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夢が叶うその時に

 ゆらゆらと立ち上る煙をその向こうに広がる海と共にぼんやりと見つめる。数秒置いて、右手で持っていた煙草を口元へ寄せ吸い込む。
 ふぅ、と吸い込んだ分を吐き出せば薄く白い煙が視界を覆った。
 そろそろ新しいのに変えようかと手で持っていた煙草を口に咥え、携帯灰皿と煙草、ライターを取り出すためにポケットに手を入れた。

「体に悪いわよ」
「ん、」

 突然、横から伸びてきた手に咥えていた煙草を取られる。声の聞こえた方に視線を向ければエメラルドグリーンの髪を潮風に揺らしながら微笑む世界的に有名なヴァイオリニストがいた。

「なんだよ。君には関係ないだろ」

 そわそわして、どこか落ち着かなくて、そういった時に誤魔化そうと突き放すようなセリフが出てしまう癖は昔から変わらなくて。
 それを彼女も分かっているからくすくすとおかしそうに笑って僕の手から奪った灰皿に煙草を押し付ける。

「それで、私には関係ないのかしら。世界に名を轟かせるレーサーさん?」
「なんで僕にそれを聞くかな。僕を捨てた君が一番よく分かってるんじゃない? 世界に名を轟かせるヴァイオリニストさん」

 あら、捨てたわけじゃなくてよ、と表情を変えずに海に視線を向けた彼女に僕はふーん、と答えるだけだった。
 しばらく二人で海を見つめ、僕はため息を一つ吐く。そしてゆっくりと手のひらに収まったままの煙草に視線を向ける。そんな僕をちら、と横目で見た彼女に僕は笑みを見せた。

「これ、別に好きじゃないんだよね。でも口寂しいってのがなくなるんだよ」
「そう」
「君の言う通り体に悪いからやめたいんだけど。手伝ってくれない?」
「あら、私には関係ないんじゃなかったかしら」

 からかうような笑顔と声音でそう言うもんだから、僕は苦笑いを浮かべて肩を竦めた。
 彼女に正面から向き合えば、彼女も僕を正面から見つめる。

「な、いいだろ。みちる」
「……よくってよ、はるか」

 そっと背伸びをするみちるを抱きしめて僕は唇を寄せた。

    ◇◇◇

 それはあまりに突然で、そして予兆もなく起こったことだった。
 前日、珍しくみちるの方から甘え、誘ってきたものだから僕は随分と彼女を可愛がった。そのおかげか、次の日目が覚めた時にはお昼を過ぎていて隣にあるはずの温もりはすっかりと冷たくなってしまっていた。
 ノロノロと体を起こしてリビングへ。お腹は空いてなかったけど喉は乾いていたから飲み物を取るために冷蔵庫を空ければ作り置きされたご飯とメモ紙があった。

『起きて飲み物だけはダメよ。ご飯もちゃんとお食べなさい』

 メモ紙にはそう書かれていて擽ったい気持ちになりながら言われた通りにご飯を食べる。食べながら今日はみちるは夜遅くまで仕事だっけ、ということを思い出す。
 たまにはご飯でも作っておこうと思った僕は朝昼兼用となったみちるお手製のご飯をしっかり完食すると外へ出た。
 ふらふらと街を歩いて適当な時間になったら食材を買って家で晩ご飯の用意をする。
 みちるが帰ってくるまで暇を持て余した僕は雑誌を眺めたりテレビを付けてみたり、最終的には暇すぎて掃除をし始めた。
 それでも全然帰ってこないみちるに痺れを切らした僕はそのままソファで不貞寝をした。

『はるか、好きよ。私はちょっと外に出るけれど、この気持ちは変わらないわ。ずっと好き。あなただけを愛してるわ』
「ん、みちる……」

 みちるの声が聞こえた気がして目を覚ます。ぼやっとした頭のまま周囲を見回すが人の気配は感じられない。外はもう既に日が昇っていて日付が変わっていることを知らせていた。
 しばらく外の景色をぼんやりと眺めてようやく働き出した頭で理解する。
 ああ、みちるは帰ってこないんだ、ということを。

   ◇◇◇

「お久しぶりです」
「やあ、帰ってきてたんだ」

 仕事を終えてサーキット場から帰ろうとした時、目の前に現れたのはアメリカに渡ったせつなだった。数年ぶりに会った彼女はほとんど以前と変わらない美貌を持ちながら艶やかさが増していた。
 で、そんな美人が眉間に皺を寄せて仁王立ちするもんじゃないんじゃないかって僕は思うんだけどな。

「この後空いてますか? というか空けなさい」
「空いてるよ。まあ空いてなくても君のためなら全部キャンセルするけどね」
「そうですか。では車を出してください。私ここまでタクシーで来たので」

 僕の言葉は華麗にスルーされた。新たな時代に誘われたのはせつななのかもしれない。
 せつなを車に乗せて向かったのは僕らの家。好きな所に座って待っててと言って僕は二人分のコーヒーを淹れる。
 ソファに腰掛けたせつなにコーヒーを渡しながら僕も近くの一人がけのソファに腰を下ろす。

「ありがとうございます」
「どーいたしまして」

 一口飲んで息を吐く。お互い黙ったまま少し時が経ち、ゆっくりと口を開いたのは僕だった。

「いつ帰ってきてたの?」
「三日前ですかね。研究会の関係で帰ってきて、それが終わったらまたアメリカへ帰ります」
「そっか」
「はるかは、海外へ行かないのですか?」

 少し窺うように問うせつなに僕は軽く笑みを浮かべる。予想していた質問だ。彼女が突然現れたのもそれを聞きたかったからだろう。

「行ってるだろ」
「それは遠征ででしょう。拠点は日本じゃないですか」
「そりゃ僕は日本人だからね」

 誤魔化すような言い方が気に触ったのか少し険しい顔を浮かべるせつなに僕は肩を竦めた。視線をせつなから外してぼーっと宙を眺める。

「あなた、痩せましたね。ご飯は食べてるんですか?」
「……んー、そこそこ。食欲無いんだよね」
「みちるがいないからですか?」

 ストレートに核心を突いてきた。もともとあまり食べるほうじゃない僕が三食しっかり食べれていたのはみちるがいたからだ。
 自分一人だと色々と疎かにしがちでよく怒られたもんだ。

「まあ、そうなるのかな」
「……一体、何があったんですか」

 せつなは心底心配そうに僕を見つめる。僕らがどこへ行くにも一緒にいることに一番呆れた顔をするのはせつなで、そして一番嬉しそうにしているのもせつなだった。
 そんな彼女に救われていた部分は大きく、感謝もしているから心配させてしまって申し訳ない気持ちはある。
 けど、こればっかりは僕が悪いわけじゃないと言わせて欲しいね。

「何もないよ。ある日、突然。みちるがいなくなったんだ」
「突然って、」
「そのままの意味さ。いつも通り過ごした次の日、仕事に出掛けた彼女はそのまま戻らなかった。連絡先は固定電話しか知らないし、通信機はみちるの机の上に置いてあった。荷物もそのまま、ちょっと出掛けてくるって感じのままいなくなったんだ」

 特に感情もなくただ事実を述べる。

「……では、みちるが出ていく理由は全く思い当たらないと?」
「そうだね」
「会いに、行ったりはしないのですか? 何故、突然いなくなったのかと知りたくないのですか?」

 切羽詰まった様子のせつなが可笑しくてくく、と小さく笑う。僕はおもむろに立ち上がるとダイニングテーブルの端に置きっぱなしにしていた煙草に手を伸ばした。
 そしてそのまま火をつけて口に咥える。せつなはそんな僕に目を見張っていた。

「まあ落ち着けよ。僕より君が気になってるじゃないか」
「それは、そう、かもしれませんが」
「別に、怒ったり悲しんだりしてないんだ。みちるはいつだって僕よりずっと先を見てる。そしてみちるが何かをする時、大抵それは僕のことを考えてる時さ。自惚れかもしれないけどね」

 煙を吸い込み、そして吐き出す。せつなに向けていた視線を下に落としてでも、と呟いた。

「でも、そうだな。寂しいって気持ちはあるかも。だってみちるのやつ、待っててくれって言わなかったんだぜ?」
「みちるに、会ったのですか?」
「会ったさ。夢の中で」

 バカにされるかな、と思ったけどせつなは真剣な顔のままそう、と呟いたきりだった。
 せつなは黙ったまま部屋の中を見回すと困ったような呆れたような笑顔を浮かべた。

「部屋、あなたが一人で住んでいるとは思えないほど綺麗ですね」
「あ、失礼だな。僕だって掃除くらい出来る」
「四人で住んでいた時もこのくらい掃除をしていてくれれば、私もみちるも困らなかったんですけどね」
「う、あー。まあ、それはそれだよ」

 くすくすと笑うせつなに僕もつられて笑う。そして笑いが収まるとせつなはゆっくりと立ち上がった。

「あなたたちに振り回されてばかりですね、私は」
「そんなつもりはないんだけどな。まあ、でも。ごめんって言っておくよ」
「思ってもないことを。まあ、でも。受け取っておきましょう」

 せつなはそう微笑むと玄関の方へ歩き出した。僕もその後ろをついて行き、靴を履き終えて振り返ったせつなと正面から見つめ合う。

「では、私が思っていたより大丈夫そうなので帰ります」
「なんだ、心配してくれてたの」

 当然分かりきっていたことを敢えて口に出して言えばせつなは片眉を上げて当然だろうという顔をする。

「私はですね、はるかのことが好きなんですよ。だから会いに来たんじゃないですか」
「それは光栄だ。僕もせつなが好きだよ」
「そしてですね。ほたるのこともみちるのことも好きなんです。なので私は会いに行きますよ」
「……そっか、それがいいと思う。ほたるはイギリスだし、みちるはヨーロッパだ。近いから二人に会いやすいんじゃない?」
「そんな簡単に言いますけどね、みちるはあっちこっち行くのでなかなか捕まらないんですよ」

 まるでどっかの誰かさんそっくりですね、という言葉に思わず吹き出してしまった。
 確かにそうだ。今のみちるはまるでどっかの誰かにそっくりだ。

「じゃあ大人しく一箇所に居続ける僕も、どっかの誰かさんにそっくりなんじゃないかい?」
「そうですね。とてもそっくりですよ。ただ、似合わないので早く元に戻って欲しいというのが私の本音です」
「善処するよ」

 僕の言葉にせつなは苦笑いを浮かべるとでは、と言って帰って行った。その背中を見送って僕は久しぶりにご飯でも作って食べようかという気分になった。

    ◇◇◇

「はるか、あなた随分と痩せたわね」
「そう? ……そういえば、せつなにも言われたな。じゃあ、そうなのかも」

 海の見える公園から僕らの家に帰ってきて、僕を抱きしめたみちるはそう言った。自分では変わらないと思っていたけど、一年程前にせつなにも同じことを言われたからそうなんだろう。

「せつなに言われたの?」
「一年前にね」

 言葉を交わしながら部屋の中へ入る。僕はキッチンにみちるのお気に入りの紅茶を淹れに行き、リビングに戻ると彼女は部屋の中に佇んでいた。

「座らないの? 紅茶淹れたけど」
「ありがとう」

 隣合ってソファに腰掛け紅茶に口をつける。僕は早々にカップをテーブルの上に置くと背もたれに体を預けて背筋を伸ばして紅茶を飲んでいるみちるの背中を見つめた。
 懐かしい、ずっと待ち焦がれていたその姿を見て無意識のうちに柔らかくうねるエメラルドグリーンの髪に手を伸ばしていた。
 ぼーっとみちるの背中と大好きな柔らかい髪を見つめながら僕はぽつりと、知らないうちに言葉を零していた。

「みちるさぁ……僕が君以外の人と一緒になってたら、どうするつもりだったの?」
「そうねぇ、私ははるかの幸せを応援したいし、はるかが幸せなら私も幸せだから潔く身を引くわ」
「嘘付け。君がどんなに僕のこと好きか知らないの? それに、僕は君以外の人と一緒にいて幸せになれないから、君も幸せじゃないと思うけど」
「……意地悪ね」

 みちるはカップをテーブルに置くと僕と同じように体を倒してきた。僕と違うのは体を預ける先が背もたれじゃなくて僕だってことだけ。
 ちょうど肩の辺りに頭を預けるからみちるの方を向けば視界はふわふわの髪でいっぱいになる。そのまま髪に顔を埋めて僕はまた口を開いた。

「みちるがさ、いなくなってから僕モータースポーツに打ち込むしかなくなって。気付いたら夢が叶ってた」
「……私も、はるかのそばを離れてヴァイオリンをやるしかなくなって。気が付いたら夢が叶っていたわ」
「怖いなぁ。みちるってどこまで未来が見えてるんだい? 下手したらせつなより見えてるだろ」
「そんな事ないわ。……賭けよ。大博打」
「じゃあ君にはギャンブルの才能があるんだな」

 くすくすと笑いながらみちるの髪から顔をあげる。みちるの頭を撫でながら一つ息を吐く。

「僕のもう一個の夢、叶えたいんだけど。聞いてくれる?」
「なぁに」
「ずっと、みちると一緒にいたい。もう、離れたくない、な」

 小さく囁くとみちるはゆっくりと頭を上げて僕の顔を見る。僕も、撫でていた手を止めてみちるの目を見つめた。そして微笑んだ。

「そうね、私も同じ夢を持ってるの。ぜひ叶えたいわ」

 その言葉を聞いて僕も微笑む。みちるの腕を引いて僕の腕の中に閉じ込める。もう絶対にどこにも行かないように。
 夢を叶えるなら、その時はやっぱり君が隣にいて欲しいなんて。僕も随分と欲張りになったなとそう思った。
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