最高の隠し味

 お仕事を終えて帰宅したのはいつもより随分遅い時間。今日はお夕飯の支度が私だったのに急なお仕事が増えてこんな時間になってしまった。
 もしかしたらせつなが変わってくれているかもしれないと思いながらタクシーから降りるとちょうど別のタクシーがやってきた。

「せつな」
「みちる、今帰ったのですか?」

 お互いにお互いの帰宅に驚いて声を上げる。私は急なお仕事が入ったことをせつなに告げれば私もです、と返ってくる。
 私もせつなも今帰ってきたというのならお夕飯の支度は出来ていないわけで。2人で急いで簡単なものを作ってお腹を空かせているだろう2人に詫びようと玄関の扉を開けた。

「あ、みちるママ! せつなママ! おかえりなさい!」

 扉を開けると可愛らしい笑顔を携えたほたるがお迎えしてくれた。私もせつなも自然と頬が緩みながらただいま、と言いながらほたるを抱きしめる。

「よく分かりましたね、私たちが帰ってきたこと」
「うん! はるかパパが帰ってきたよって教えてくれたの」
「そう。エンジン音かしらね」
「かもしれませんね。……ああ、そうです。ほたる、お腹が空いたでしょう。遅くなってしまってごめんなさい」

 すぐに何か簡単なものを作るわ、と言いながら3人でリビングへ向かうとほたるはにこにことした笑顔でううん! 私お腹いっぱい食べたよ! と言った。

「え?」

 せつなは驚いて声を上げるとしばらくしてはるかと外食をしてきたか、出前でも取ったのですか? と聞く。
 私も横で2人の会話を聴きながら歩を進めるとリビングが近付くに連れて美味しそうないい匂いがする事に気付いた。それに気付いた私は頬を緩ませながらせつなにどちらでもないみたいよと告げる。

「えへへ、みちるママ正解っ」

 リビングへの扉を開きながらさ! どうぞどうぞ、と私たちを促すほたるにありがとうと言いながら扉を抜けるとそこには私とせつなの分のカレーを用意して待っているはるかがいた。

「おかえり、みちる、せつな」

 遅くまでお疲れ様、と笑うはるかにありがとうと伝えながら席に着く。
 せつなは席に着きながら驚いたようにカレーとはるかを交互に見ていた。口にはしなかったけれど顔にありありとこれをあなたが? という言葉を張りつけていた。
 いただきますとせつなと声を揃えてカレーを口にする。

「美味しいです……!」
「ね! 美味しいよね!」

 初めてのはるかの料理にせつなもほたるも美味しいと口にした。どこか嬉しそうにしているせつなにほたるがパパのご飯食べれるからたまには遅くなってもいいよ、なんて笑った。

「本当、美味しいわ。久しぶりね、はるかのご飯なんて」
「そりゃあ4人で暮らし始めてからは君かせつながいつも作ってくれてたからね」

 いつもありがとう、と私とせつなに笑うはるかに私も笑い返せばほたるが驚いて私に質問をしてきた。

「え! みちるママ、はるかパパのご飯食べたことあるの!」
「ええ。2人で住んでた時に何回かね」

 でも、カレーは本当に初めての時以来ね、と思いながらはるかが初めてご飯を作ってくれた時のことを思い出す。

    ◇◇◇

 きっかけは何だったか。あまりよく思い出せないことを考えると本当に些細なことなんだったんだと思う。
 ただ、たまたまお互いの虫の居所が悪かっただけ。いつもならどちらかが宥めるのにその日はどちらも譲らなかった。

「もういいわ、あなたには呆れました。出ていきます」
「ふんっ、好きにしろ」

 そんな捻くれ者同士の会話をして私は必要最低限のものだけ持って実家に帰ってきた。父も母も突然戻ってきた私に驚きこそしたけれど優しく迎えてくれた。
 そしてはるかと喧嘩をして勢いのまま家を飛び出して数日、母とお茶をしている時に私はぽつりぽつりと戻ってきた理由を話していた。

「ふふふ、理由を覚えていないのね?」
「……えぇ」

 決まりが悪くて口篭ると母は笑いながら珍しいこともあるものね、と呟いた。

「いつも仲良しだから、喧嘩なんてしないのかと思ってた」
「そんな事ないわ。小さな喧嘩や、言い合いだってするわ。でも大抵すぐにどちらかが折れるから、今回みたいなのは初めて」

 はぁ、と溜息を吐いてそういうパパとママだって喧嘩はしないでしょう? と問いかける。すると母は笑ってあら、喧嘩くらい私たちだってするわよ、と言う。
 私は生まれてから2人が喧嘩をしているところなんて見たことがなくって、母の発言に驚いた。

「さすがに子どもの前で喧嘩は出来ないわよ。ただでさえあなたは相手を慮る、思慮深い子だったから」
「そう、なの」
「私たちは喧嘩をしたら割と長引く方だったから、あなたたちとは反対ね」

 その言葉に私はさらに驚いた。だって喧嘩をした所を見たことなければ2人の間の空気が悪くなっている所だって見たことがなかったから。
 でも確かに父も母もかなりスイッチを切り替えるのは上手くて、よくよく思い出してみれば家の中でもお互い仕事モードで会話をしていることもあったような気がする。

「私が言えた立場ではないけれど早く仲直りしなさいね。はるかさん、人気者だから取られちゃうわよ」

 母は冗談めかして言うけれどその言葉は私の胸に深く突き刺さった。
 母の言う通り、はるかは人気者で外を歩けばすぐ子猫ちゃんたちを惹き付ける。でもはるかが私を愛してると言葉や態度でいつも示してくれていたからそんな風に子猫ちゃんたちに囲まれていても賑やかねと思うだけだった。
 でも、今は? 理由も思い出せないほど些細なことで喧嘩して、さらには私は呆れたと言って出てきた。はるかも、私に愛想を尽かしたのではないだろうか。
 だんだんと嫌な方向に考えが向かって顔が険しくなっていたのか母が心配そうにこちらを覗き込む。

「みちる? 大丈夫? 冗談よ、はるかさんがみちるのこと大好きなのは見てれば分かるわ」
「でも、私、呆れたって言って出てきちゃったもの。それに、仲直りするって言ったって、どう仲直りしたらいいのか、分からないの」

 今までこんな喧嘩をしたことなくて、いつもならすぐに口に出来るごめんねの一言が言いづらい。
 母が困ったように頬に手を添えた時、背後で扉が開く音がする。そして父のただいま、という声が耳に入った。母は父の方に視線向けると一瞬目を見開き、そして穏やかに微笑むとおかえりなさい、それといらっしゃい、と言った。
 母のいらっしゃいに驚いて振り向く。だって母がそう声をかけるのは1人しかいないから。
 振り返ると予想していた通りの人が父の後ろに立っていた。

「はるか……」
「……やあ」
「ちょうど家の前で会ってね」

 お茶を用意しましょうか? と問いかける母にはるかは遠慮して私に手を差し出した。父と母は優しい顔で私を見つめると無言で頷いて背中を押してくれた。
 差し出された手に自分の手を重ねると間髪入れずにそっと握られる。

「それじゃあ失礼します。今度またゆっくりお邪魔させていただきますね」
「ああ、いつでもおいで」
「待っているわ」

 はるかは2人と短く会話をするとそのまま私の手を引いて家を後にする。
 どうやら今日は歩きで来ていたようではるかは私の手を握ったまま無言で私たちの住む家へと歩みを進める。私も何を口にしたらいいのか分からなくてずっと黙り込んだままだった。
 せめて家に着く前に、仲直りしたいのだけれど。
 そんな私の願いも虚しく、どうにも切り出せないまま家へと辿り着いてしまった。
 鍵を開けるはるかの背中を見つめながらこの気まずい空気をどうしたらいいだろうと必死に考えるけれど何もいい案が思い浮かばず、促されるまま家の中に足を踏み入れた。

「?」

 はるかと共にリビングへ向かう途中、何だかいい匂いがすることに気付いた。
 何かしら、と思いながらリビングへ続く扉を開けてくれたはるかの横を通り中へ入るとテーブルの上にはカレーが並んでいた。

「え……」
「……とりあえず、座ろ」

 困惑したままの私を、喧嘩中であるにも関わらずエスコートして座らせるとはるかは向かい側に腰を下ろして落ち着かないようにそわそわしながら視線を宙に彷徨わせる。
 視線を彷徨わせるはるかを私はじっと見つめたまま黙っているとはるかは意を決したように真剣な顔で私に視線を合わせた。

「この間は、ごめん。数日間、君がいなくなって、家の事がほとんど出来なくて、いつも君にばかり負担をかけていたことに気付いて……僕は甘えてばっかりだったって。なのにあんな風に拗ねて逆ギレして、本当に、ごめん」

 そう言って頭を下げるはるかに私はぽかんとする。顔には出てないと思うけれど、まさか意地っ張りなはるかがこんな素直に謝るなんて思っていなくて。
 そしてはるかの言葉に喧嘩の原因を思い出した。確か最近お仕事が忙しくてほとんど寝に帰ってきているような状態のはるかに服を脱ぎ散らかさないで、と言ったり少しはお掃除を手伝って、と言ったりご飯をしっかり食べてから寝なさい、と言ったりしていた気がする。
 何よりも自由を好むはるかは他人に指図されることを嫌う。みちるは別さ、と笑うはるかにその言葉はきっと本心なんだろうと思いながらもはるかの自由を奪いたくなくて、何より普段はきちんとしているはるかだから指図することも無くて。
 だからそんなはるかがそうなるくらい疲れきっているのに、同じく忙しくしていた私は少しイラついてしまって、ことある事に小言をいっていた。
 いくら私は別、と言っていても疲れ切っている時にグチグチと小言を言われれば嫌になるのも分かる。
 思い出せば出すほど、はるかが悪いことなんてなくて私の眉はするすると下がっていく。

「ううん……あなたは悪くないわ。私があなたに八つ当たりしてしまっていたもの。ごめんなさい」

 目の前のはるかと同じように頭を下げて謝罪を口にする。けれどはるかはなおも僕が悪い、君は悪くないって言うから私もあなたじゃなくて私が悪い、と言い返す。
 なぜか私が悪い論争を始めた私たちはヒートアップしてしまってついには椅子から立ち上がってお互いに言い合う。
 ハッとした時にはお互い息切れをしながら相手を見つめていて、そしてそんな自分たちが馬鹿らしくて同時に吹き出した。

「ははっ! 一体、何を言い争ってるんだろうな」
「ふふ、本当に、馬鹿みたいだわ」

 頑固だな、君は、と言いながら腰掛けるはるかにあなただって、と返して私も腰掛ける。そして目の前に置かれているカレーを見ながら食べてもいいかしら? と声をかけた。

「うん……。料理は1人で住んでた時から全然してなくて、君と一緒になってからはずっと作って貰ってたから料理が大変なんだって全然知らなかったよ」

 作り方とか調べて頑張ったけど、美味しくなかったら無理しなくていいから、と言うはるかに微笑みかけて私はスプーンで一口掬って口へ運ぶ。

「美味しいわ……!」
「ほんと?」
「ええ、本当よ」

 はるかもカレーを食べてまぁ食べれはするか、と呟く。私はそんなはるかにくすくすと笑って再びカレーに視線を向けた。
 少し焦げてしまっている部分はあるし、具材も大きさや形がバラバラだけれどきちんと美味しくて、何よりはるかが一所懸命に作ったものだと思うと嬉しくて仕方がなかった。

「その、ね」
「うん?」
「私、正直に言うと喧嘩をした原因が思い出せなかったの」

 はるかは私の言葉に驚いたようで大きく目を開いて瞬きをする。

「さっきあなたに謝られてようやく思い出したのよ。感情が昂っていたからって言ったってそれはあなたも同じでしょう? ……つまりね、私の中で家事に関することで喧嘩をするなんて有り得ないってなっていたのよ」
「う、ん……?」

 私の言いたいことがよく分からないはるかは眉間に皺を寄せて首を傾げながらも相槌を打つ。

「だからね、普段からあなたもきちんと家事をしてくれているってことよ。私にばかり負担をかけているっていうのはね、間違いなのよ。あの日はお互いに虫の居所が悪かっただけ、どちらが悪いってことではないと思うわ」

 しばらく何か言いたげに口を開いては閉じを繰り返していたはるかは困ったように微笑むとそうかもしれないね、と言った。
 私はええ、そうよ、と返して微笑み言葉を続ける。

「ねぇ、本当に美味しいわ。また、作ってくれる? はるか」
「うん、大したものは作れないけど。だから、今度は隣で教えてくれない? みちる」

 もちろんよ、と頷いて私たちは微笑み合った。

    ◇◇◇

 初めてはるかが作ってくれたカレーと今目の前にあるカレーを比べる。
 あれから何度か練習をしたはるかは元々の要領の良さもあってすぐに少し複雑な料理だって作れるようになった。
 だから焦げている部分なんて全くなくて具材の大きさや形もかなり均一になっていた。

「ふふ、でもはるかがご飯を作ると具材1つの大きさがかなり大きいのよね」

 それははるかの料理の特徴。なんでも大きい方が満足感が高くなるから、だそうだ。決して小さく細かく切るのが苦手だからでは無いらしい。はるか曰く、だけれど。

「ああ、確かに具材がゴロッとしていますね」
「食べ応えあるだろ?」

 むぅ、と口を尖らせて言うはるかにほたるはおっきくて満足感たっぷりだったよ! と声をかける。はるかはほたるー! と嬉しそうに言いながらほたるを抱きしめた。
 キャッキャと楽しそうに戯れる父娘を眺めながら私は技術的に進歩した今のカレーはもちろん、私のために頑張って作ってくれた初めてのはるかのカレーも負けず劣らず美味しかったわ、と思いながらはるかのたっぷり愛情のこもったカレーを口にした。
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