フィラル王国シリーズ

 とある大陸の隅に位置する小さな国、フィラル王国。自然豊かで平和なこの国の王宮で、一人の少女が書斎に籠っていた。くりくりとした碧眼で本を見つめ、頭を傾ける度にさらさらと短めの金髪が流れる。オレンジ色のドレスを着て頭に大きな王冠を被った彼女はおもむろに口を開いた。
「えっと、この読み方は……ケンクンチューシン? で、意味が――かしこい王様とチューギにあふれた家来のこと、だって」
 透き通った高い声が書斎に響く。少女は本を読み上げて難しい顔をした。側で書架の整理をしていた男性が、少女の方へと振り向いて顔をしかめる。腕に抱えていた本を机に置き、男性は少女に歩み寄った。少女も男性を見上げる。彼女の指は、本に並んだ文字列を指していた。
「ねぇディーノ、チューギって何か分かる?」
 少女に問われ、ディーノと呼ばれた男性は少女の手から本を取り上げた。少女の手は本を追いかけるが、鋭く睨みを利かせたことでそれを制す。本を閉じながら、ディーノはため息を漏らす。彼は額に手を当て、首を振って再度彼女を睨め付けた。
「忠義とは、主に真心を尽くして仕えることですが……今は政治の本を読む時間でしょう。何をなさっているのですか、女王陛下」
 地を這うような声でディーノにたしなめられ、少女はひゃっと肩をすくめた。しどろもどろになって視線をさ迷わせる。
 ミルカ・フィラル、十二歳。フィラル王国の第五代国王だ。数ヶ月前に先代の王が亡くなり、他に身内が居なかった為にまだ幼いミルカに王位が与えられたのである。当然政治など分かるはずもなく、現在は王家に仕える執事のディーノに任せきり。彼は政務を片付ける傍らでミルカの教育係も勤めているのだ。
「それね、パパがよく読んでた本なの。だから、何か大事なことが書いてあるかと思って……」
「確かに先代はこの本を好んでおられましたが、これは単なる娯楽小説です。読んでも国政には生かされません。その間に我が国の法を覚えているほうがまだ生かしようがありますよ」
 どもりながらの弁解も空しく、彼に叩き落とされた。身も蓋もない非難に、ミルカは俯く。机の上に並べられた政治や法律の本。ミルカは本から目を逸らして首を振った。その大きな目には、うっすらと涙が溜まっている。
「だって……分かんないよ、こんなの……」
「分からないから逃げるのですか? それは賢い選択とは言えません。この国を統べる者として、そろそろ自覚をお持ちください」
 どこまでも正論を突きつけてくるディーノに、ミルカはついに諦めた。涙を拭い、政治の本をめくり始める。分からない単語は執事に尋ねてノートに書き込んでいく。しばらくその作業を続けていた幼き女王は、ふと執事を見上げた。艶やかな黒髪、右目の片眼鏡。目付きは悪く、眉間には常に皺が寄っている。今年で二十八歳の彼は、黒の燕尾服に身を包み、手慣れた様子で書架に本を入れ続けていた。
「ディーノ。あたしたちもそうかな? ケンクンチューシン……あたしとディーノ、二人いっしょなら何だってできるよね?」
 ぴたりと手を止める執事。鋭い目付きで女王を見下ろす。少女の顔が真剣なのを確認すると、彼はふっ、と鼻で笑った。
「……下らない」
 女王の顔が強ばる。だが執事は構わずに本を小脇に抱えてミルカに向き直った。細い目をさらに細め、ディーノは再び口を開く。
「女王様が、賢君? 勘違いも甚だしいですね。政治もろくに出来ない君主は賢君とは呼べません。側仕えの者に頼りきりの状態で賢君と自称するとは……自惚れるにしても、もう少し身の程をわきまえなさい」
 少女の目に、また涙が溜まっていく。ディーノは片膝を立てて屈み少女の目線に合わせた。片眼鏡の奥からも、彼の深い青色の瞳が彼女を縛り付ける。ミルカはドレスをきつく握り締めた。皺がついたドレスにはたはたと水滴が落ちる。執事は次の科白を言おうとして、何かに気付いた。彼女の手元に目をやり、大きく見開く。ミルカの手に光が集まり、収束する。そこには、銀色の杖が握られていた。
「Mtonme Mtonveem!」
 普通の人間には発音できない言語が少女の口から漏れる。執事をきっと睨み付け、少女は床を杖でかつんと突いた。突如床に光で魔方陣が描かれる。ディーノが手を伸ばして女王を捕まえようとしたが、その手は空をかいた。やがて彼女の体が光に包まれ、魔方陣と共に消えた。後に残された執事は、唇を噛んで机を拳で叩いた。


 王宮の外れにある離れ。その一室で、一人の男が沢山の小瓶の前で腕を組んでいる。少々癖のある黒髪を指で弄りながら、小瓶を一つずつ手に取っていく。鋭い吊り目と、明るい緑色の瞳。ずっと小瓶を眺めていた彼は、何か予感めいたものを感じて天井付近に目をやった。光の紋章が天井に浮かび上がる。慌てて立ち上がる男。足が机にぶつかり、小瓶の山が倒れた。硝子製の容器がぶつかり、床に転がり落ち、粉々に砕け散る。部屋に甘い香りが立ち込める中、彼女は男の腕の中に舞い降りた。所謂お姫様抱っこをして、彼は少女の顔を覗き込む。彼女……ミルカは、泣きそうな顔で男の首に腕を回した。彼も微笑み、女王の体をしっかりと包み込んだ。
「何かお困りかい? ミルカちゃん」
 鼓膜を優しく震わすテノール。ミルカは微かにしゃくりあげ、答えようとしない。男は暫し迷い、彼女を抱えたまま戸棚の引き出しを開けた。ポプリの入った小さな布の袋を取り出し、少女に手渡した。様子が落ち着いたタイミングを見計らって、少女を椅子に座らせる。男は彼女よりも目線が下になるように屈み、ミルカの顔を見上げた。
「よし、落ち着いたみたいだね。どうしたの? 魔法で逃げてくるなんて、よっぽどのことがあったんじゃない?」
 少女が涙を拭いながら、「ロディ……」と呟く。名を呼ばれた男、ロディは彼女の王冠に手をかけた。そのまま外し、戸棚の上にそっと置く。何も載っていないミルカの頭をゆっくり撫でる。少女は部屋を見渡し、目を丸くした。
「ロディ、このガラスの破片は何? 何か、甘い香りもするけど……」
 指摘され、男は少女から目を反らした。頬を掻きながら言いづらそうに弁解する。
「あー……ごめん、匂いがキツかったかな。香水の調合を頼まれてね、うっかり香水の瓶を割っちゃったんだ。嫌なら別の部屋に案内するよ」
「ううん、大丈夫。ロディの作った香水はやさしい香りだもん」
 ミルカは首を振り、きょろきょろと床全体を見回した。「これは急におじゃましちゃったおわび」と呟き、再度呪文を唱える。ミルカが杖を振る度に、硝子の破片が宙に浮かぶ。硝子の小瓶の姿に戻り、中に香水が入り、机の上に並んでいく。まるで映像を逆再生しているような光景に、ロディは感嘆の声を上げた。
「相変わらず凄い力だな……オレ達も使えたらいいのに」
 男の言葉に、女王は苦笑した。
 この魔法の力は、フィラル王国の王族にのみ受け継がれるものだ。この力を利用して災害等を回避する為、フィラル王国は平和を保ち続けることが出来る。ただし、一度にあまりにも魔力を使うと死んでしまうことはあまり知られてはいない。――それが原因で、先代が命を落としたことさえも。
「まぁ……色々とたいへんなのよ、この力も。体力もつかうし……」
「そして、その色々と大変な力を使わなきゃいけないぐらいには進退窮まってた……と」
 言葉を濁した女王に、ロディはぽつりと呟いた。体を強ばらせるミルカ。男は彼女の髪を撫でながら首を傾げた。
「さぁ、お嬢さん。良かったらこのオレに、その心を曇らせた暗雲を払うお手伝いをさせてくれないかな? オレが力になれるなら、何でもするよ。フィラル王家に代々仕える執事、トルク家の名にかけてね」
 にこり、と微笑むロディ・トルク。何人もの女性を落としてきた綺麗な笑顔を見つめ、ミルカはふいと目を背けた。元々幼馴染みとして育ってきた二人だ、このような手腕が通じないことはお互いに分かりきっている。暫し沈黙が流れ、少女は口を開いた。
「トルク家の名にかけて……それって、ロディのかぞくがあいてでもたすけてくれる?」
 少女の問いかけに、男は何かを察してため息をついた。呆れたように肩をすくめて、腰に手を当てる。
「また兄貴と揉めたのか……別に、二人の間に入るのは構わないけどさ」
 アイツも悪い奴じゃないんだから、たまには正面から向き合ってやったら?
 ロディの助言に、少女は俯いた。「……あたし、今回はわるくないもん」と小さな声で訴える。男は眉尻を下げて口をへの字にしてみせた。さて今回はどうやって丸く収めようか、と思案するロディ。
 遠くからかつかつと靴音が届く。すると、いきなりミルカがすっと椅子から立ち上がった。どこか慌てた様子でテーブルクロスをめくり、テーブルの下に潜り込む。姿を消す寸前になって「ちょっとかくまって!」と言い放ち、少女はテーブルクロスの下に身を隠した。
「ちょ、おい、ミルカちゃん?」
 仮にも女王である彼女の突然の行動に、ロディは目を丸くした。テーブルクロスの向こうにいる少女に話しかけようとして、彼も床に膝をつく。靴音はだんだん大きくなり……。

「……何をしているのです? トルク家の一員たるもの、みっともないことはしないで頂けますか」

 部屋の扉から低い声が響く。そこには女王専属執事、ディーノ・トルクが立っていた。ネクタイを締め、服装を整える執事。今まで走ってきたのだろうか、若干息が上がっていた。
「よぉ……兄貴。ちょっと物を落としたから拾ってたんだよ。それよりどうしたんだ、血相変えて」
 小さな物をポケットにしまうふりをしながら立ち上がるロディ。執事は胸に手を添えて姿勢を正した。
「用件を手短に言わせて頂きます。女王陛下が魔法で脱走なさいました。心当たりは御座いませんか」
「さぁな、知らねぇぜ。他を当たれよ」
 あくまでシラを切る弟を、兄は目を眇めて見た。数秒ほど見つめ、ため息をつく。堂々とロディの部屋の扉をくぐり、戸棚の脇に立った。
「――そんな安上がりな嘘で、私を欺けるとでもお思いですか?」
 ディーノが手に取ったもの。それは、フィラル王国に代々伝わる王冠だった。王のみが被ることを許される冠……ロディは舌打ちをした。テーブルの下から微かに息を呑む音がした。
「バレたか……お嬢さんなら、確かにここに来たよ。ただし、王冠だけ脱ぎ捨ててそのままどっかに行っちまったがな」
 舌先三寸で出鱈目を口にして言いくるめる弟。兄はぎろりと弟にガンを飛ばし、胸ポケットからハンカチを取り出した。そのまま王冠の手入れを始める執事。弟はこっそり兄の顔を伺った。
「あのときのお嬢さん、泣きそうだったぜ。兄貴、お前また何か余計なこと言ったんじゃないのか?」
 ロディは、騙せているのかも分からない兄に鎌をかけてみた。ディーノの手が一瞬だけぴたりと止まる。が、すぐに手入れを再開した。暫し黙り込んで、執事が漸く口を開く。
「……大したことではありません。女王陛下が賢君を自称なさっていたので、少々現実を見せて差し上げただけですよ」
 兄の言葉に、今度は弟が絶句した。仮にも同じ血を引く家族だ、相手の大まかな尺度は分かる。そして、この執事のやることは大抵容赦がない。それこそ……彼の包み隠さない毒舌と息が詰まりそうな完璧主義に押し潰されそうになった女王が、何度もロディに泣きつく程度には。
「現実を見せたって……なぁ、兄貴。アンタの完璧主義が絶対に悪いとは言わねぇけどさ。まだ王位に就いて間もないあの子にそれを押し付けるのは、ちょっと酷じゃねぇか?」
 やんわりと兄をたしなめるロディ。ディーノは顔色一つ変えずに、王冠を磨きながら言葉を紡ぐ。
「あのお方は、由緒正しきフィラル王国の命運を背負う女王様です。だからこそ、何事も完璧にこなして頂かなければ困ります。それを求めることに何の問題があるでしょうか」
「そういう意味じゃねぇんだよこの唐変木!」
 自らの唱える正論が常に正しいと考えて疑わない兄に、とうとうロディの堪忍袋の緒が切れた。珍しく声を荒らげた弟に、ディーノが冷ややかな視線を送る。兄に鋭い視線を投げ返しながら荒い息を整えるロディ。兄の横をすり抜けて戸棚に歩み寄り、彼は再び口を開いた。
「兄貴。ミルカちゃんはさ」
 ロディの言葉に、ディーノが少し眉をひそめる。
「何ですかその馴れ馴れしい呼び名は。女王様、もしくはミルカ様とお呼びなさい」
「ミルカちゃんはさ!」
 執事の平坦な注意を無視して声を大きくするロディ。呼び方が変わらないことを兄が再度注意する前に、ロディは話を続けた。
「ミルカちゃんは……まだ十二歳なんだぞ?」
 ロディの悲痛な科白にも表情を変えないディーノ。机の下に隠れているミルカがもそもそと動いた。執事の反応がないことも気にせず、弟は続ける。
「先代が天に召したときのこと……覚えてるか? お父さんがいなくなって、普通のあんな歳の女の子なら泣き叫ぶところを……あの子は、黙って祈りを捧げたんだ。目からぼろぼろ涙溢してさ、なのにそれを拭こうともしなかった」
 どこか遠いところを見つめながら語るロディ。ディーノは無言で王冠の手入れを再開した。「オレ、不思議に思って聞いてみたんだ。何であんなに冷静だったんだ、って。そしたら――」と語り続ける。
「ミルカちゃんは……泣いてる場合じゃないって分かってたから、って答えたんだよ。お母さんがずっと昔に亡くなって、お父さんもいなくなった今――次は、一人残された自分がこの国を引き継ぐんだからって。だから喚いたりせずに、お父さんに真剣に祈りを捧げた。国民に次代の王の威厳を見せる為に。先代に、安らかな眠りを……この国の安泰を願う為にな」
 そこで一度区切り、ロディは戸棚の一番上の引き出しを開けた。びっしりと文字が書かれた羊皮紙の束を取り出して兄の方へと振り返る。ディーノは突きつけられた羊皮紙をちらりと見やり、微かに目を見開いた。
「兄貴なら、この筆跡が誰のか分かるよな? これはミルカちゃんが勉強に使った羊皮紙だよ。兄貴を見返そうとして、あの子が毎晩オレの部屋で勉強会をした……その努力の痕跡だ。早く政治が出来るように、早く一人前の女王になれるように。オレに基礎から教えを乞うて、死に物狂いで頑張った何よりの証拠だ」
 なぁ、兄貴。これでもミルカちゃんを未熟だって貶すのか?
 真剣に問いかけるロディ。ディーノは黙って王冠をテーブルに置いた。弟から羊皮紙を受け取って、一枚ずつ目を通す。一通り中を見て弟に返却し、大きく首を振った。
「……だから何だと言うのです? 未熟である、その一点に変わりは無いでしょう?」
 久々に開いた口から出たのは、その一言だった。
「お前……今までの話聞いてたか?」
「ええ。その上で評価に値しない、と言っているのです」
 弟からの憤怒と呆れが入り交じった問いに、ディーノはさらりと答えた。ロディとまっすぐ目を合わせ、執事は今も何処かで逃げ回っている女王に厳しい批評を浴びせる。
「唯一評価出来るのは、その類希なる魔法の才能のみです。無尽蔵と思われる程の魔力と、あの年齢でそれを容易く扱う高い技術には目を見張るものがある」
 ですが、それだけです。女王陛下には知能も人格もまるで備わっていない。そんな人物を、これ以上どう評価しろと?
 氷のように冷たい声。暗い海の底のような青色の瞳を眺めていたロディは、ふと何かに得心して頷いた。兄は怪訝そうに顔をしかめる。
「今やっと……ミルカちゃんがしょっちゅうオレを頼ってくる訳が分かったよ。オレとあの子が幼馴染みだからだと思ってたけど……それだけじゃない。アンタが厳しすぎるんだ」
 執事は相変わらず顔色一つ変えずに実の弟の糾弾を受け止めている。ロディはちらりとテーブルに視線を注ぎ、再び言葉を紡ぎ始めた。
「あの子はきっと、寂しいんだよ。家族はもういない。周りは自分を女王として見て、目も合わせてくれない。幼い頃から知ってるオレ達しか……もう家族と呼べる存在はいないんだ」
 兄貴……頼むから、あの子を認めてやれよ。昔みたいに誰かに褒めてほしくて必死になってるミルカちゃんの、家族になってくれよ。
 弟の必死の頼みに、兄は肩をすくめた。若干呆れて馬鹿にした口調で拒絶する。微かに第三者が鼻をすする音がした。
「……血の繋がりも無い私達が家族、ですか……。笑止。そのような偽りの関係に、一体何の意味があるのでしょう?」
「意味ならあるよ!」
 突如、テーブルの下から叫び声が上がった。
 兄は鋭くテーブルに視線を投げ、弟の額に冷や汗が浮かぶ。部屋はしんと静まりかえった。二人に冷たい目で見られていることも知らず、テーブルの下の声は叫び続ける。
「だって……だってあたしには、他にだれもいないもん……。ディーノはずっとにらんでくるし、仲良くなりたくてもプライベートな話もしてくれないし! 何か話しかけてもきちんと聞いてくれないし!」
 段々机の下から聞こえる声が震えてくる。ロディは彼女が耐え続けた過去への悲しみを、ディーノは彼女の知能レベルに対する哀れみを込めて声の発信源を見つめていた。
「あたし……こんなことなら、女王さまになんてなりたくなかったよ……パパとずっといっしょにいたかったよ! パパを返してよ……ディーノの…………ディーノのばかぁ!」
 涙ながらに執事に対する不満をぶちまける少女。今まで溜め込んでいた鬱憤を吐き出すように怒鳴り続ける彼女を制止したのは、執事の咳払いだった。その場の空気が一気に重くなる。ロディは兄の殺気にも似た冷たい気配を正面から受け止め、ぷつぷつと腕に鳥肌を立てた。
「お一人で盛り上がっているところ大変申し訳ありませんが――誰かも分からない人物に糾弾されて腹を立てないでいられる程、私は出来た人間ではありませんよ。貴女、どちら様です? 隠れてないで出てきなさい」
 張り詰めた空気と、地を揺るがし凍てつかせるような低い声。机の下のすすり泣きはぴたりと止んだ。怒りで真っ黒に染まって見える顔。この執事がここまで怒ったのは何年ぶりか。彼の本気の怒りを知っているロディは然り気無く身構えた。
「あ、あたしは、えっと……そのぉ…………」
 執事の怒りに触れ、少女の声が掠れる。ロディは内心で彼女が上手い言い訳を述べることを願った。弟の手のひらがじんわりと汗ばむ。
「つ、つくえの下のようせいさんよ! ミルカちゃんとはお友達なの!」
「妖精さん、ねぇ……」
 ぎろり、と視線を弟に投げ付ける。ロディは全力で目を逸らしていた。当の妖精はこの言い訳が上手く出来たものだと思っているらしく「ミルカちゃんが言いたがってたこと、あたしが代わりに言ってあげたのよ!」と必死に後付け設定を披露していた。勿論実際には妖精の発言で思い切り墓穴を掘っているので、この設定も蛇足でしかない。
「妖精などと、にわかには信じがたいですね。姿を現してくだされば信じて差し上げます」
「え、えっと……あたしはつくえの下から出れないの! つくえの下のようせいさんだもん! それに、ようせいさんは大人には見えないのよ!」
 最早言っていることが支離滅裂である。ディーノはため息をついた。くるりと踵を返し、扉の前まで歩いていく。その律動的な靴音に、ロディは目を丸くした。
「あ、兄貴……?」
 ロディが恐る恐る話しかける。ディーノは扉の前で立ち止まる。軽く振り向いて、左目だけを弟に向けた。
「このまま妖精を締め上げても埒が明きません。私は引き続き女王様を探して参ります。女王陛下に、たっぷりと、お話を聞かねばなりませんからね……」
 猛獣が殺気を表に出さないように威嚇している。ロディにはそう見えた。回りにどす黒いオーラが見えるのは気のせいではないだろう。
「ロディ。女王陛下を匿った罪、本日の夕刻に裁かせて頂きますのでそのつもりでいなさい」
 名指しされて、びくりと肩を跳ねさせる。執事はナイフのように鋭い視線を弟に突き刺し、部屋を出ていった。靴音が刻むリズムが遠ざかったのを契機に、ロディは大きく息をついた。金縛りにあって寿命が一気に縮まった……そんな気分だ。テーブルクロスをめくり、女王が不安げな表情を覗かせる。
「ロディ……ごめんね。あたしがここに隠れたせいで……」
「いや……気にするなよ、ミルカちゃん。兄貴のお叱りならもう何度も喰らってるんだから」
 げんなりして一言だけ言葉を交わす。ミルカはテーブルから這い出てドレスについた埃を払った。ロディはどっかりと椅子に腰掛ける。肘をついて、男が少女を横目で見る。
「っていうか……寧ろお嬢さんが妖精さんになったときが一番ヤバいと思ったな。何であんなことしたんだい?」
 問いかけられ、女王はぎくりと体を強張らせる。あからさまな態度に、男は呆れて目を細めた。
「まさか……自分が隠れてることを忘れてたの?」
「そ……それだけじゃないもん! ほかにもちゃんと理由があるのよ!」
 『それだけじゃない』という科白は肯定を含む。ロディはため息をついた。少女がもじもじしながら言葉を紡ぐ。
「あのね。ロディがディーノに、あたしのかぞくになってくれって言ってくれたのがうれしくて……。あたし、ふだんは女王さまだからきもちをかくすようにしてるけど、ようせいさんになればホントのきもちを正直に言える気がしたの」
 どうやらこの少女は、妖精の正体が思い切りバレていたことに気付いていないらしい。男は呆れると同時に微笑が零れた。漸く、少女が本音を吐いてくれた。長らく彼女を支え続けていた身としては、それは純粋に嬉しいことである。そんな彼をよそに、ミルカは俯いて床に視線を注いだ。
「それに……ディーノが、あたしのことをまほうだけだと思ってたなんて。そんなのガマンできないもん。今に見てなさい、きゃんって言わせてやるんだから! って思ってたら、口がかってに……」
「……お嬢さん、それを言うなら『ぎゃふんと言わせる』だよ」
 静かな声でツッコミを入れるロディ。女王は仄かに頬を染め、ふいと顔を背けた。
「と……とにかく! あたしはまほうだけの女王さまじゃないもん! あたしだってやればできるもん!」
 捨て台詞を吐き、ミルカは駆け出した。ロディが慌てて止めるものの、時既に遅し。一人残された青年は、哀しげに目を細めて部屋の扉を眺めていた。


「…………で? 私に目にもの見せようとして、あのお方はあのような馬鹿げたことをしているというのですか?」
 その日の夜。目を眇めて、執事は問いかけた。どこか棘のある口調。完全に馬鹿にしている発言に、ロディは肩をすくめた。
「あ~……一応、オレは止めたんだぞ? けどあの子、アンタを見返す為には手段を選ばなくてな」
「運命によって与えられた土俵に難癖をつけて自ら降りるなど、弱者のやることです。ましてや女王陛下が己の責務から逃れるなどと……」
 冷たく切り捨てる執事。嘲っているような科白を吐く兄に、ロディは珍しく何も言わなかった。……今回ばかりは擁護出来なかった、と言うべきか。
 彼らの主はたった今、黒地の地味な制服に身を包んで、侍女として働いているのだから。
「第一に、私がその道に長年携わる者だということをお忘れではありませんか? 完璧をもってヨシとする者が素人の所業を認めるとでも思っているのでしょうか」
 少し距離をおいた場所でモップがけをしていた新米の侍女が、足を滑らせて転んだ。ぎゅっとモップを握りしめ立ち上がる。手際の悪い彼女を眺め、ロディは苦笑した。
「そういうことじゃないだろ。あの子は……がむしゃらに生きてるだけだよ」
「……知ったような口を利くのですね」
「少なくとも、アンタよりはよく知ってるからな。あの子のココロを」
 毒に毒で返す兄弟。執事は弟を見下して眉間のひびを深くした。見上げるロディも僅かに殺気立っている。
「トルク家の出来損ないが、生意気な……」
 静かに暴言を吐く。青年は吹き出して、実の兄を挑発するように両手を広げた。
「ああそうさ、もっと言えよ。オレは自分の意志で出来損ないになったんだ。甘んじて親父の操り人形になったアンタとは違うんだよ」
 兄はぴくり、と眉を動かした。弟は床に座り込んだまま兄を睨み付ける。緊迫した状況に怯え、他の侍女達はそっと彼らから避難していった。ミルカも異変に気付いたが、女王を守ろうとした他の侍女達に回収されていく。
「普段は気を使って言わねぇけど、この際言わせて貰うぜ。アンタも親父も、心の無い人形だ。トルク家が代々こんな狂った家系だって言うんなら、オレは自分から落ちぶれるよ」
 言いながら鼻で笑う青年。兄を、自らの産まれた家系を嘲笑しながら、彼は罵り続ける。
「何なら、オレを勘当してくれたっていいぜ? こんな家の奴だと思われるなら、縁を切った方がずっとマシだ!」
 ロディの頬に一閃。鋭い音と共に、弟の首が右に回った。ディーノが大きく息をつく。赤く腫れた左頬をそっと指でなぞり、彼は兄に口角をつりあげてみせた。
「……どうした? アンタの右ストレートはもっと強烈だったろ。こんなんなら、さっきのお叱り――説教しながらの戦闘訓練の方がよっぽどキツかったぜ」
 執事は微かに青ざめて右の拳を開いた。わなわなと唇を振るわせているディーノ。珍しく動揺している兄を下から覗き込み、「図星なんだろ?」と一言だけ問う。執事の肩がびくりと跳ね上がった。
「親父の教育が狂ってたことも、今のアンタが歪んでることも……本当は分かってるんだろ? だから、親父に反抗したことで自由を手に入れたオレが目障りなんだ。違うか?」
 普段ならここで間を置かずに毒を吐く兄が、黙ったまま目を逸らした。叱られている子供のように小さく見えるディーノ。弟はふっと微笑し、優しく笑った。彼の新緑色の瞳は、どこか哀愁を含んでいた。
「兄貴。オレは、本当はアンタ達二人共助けたかった。けど……もう親父には、何を言っても届かない。だから、せめて兄貴には目を醒ましてほしいんだ。兄貴には……昔の写真みたいに、笑ってほしいんだよ」
 静かに語りかけるロディ。ディーノは目を逸らしたまま長いため息をついた。そこに乗せられた思いは何なのか……弟が目を細める。
「――ロディ。夢は、寝ながら見るものですよ」
 やっとのことで絞り出した苦し紛れの反論。微かに執事の声が震えていることに、弟は気付いていた。軽く肩をすくめ、優しく宥める。
「起きながら見る夢だってあるだろ? そして、夢を追い求めた者は……それを実際に手にする資格を得る」
「ただの綺麗事でしょう。そんなもの」
 ばっさりと切り捨てられ、弟は眉尻を下げた。まるで自分自身に言い聞かせるような言動。同じ血の通った家族としては、見ていて痛々しい。
「……兄貴は、何も信じられないからそうとしか思えねぇんだよ」
 遠くを見つめ、呟いた。両手を組んで大きく伸びをする。自らの肩を揉みながら、彼は兄を見上げた。
「頼みがあるんだけどさ。オレ、久々に兄貴の説教喰らって体がガタガタなんだ。親父の世話、一日だけ代わってくんねぇか?」
 たまには親父と顔を合わせろよ。きっと喜ぶぜ? 今夜は、過去をじっくり振り返って……考え直すといいよ。今後のことを――。
 弟の頼みに、ディーノは顔をしかめた。父親を嫌っているわけではないが、今回のそれは余計な気遣いである。だが、ロディを体力の限界まで追い込んだのは自分自身だ。
 暫し押し黙って、執事は何も言わずに立ち去った。後に残された青年は「世話の焼けるやつだ」と呟いて苦笑した。


 暗い部屋にノックの音が響く。返事はないが、訪問者は構わず扉を開いた。黒いスーツに身を包んだ、片眼鏡の執事。彼は部屋に入る前に深く一礼した。部屋の奥に置かれたベッドに歩み寄り、滑らかな動作で片膝をつく。
「父上――久方ぶりにございます」
 父上、と呼ばれた男の反応はない。遠い夢の国を旅している初老の男に、彼は話し続けた。
「私は変わらず、父上の教えを遂行しております。無論、完璧に」
 ちらりと上目遣いで寝ている男の表情を窺う。微かにため息をついて、長男は皮肉を溢した。
「…………あれほどまでに執事としての責務にこだわった貴方が、世話をされる身になってしまうとは。運命とは滑稽で、皮肉なものですね」
 そうは思いませんか? 父上――。
 静かに問いかける。目をゆっくり閉じ、執事は過去に想いを馳せた。彼の心は時の流れを遡り、幼くなっていく。七歳頃のディーノが、大人になった彼自身にそっと語りかけた。


 ボクがまだ小さいころ、父さんは王様に仕えるしつじだった。トルク家は代々フィラル王国の王様のおそばにいたんだって。父さんはいつもそれをホコリにしてたし、ボクにとってもじまんの父さんだった。強くて、やさしくて、おっきくて。王様を守る父さんは、すごくかっこよかった。だから、ボクは父さんみたいになるのが夢だったんだ。父さんみたいな、やさしいしつじになりたかった。

 そんなボクのじまんの父さんは……あるとき、両足を失った。ボクが八才のときのことだった。

 父さんは、王様の命をねらうアンサツシャとたたかっていた。アンサツシャは、シャンデリアを落として王様をころすつもりだったんだって。それに気付いた父さんは、シャンデリアのしたじきになる前に王様をつきとばした。
 王様はぶじだった。けど……父さんの足は、王様のかわりにつぶされた。お医者さんでもなおせないくらい、ひどく骨折してたんだ。
 父さんはしばらく、ボクや母さんのこえにもへんじしなかった。しんぱいだったよ。父さんから、しつじのしごとをとったら……なにがのこるのか、分からなかった。父さんがどうなっちゃうのか分からなくて、こわかった。
 だから……ボクが父さんのおみまいにいったときに、久しぶりにボクのほうを見てくれたのがうれしかった。だって、くよくよしてる父さんは見たくなかったから。父さんは足がなくても、ボクのじまんの父さんだから。

 けど、そうおもってたのはボクだけだった。

 父さんは、いきなりボクのむねをなぐった。ふっとばされて、かべに体をたたきつけられて……。何がなんだか分からなくて、むせるしかできなかった。そんなボクに、父さんは。

 ――私を見るな! こんな無様な姿を見て愉しいか?

 べつじんみたいなこわいかおで、どなりつけた。ボクは、何がおきてるのか分からなかった。父さんは、きゅうになぐるような人じゃなかったのに……何で?

 ――これも全て、私が欠点を抱えていたからいけなかったんだ……。私が、完璧では無かったから…………!

 布団をにぎりしめながら、父さんはつぶやいた。父さんの目が、くらいのにやけにぎらついててすごくこわかった。

 その日から、父さんは変わっちゃった。ボク……じゃなくて、えっと……しつれい。『わたし』は、父さ……父上のかわりに王様にふさわしいしつじになるためのとっくんをうけた……のです。
 父上は、わたしにしつこいくらいカンペキをもとめました。すこしでもしっぱいしたらなぐられました。
 けど……わたしは、はんこうできませんでした。父上のかおはおこってても……心はないているのが分かってしまったからです。
 自分がケガさえしなければ、まだまだ王様をお守りすることができたのに。何でほかのやつらは足があるんだ。何でわたしにはないんだ。どうして足があるやつらは、王様を命をかけて守ろうとしないんだ。どうして……自分は、ケガをしてしまったんだ。
 父上の心は、両足よりもバラバラになってしまいました。ことばにしなくても、そんな後悔が伝わってしまうほどに。父上のいたましいすがたを見ていて……わたしがカンペキなしつじになることが、父上のためなんだと思えました。

 やがて、わたしの弟が生まれました。ロディと名付けられた、九才年下の男の子。そのとき考えていたことは、おそらくわたしも父上も同じでしょう。

 この子も、カンペキな執事に。フィラル王家にふさわしい、優秀な人材に。

 けれど……この弟は、少々変わった子でした。私達と距離を置き、ことあるごとにもうこんなことは止めろと声を張り上げたのです。そのくせ、見て技術を覚えたのか執事としての技能は平均よりも上でした。意味が分かりませんでした。私は完璧であろうとしているだけです。この弟だって、練習せずにこの実力なら……必ず完璧な執事になれますのに。

 ――しつじとしてカンペキならいいの? にいちゃんやとうちゃんのこころ、ないてるよ。くるしくないの?

 弟は、まだ拙い言葉でそう訴えかけました。私が父上に完璧であれと教わった頃の歳で……彼は、心を尊重しろと言い始めたのです。

 ――オレ、おうさまにきいたんだ。にいちゃんもとうちゃんも……まえはこんなじゃなかったって。まえはもっとたのしそうにわらってたって。

 ……貴方に何が分かるのですか。
 私はもう、『ボク』ではないのです。心などと……そのような面倒なものは遠い昔に棄ててきました。執事たるもの、常に冷静で理性的でなければならないのです。私情にほだされるなど論外。年下だろうが、弟だろうが崩さない口調。これを習得するのに、どれほどの苦労を要したとお思いですか?

 ――ねぇ……にいちゃんがカンペキなしつじならさ。おうさまをかなしませちゃダメだろ?

 それなのに……どうして貴方は、必死になって私が切り捨てたものを私の目の前に差し出すのですか。
 私がこのように振る舞うようになったのは、父上の心情を思ってのことでした。しかしこの弟は、私も父上も間違っていると糾弾してくるのです。その上で、肩の力を抜いてやり直せと仰ったのです。私は彼の指摘から目を背けました。今までの私の人生を否定してしまったら、私も父上も壊れてしまうと……何故かそう思えたのです。
 私もロディも、お互いにますます意固地になりました。私の心は全てのものを拒むようになり、言動が機械的になったと他人に指摘されました。彼は徹底して我らの方針を否定し、強引に性格すらねじ曲げました。愚弟の女性にだらしない性格は、彼がわざと演じているものです。そこまでして……彼は血の繋がった私達を拒んだのでした。

 弟が十四歳になった頃……私達が冷戦を繰り広げている間に、父上は『眠り病』にかかりました。死ぬまで眠り続ける、不治の病。父上は生きながらにしてその生涯を終えたのです。
 父上の安らかな寝顔を見ても……私の目からは、一粒の雫も溢れませんでした。弟は、父上とは仲が悪かったにも関わらずぼろぼろと泣いていました。
 悲しくなかったのではないのです。ただ……私は、完璧になるために多大なる犠牲を支払ってしまったのです。完璧になる……その為に、涙の流し方も忘れてしまいました。

 私は、このとき初めて――やっとのことで――自分の過ちに、薄々気付くことができたのでした。


「父上。我々は、間違っていたのでしょうか?」
 父が眠ってから五年の月日が経っても、ディーノは変わることが出来なかった。何度もミルカを泣かせ、自分がおかしいと気付いていながら……それでも目を背け続けた。それは父親のことを思ってのことだったのか、自分が変わってしまうのが怖かったのか――今となっては、本人にも分からないのだ。
「何が間違っていたのか――情けないことですが、私には分かりません。ただ、これだけははっきり申し上げることが出来ます」
 そっと目を開き、父親を見つめる。二度と言葉を返さない、よくできた人形のような状態。普段は後ろに全て流していた髪は、重力に負けて項垂れている。瞼の下の、青と緑が入り交じった瞳も今となっては見ることが出来ない。右目の周りにはうっすらと丸い痕が付いている。ディーノは右目の片眼鏡――トルク家に代々受け継がれている品に触れた。

「例え、貴方の教えが間違っていたとしても……私は、父上を尊敬しております。どんな父上でも、変わらずに」

 執事の意志を述べた音の羅列は、ふわりとその場に溶けていく。眠り病の患者は何も言わない。息子の中の塊が、言の葉と共に夜の闇に溶けていった。


 侍女の足が滑り、べしゃっと床に腰をついた。石造りの城を一人で掃除していた少女。持っていたモップは遠くに放り出されてしまった。彼女の目にじわりと涙が浮かぶ。
「……あたしだって、できるもん……魔法がなくても平気だもん…………!」
 侍女として働いている女王の声が震えた。
 日付が変わり、現在の彼女の合計勤務時間は六時間程になっていた。その間に色々な仕事を試しているのだが、どれも結果が芳しくない。手を滑らせて皿を数十枚割り、色物や白い服などを全てまとめて洗濯して色移りさせ、その度に侍女長に慰められている。叱られないのは事情を知っているためだろう。
「うちのディーノがまたやらかしたのね……本当にごめんなさい。あの子融通が利かないから、あんまり思い詰めちゃ駄目ですよ」
 侍女にしてくれと頼み込んだ際に、侍女長でありディーノ達の母親である老女は深く頭を下げた。女王が黙って首を振る。そんなに思い詰めている訳ではない。ただ、見返したいだけなのだ。
 自らの不出来に、スカートの裾をきつく握りしめる。俯いている女王の視界に、黒い革靴が入り込んだ。
「全く……女王様ともあろうお方が、何をなさっているのですか」
 冷たく、重い声。少女は顔を上げなかった。彼に――ディーノに頼ったら、今までと何も変わらない。
「貴女はこの城の主なのです。侍女の装いをしていないで、普段通り堂々と胸を張りなさい。さぁ」
 ミルカの目の前に手が差し出される。真っ白の手袋に包まれた手。彼女のそれより遥かに大きな手。彼女の頬を水滴が伝った。
「……やだ。あたし、ディーノを見返すまでは……たよらないもん。一人でできるもん……」
 ぼろぼろと涙が零れる。すすり泣きはやがて号泣に変わった。執事の手は彼女の目の前で静止している。
 ふいに彼女の肩は誰かに抱きしめられた。ふわりとコロンが香る。花のような、甘くて落ち着く香り。これは……ロディの香りだ。トルク家の弟分は彼女にさりげなくハンカチを手渡した。少女は黙ってそれを受けとる。背中を撫でながら、ロディは少女を優しく宥めた。
「お嬢さん……悔しいよな。我慢するなよ。今は女王じゃないんだ……泣きたいだけ泣きなよ」
 最も……本当はオレ達が、お嬢さんがいつでも安心して泣けるようにしてやらなきゃならないんだけどな……。
 小さく呟いて、彼は実兄を見上げた。眉をつり上げ、睨み付ける。執事は無表情で見下ろしていた。
「おい……何回忠告すりゃ反省するんだ? 何回ミルカちゃんを泣かせりゃ気が済むんだよ!」
 つい言葉が荒れる。執事の口からため息が漏れた。若干顔を和らげ、周囲の人々にいつも怖がられる目付きの悪さも少しだけ改善される。
「女王陛下……ロディ…………。何か、勘違いしておりませんか?」
「勘違い……? 何のことだ!」
 兄の言葉に噛みつく弟。兄は女王の前でひざまずき、右手を胸に当てた。少女は息を呑む。青い顔で執事を見つめた。
「私は……あれから、一応反省したのですよ?」
 意外な科白に、一瞬ロディの怒気が吹き飛んだ。ミルカの涙も止まっている。時が止まってしまった二人をよそに、ディーノは少女に改めて言葉を投げ掛ける。
「女王陛下、昨日の発言ですが……言葉が足りませんでした。深くお詫び申し上げます。……あのときの続きを、聞いて下さいますか?」
 急に話題を振られ、少女は目を大きく見開いた。頭をぶんぶん振って承諾の意を示す。執事は許可を得てゆっくりと語りだした。
「女王様は、確かに今の段階では未熟です。しかし……今後じっくり知識や技術を身に付ければ、立派な君主としてフィラル王国を支えることも出来るでしょう」
 弟が大きく息をつく。女王は目を丸くして聞き入っていた。執事は改めて少女に手を差し伸べ、僅かに微笑んで朗々と語る。
「ですから、胸を張りなさい。貴女はこの国の女王陛下です。政治が分からない今、女王様に出来ることは……未だ先代の訃報から立ち直りきれていない民を、安心させることです。この国の民が、貴女が王なら大丈夫だと思えるように……不安でも堂々としていなさい。それが王者の風格というものです」
 今までになかった、柔らかな口調。どこか安心できる態度。そして、女王を鼓舞する言葉。少女はハンカチでそっと涙を拭った。
「……うん。分かった!」
 花開くような笑顔を浮かべ、女王は執事の手を取った。若干安心したのか、ロディがそっとため息をつく。その場にいた全員が油断してしまった。そのせいだろうか、再びミルカの足は床の上を滑っていく。
「う、わ、わわ!」
「ミルカちゃん!」
 ロディは叫びながら、ディーノは迅速に行動に出た。滑らないように膝をつき、女王の体を支える。兄弟の息がピッタリと合ったフォローのお陰で、少女が床に頭を強打することは何とか回避した。
「……大丈夫ですか?」
「う、うん。二人ともありがとう」
 少女が転ばないように支えたまま立たせる。ロディも立ち上がろうとして、顔をしかめた。歩いていたときは安定した歩き方が身についているので違和感がなかったが、改めて足に力を込めようとすると非常に滑る。まるで、冬に湖の上に張る氷の上のようだ。
「っつーか……何かここだけ滅茶苦茶滑りやすくないか?」
「……ミルカ様。そのモップで、何をなさっていたのです?」
 転んだ際に投げ出されたモップを示し、執事は静かに問いかける。少女はぎくりと体を強張らせた。目が泳いでいる。
「え、えっと……こうした方がキレイになるかと思って。モップをぬらして、せっけんをつけてこすってたんだけど……」
「…………ミルカちゃん、凄く言いにくいんだけどさ。それ、この城じゃ逆効果だよ?」
 かなりどもりながら指摘するロディ。え、と少女の動きが固まる。執事は肩をすくめて少女を見上げた。
「このような石造りの城の掃除は箒で掃くだけで十分です。濡らして石鹸を付けると非常に滑りやすくなります。その上洗い流すのに大量の水が必要になり、落としきれなかった場合は苔が生える原因にもなり得ます」
「えっ! 知らなかった……どうしよう……」
 顔を青くしてわたわたと慌て始めるミルカ。そのくるくると飽きることなく変わる女王の顔を見て、不意にディーノは吹き出した。初めは喉を鳴らすようにくつくつと笑っていたのだが、やがて大きく口を開けて爆笑した。ロディが目を疑っている様子で「……兄貴が、声をあげて笑った……」と呟く。かの執事は、大声で笑うことはおろか微笑むことさえ二十年程封じ込めてきたのだ。「声をあげて笑う」という行動は、弟であるロディからしてみたらまさに青天の霹靂であった。
「ふふふ……失礼しました。つい、昔のことを思い出してしまったもので」
「むかしのこと?」
 少女が首を傾げる。執事は頷いて目尻を拭った。笑いすぎて涙が出たらしい。
「私も昔、同じ失敗をした……そう言ったら信じて下さいますか?」
 二人が目を丸くする。この完璧主義者が失敗した、などと……想像することすらできない。傍聴人の反応に、執事は照れ臭そうに笑う。
「私も……かつてはミルカ様やロディと似たような性格でした。まだ物心ついたばかりの頃、執事だった父や侍女長の母に憧れてモップと石鹸で掃除をしたのです。後始末が大変でしたよ」
 執事はどこか遠くを見つめた。少女は頭上に疑問符を浮かべ、彼の弟は目を細める。彼らの家は非常に厳しかった。だが……初めからそうだったわけではないらしい、ということも弟は知っていた。遠い昔……父親がまだ、眠っても足を失ってもいなかった頃。兄の生まれ育ったトルク家はどんな家庭だったのだろうか。弟には想像もつかないのだが、きっと温かくて幸せな場所だったのだろう。兄の表情がそれを示している。
「私が貴女方を邪険に扱ったのは――羨ましかったからかもしれません。純粋なまま、変わらずにいられることを……妬ましく思っていたのでしょう」
 目を背けたまま、執事は告白する。ミルカは大きく頷いた。何となく……彼の当たりの強さから、分かっていたことである。弟も、泣いているような怒っているような、微妙な表情で兄の想いを受け止めていた。
「昨夜、じっくり考えてみたのです。どうしたらいいのか。今のままでは間違え続けるだけです。しかし……父の想いは――国王陛下を守りたいと願った気持ちは、無駄にしたくありませんでした」
 目を閉じて、一息ついた。胸に手を当てる。数秒程静止して、ディーノは目を開いた。まっすぐ女王を見つめ、誓いの言葉を述べる。

「ですので、私は……両立出来る方法を模索します。感情を排除せず、完璧に振る舞える方法を。ミルカ様に寄り添い、完璧にサポート出来るよう尽力する所存です」
 それで宜しいでしょうか? フィラル王国第五代国王、ミルカ・フィラル様。

 真剣な瞳。今までのどこか見下した態度とは異なる、真摯な口調。ミルカは満面の笑みで頷いた。ロディが本当に嬉しそうに微笑んで見守っていた。


 賢君忠臣――賢く英明な君主と、忠義の心を持つ家臣のこと。

 この三人が、某国の故事成語の通りに強固な絆で結ばれるのも……そう遠い未来のことではないかもしれない。


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