丁寧に封を空け、中の便箋を取り出す。先生を亡くしてから止まったままだった心臓は再び活力を取り戻し、全身に熱い血を巡らせていた。震える手で便箋を開く。先生の名の後に綴られた文に目を通した。
ファンレターをくださりありがとうございます。
私の作品が誰かの心の支えとなれた事実がとても嬉しく、満たされたような思いです。沢山の愛を込めて手紙を書いてくださったことに感謝の言葉を贈りたくて、こうして手紙を書かせて頂きました。
私の書いた話、私と共に歩んでくれたキャラクターたちのことを心より愛してくださり、本当にありがとうございます。作者としてこれほど嬉しいことはありません。
冷え切った身体が温かくなっていくのを感じる。先生に私の言葉が届いていた。たったそれだけのことで、極楽へと至るようだった。
先生は私にとって神のようなお人。だからこそ、何気ない一言で天にも昇ってしまうのだ。
鼻水を啜る。涙を拭ってよく見ると、便箋に並ぶ文字の下に黒い線の羅列が透けて見えた。どうやら二枚目があったようだ。
一枚目と打って変わって、少し雑になった文字が並んでいる。
本当はこれは伝えるべきかどうか悩みましたが、私の作品を本気で好きでいてくれて尊敬してくれるあなたに、私からお願いがあります。
あなたを傷付けてしまうかもしれません。それでもどうしても伝えておきたかったのです。
二枚目の手紙はそんな大仰な書き出しで始まった。
先生の言うことであれば、私は何だって受け入れるというのに。こちらの心情まで気遣ってくださるなどと、何と優しい方なのだろうと感激していた私は、次の文で地の底に叩き落とされた。
もう、私を崇拝するのはやめてください。
雷に打たれた。足元の地面が崩れていき、一筋の光も差し込まない暗い谷底へと落とされる。神のように信じていた相手に、自らの手で心を折られるとは思わなかった。
脳内で限りなく疑問符が生み出される。大きく息をつき、もう一度手紙に目を落とした。
私の信ずる先生は、理由もなく人を傷つけるようなことは言わない。必ずなにかお考えがあるはずで、どのような形であっても救いをくださるお方なのだ。先生の善性を、著作でよく知っているからこそわかることだった。
あなたは「私のような作品が書きたい」と、「作家になりたい」と手紙に書いてくれました。それ自体は本当に喜ばしいと思います。
けれど、だからこそ。あなたに自分のファンとしてではなく、作家の卵として、後輩として手紙を書きたくなりました。
私のような作品は、私にしか書けません。
技量や文の癖の話ではありません。私よりも優れた作家であっても、真の意味で私のような作品は書くことが出来ない、と断言できます。もっと正確に言うなら、今の私にすら昔の私のような作品は書けないでしょう。
何故なら、小説にはそのときの作家の魂が宿るからです。
この場合の魂とは、思想や経験など、書いている瞬間の作家の人生全てのことだと思ってください。どんな人と出会ったか、何を話したか、それを経て何を得たか。そうして積み上げてきた価値観は、どんな作品であれ文面から滲み出てくるもの。少なくとも私はそう考えています。
あなたは、私ではありません。
もっと言うなら、あなたが穴が空くほど読み、心臓に……生きる糧にしてくださったという作品を書き上げた当時の私と、病室でこの手紙を書いている私とを比べても違うでしょう。今この場で過去の作品を書き直せば、きっと構成からまるっきり異なるものが出来上がるでしょう。
私は生きている限り成長したいと願うタイプの人間です。好きなように生きてきた人生に悔いはないけれど、もしもう一度自分として生まれ直したのなら、きっと全く違う人生を歩むでしょう。全く同じだなんてつまらないですから。
──それでもきっと、小説を書くことだけは辞められないのでしょう。
私はそういう作家で、そういう人間です。
あなたが愛してくれた作品は、過去の私でしかないのです。それを目指して小説を書いたとしても、結局抜け殻のようなものしか出来ないと思うのです。
あなたが、私ではないから。
たったそれだけの理由で作品が駄目になってしまうのは、とても、とても勿体ないことだと思うのです。
だから、私への崇拝はやめてください。
私のような作品ではなく、あなたらしい、あなたにしか書けない作品を書いてください。言葉の選び方や文体に私への敬意が滲んでいたとしても、あなたが本当に書きたいと思ったものならきっと良い物になりますから。私を本当に尊敬した上で作家を目指すと言うのなら、生身のあなた自身を作品にぶつけてください。あなたのそんな作品が読みたいです。
私はきっともうすぐ死ぬのでしょう。何となく分かるのです。もしかしたら、あなたの手元にこの手紙が届く頃には空へ昇ってしまっているかもしれません。この手で手紙を投函することも叶わないまま眠りにつき、今まで沢山お世話になった編集さんが代わりに出してくださるのかもしれません。私のファンだと言ってくれたあなたの等身大の話はきっと生きているうちに読めないだろうことが少し残念です。
でも、きっといつの日か。
私が生まれ変わるか、幽霊として現世を彷徨いてか、はたまたあの世で現世の本が流通するのか……その手段は分かりませんが、きっとあなたの話を読むことができると信じています。
私は神ではなく、一人の人間で、ただの作家です。
だから、もしまた言葉を交わせるのなら。次は神様と信者ではなく、同じ作家として語り合える日が来ることを願っています。
一気に最後まで目を通した。何度も何度も先生の手紙を読み返す。喉から絞り出すような嗚咽が漏れた。
先生は──作品を通してではなく、自身の言葉で届けようとしてくれた彼女はとても優しく、卑怯な人だ、と思い知った。
崇拝するな、と言われた理由を語られた今なら分かる。私はきっと、作品を通して勝手に築き上げた理想の先生に溺れていたのだろう。自分を救ってくれた優しい作品に埋め込まれた魂を継ぎ合わせ、埋まらない隙間やヒビは妄想でコーティングして神格化していた。純粋な気持ちだけで組み上げた脳内の『先生』像は酷く歪んでいて、本人から見れば全く別のものだったのだろう。崇拝するな、とはきっとそういうことだ。
ああ、なのに。それなのに先生、あなたは私の愛の歪さを指摘しても、それを捨てろとは言わないのですか。
自分が手の届かない場所に行ってしまうと分かった上で、それでも一人の人間として、作家として、この愛を作品という形で示し続けろと言うのですか。
ずるい人だ。私が想像していたよりもずっとワガママで、気ままで、温かい人だ。
私らしい作品を読みたい、なんて言われてしまったら。どこでかは分からないけどきっと読めると信じている、などと言われてしまったら、自分の言葉で生身の私を書き続けるしかないじゃないか。先生に授けられた心臓を、思想を、私なりの形で言葉に変えて筆を走らせ続けるしかないじゃないか。
楽しみにしているから、愛しているのなら自分らしい作品を書け、だなんて。そんな大胆な強請り方をするような人は、なるほど神らしくはないだろう。頂点でふんぞり返って玉座に座る神よりも、好奇心の赴くまま、気の向くままに人を振り回す悪魔の方が近いのかもしれない。
私の心臓は授けられたのではなく、悪魔との契約に奪われたのだ。盲目的に信ずるあまり、今になってそれに気が付いた間抜けな犠牲者。そんな私を悪魔がどこかから見て笑っているのかもしれない、と勝手な妄想をして、口元が弛んだ。
先生が亡くなってからずっと空いていた胸元の風穴がひりりと傷んだが、今は不思議と苦にはならなかった。
* * *
図書室の一角。ブラインド越しに陽の当たる席で、分厚い図鑑をめくっていた。構内の中でも比較的静かな図書室は、この大学で唯一好きな場所だった。本に囲まれ、琴線に触れた本を適当にめくる時間はとても穏やかで、心休まるものだ。
色とりどりの花の写真を眺めていると、右の視界の端で人が隣に座る様子が見えた。顔を上げると、少し気まずそうな様子の女性と目が合う。Uだった。
「この前はごめん。無神経だった」
真剣な面持ちで頭を下げるUを宥める。彼女が私を気遣ってくれていたのは分かっているからこそ、いたたまれない。それに、あのときは私も平静を失って先生への偏執的な愛をうっかり表に出してしまった気もする。思い返すと気恥ずかしいので、出来ればあまりこの話は蒸し返したくはなかった。
「いいよ、別に。気にしてないし。私こそごめん」
「そっか、良かった。ところで今は何してんの? 植物図鑑なんて引っ張り出して」
「ちょっとね。小説を書いてみようと思って」
素直に返すと、彼女の目が輝いた。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。食い気味にどんな話なのだと尋ねられ、ちらりと図鑑に視線を落とす。
華鬘草 。ハートから雫がこぼれているような形の花が鈴生りに連なって咲く植物で、海外では『血を流す心臓』や『涙を流す心臓』といった名前で呼ばれているらしい。今回書こうと考えている話のモチーフにぴったりなので取り上げようと目星を付けていたのだ。
花言葉は『あなたに従う』『従順』『恋心』。そして──
「そうだね。『失恋』の話、かな」
悪戯っぽく笑って答えた。
先生に捧げる私の初めての作品は、私そのものを題材にしたい。その意味で、神格化された先生に恋焦がれる心を供養する話は処女作に最適だった。
この話で先生への恋を諦めて、先生の隣に立てるように成長を重ねよう。一歩ずつ歩いていけば、きっと同じ場所に行けるはずだから。
先生、見ていますか。
先生、見ていてくださいね。
これがありのままの私の魂です。
了
そんな私にとって、先生の文章はまさに革命であった。どこか人を寄せ付けない雰囲気で、されど人付き合い自体を嫌悪している訳ではない主人公が日常のありふれた出来事で少しずつ成長していく、素っ気なくも暖かい文で綴られた物語。
何故そんなに面白くなさそうな面をしているのだ、と問われ、答えに窮する。自分はそれほどまでに無愛想な顔をしていたのだろうか。ただ普通に相槌を打っていただけでそう言われてしまうのであれば、それは生来の仏頂面のせいであろうに。
「何でもない」と笑顔を作る。また肺の奥底に黒い
個性に手をかけ、ごきり、とへし折った際の感触には、いつまで経っても慣れそうになかった。
(中略)
「息苦しいよな」と彼は言った。自分の感覚を否定せず、かと言って何か意見を押し付けることもない。それは静かな共感であった。たった一言同意されただけだというのに、その一言で息苦しさが軽くなる。何と現金なことだろうか。
そうだね、と返したときの自分は、恐らく近日中で最も自然な笑顔だったろう、とどこか他人事のように考えていた。
主人公は物静かな人柄として描かれており、人と関わることが得意でない私にとっては非常に共感できるものであった。華やかという訳ではない日々をそれなりに生き、時に後ろを振り返りながら歩む道程が、当時中学生であったであった少女にとって心の支えになっていたのだ。著名な作家という訳でなかった彼女の本を少ない小遣いで買い漁り、貪るように読んだ。本が恋人なのかと揶揄されたこともあったが、それすら気にならなかった。私にとって先生の文章は無くてはならない動力源であり、心臓を動かす力だったのだから。人生の全てを掛けて先生の文を追っていたいと願う程に崇拝していた。先生の脳髄から溢れる言葉に埋もれていられれば、他には何もいらないとすら思っていた。
そんなささやかな日常が崩れたのは一瞬のことであった。
彼女の訃報を目にしたのは、書店に並ぶ本の帯が最初であった。五十一歳という若さでこの世を去ったらしい。私を置いて逝った先生の死因を公開されず、読者の一人でしかなかった女子大生が葬式に招かれることも当然なかった。
心臓が、止まった。
先生を中心に回っていた歯車は動きを止め、胸元にぽかりと空いた穴からは常に何かが滴り落ちるようだった。それが血か、それとも涙か。それは己にも見当がつかない。世界は全てが灰色に染まり、どこか遠くへ行ってしまったようだった。あれほど何度も読み、一字一句書き出した先生の著作でさえ、視界が滲んでしまい字を追うことすらままならない。先生の書いた文章は、全て完璧に諳んじることが出来るほど読み込んでいたというのに。
「人の寿命ばっかりは仕方ない部分もあるんじゃないかな」
魂が抜けてしまった私を見かねたのか、友人Uは会うなりそう切り出した。私が先生を心から尊敬していることを知っている彼女は、まるで私の傷心を理解しているかのように話し続ける。
「あの先生ならきっと、天国でも書き続けてるよ。遺された側に出来るのは、しっかりお別れすることだと思う」
当たり障りのない綺麗な言葉。それは私の求めているものではなかった。こんなときにこそ欲しいのは、全てを分かってくださっている先生の優しい言葉なのに。先生が私を置いていってしまったら、そこには新たな感情を込められることはもう皆無なのだ。こうして先生の作品を真似て心を落ち着けようとしても、風穴からするりと漏れ出してしまう。
つい先日、想いの丈を綴った手紙をしたためたばかりなのだ。先生への溢れんばかりの敬愛を、先生のような立派な人になりたい、私も先生のような作品が書きたいという切なる想いを届けたばかりだというのに。
私がどんなに先生の文字を受け取っても、先生がこちらの存在を認識することはない。手も文字も届かない果てへ、一人で旅立ってしまわれたのだ。
ただ、好きです、と。
あなたの小説で救われましたと、一言伝えたいだけだったのに。
「先生がこの空の下で呼吸をしていないこと、あの厳しくも優しい文章が二度と生み出されないことが私にとっての悲劇なのだ。それを悲しむことの何が悪いと言うのだろう」
思いの一部を吐き出すと、Uは口を引き結んだ。眉間に皺を寄せ、困惑を隠し切れずにいる。
己を救ってくれた存在に心を砕くことが、手の届かぬ場所にすり抜けていってしまったと嘆くことがそれほど可笑しなことだろうか。
途方に暮れるUを置いて下宿へと歩を進める。大学の講義はまだ残っていたが、出席してもろくに海馬に届かないのは目に見えていた。今はただ、胸元に空いた穴から零れる生温い体液を塞き止めることに尽力したかった。
大学のキャンパスから歩いて十五分程度の場所に私の下宿先があった。小綺麗な校内とは異なり、建物の陰にひっそりと、肩身の狭そうに建つ、築二十年ほどの安下宿。かびでも生えそうな暗く狭い部屋は存外居心地の良いものだった。陽当たりが良く広大な大学の敷地は常に人が溢れていて、喧騒に頭を揺さぶられるのだ。明るい人の声に合わせて無理に笑顔を作ることもなく、好きな本に埋没して静かに過ごすことができる環境は貴重であった。
居城の扉を開けると、ポストに見慣れない封筒が差し込まれていた。素っ気ない茶封筒に癖のある字で私の宛名が書かれている。裏面に何気なく目を向け、時間が静止した。
先生の名が、そこにあった。
しばし動きを止め、我に返る。鍵を開けて扉を開き、靴を脱ぐ動作すらもどかしかった。鋏で丁寧に封を空け、中の便箋を取り出す。先生を亡くしてから止まったままだった心臓は再び活力を取り戻し、全身に熱い血を巡らせていた。震える手で便箋を開く。先生の名の後に綴られた文に目を通した。
ファンレターをくださりありがとうございます。
私の作品が誰かの心の支えとなれた事実がとても嬉しく、満たされたような思いです。沢山の愛を込めて手紙を書いてくださったことに感謝の言葉を贈りたくて、こうして手紙を書かせて頂きました。
私の書いた話、私と共に歩んでくれたキャラクターたちのことを心より愛してくださり、本当にありがとうございます。作者としてこれほど嬉しいことはありません。
冷え切った身体が温かくなっていくのを感じる。先生に私の言葉が届いていた。たったそれだけのことで、極楽へと至るようだった。
先生は私にとって神のようなお人。だからこそ、何気ない一言で天にも昇ってしまうのだ。
鼻水を啜る。涙を拭ってよく見ると、便箋に並ぶ文字の下に黒い線の羅列が透けて見えた。どうやら二枚目があったようだ。
一枚目と打って変わって、少し雑になった文字が並んでいる。
本当はこれは伝えるべきかどうか悩みましたが、私の作品を本気で好きでいてくれて尊敬してくれるあなたに、私からお願いがあります。
あなたを傷付けてしまうかもしれません。それでもどうしても伝えておきたかったのです。
二枚目の手紙はそんな大仰な書き出しで始まった。
先生の言うことであれば、私は何だって受け入れるというのに。こちらの心情まで気遣ってくださるなどと、何と優しい方なのだろうと感激していた私は、次の文で地の底に叩き落とされた。
もう、私を崇拝するのはやめてください。
雷に打たれた。足元の地面が崩れていき、一筋の光も差し込まない暗い谷底へと落とされる。神のように信じていた相手に、自らの手で心を折られるとは思わなかった。
脳内で限りなく疑問符が生み出される。大きく息をつき、もう一度手紙に目を落とした。
私の信ずる先生は、理由もなく人を傷つけるようなことは言わない。必ずなにかお考えがあるはずで、どのような形であっても救いをくださるお方なのだ。先生の善性を、著作でよく知っているからこそわかることだった。
あなたは「私のような作品が書きたい」と、「作家になりたい」と手紙に書いてくれました。それ自体は本当に喜ばしいと思います。
けれど、だからこそ。あなたに自分のファンとしてではなく、作家の卵として、後輩として手紙を書きたくなりました。
私のような作品は、私にしか書けません。
技量や文の癖の話ではありません。私よりも優れた作家であっても、真の意味で私のような作品は書くことが出来ない、と断言できます。もっと正確に言うなら、今の私にすら昔の私のような作品は書けないでしょう。
何故なら、小説にはそのときの作家の魂が宿るからです。
この場合の魂とは、思想や経験など、書いている瞬間の作家の人生全てのことだと思ってください。どんな人と出会ったか、何を話したか、それを経て何を得たか。そうして積み上げてきた価値観は、どんな作品であれ文面から滲み出てくるもの。少なくとも私はそう考えています。
あなたは、私ではありません。
もっと言うなら、あなたが穴が空くほど読み、心臓に……生きる糧にしてくださったという作品を書き上げた当時の私と、病室でこの手紙を書いている私とを比べても違うでしょう。今この場で過去の作品を書き直せば、きっと構成からまるっきり異なるものが出来上がるでしょう。
私は生きている限り成長したいと願うタイプの人間です。好きなように生きてきた人生に悔いはないけれど、もしもう一度自分として生まれ直したのなら、きっと全く違う人生を歩むでしょう。全く同じだなんてつまらないですから。
──それでもきっと、小説を書くことだけは辞められないのでしょう。
私はそういう作家で、そういう人間です。
あなたが愛してくれた作品は、過去の私でしかないのです。それを目指して小説を書いたとしても、結局抜け殻のようなものしか出来ないと思うのです。
あなたが、私ではないから。
たったそれだけの理由で作品が駄目になってしまうのは、とても、とても勿体ないことだと思うのです。
だから、私への崇拝はやめてください。
私のような作品ではなく、あなたらしい、あなたにしか書けない作品を書いてください。言葉の選び方や文体に私への敬意が滲んでいたとしても、あなたが本当に書きたいと思ったものならきっと良い物になりますから。私を本当に尊敬した上で作家を目指すと言うのなら、生身のあなた自身を作品にぶつけてください。あなたのそんな作品が読みたいです。
私はきっともうすぐ死ぬのでしょう。何となく分かるのです。もしかしたら、あなたの手元にこの手紙が届く頃には空へ昇ってしまっているかもしれません。この手で手紙を投函することも叶わないまま眠りにつき、今まで沢山お世話になった編集さんが代わりに出してくださるのかもしれません。私のファンだと言ってくれたあなたの等身大の話はきっと生きているうちに読めないだろうことが少し残念です。
でも、きっといつの日か。
私が生まれ変わるか、幽霊として現世を彷徨いてか、はたまたあの世で現世の本が流通するのか……その手段は分かりませんが、きっとあなたの話を読むことができると信じています。
私は神ではなく、一人の人間で、ただの作家です。
だから、もしまた言葉を交わせるのなら。次は神様と信者ではなく、同じ作家として語り合える日が来ることを願っています。
一気に最後まで目を通した。何度も何度も先生の手紙を読み返す。喉から絞り出すような嗚咽が漏れた。
先生は──作品を通してではなく、自身の言葉で届けようとしてくれた彼女はとても優しく、卑怯な人だ、と思い知った。
崇拝するな、と言われた理由を語られた今なら分かる。私はきっと、作品を通して勝手に築き上げた理想の先生に溺れていたのだろう。自分を救ってくれた優しい作品に埋め込まれた魂を継ぎ合わせ、埋まらない隙間やヒビは妄想でコーティングして神格化していた。純粋な気持ちだけで組み上げた脳内の『先生』像は酷く歪んでいて、本人から見れば全く別のものだったのだろう。崇拝するな、とはきっとそういうことだ。
ああ、なのに。それなのに先生、あなたは私の愛の歪さを指摘しても、それを捨てろとは言わないのですか。
自分が手の届かない場所に行ってしまうと分かった上で、それでも一人の人間として、作家として、この愛を作品という形で示し続けろと言うのですか。
ずるい人だ。私が想像していたよりもずっとワガママで、気ままで、温かい人だ。
私らしい作品を読みたい、なんて言われてしまったら。どこでかは分からないけどきっと読めると信じている、などと言われてしまったら、自分の言葉で生身の私を書き続けるしかないじゃないか。先生に授けられた心臓を、思想を、私なりの形で言葉に変えて筆を走らせ続けるしかないじゃないか。
楽しみにしているから、愛しているのなら自分らしい作品を書け、だなんて。そんな大胆な強請り方をするような人は、なるほど神らしくはないだろう。頂点でふんぞり返って玉座に座る神よりも、好奇心の赴くまま、気の向くままに人を振り回す悪魔の方が近いのかもしれない。
私の心臓は授けられたのではなく、悪魔との契約に奪われたのだ。盲目的に信ずるあまり、今になってそれに気が付いた間抜けな犠牲者。そんな私を悪魔がどこかから見て笑っているのかもしれない、と勝手な妄想をして、口元が弛んだ。
先生が亡くなってからずっと空いていた胸元の風穴がひりりと傷んだが、今は不思議と苦にはならなかった。
* * *
図書室の一角。ブラインド越しに陽の当たる席で、分厚い図鑑をめくっていた。構内の中でも比較的静かな図書室は、この大学で唯一好きな場所だった。本に囲まれ、琴線に触れた本を適当にめくる時間はとても穏やかで、心休まるものだ。
色とりどりの花の写真を眺めていると、右の視界の端で人が隣に座る様子が見えた。顔を上げると、少し気まずそうな様子の女性と目が合う。Uだった。
「この前はごめん。無神経だった」
真剣な面持ちで頭を下げるUを宥める。彼女が私を気遣ってくれていたのは分かっているからこそ、いたたまれない。それに、あのときは私も平静を失って先生への偏執的な愛をうっかり表に出してしまった気もする。思い返すと気恥ずかしいので、出来ればあまりこの話は蒸し返したくはなかった。
「いいよ、別に。気にしてないし。私こそごめん」
「そっか、良かった。ところで今は何してんの? 植物図鑑なんて引っ張り出して」
「ちょっとね。小説を書いてみようと思って」
素直に返すと、彼女の目が輝いた。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。食い気味にどんな話なのだと尋ねられ、ちらりと図鑑に視線を落とす。
花言葉は『あなたに従う』『従順』『恋心』。そして──
「そうだね。『失恋』の話、かな」
悪戯っぽく笑って答えた。
先生に捧げる私の初めての作品は、私そのものを題材にしたい。その意味で、神格化された先生に恋焦がれる心を供養する話は処女作に最適だった。
この話で先生への恋を諦めて、先生の隣に立てるように成長を重ねよう。一歩ずつ歩いていけば、きっと同じ場所に行けるはずだから。
先生、見ていますか。
先生、見ていてくださいね。
これがありのままの私の魂です。
了
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