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不眠症における対症療法について
机の端に置いたスマホが震えて二十二時五十分を通知した。
——もうそんな時間か。
レンは参考書を閉じて椅子に寄り掛かると思い切り伸びをした。あちこちの関節がポキポキと音を立てる。
今日は集中して効率よく勉強を進めることができた。心地よい達成感に浸りながら軽くストレッチをして、ベッドに横たわり消灯のスイッチを押そうとしたタイミングだった。
コン、コン、コン。控えめなノック音が耳に届いて、レンは勢いよく上体を起こした。
——二週間か。まあ今回は長持ちしたほうだよな。
くしゃくしゃと髪を混ぜ返す。少しの間うだうだとしてから、胡坐をかいた太ももをパンッと叩いて立ち上がった。
解錠して扉を手前に開く。暗い廊下には普段と変わらない格好の鉄進が立っていて、予想通りの登場にレンは内心ため息を吐いた。
特徴的な金目が猫のようにキラリと光を反射して、レンの顔をとらえた。ほとんど瞬きもしないまま、ただ無言で見つめてくる。
いつものレンなら他人から見られているという事実に居た堪れない気持ちになって「なんだよ」とか「見てんじゃねェよ」とか文句を言うところなのだが、今は歯を食いしばってグッと堪える。どちらかが口を開けばそこから喧嘩に発展してしまうからだ。
道を開け顎で室内を指し示すと、意図を察した鉄進が音もたてずに入り込んできた。
廊下に誰もいないことを確認してから施錠して振り返ると、部屋の真ん中で突っ立っている金目と再び視線が絡み合った。レンは錆びたロボットのようなぎこちない動作で目を逸らすと、鉄進の横を素通りして消灯スイッチを押した。手探りでベッドにもぐり込んで、無心で暗闇を睨みつける。
レンが動きを止めてしばらくすると、冷たい風がすぅっと素肌を撫でた。鉄進が毛布をめくったのだ。
次いでマットレスが深く沈んで、男二人分の体重を支えるベッドが小さく悲鳴を上げた。
「っ……!」
鉄進の長い前髪が頬と首筋を掠めていって、レンは叫びそうになるのをどうにか飲み込んだ。
ほんのり湿った髪からはレンと同じシャンプーの匂いがした。
こだわりのある住人以外は共用の物を使っているのだから何も特別なことはない。けれど一度意識したらもう駄目だった。急激に恥ずかしさがこみ上げて、顔に血液が集まっていくのがわかる。暗闇のおかげで鉄進に真っ赤な顔を見られないことだけが幸いだった。
どうにか気を落ち着けようと、すぐ傍でもぞもぞ動く気配を無視して、こうなったきっかけを思い出す。
▽
時は数か月前までさかのぼる。
朝の日課であるランニング前に顔を洗おうと洗面所へ行くと先客——鉄進がいた。洗面台の前を陣取ったまま動かないでいる。
キッチンの方に移動しようかとも考えたが、コイツのせいでルーチンが崩れるのは癪に障るという理由から喧嘩を売る、もとい声をかけることにした。
「あのさ、邪魔なんだけど」
……反応がない。
この距離で聞こえていないわけがない。カチンときたレンは目の前にある肩を掴んで引っ張った。
「無視してんじゃねェよ——ってオイ!」
大した力は入れていないつもりだった。鉄進の身体はされるがまま反転して、両膝がガクンと崩れた。
その様子を唖然と見ていたレンだったが、地面に頭を打つギリギリのところでなんとか抱きかかえる。
すぐ近くにある顔を見て、照れるよりも先にギョッとした。もともと生白い肌からさらに血の気が引いてまるで死人のようだったからだ。
「おまっ、大丈夫かよ。やべェ顔してるぞ」
「問題ない」
そう言って自力で立ち上がろうとするが、身体に力が入らないらしく、レンの腕の中に逆戻りだ。
「いや、問題なかったらこんなことにならねーだろ」
「……すまない」
気に食わない相手とは言えさすがに放っておけず、肩を貸した。近くのリビングではなく二階の個室まで連れていったのは、弱った姿を人に見られたくはないだろうというレンなりの配慮だ。
とりあえずベッドに寝かせようとするが、鉄進がそれを拒否する。理由を問えば、
「……夢見が、悪いんだ」
とレンでもわかるくらい気まずそうな表情を浮かべた。
鉄進から聞き出した内容をざっくりまとめると、連日の悪夢が原因で不眠症に悩まされているとのことだった。この一週間は夜に一睡もできず、日中に少しだけ仮眠をとって過ごしていたらしい。
そう言われて昨日までの鉄進の様子を思い出すが、特に違和感はなく、一番傍にいる麻績からもそう言った話題は出なかった。
どんだけやせ我慢してたんだよ、と内心で呆れ、完璧主義なライバルの意外な弱点を見つけてこっそりと優越感を抱いた。そこまでは良かった。
「あのさ、昔兄貴がよくしてくれたんだけどよ——」
世話焼きな兄譲りの『オレが何とかしてやりたい』欲が、レンの中でむくむくと頭をもたげてしまったのだ。
▽
レンはいつの間にか鉄進の動きが止まっていることに気づいた。暗闇に慣れてきた目に黒い頭頂部が映る。
鉄進は背中を丸めてレンの左腕に額を付けるような恰好をしているようだ。それ以外の部分はほとんど触れていない。レンとしては助かるが、寝ている間に落ちないだろうかと少しだけ心配になる。そうなったことは一度もないのだが。
そろそろと右腕を伸ばして肩のあたりに触れた。
鉄進はビクリと身体を震わせただけでやはり何も言わない。
レンはそのまま右手を動かして、トントンと一定のリズムでその背中を叩き始めた。いわゆる『寝かしつけ』というやつだ。
あの日以来、鉄進は悪夢を見た翌晩にレンの部屋へやってくるようになった。そして一緒に朝まで眠るのだ。こうするとよく眠れるうえ、しばらく悪夢を見なくなるらしい。
何で自分より年上の男、しかも年中喧嘩をしているライバルの寝かしつけなんかやってるんだよ、と脳内の冷静なレンがツッコんでくるが、それを「うるせー!」の一言でねじ伏せて一秒に一回のリズムを刻むことに集中する。
しばらくそうしていると固くなっていた身体から徐々に力が抜けてくるのがわかった。あとは深くなっていく呼吸に合わせて叩くペースを少しずつ遅く、優しくしていく…………。
鉄進が完全に寝入るまで五分とかからなかった。
起こさないように細心の注意を払いつつ、レン自身が寝やすいポジションを見つけて、今夜のミッションは完了だ。
首尾よく事が運び浮かれたレンは、眠っている相手の頭頂部に向かってそっと囁く。
「おやすみ」
想像以上に甘い声になって顔から火が出た。
机の端に置いたスマホが震えて二十二時五十分を通知した。
——もうそんな時間か。
レンは参考書を閉じて椅子に寄り掛かると思い切り伸びをした。あちこちの関節がポキポキと音を立てる。
今日は集中して効率よく勉強を進めることができた。心地よい達成感に浸りながら軽くストレッチをして、ベッドに横たわり消灯のスイッチを押そうとしたタイミングだった。
コン、コン、コン。控えめなノック音が耳に届いて、レンは勢いよく上体を起こした。
——二週間か。まあ今回は長持ちしたほうだよな。
くしゃくしゃと髪を混ぜ返す。少しの間うだうだとしてから、胡坐をかいた太ももをパンッと叩いて立ち上がった。
解錠して扉を手前に開く。暗い廊下には普段と変わらない格好の鉄進が立っていて、予想通りの登場にレンは内心ため息を吐いた。
特徴的な金目が猫のようにキラリと光を反射して、レンの顔をとらえた。ほとんど瞬きもしないまま、ただ無言で見つめてくる。
いつものレンなら他人から見られているという事実に居た堪れない気持ちになって「なんだよ」とか「見てんじゃねェよ」とか文句を言うところなのだが、今は歯を食いしばってグッと堪える。どちらかが口を開けばそこから喧嘩に発展してしまうからだ。
道を開け顎で室内を指し示すと、意図を察した鉄進が音もたてずに入り込んできた。
廊下に誰もいないことを確認してから施錠して振り返ると、部屋の真ん中で突っ立っている金目と再び視線が絡み合った。レンは錆びたロボットのようなぎこちない動作で目を逸らすと、鉄進の横を素通りして消灯スイッチを押した。手探りでベッドにもぐり込んで、無心で暗闇を睨みつける。
レンが動きを止めてしばらくすると、冷たい風がすぅっと素肌を撫でた。鉄進が毛布をめくったのだ。
次いでマットレスが深く沈んで、男二人分の体重を支えるベッドが小さく悲鳴を上げた。
「っ……!」
鉄進の長い前髪が頬と首筋を掠めていって、レンは叫びそうになるのをどうにか飲み込んだ。
ほんのり湿った髪からはレンと同じシャンプーの匂いがした。
こだわりのある住人以外は共用の物を使っているのだから何も特別なことはない。けれど一度意識したらもう駄目だった。急激に恥ずかしさがこみ上げて、顔に血液が集まっていくのがわかる。暗闇のおかげで鉄進に真っ赤な顔を見られないことだけが幸いだった。
どうにか気を落ち着けようと、すぐ傍でもぞもぞ動く気配を無視して、こうなったきっかけを思い出す。
▽
時は数か月前までさかのぼる。
朝の日課であるランニング前に顔を洗おうと洗面所へ行くと先客——鉄進がいた。洗面台の前を陣取ったまま動かないでいる。
キッチンの方に移動しようかとも考えたが、コイツのせいでルーチンが崩れるのは癪に障るという理由から喧嘩を売る、もとい声をかけることにした。
「あのさ、邪魔なんだけど」
……反応がない。
この距離で聞こえていないわけがない。カチンときたレンは目の前にある肩を掴んで引っ張った。
「無視してんじゃねェよ——ってオイ!」
大した力は入れていないつもりだった。鉄進の身体はされるがまま反転して、両膝がガクンと崩れた。
その様子を唖然と見ていたレンだったが、地面に頭を打つギリギリのところでなんとか抱きかかえる。
すぐ近くにある顔を見て、照れるよりも先にギョッとした。もともと生白い肌からさらに血の気が引いてまるで死人のようだったからだ。
「おまっ、大丈夫かよ。やべェ顔してるぞ」
「問題ない」
そう言って自力で立ち上がろうとするが、身体に力が入らないらしく、レンの腕の中に逆戻りだ。
「いや、問題なかったらこんなことにならねーだろ」
「……すまない」
気に食わない相手とは言えさすがに放っておけず、肩を貸した。近くのリビングではなく二階の個室まで連れていったのは、弱った姿を人に見られたくはないだろうというレンなりの配慮だ。
とりあえずベッドに寝かせようとするが、鉄進がそれを拒否する。理由を問えば、
「……夢見が、悪いんだ」
とレンでもわかるくらい気まずそうな表情を浮かべた。
鉄進から聞き出した内容をざっくりまとめると、連日の悪夢が原因で不眠症に悩まされているとのことだった。この一週間は夜に一睡もできず、日中に少しだけ仮眠をとって過ごしていたらしい。
そう言われて昨日までの鉄進の様子を思い出すが、特に違和感はなく、一番傍にいる麻績からもそう言った話題は出なかった。
どんだけやせ我慢してたんだよ、と内心で呆れ、完璧主義なライバルの意外な弱点を見つけてこっそりと優越感を抱いた。そこまでは良かった。
「あのさ、昔兄貴がよくしてくれたんだけどよ——」
世話焼きな兄譲りの『オレが何とかしてやりたい』欲が、レンの中でむくむくと頭をもたげてしまったのだ。
▽
レンはいつの間にか鉄進の動きが止まっていることに気づいた。暗闇に慣れてきた目に黒い頭頂部が映る。
鉄進は背中を丸めてレンの左腕に額を付けるような恰好をしているようだ。それ以外の部分はほとんど触れていない。レンとしては助かるが、寝ている間に落ちないだろうかと少しだけ心配になる。そうなったことは一度もないのだが。
そろそろと右腕を伸ばして肩のあたりに触れた。
鉄進はビクリと身体を震わせただけでやはり何も言わない。
レンはそのまま右手を動かして、トントンと一定のリズムでその背中を叩き始めた。いわゆる『寝かしつけ』というやつだ。
あの日以来、鉄進は悪夢を見た翌晩にレンの部屋へやってくるようになった。そして一緒に朝まで眠るのだ。こうするとよく眠れるうえ、しばらく悪夢を見なくなるらしい。
何で自分より年上の男、しかも年中喧嘩をしているライバルの寝かしつけなんかやってるんだよ、と脳内の冷静なレンがツッコんでくるが、それを「うるせー!」の一言でねじ伏せて一秒に一回のリズムを刻むことに集中する。
しばらくそうしていると固くなっていた身体から徐々に力が抜けてくるのがわかった。あとは深くなっていく呼吸に合わせて叩くペースを少しずつ遅く、優しくしていく…………。
鉄進が完全に寝入るまで五分とかからなかった。
起こさないように細心の注意を払いつつ、レン自身が寝やすいポジションを見つけて、今夜のミッションは完了だ。
首尾よく事が運び浮かれたレンは、眠っている相手の頭頂部に向かってそっと囁く。
「おやすみ」
想像以上に甘い声になって顔から火が出た。
