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不可逆反応

 レンが階段を駆け下りると、ちょうどホームに電車が滑り込んでくるところだった。
「っしゃあ、間に合った!」
 心の中で大きなガッツポーズをする。そこに息を弾ませた麻績が追い付いてきて、驚きの声を上げた。
「うわあ、すごく混んでいるね」
「こんなの序の口だろ。これからもっと混むぞ」
 現在時刻は十八時過ぎ。帰宅ラッシュのピークを迎えた電車内はサラーリーマンと大学生らしき若者たちを中心に多くの人でごった返している。
 普段からこの時間の電車を利用しているレンにとっては日常だが、帰宅部の麻績は初めて見る光景だったのだろう。ピリピリした空気感に圧倒されるように身を縮こまらせてしまった。
 確かに、いつもぽやっとしている麻績にあの人波をかき分けて乗れというのは少し酷かもしれない。
「各駅待つか?」
 二人は同時に頭上の電光掲示板を見上げた。
 次の各駅電車は七分後。快速電車よりも空いているが、二十分のタイムロスになる。
 麻績は一瞬迷うそぶりを見せたが、すぐに首を横に振った。
「うーん……大丈夫。あんまり遅いとタイトたちが心配しちゃうもの」
「あー……、だな」
 麻績の言葉を受けて、レンはここ最近身の回りで起きた変化についてに思いを馳せる——。

 唯一の肉親である(とレンは思っている)兄のアレクが過労で倒れたことをきっかけに、兄弟揃ってシェアハウスに越してきたのが数日前のこと。
 入居後もアレクは相変わらず講義とバイトで忙しくしている。それでも、これからは無理ないペースでやっていくと約束してくれたので一安心だ。
 同居人は一気に四人も増えた。
 まずは管理人のタイト。アレクと比べて料理は薄味だし怒らせると鬼のように恐ろしいが、普段は優しく信頼のおける大人だ。今も愛情のこもった手料理を用意して二人の帰りを待ってくれているだろう。
 次に唯一無二の親友である麻績。レンにとって一番嬉しい変化は麻績と過ごす時間が増えたことだと言って過言ではない。初日は修学旅行気分で夜遅くまで話し込んだし、今日もわざわざ時間を合わせて一緒に下校をしている。
 三人目のアキラは最近売れてる芸能人らしく、初日の歓迎会で顔を合わせたきりだ。レンが応援しているバスケチームの本拠地が出身地だと聞いて、少し気になっている。
 最後に鉄進。何かと突っかかってくるので気に食わないが、今のところは麻績に免じて許してやっている。
 味気なかったレンの私生活はここにきて一変した。
 これからはシェアハウスでの賑やかな生活が新しい自分の日常になるのだと思うと、背中がむずむずと落ち着かなくなるような照れくささを覚えるのだった。

 ——駅構内に発車を告げるアラームが鳴り響いた。
 階段付近の扉は慌てて降りようとする人と、それを押しのけて乗り込もうとする人とでもみくちゃになっている。
「やべっ。麻績、急げ!」
「あっ、待ってよお!」
 レンは素早く人の間を縫って進むと、比較的空いてた二つ隣の車両に飛び乗った。派手な銀髪で目つきも悪い長身の男子学生が勢いよく乗り込んでくれば、大体の乗客は引いていく。そうしてできた隙間に、後からやってきた麻績がちょこんと乗り込んだ。
「なんとか乗れたね」
 閉じた扉を背にして麻績が小声で話しかけてきた。
 駅まで走ったせいだろう、学ランのボタンをはずして中のワイシャツをパタパタと小さく仰いでいる。
 冷房はついているがこの混雑では効果が薄い。
 身動きが取れるうちに、とレンも両袖を肘の上まで捲った。練習後ユニフォームから急いで着替えたので、上着は最初からスポーツバッグの中だ。
「次の駅がヤベェんだよ」
「そうなの?」
「乗換駅だからな。降りるヤツもいるけどそれ以上にすげー乗ってくる」
「これ以上増えるの……?」
 げんなりと肩を落とす麻績を見てレンは思わず噴き出した。

 そうこうしているうちに反対の扉が開いて、乗車率百パーセントの車内にさらに人がなだれ込んできた。
 こうなるともはや見た目は関係なくなって、レンの腕や背中にも他人の身体がぴたりと密着してくる。
 シャツ越しに感じる生暖かい人肌が非常に居心地悪く、思わず顔をしかめた。
 麻績の方は比較的接触が少ないが、扉と長身のレンに挟まれているせいで窮屈そうだ。スクールバッグを胸の前に抱えて不安そうに左右を見回している。
 目が合って互いに苦笑いを浮かべた、その時だった。

 隙間がないほど人の詰まった車両内に誰かが無理やり乗りこんだらしい。突然、出入口から奥に向かって人波が動いた。
「うおっ!」
「えっ」
 背中を押されバランスを崩したレンは、麻績をつぶさないよう咄嗟に扉に両腕を突いた。
 結果、麻績に覆いかぶさって腕の中に閉じ込めるような形になった。いわゆる壁ドン状態である。
 レンは目を丸くした麻績の顔を見下ろして自分たちの状態に気づくも、背中に思い切り寄り掛かられているせいで身動きが取れない。しかも思いのほか大きな声が出たせいで注目の的になっている。
 そんな状況などお構いなしに、電車はゆっくりと動き出した……。
(何だよこの状況、マジで最悪だ……ッ‼ クソッ、どいつもこいつも見てきてんじゃねェよ! バカ‼)
 大衆の面前で壁ドンを披露するという失態を犯したレンは、頭から湯気が出そうになるほどの羞恥心に襲われた。周りからヒソヒソと囁き合う声が聞こえてくるせいで顔も上げられず、心の中でひたすら悪態を吐きまくる。
「レン、大丈夫?」
 すぐ下から自分の名前を呼ぶ小さな声が聞こえて、ハッと視線を向けた。この状況のせいか、単純にレンにつられたのか、白い頬をほんのり赤く染めた麻績が気遣うようにレンの顔色を窺っている。
 その上目遣いを見たレンは、同性の親友に対して初めて『可愛い』という感情を抱いた。
「レン……?」
 麻績が首を傾げた拍子に髪がふわりと揺れて、ほのかに甘い匂いが漂う。
 待ってる間に菓子でも食べたんだろうか? 甘い物は全般苦手だが何故だかこの匂いは嫌いじゃない。むしろ好きになれる気がする。この香りを胸いっぱい吸い込んだらきっと幸せな気分になれるだろう——
「‼」
 麻績に膝で小突かれて我に返った。直前に考えていた内容を思い出してまた顔が熱くなる。
「大丈夫……? もうちょっとの我慢だよ」
「あ、あぁ」 
 レンはこれ以上親友相手におかしな感情を抱かないよう、一刻も早い到着を願いながら固く目を閉じた。
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