フィラル王国シリーズ
僕は、フィラル王国第四代国王、マルト・フィラルを赦さない。
世界で唯一の魔法使いの癖に、病弱で魔法をほとんど使えない。そのせいで魔法を敵視している連中に命を狙われて、大切な国民を危険に晒してしまった。
弱虫で臆病者で、それに内気だし、優柔不断で、良いところなんてほとんどない。魔法の代わりに持っている人の善悪を見極める力は、相手と向き合ってないと使えないし。未来予知の力もある程度持ってるけど、それだって何となくしか分からないんだ。
ただ、命を狙われながら国民を見守ることしかできない、無力な王。こんな僕のために足を失ってしまったランダに申し訳ないよ……親友であり、僕の執事である彼に護られる価値なんて、僕には無かったのに。
いつか僕にできることがあるとするなら、それは命を引き換えに魔法で国の危機を救うことだけなんだろうな。
ああ、でも、それを選んだとしても。結局僕は、可愛い娘を置いていくことしかできない。
やっぱり僕は、自分のことが大嫌いだ。
*
私は、私自身のことが、ランダ・トルクが赦せない。
ただでさえ自分に自信がないマルトには、私がついていなければならなかったのに。私がトルク家の執事としての誇りを持って、あいつの親友として、背中を押してやらなきゃならなかったのに。
暗殺者に殺されかけたあいつを庇おうと必死になって、私は……落とされたシャンデリアの下敷きになった。
こんなに呆気なく、歩けなくなるなんて。もう二度と、あいつの隣に立って、親友として、執事として存在を認めてやれなくなるなんて。あいつが背負っている罪悪感を、さらに増やしてしまうなんて。
悔しくて、情けなくて……狂ってしまいそうだった。
いや、あのとき既に狂っていたのかもしれないな。そうでなければ……自分の息子に、ディーノにあんなきつい当たり方なんてしなかった。
ディーノ、すまなかった。完璧な執事になれだなんて、まだ八歳だったお前には酷だと分かっていたのに。マルトを護らねば、私の代わりの執事を育てなければと、そればかりを優先してしまった。そのために殴ったり、酷く怒鳴ったりしてしまった。
次男のロディの言う通り、私は間違っていた。あんなことはすぐにやめるべきだった。
だが、ディーノはやめようとしなかったな。あの子が私を見る目は、いつも悲しそうだった。私の気持ちを汲んで、色々なものを捨てながら、完璧な執事になった。それを分からないほど、私は外道に成り下がったわけじゃない。
謝って赦してもらえるとは思っていない。せめて、本気で糾弾して欲しかった。完璧でなかったからと理想を押し付けた愚かな父を、憎んでほしかった。
だが結局、ディーノもロディも、妻のナージも……そして我が親友であり主のマルトも、とうとう一度も私を責めなかったな。
私は、執事としても、父親としても失格だったというのに――。
*
裏切り者という称号は、きっとワタシのためにあるのだろう。
マルトとランダは幼い頃、移民の私に手を差しのべてくれた。言葉がおかしいと遠巻きにされていたワタシに、ただの移民に、由緒正しき王族とその執事が「友達になろうよ!」と声をかけてくれた。
でも、移民ではぐれ者だったワタシがそれに素直に応じるには、あまりに虐げられすぎていたんだ。
夢にまで見た救いの手を振りほどいた。自分を騙そうとしているのだろうと決めつけて突き放した。同情なんかいらないと怒鳴り付けた。
それでもあの二人は諦めなかった。移民を手厚く受け入れるように国を変えていった。王族であるマルト自らワタシに近付いて、移民は危険だという空気を取り払っていった。ワタシを取り巻く環境はどんどん良くなって、虐められなくなった。
どうしてそこまでするんだい、ヨソモノのボクなんかに。
幼い私がそう尋ねたとき、マルトとランダは顔を見合わせて「だって、もうフィラル王国の国民だから」「友達だから」と笑ってくれた。
初めてだった。バローデ・ウィンゴという名前を蔑視しないのは。こんなに暖かい笑顔で迎えられたのは。
嬉しくて、同時に……怖くなった。この温もりに慣れてしまえば、もう二度と離れられなくなる。凍えるような孤独に、自分の意思と関係なく突き落とされたら。そう思うと、怖くて仕方なかった。
だからワタシは、また、彼らを裏切った。
裏切られるのが怖いなら、期待などしなければいい。ワタシはお人好しな彼らを散々嘲笑い、近寄らせなかった。彼らに心から感謝しながら、正反対な言動を取り続けた。素直になる方法なんて知らなかった。
この国は他の国にやっかまれているから、貿易はしづらいだろう。つまりワタシが貿易業を斡旋してしまえば、一気に大金持ちになれるというわけだ!
そんな口実で貿易商になった。本当はワタシを見捨てなかった彼らに恩を返したかったからなんだが、それは一切口に出さなかった。今思えば、ワタシは彼らの優しさに甘えてばかりだった。
それが、裏目に出た。
ワタシが事情を聞いて国外から駆けつけたときには、既にランダは……歩けない身になっていた。
何を言えばいいのか分からずに部屋の入り口で棒立ちしていたワタシに、彼は口を開いた。
「何しに来た? ――などと、聞くまでもないな。いつものように笑いに来たんだろう、私の失態を」
荒んだ目で自嘲するランダを見て、喉まで出かかっていたはずの言葉が引っ込んだ。
そうだ……そう思われて当然だったんだ。国王が襲われるなんて非常時に、ワタシは呑気に輸入品の価格交渉をしていた。
今まで散々酷い態度を取っていたのだから、いつかはそんな風に言われることを分かっていたはずなのに。
「バローデ。悪いが、出ていってくれ。今おちょくられたら……殴ってしまいそうだ」
頭を抱えてうつむくランダに――何も言えずに、出ていった。
ワタシは裏切り者だ。肝心なときに友に一言もかけられないなんて、それで恩返ししていたつもりだったなんて。ワタシは何て愚か者なんだ。
恩返しではなく、罪滅ぼしがしたいと思った。けれど、今更天の邪鬼で皮肉屋な性格は治らない。ワタシがしたいのは罪滅ぼしだから、皆に理解されようとも思わない。
どうするべきか考えて――国のために、忌み嫌われる役を演じようと心に決めた。
* * *
穏やかに眠り続けている夫の髪をすく。硬めのそれがわたしの手をすり抜けていくのを見て、目を細めた。
夫のランダ・トルクが眠り病に冒されて数年――色々なことがあったわね。先代の国王陛下が命を落とされたときはどうなることかと思ったけれど、女王陛下が頑張ってくださっているお陰で国も安定しているわ。流石はマルト様のお嬢様だわ。
……ねぇ、あなた。あなたもマルト様も、それから貿易商になったバローデも。何故か皆、わたしに心の内を明かしてくれたわ。わたしは誰の敵にも味方にもならなかっただけなのに、どうしてかしら?
控えめなノックが静かな室内を満たした。お客様にどうぞと促したら、女王陛下――ミルカ・フィラル様とその執事二人がゆっくりと入ってきたわ。
「あら、珍しい。どうなさったのですか、女王陛下?」
息子二人が少し気まずそうに目を泳がせていたから、代わりに幼い女王陛下に声をかける。
ミルカ様は、父親譲りの絹のようなさらさらの金髪を揺らして「急におじゃましちゃってごめんなさい、ナージさん」と頭を下げたわ。普段から見慣れた綺麗な空色の瞳が、今日は少しだけ沈んで見えた。
「ディーノやロディとね、お話してたの。もしあたしのことをパパが見ててくれたなら、お話ができたなら、パパは何て言ってくれるかなぁって」
はっと息を飲む。
ミルカ様には――もう、父親はいない。十三歳の彼女がいくら国のために働こうと、それを誉めてくれる家族はいない……。
「怒られたんだ、ミルカちゃんに。俺達はまだ目の前に親父がいるのに、どうしてちゃんと言いたいことを言わないんだって。手の届かないところに行った後じゃ遅いのにってさ」
苦笑いしながら、次男のロディは呟いた。
なるほど、通りで変な空気だと思ったわ。ディーノは父親に過激なくらい厳しい執事育成教育をされて、ロディはそれに反発していた。父が眠っているとはいえ、思ったことを伝えるのは難しいものね。
しばらく目配せしあって……最初に長男のディーノが、ランダの眠るベッドに跪いた。深い青色の瞳で、まっすぐに相手を見つめる。
「父上、申し訳ありませんでした。貴方が何故完璧であるかにこだわっていたか理解していたにも関わらず、私は完璧にはなれませんでした」
ですが、完璧ではないなりに国主に仕え、お守りしようと思います。もし赦してくださるのなら、どうか、見守っていてください。
非の打ち所のない動作で、父親に祈りを捧げる。そんな兄の隣に弟が駆け寄って、布団の上から覆い被さるように両手をついた。
「親父、ごめん。本当にごめん! 俺、親父のやり方に反対するばっかりで……親父がどんな気持ちでいたのかなんて、考えもしなかった。つい最近親父のことを知って、すごく後悔したんだ」
本当に、ごめん。
兄弟揃って懺悔しているのを見て、わたしは思わず吹き出してしまったわ。怪訝な顔でこっちを振り替える三人が視界に入る。
ごめんなさい、だってあまりにもおかしかったんですもの――皆、同じことを言うなんて。
自分が悪いと思っていたのは、誰か一人だけじゃなかった。皆がみんな自分のことを責めていたの。わたしの周りの殿方って、どうしてこんなに自分に厳しくて、それでいて優しいのかしら。
「それはきっと、みんながみんなのことを大事に思ってるからじゃないかな」
わたしの口から溢れた疑問に、ミルカ様が微笑まれた。どこまでも透き通った青空のような瞳で、にっこりと笑顔を浮かべながら。
「みんながみんなのことを大好きだって思ってるから、何かがあると『みんなは大丈夫かな』って心配になるの。みんなやさしいから、何かつらいことが起こると『自分のせいじゃないかな』って思っちゃうの」
でも、それってきっと、だれのせいでもないんだわ。
だれのせいでもなくて、だれも悪くない。だからそんなに自分を悪く言わなくていいのよ。いくら自分のことを絶対にゆるさないと思ってたとしても、そう感じてるのが自分だけならしんどいだけじゃない。
本当に悪いことをしたなら、それはつぐなわなきゃならないわ。でも、そうじゃないのなら――前を向くことが一番のかいけつ方法なのよ、きっとね!
ひまわりのような笑顔で、自信を持って断言する女王陛下を見て……わたし達皆、つられて笑顔になったわ。
「ええ、そうですね。流石はミルカ様ですわ」
「本当に、ミルカちゃんには敵わないな!」
「えへへ。ありがとう!」
わたしとロディに誉められて真っ赤になっている女王陛下。そんな様子を遠巻きに見守っていたディーノの表情は、わたしと目があった途端キリッと引き締まったわ。羞恥でほんのり頬を染めながら、咳払いをする。
「失礼ながら女王陛下、そろそろ街の見回りの時間です。お急ぎください」
「えっ、ほんと? 大変、急がなきゃ!」
ナージさん、おじゃましました! と一言投げ掛けて、嵐のように去っていく女王陛下と付き人達。彼らを見送って、ふ、と頬を緩めたわ。
「ディーノは本当に素直じゃないわね。どこかの誰かさんみたいじゃありませんか、バローデ?」
柱の陰に隠れている人影に向かって声を投げかける。暫しの間をおいて、髪の長い怪人が躍り出た。その顔には、鳥を模した白い仮面がついている。
「失礼ながらレディ、人違いではありませんかな? ワタシの名は情報屋バーデン。紳士然とした振る舞いとほんの少しのお茶目さを兼ね備えた、ただの情報通なオジサンですよ」
「あら、ごめんなさい。天の邪鬼で素直じゃないわたしの親友にそっくりだったから、つい間違えちゃったのね」
大袈裟な立ち居振舞いをする情報屋さんに鎌をかけても、上手く聞き流される。仮面をつけただけで別人だと誤魔化せるなんて、本気で思っているのかしら?
「どうかしら、情報屋さん。あなたも何かうちの眠り執事さんに言っていきますか?」
「いや、遠慮しておこう。ワタシは女王陛下に情報を伝えに来たのでね」
邪魔してしまったようだから、ここで失礼するか。いつかまたお会いしよう、白銀のレディ!
鳥の怪人のような彼がマントを翻して立ち去る。
別人のふりをしてまで自分から目を逸らすなんて、どこまでも弱虫な男ね。
「自分を憎んで絶対に許さずにいるなんて、損な生き方だこと」
太陽のように周囲を照らしながら歩き続けるミルカ様と、自らを責め苛みながら闇の中に生きる情報屋さん。同じ方向に進んでいった二人の行く先を眺めて、わたしは目を細めた。
了
世界で唯一の魔法使いの癖に、病弱で魔法をほとんど使えない。そのせいで魔法を敵視している連中に命を狙われて、大切な国民を危険に晒してしまった。
弱虫で臆病者で、それに内気だし、優柔不断で、良いところなんてほとんどない。魔法の代わりに持っている人の善悪を見極める力は、相手と向き合ってないと使えないし。未来予知の力もある程度持ってるけど、それだって何となくしか分からないんだ。
ただ、命を狙われながら国民を見守ることしかできない、無力な王。こんな僕のために足を失ってしまったランダに申し訳ないよ……親友であり、僕の執事である彼に護られる価値なんて、僕には無かったのに。
いつか僕にできることがあるとするなら、それは命を引き換えに魔法で国の危機を救うことだけなんだろうな。
ああ、でも、それを選んだとしても。結局僕は、可愛い娘を置いていくことしかできない。
やっぱり僕は、自分のことが大嫌いだ。
*
私は、私自身のことが、ランダ・トルクが赦せない。
ただでさえ自分に自信がないマルトには、私がついていなければならなかったのに。私がトルク家の執事としての誇りを持って、あいつの親友として、背中を押してやらなきゃならなかったのに。
暗殺者に殺されかけたあいつを庇おうと必死になって、私は……落とされたシャンデリアの下敷きになった。
こんなに呆気なく、歩けなくなるなんて。もう二度と、あいつの隣に立って、親友として、執事として存在を認めてやれなくなるなんて。あいつが背負っている罪悪感を、さらに増やしてしまうなんて。
悔しくて、情けなくて……狂ってしまいそうだった。
いや、あのとき既に狂っていたのかもしれないな。そうでなければ……自分の息子に、ディーノにあんなきつい当たり方なんてしなかった。
ディーノ、すまなかった。完璧な執事になれだなんて、まだ八歳だったお前には酷だと分かっていたのに。マルトを護らねば、私の代わりの執事を育てなければと、そればかりを優先してしまった。そのために殴ったり、酷く怒鳴ったりしてしまった。
次男のロディの言う通り、私は間違っていた。あんなことはすぐにやめるべきだった。
だが、ディーノはやめようとしなかったな。あの子が私を見る目は、いつも悲しそうだった。私の気持ちを汲んで、色々なものを捨てながら、完璧な執事になった。それを分からないほど、私は外道に成り下がったわけじゃない。
謝って赦してもらえるとは思っていない。せめて、本気で糾弾して欲しかった。完璧でなかったからと理想を押し付けた愚かな父を、憎んでほしかった。
だが結局、ディーノもロディも、妻のナージも……そして我が親友であり主のマルトも、とうとう一度も私を責めなかったな。
私は、執事としても、父親としても失格だったというのに――。
*
裏切り者という称号は、きっとワタシのためにあるのだろう。
マルトとランダは幼い頃、移民の私に手を差しのべてくれた。言葉がおかしいと遠巻きにされていたワタシに、ただの移民に、由緒正しき王族とその執事が「友達になろうよ!」と声をかけてくれた。
でも、移民ではぐれ者だったワタシがそれに素直に応じるには、あまりに虐げられすぎていたんだ。
夢にまで見た救いの手を振りほどいた。自分を騙そうとしているのだろうと決めつけて突き放した。同情なんかいらないと怒鳴り付けた。
それでもあの二人は諦めなかった。移民を手厚く受け入れるように国を変えていった。王族であるマルト自らワタシに近付いて、移民は危険だという空気を取り払っていった。ワタシを取り巻く環境はどんどん良くなって、虐められなくなった。
どうしてそこまでするんだい、ヨソモノのボクなんかに。
幼い私がそう尋ねたとき、マルトとランダは顔を見合わせて「だって、もうフィラル王国の国民だから」「友達だから」と笑ってくれた。
初めてだった。バローデ・ウィンゴという名前を蔑視しないのは。こんなに暖かい笑顔で迎えられたのは。
嬉しくて、同時に……怖くなった。この温もりに慣れてしまえば、もう二度と離れられなくなる。凍えるような孤独に、自分の意思と関係なく突き落とされたら。そう思うと、怖くて仕方なかった。
だからワタシは、また、彼らを裏切った。
裏切られるのが怖いなら、期待などしなければいい。ワタシはお人好しな彼らを散々嘲笑い、近寄らせなかった。彼らに心から感謝しながら、正反対な言動を取り続けた。素直になる方法なんて知らなかった。
この国は他の国にやっかまれているから、貿易はしづらいだろう。つまりワタシが貿易業を斡旋してしまえば、一気に大金持ちになれるというわけだ!
そんな口実で貿易商になった。本当はワタシを見捨てなかった彼らに恩を返したかったからなんだが、それは一切口に出さなかった。今思えば、ワタシは彼らの優しさに甘えてばかりだった。
それが、裏目に出た。
ワタシが事情を聞いて国外から駆けつけたときには、既にランダは……歩けない身になっていた。
何を言えばいいのか分からずに部屋の入り口で棒立ちしていたワタシに、彼は口を開いた。
「何しに来た? ――などと、聞くまでもないな。いつものように笑いに来たんだろう、私の失態を」
荒んだ目で自嘲するランダを見て、喉まで出かかっていたはずの言葉が引っ込んだ。
そうだ……そう思われて当然だったんだ。国王が襲われるなんて非常時に、ワタシは呑気に輸入品の価格交渉をしていた。
今まで散々酷い態度を取っていたのだから、いつかはそんな風に言われることを分かっていたはずなのに。
「バローデ。悪いが、出ていってくれ。今おちょくられたら……殴ってしまいそうだ」
頭を抱えてうつむくランダに――何も言えずに、出ていった。
ワタシは裏切り者だ。肝心なときに友に一言もかけられないなんて、それで恩返ししていたつもりだったなんて。ワタシは何て愚か者なんだ。
恩返しではなく、罪滅ぼしがしたいと思った。けれど、今更天の邪鬼で皮肉屋な性格は治らない。ワタシがしたいのは罪滅ぼしだから、皆に理解されようとも思わない。
どうするべきか考えて――国のために、忌み嫌われる役を演じようと心に決めた。
* * *
穏やかに眠り続けている夫の髪をすく。硬めのそれがわたしの手をすり抜けていくのを見て、目を細めた。
夫のランダ・トルクが眠り病に冒されて数年――色々なことがあったわね。先代の国王陛下が命を落とされたときはどうなることかと思ったけれど、女王陛下が頑張ってくださっているお陰で国も安定しているわ。流石はマルト様のお嬢様だわ。
……ねぇ、あなた。あなたもマルト様も、それから貿易商になったバローデも。何故か皆、わたしに心の内を明かしてくれたわ。わたしは誰の敵にも味方にもならなかっただけなのに、どうしてかしら?
控えめなノックが静かな室内を満たした。お客様にどうぞと促したら、女王陛下――ミルカ・フィラル様とその執事二人がゆっくりと入ってきたわ。
「あら、珍しい。どうなさったのですか、女王陛下?」
息子二人が少し気まずそうに目を泳がせていたから、代わりに幼い女王陛下に声をかける。
ミルカ様は、父親譲りの絹のようなさらさらの金髪を揺らして「急におじゃましちゃってごめんなさい、ナージさん」と頭を下げたわ。普段から見慣れた綺麗な空色の瞳が、今日は少しだけ沈んで見えた。
「ディーノやロディとね、お話してたの。もしあたしのことをパパが見ててくれたなら、お話ができたなら、パパは何て言ってくれるかなぁって」
はっと息を飲む。
ミルカ様には――もう、父親はいない。十三歳の彼女がいくら国のために働こうと、それを誉めてくれる家族はいない……。
「怒られたんだ、ミルカちゃんに。俺達はまだ目の前に親父がいるのに、どうしてちゃんと言いたいことを言わないんだって。手の届かないところに行った後じゃ遅いのにってさ」
苦笑いしながら、次男のロディは呟いた。
なるほど、通りで変な空気だと思ったわ。ディーノは父親に過激なくらい厳しい執事育成教育をされて、ロディはそれに反発していた。父が眠っているとはいえ、思ったことを伝えるのは難しいものね。
しばらく目配せしあって……最初に長男のディーノが、ランダの眠るベッドに跪いた。深い青色の瞳で、まっすぐに相手を見つめる。
「父上、申し訳ありませんでした。貴方が何故完璧であるかにこだわっていたか理解していたにも関わらず、私は完璧にはなれませんでした」
ですが、完璧ではないなりに国主に仕え、お守りしようと思います。もし赦してくださるのなら、どうか、見守っていてください。
非の打ち所のない動作で、父親に祈りを捧げる。そんな兄の隣に弟が駆け寄って、布団の上から覆い被さるように両手をついた。
「親父、ごめん。本当にごめん! 俺、親父のやり方に反対するばっかりで……親父がどんな気持ちでいたのかなんて、考えもしなかった。つい最近親父のことを知って、すごく後悔したんだ」
本当に、ごめん。
兄弟揃って懺悔しているのを見て、わたしは思わず吹き出してしまったわ。怪訝な顔でこっちを振り替える三人が視界に入る。
ごめんなさい、だってあまりにもおかしかったんですもの――皆、同じことを言うなんて。
自分が悪いと思っていたのは、誰か一人だけじゃなかった。皆がみんな自分のことを責めていたの。わたしの周りの殿方って、どうしてこんなに自分に厳しくて、それでいて優しいのかしら。
「それはきっと、みんながみんなのことを大事に思ってるからじゃないかな」
わたしの口から溢れた疑問に、ミルカ様が微笑まれた。どこまでも透き通った青空のような瞳で、にっこりと笑顔を浮かべながら。
「みんながみんなのことを大好きだって思ってるから、何かがあると『みんなは大丈夫かな』って心配になるの。みんなやさしいから、何かつらいことが起こると『自分のせいじゃないかな』って思っちゃうの」
でも、それってきっと、だれのせいでもないんだわ。
だれのせいでもなくて、だれも悪くない。だからそんなに自分を悪く言わなくていいのよ。いくら自分のことを絶対にゆるさないと思ってたとしても、そう感じてるのが自分だけならしんどいだけじゃない。
本当に悪いことをしたなら、それはつぐなわなきゃならないわ。でも、そうじゃないのなら――前を向くことが一番のかいけつ方法なのよ、きっとね!
ひまわりのような笑顔で、自信を持って断言する女王陛下を見て……わたし達皆、つられて笑顔になったわ。
「ええ、そうですね。流石はミルカ様ですわ」
「本当に、ミルカちゃんには敵わないな!」
「えへへ。ありがとう!」
わたしとロディに誉められて真っ赤になっている女王陛下。そんな様子を遠巻きに見守っていたディーノの表情は、わたしと目があった途端キリッと引き締まったわ。羞恥でほんのり頬を染めながら、咳払いをする。
「失礼ながら女王陛下、そろそろ街の見回りの時間です。お急ぎください」
「えっ、ほんと? 大変、急がなきゃ!」
ナージさん、おじゃましました! と一言投げ掛けて、嵐のように去っていく女王陛下と付き人達。彼らを見送って、ふ、と頬を緩めたわ。
「ディーノは本当に素直じゃないわね。どこかの誰かさんみたいじゃありませんか、バローデ?」
柱の陰に隠れている人影に向かって声を投げかける。暫しの間をおいて、髪の長い怪人が躍り出た。その顔には、鳥を模した白い仮面がついている。
「失礼ながらレディ、人違いではありませんかな? ワタシの名は情報屋バーデン。紳士然とした振る舞いとほんの少しのお茶目さを兼ね備えた、ただの情報通なオジサンですよ」
「あら、ごめんなさい。天の邪鬼で素直じゃないわたしの親友にそっくりだったから、つい間違えちゃったのね」
大袈裟な立ち居振舞いをする情報屋さんに鎌をかけても、上手く聞き流される。仮面をつけただけで別人だと誤魔化せるなんて、本気で思っているのかしら?
「どうかしら、情報屋さん。あなたも何かうちの眠り執事さんに言っていきますか?」
「いや、遠慮しておこう。ワタシは女王陛下に情報を伝えに来たのでね」
邪魔してしまったようだから、ここで失礼するか。いつかまたお会いしよう、白銀のレディ!
鳥の怪人のような彼がマントを翻して立ち去る。
別人のふりをしてまで自分から目を逸らすなんて、どこまでも弱虫な男ね。
「自分を憎んで絶対に許さずにいるなんて、損な生き方だこと」
太陽のように周囲を照らしながら歩き続けるミルカ様と、自らを責め苛みながら闇の中に生きる情報屋さん。同じ方向に進んでいった二人の行く先を眺めて、わたしは目を細めた。
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