このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

はるかさんとみちるちゃん




 パパとママに連れられて私はサーキット場に来ていた。今まで聞いたこともない程の大きな音に圧倒されて固まっている私にパパもママもくすくすと笑っている。

「みちるは耳がいいからな。びっくりしちゃったかい?」
「う、ん……」

 慣れるまでは少し耳を手で覆っておいた方がいいかもしれないね、というパパの言葉に頷いて私は自分の耳をそっと手のひらで覆った。
 たくさんの車が大きなエンジン音を響かせて走る姿は私が見たことのない景色でとても新鮮だった。
 普段は静かなお部屋でヴァイオリンを弾いたり、絵を描いたりしている私がここにいるのはパパとママが応援しているレーサーさんが大会に出ているから。お仕事で忙しい二人はなかなかそのレーサーさんが出る大会を見に行けないらしくてたまたま一緒にお休みになった今日、私を連れてここに来たのだ。
 車が大好きなパパが応援するのは分かるけど、私と同じようにあまり車が分からないママも応援しているのが珍しくて昨日の夜、私はママに聞いてみた。

    ◇◇◇

「どうしてママもそのレーサーさんを応援しているの?」
「そうねぇ、その人がまるで風のような人だからかしら」
「風?」

 優しく微笑んで頷くママにふぅん、と返すとママは私の頭を撫でた。そして私を膝の上に乗せると後ろから抱き締めてそっと囁く。

「車はママも分からないけれどね、その人の走りは見ていてとても気持ちが良いの。何だか見ていると何でも出来そうな、私も頑張ろう、っていう気持ちが湧いてくるのよ」

 不思議よね、と笑うママを見上げる。ママの言うことはよく分からなかったけれど綺麗に笑うママを見て私も笑った。

    ◇◇◇

 そして今日、私は初めてレースを見ていた。
 やっぱり車はよく分からなくてどれも同じように見えるけれど一台だけ、とても速くて、でもどの車よりも綺麗にサーキット場を走る車があった。
 私の目はその一台に釘付けにされる。重力とか、何もかもを無視したような走りにまるで風のようだ、と思った。
 ハッとなって、隣にいるママを見上げる。いつの間にか私を見ていて、昨日見せた綺麗な笑顔を再び浮かべる。そして、ね? と言って首を傾げるとまたコースに視線を戻した。ママが見ている車は私が見ていた車と同じだった。
 私ももう一度その車をじっと見つめる。本当に風のように、自分の体のように自由自在に車を操るその人がパパとママが応援するレーサーさんなのだと分かった。
 気が付くと耳を覆っていた手は胸の前でギュッと握られている。そして私の耳はいくつものエンジン音が重なって、ただ大きな音としか思えなかったその中から不思議と風のように走るその一台の車の音だけを拾っていた。
 熱心にその車の走りを見ているとその車は一番にコースを走り終えてゴールする。大きな歓声がサーキット場に響くけれどそれも私の耳には届かない。
 車を操っていたレーサーさんは降りてくるとヘルメットを取った。ヘルメットの下から現れたのは太陽の光を反射させてキラキラと輝く蜂蜜色の髪とキリッとした凛々しい濃い翠色の瞳。整った顔は勝利に笑顔を浮かべる。
 その笑顔はとてもキラキラと輝いていて私の心臓はドキドキと大きな音を立てる。
 チームの仲間や記者の人たちに囲まれるレーサーさんをじっと見つめているとパパが優しく私の頭を撫でた。あまりにもずっとその人を見ていたから突然誰かに触られたことにびっくりしてしまって私は肩を大きく跳ねさせた。

「はは、ごめんよ。びっくりさせちゃったね」
「パ、パパは悪くないわ……!」
「そうかい? ありがとう。……それにしても、さすがだな」

 パパは私の頭に手を乗せたままたくさんの人に囲まれるレーサーさんを見て目を細める。ママは可笑しそうに笑うとそれはどっちでの意味かしら? とパパに問いかけた。
 どういう意味だろうと見上げるとパパは苦笑いを浮かべて私を抱き上げた。

「どっちもだよ。優勝することは疑いもしなかったけど、まさか海王の人間全員を虜にするとはね」

 パパはそう言うと抱き上げた私を優しい笑顔で見つめる。その言葉と表情に意味を理解した私は顔を真っ赤にさせる。そしてそれを隠すようにパパの肩に顔を埋めた。パパは私を抱っこしたまま歩き出すと建物の裏側に回って一人になっていたレーサーさんに声を掛ける。

「やあ、はるか」
「海王さん」

 声を掛けられて振り返ったその人はパパを見つけると微笑みながら歩み寄ってきた。後ろに立つママにもこんにちは、と言った後パパの腕の中にいる私に視線を向けて娘さんですか? と問いかける。
 パパは私を下ろすとそっと背中を押して自己紹介をするように言った。

「は、はじめまして。海王みちるです」
「初めまして。僕は天王はるか。レーサーをやっているよ」

 よろしくね、かわいいお嬢さん、と私の手を取ると手の甲にキスをした。あまりにも自然に、当然のことのようにするから私はただ見つめるだけしか出来なくて。自分の身に起こったことを理解すると急に顔が熱くなるのを感じた。
 パパが横からこらこらこら、と割って入ってくるとはるかさんはきょとんとした顔でどうかしました? なんて首を傾げる。

「本当に、君ってやつは……」
「ふふふ、それがはるかさんの魅力でしょう」

 頭を抱えるパパと楽しそうにしているママ。そんな二人の姿を見てああ、パパもママもはるかさんのことが大好きなんだと直感的に思った。
 私はまだきょとんとした顔でパパたちを見つめるはるかさんを見上げる。
 さっき、たくさんの人に見せていた笑顔は綺麗でキラキラしていてかっこいいなぁと思った。けれど今は大きくて凛々しい瞳を丸くさせて、お口も少し開いていてなんだかかわいいと思った。
 そうしてぼーっと見つめていると私の視線に気付いたのかはるかさんはこちらを向いて笑顔を浮かべる。

「どうかした?」
「い、いえ! なんでもないです!」

 ブンブンと頭を横に振ってママの後ろに隠れる。きっと真っ赤になっているだろう顔をママの服に埋めて隠しているとママは笑いながら私の頭に手を乗せた。

「恥ずかしがり屋さんなの。特にあなたったらかっこいいんですもの、誰だってこんな風になっちゃうわ」
「お世辞がお上手ですね」
「あら、お世辞なんかじゃないわよ。私だってあなたに魅せられてしまったうちの一人ですもの」
「おや、それは嬉しいお言葉ですね。あなたのような美しい女性に想って頂けるなんて光栄ですよ」

 なんだか大人な雰囲気を漂わせるはるかさんとママの間にパパが割って入る。私との間に入った時よりちょっと本気で焦ってるように見えた。
 ママを自分の腕の中に抱き寄せるパパにはるかさんもママも声を上げて笑う。

「ははっ、冗談ですよ。海王さん」
「ふふふ、そうよあなた」
「君たち、僕を揶揄うの好きだよね……」

 大体、君たちがやると冗談に見えないし聞こえないんだ! と珍しく声を荒らげるパパに私は目をパチパチとさせる。見たことのないパパを見て、もしかしてパパって本当はもっとお茶目な人なのかな、なんて思った。
 そう怒らないでちょうだい、とパパを宥めるとママは時計を見てそろそろお暇しましょうかと言った。

「はるかさんも大会終わりでお疲れでしょう?」
「お気遣いありがとうございます。でも、体力だけはある方なので大丈夫ですよ」
「それもそうだな。ああそうだ、優勝おめでとう。それを言いに来たのに全く君ときたら……」
「ありがとうございます。それもこれも、海王さんのおかげですよ」

 にこやかにはるかさんが答えるとパパは苦笑いをして君の実力だよ、と返した。そしてまた来るよ、と声を掛けたパパは私たちをエスコートして来た道を戻る。
 途中でちらりと後ろを振り返るとはるかさんは私たちを見送っていた。私が振り返ったことに気付いたはるかさんは笑顔を浮かべると手をひらひらと振ってくれた。気が付くと私も控えめに手を振り返していた。

    ◇◇◇

 お家に着いてからも私ははるかさんのことを考えていた。
 はるかさんは何が好きなんだろう、何が苦手なんだろう、どんな人なんだろう、笑顔が素敵だったな、……また、会いたいな。
 はるかさんのことが頭から離れなくてヴァイオリンのお稽古もお勉強も全然上手くいかない。私はヴァイオリンを片付けるとよし、と気合いを入れてママのお部屋へ向かった。

「ママ?」
「あら、どうかしたの?」

 お仕事をしていたのか、たくさんの書類を持ったママが微笑みながら私を迎え入れてくれた。やっぱりまた今度にした方がいいかな、と思ってお部屋を出ていこうとするとママに引き止められる。

「今日は本当はお休みだもの。ちょっと時間が空いたから見ていただけなの」
「じゃあ、今お話してもいい?」
「もちろんよ」

 お茶を用意するからちょっと待ってね、と言うとママはお部屋の隅に置いてあったティーカップを取り出し始める。
 椅子に座ってお茶を用意するママを見つめながら、私はまたはるかさんのことを考えていたようで気付いたらお茶を淹れ終えたママが目の前に座っていた。

「ふふ、みちるがぼうっとしているなんて珍しいわね」
「あ、ごめんなさい……」
「あら、謝ることなんてないのよ?」

 それで、お話したいのはみちるがぼうっとしているのと何か関係があるのかしら? とニコニコしながら聞くママに私はびっくりした。ママって何でも分かるのね、と呟くとみちるは意外と分かりやすいのよ? なんて言われる。

「あのね、はるかさんのことなんだけど」
「ええ」
「……はるかさんって、どんな人、なの?」

 一回深呼吸をしてママを真っ直ぐに見つめると私はそう聞いた。ママも同じく私を真っ直ぐに見ていて、しばらくお互いに真剣な顔をして見つめ合う。そしてママはゆっくりと目を細めて優しく笑うとはるかさんのことが気になるのね、と呟いた。
 私は顔が熱くなるのを感じながら小さく頷くとあらあらまあまあ、本当にみちるったら可愛いんだから、とママに頭を撫でられた。

「そうねぇ、はるかさんがどんな人か知りたいのよね、みちるは」
「うん」

 ドキドキとワクワクを感じながら人差し指を頬に当てて斜め上を見ながら考えるママに前のめりになる。少し考えて、斜め上に向けていた視線を私に合わせるとママはにっこりと微笑んでこう言った。

「分からないわ」
「…………え?」

 パチパチと目を瞬かせてママの言葉を頭の中で繰り返す。聞き間違いかな、今、分からないって言ったように聞こえたんだけど。
 わから、ない、とそのままオウム返しをするとそう、分からないの、と紅茶を口にしながらママが頷く。

「え、……え? 分からない、のに、応援してるの?」
「そうなのよ〜」

 ええ? と困惑しながらママを見つめ返すとそれまでちょっとだけ揶揄うような顔をしていたママは目付きを変えて、けれど笑顔のまま、また口を開く。

「はるかさんの年齢とか経歴とか、そういうのは分かるわ。大体どういう性格な人なのかとかもね。でもきっと、みちるが知りたいのはそういう事じゃないでしょう?」
「う、ん……?」

 ママの言葉はちょっとだけ難しくて全部は理解出来なかった。でも何となく、そんな気もした。私のことなのに私以上に何でも分かっているママ。そんなママを私は尊敬している。

「私から見たはるかさんとみちるから見たはるかさんはきっと違うわ。だからみちるが自分で交流を深めてはるかさんがどういう人なのか知るべきだと思うの」

 ママの言うことに私はその通りだと思った。私はまだまだ子どもだけれど同い年の子たちと比べたらパパとママのお仕事の関係でたくさんの大人の人たちと会ってきたと思う。その中で他の人から聞いた印象と全く違う人に何度も会ったことがある。
 人伝に聞いたものはそのまま受け取るのではなくてあくまで参考にする情報としておきなさい、といつも言われていた。それは途中でわざとだろうがそうでなかろうが、事実と違う情報が混ざったり歪んだりしてしまうからだと。
 ママがわざと嘘を言うことなんてないと思っているけれど確かにママから見たはるかさんは本当のはるかさんではなくて、私が知りたいはるかさんでは無いかもしれない。嘘じゃなくてもママの印象が混ざったはるかさんになってしまうから。

「でも私、はるかさんと上手くお話出来る自信がないわ」

 俯いてこぼす。今までそれなりに大人の人ともお話をしてきたことはあるけれどそれは形式に沿ったやり取り。だから笑顔を浮かべて決められた言葉を並べて、たまにイレギュラーな会話になったとしてもそれはパパたちがサポートしてくれたしたくさんある言葉の中から当たり障りのないものを選んできた。
 でも今回はそんな形式なんてない。ただただ、私がはるかさんを知りたい、はるかさんとお話がしたいという状況だから上手くお話が出来る自信がないのだ。
 同じ年の子たちとお話をすることだって私には難しくて、だから私はお友達と呼べるお友達がいなくてヴァイオリンや絵画に力を注いでいるのだから。

「そうねぇ、みちるは他の人とお話するのが苦手だものね。でも、いつまでも避けてはいられないわよ?」
「うん……」
「言い方は悪いけれど、はるかさんを練習台に頑張りましょう? 大丈夫、はるかさんは優しい人だから根気よく付き合ってくれるわ。それにみちるも、好きな人相手なら頑張れるでしょう?」
「すっ……⁉ え⁉ ち、違うわ! そういうのじゃなくて……‼」

 慌てて否定するけれどそんな私を見てママは面白そうに笑っている。ママって本当、私やパパを揶揄うの好きよね。頬を膨らませてママを軽く睨むとあらあら、ごめんなさいね、と全く思っていなさそうな笑顔で謝られた。
 でもきっと、ママの言う通りなのだろうとぼんやり思う。今まで他の人に興味を持ったことなんてなかったし、何よりはるかさんのことを考えるとドキドキとして仕方がないもの。

「ママはみちるのためなら何だってするわ。きっとパパも力を貸してくれる」
「本当?」
「本当よ。みちるは私たちのかわいい大切な娘ですもの」
 でもきっと、パパは複雑かもしれないわね、と笑うママに私は首を傾げた。

    ***

「おーい、はるか! 休憩だー!」
「はい!」

 今日もいつものようにサーキットを走る。車を操って風のように走っている時が僕は一番好きだ。
 今まで色んなスポーツをやってきたけどここまで僕を虜にしたスポーツは無いしきっともう二度と現れないだろう。
 ずっと何かに追われるような感覚を持っていて、それから逃げたくて、風のように身軽になりたくて、そうしてやっていた陸上は少し苦しかった。誰も僕の相手にならないというのもあったかもしれない。
 けれどモータースポーツは違った。本当に風のようになれた。何もかもを振り切れるような気がした。実際、モータースポーツを初めてから何かに追われるような感覚は薄くなっていった。完全に消えた訳では無いけれど。
 それでも以前の僕よりは随分とマシな人間になったような気がする。前は誰も寄せ付けないようなオーラを出していて怖かったとチームの仲間に言われたくらいだったからな。
 なんて、一人苦笑いを浮かべてそんなことを考えていると僕にお客さんが来ていると呼ばれた。待合室に顔を出せば僕を支援してくれて、さらにはついこの間の大会にも来てくれた海王さんの奥さんと娘さんがいた。

「こんにちは。お待たせしてしまい申し訳ありません」
「いえ、私たちも突然お伺いさせて頂いたのでお気になさらず」

 海王夫人は微笑むと今日は娘があなたとぜひお話をしたいと言うもので、と続けた。夫人の横にちょこんとかわいらしく座っている淡い翠色のウェーブがかった髪を持つお人形さんのように白くて整った顔立ちをした娘さん、もといみちるちゃんに視線を移すと少し頬を染めて僕を見ていた。
 その様子にみちるちゃんが僕に対してどのような気持ちを抱いているのか察して内心、頭を抱えた。
 きっとみちるちゃんは僕のことを男だと思っているに違いない。そして海王さんのあの慌てぶりから考えると恐らくみちるちゃんは大事に大事に、お家の中で育てられてきた完璧なお嬢様だろうと推測出来る。
 初めて触れた父親や執事などの身内では無い異性に小さな女の子がときめくのは仕方の無いことだと思う。いや、僕は男じゃないけど。
 でも男とか女とかそんなのは僕にとってはどうでもいい事で、今までも好きな格好で好きなことをしてきた。ただ、そうしていると女の子たちは僕の見た目によく寄ってきた。
 別に男になりたいわけではないけれど結局僕はどんなに頑張ろうと抗おうと女であり、それを知った女の子たちはショックを受けたような顔をして、落胆して離れていく。それに疲れてしまった僕は最近では女の子に対してかなり塩対応になったと思う。仲間曰く、そうでもないらしいけど。
 だけれどこんなに小さくかわいらしい、両親に大事に育てられてきた女の子を無碍にするようなことは僕には出来ないししたくない。しかしたとえ小さな女の子だとしても現実を見てもらう他ないだろう。なるべく傷付けないように慎重に誤解を解かなければならない。

「そっか。みちるちゃんは僕と何をお話したいんだい?」
「え、と。その……」

 まずは普通に会話から。いきなり僕は女だよ、と言うのは流石に変だろう。だから微笑んで問いかけてみればみちるちゃんは顔を俯かせてもじもじとする。視線を色々なところに移して慎重に言葉を選んでいるように見えた。そんなみちるちゃんをじっと見つめて僕は気付く。
 僕を前に緊張しているのもあるだろうけど、きっとみちるちゃんは他の人の前でもこうなのだろうと。
 そりゃあ大事に家の中で育てられてきて身内以外の人に触れる機会の少ない子どもならばそうなるのも無理はない。幼稚園か小学校かに通っていると思うけれど子どもは純粋で、時に残酷だ。
 今みたいに慎重に言葉を選んで言いあぐねているうちに待ちきれなくなってみちるちゃんの傍を離れていってしまうのかもしれない。
 そうして一人残されるみちるちゃんが抱く気持ちを、僕は理解出来た。勝手に寄ってきて勝手に離れていく奴は僕の周りにも山ほどいる。だからじっと黙って、僕はみちるちゃんの言葉を待つ。

「あの、私はるかさんのこと、知りたい、です!」

 しばらく俯いていたみちるちゃんはバッと顔を上げると頬から耳から真っ赤にして、けれどしっかりと僕を見つめて大きな声でそう言った。
 一瞬静まり返った後、部屋には海王夫人のくすくすという笑い声だけが響く。そして固まったままみちるちゃんを見つめて数秒、僕は久々に声を上げて笑った。

「ふっ、あははは!」
「えっ、え?」

 腹を抱えて笑う僕と口元を隠しながら上品に笑う海王夫人を交互に見たみちるちゃんは恥ずかしそうに体を小さく丸め、蚊の鳴くような声でごめんなさいと呟く。
 慌てて笑ってしまったことを謝るけれどすぐに笑いを抑えることは出来なくて息を切らしながら僕は弁解をした。

「いや、ごめんね。はは、そんな真っ正直に言われたのは初めてだったからさ」

 結構大胆な子なんだな、と僕の中でみちるちゃんに対する印象が変わった。

「うん、いいよ。お話しよっか。僕もみちるちゃんのこと知りたいな」

 さっきまでは傷付けないように誤解を解かなければ、と頭がいっぱいで唸っていたというのになぜか無意識のうちに言葉がこぼれていた。みちるちゃんは僕の言葉に花が咲くような笑顔を浮かべると本当に嬉しそうにありがとうございますと言った。
 そんなみちるちゃんの笑顔は僕が今まで見てきた女の子の笑顔の中で一番綺麗で可愛かった。
 そんなことを思いながら早速お話をしようとしたけれど、今日はちょっと時間が無くてお互いの簡単な自己紹介だけで終わってしまった。それに対して残念だと肩を落とし、さらにみちるちゃんと話している間、軽く心臓が高鳴っていたことに気付いた僕は今日最初にみちるちゃんと会った時とは別の意味で頭を抱えた。

    ***

 ママに相談をした数日後、私ははるかさんと直接お話をした。そしてその日、私ははるかさんが女の人だということを知った。知った時はとても驚いてしまって、きっと変な顔をしてしまったと思う。それがちょっと恥ずかしかったしはるかさんに申し訳がなかった。
 けれど私は別にはるかさんが女の人でも気にならなかった。むしろ男の人とか女の人とか関係なく、私ははるかさんに惹かれたのだと知ることが出来て良かったと思う。
 はるかさんは私の途切れ途切れの言葉にも辛抱強く待ってくれてぎこちなくも何とかお話をすることが出来た。まだまだ色々お話をしたかったけれど突然会いに行ってしまったから時間もなくてお互いの簡単な自己紹介くらいでこの間は終わってしまった。

「あの、私またはるかさんとお話、したいです」

 勇気を振り絞って最後、帰る間際に呟くとはるかさんは笑って今度時間を作っておくよ、と言ってくれた。
 はるかさんがとても忙しい人だということは何となく分かっていたからわざわざ時間を作ってくれることに申し訳なさを感じたけれど、同時に私のために時間を作ってくれる事が嬉しかった。
 次にまた会う約束をして別れてから数日、あれから私ははるかさんに会えていなくてちょっぴり気持ちが沈んでいる。まだたったの数日しか経っていないというのに。
 次はいつ会えるのだろうというワクワクはとうの昔に無くなってしまって早く会いたくて仕方がなかった。いっその事、姿を見るだけでいいからサーキット場に連れて行って貰おうかとも思ったけれどはるかさんの邪魔をしたくないし嫌われたくないのと、ママたちも忙しいからワガママを言いたくないのとで我慢している。
 だけどそろそろ、お勉強やヴァイオリンに影響が出てきてしまってダメかもしれないと思い始めた。
 まだはるかさんに会ってちょっとしか経っていないのにはるかさんに会えないだけで他がダメになるなんて情けないと思いつつ、そうなってしまうほど私ははるかさんが気になって仕方がないのだと自分の気持ちに気付かされてしまって嬉しかったり恥ずかしかったり。
 ママにはるかさんが好きなのねと揶揄われた時はぼんやりとそうかもしれないと思ったけれど、日に日に大きくなっていくはるかさんに対する気持ちに私ははるかさんが好きなのだとはっきりと気付いた。
 あの時は慌てて違うと言ったけれど、もう違うとは言えないし、言いたくない。自分の気持ちが分かった時にストンと納得して私はそう決意した。
 はるかさんは女の人だとか、歳が離れすぎているとか、そんなこと言われたって私ははるかさんが好き。誰になんと言われようと私の気持ちを他の人に曲げられるなんて絶対に嫌。
 初めて家族以外で好きになった人。まだはるかさんのことは全然知らないけれど、知っていくうちに嫌いになるなんて絶対ない。何故か私はそう思えた。
 私にとってはるかさんはきっと運命の人なんだって、本当に心からそう思う。
 早く会いたいな、私のことも知って貰いたいな、なんて思いながらヴァイオリンを弾いているとお部屋の扉がノックされた。返事をして扉を開けるとそこにはここにいるはずのない、けれど今まさに会いたいと願っていた人が立っていた。

「やあ。こんにちはみちるちゃん」
「……え? はる、かさん?」
「お邪魔するよ」
「え、……え?」

 ニコニコと笑顔でお部屋の中に入ってくるとはるかさんは近くにあった椅子に腰掛ける。私は色んな感情が混ざって困惑したままはるかさんの動きをただ目で追うことしか出来なかった。
 どうして、と私が口を開くより前にはるかさんはヴァイオリン弾いてよ、と言った。
 色々聞きたいことがあるし好きな人の前で初めてヴァイオリンを弾くことにものすごく緊張するけれど、私ははるかさんにお願いされるままヴァイオリンを構える。
 一曲弾き終えた私はゆっくりとヴァイオリンを下ろして深呼吸をする。心臓がドキドキと大きく跳ねていて、どんなコンクールに出たってこんなに緊張したことはないししないだろうと思った。
 落ち着かせようと胸に手を当てるとパチパチという音がお部屋に響く。音の鳴る方に視線を向けるとはるかさんが柔らかい笑みを浮かべて拍手をしていた。

「凄いな。音だけ聴いていたらとても六歳の子が弾いているとは思わないよ」
「そう、でしょうか」
「君はきっと凄いヴァイオリニストになるんだろうな」

 ああ、せっかく落ち着いてきた心臓がまた大きく跳ね始める。好きな人に、はるかさんにこんなに褒められてしまっていいのだろうか。
 まだまだ自分が未熟だということは分かっているけれど私は素直にはるかさんの言葉を受け取って微笑んだ。

「あの、どうしてはるかさんがここに?」

 そしてずっと気になっていた、むしろ聞かない方がおかしいだろうという質問をようやく口にするとそれまで笑顔だったはるかさんは苦笑いをして答えた。

「いや、さ。今度時間作るよって言っただろ? そしたら海王夫人……君のお母さんにうちに来たらどうだって言われてね。最初は断ったんだけど、君のお父さんにもぜひ来てくれって言われちゃって」
「そうだったんですね。私、知らなかったので扉を開けたらはるかさんがいるから。びっくりしちゃった」
「どうやらみちるちゃんには内緒にされてたみたいだね」

 きっとママがパパに内緒にしておくように言ったのだろうな、と私も苦笑いをする。確かに驚いたけれど、でもとっても嬉しかったから、後でママにありがとうって言わなくちゃ。

「ね、今日僕一日暇なんだ。良かったら話し相手になってくれないかな?」

 嬉しいお誘いの言葉に大きく頷くとはるかさんはくすくすと綺麗に笑った。その笑顔にどきりとする。かっこいいとは思っていたけれど、それと同じくらい綺麗なんだと、むしろ綺麗だからかっこいいんだと気付いた。
何とかドキドキする心臓を押さえて今日ははるかさんのこといっぱい知れたらいいな、私のことも知ってもらえたらいいな、と思いながらはるかさんの近くの椅子に腰掛けた。
 はるかさんとお話をするのはとても楽しくて気が付くとお日様が沈みかけていた。
 そろそろお暇するよ、と言ったはるかさんにパパもママも晩御飯を食べていったらと誘ったけれど断られてしまった。

「それじゃあまた来てくれるかい? その時は夕飯も一緒にしてくれると嬉しいんだけどな」
「そう、ですね。それじゃあまたお邪魔した時に」

 最後、パパがそう言うとはるかさんは断りきれずに頷いた。じゃあまたね、と手を振って帰って行くはるかさんに私も手を振り返して見送る。

「パパ、ママ、ありがとう」
「うん? 何がだい?」
「ふふ、はるかさんとお話出来て楽しかった?」

 パパは照れ隠しで惚けて、ママは優しく笑って今日のことを聞いてくる。
 晩御飯までの時間、私はパパたちとお茶をしながらはるかさんとたくさんしたお話の内容について話した。

「はるかさんね、ピアノを弾けるんだって。今度一緒に弾いてくれるって約束してくれたの」
「そう。それじゃあ今度はるかさんが来る時は私もお休み貰わなくちゃね」

 ママの言葉にパパと声を揃えてえ? と呟くとママはだってはるかさんのピアノ聴いてみたいもの、と笑った。

「君は本当にはるかが好きだな」
「それはあなただってそうでしょう? こっそりお仕事お休み取るつもりのくせに。ずるいわ」
「いや、それは、その……」

 図星を指されたパパはバツが悪そうに笑う。ママは唇を尖らせてパパを見たあとに私に向き直って笑うと言葉を続けた。

「でも一番はるかさんを好きなのはみちるよね。それに、はるかさんもきっとみちるのこと好きよ。ピアノが弾けるなんてママもパパも知らなかったもの」
「そうなの?」

 突然矛先を向けられた私は顔を赤くしながら聞き返すとパパたちは頷いた。はるかさんとのお付き合いが長いパパたちが知らなかったことを私は教えて貰えた。そのことが凄く嬉しい。

「さあ、まずはお夕飯を食べましょうか。その後はスケジュールの調整をしなくちゃ」
「まずは次の休みがいつかはるかに聞かなくちゃだな……」

 そわそわとスケジュール帳を取り出して部屋を出ていくパパに私とママは顔を見合わせて二人で笑ってしまった。

ーーー本誌に続く
1/1ページ
    スキ