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二重奏で踊るのは

「みちる、今日は何時までだい?」

 朝、出掛ける準備をしているみちるに声を掛ける。もうほとんど支度を終えているみちるはヴァイオリンを手に振り返った。

「14時頃かしら、軽いリハーサルだから」
「OK。じゃあそのくらいに迎えに行くよ」

 みちるは近く、ソロコンサートを開催する。そのための打ち合わせやリハーサルで最近は家を空けることが多い。
 今日はいつもより早く終わるようだった。

「ありがとう。せつなとほたるのこと、よろしくね」
「2人とも僕よりしっかりしてるから僕がいなくても平気だと思うけどね」

 肩を竦めながらそう言えばみちるはあなたがいてくれるから私たちは安心していられるのよ、なんて言う。

「それじゃあ行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」

 触れるだけのキスをしてみちるを見送る。
 さて、しばらく研究室に篭っていたせつなと夜遅くまで勉強を頑張っていたほたるに変わって朝食でも用意しようか。

◇◇◇

 いつもより少し遅く起きてきたせつなはリビングに僕がいるのを見るなり目を見開く。
 一緒に住み始めた当初より感情が出やすくなっていて嬉しいな、なんて思いながらおはようと声を掛ける。

「おはようございます。……珍しいですね、はるかがこんな時間に起きているなんて」
「僕だって起きるときは起きるさ。朝食、用意しておいたよ」
「朝食まで……雨でも降るのでしょうか」

 おいおい、僕のことなんだと思ってるんだよ、と苦笑いを浮かべながら準備しておくからほたるを起こしてきてとせつなにお願いをする。
 数分後、せつなはほたるを連れて戻ってきた。

「おはよう、ほたる」
「はるかパパ……おはよ……」

 まだ眠い目を擦るほたるに笑いかけて朝食を差し出す。すると一気に覚醒してこれ、はるかパパが作ったの? 美味しそう! と言った。
 せつなの前にも朝食を置き、コーヒーを差し出す。

「そういえば、みちるはもう出掛けたのですか?」
「うん。朝早くにね」
「ほたるもお見送りしたかったなぁ」

 残念そうに呟くほたるにじゃああまり遅い時間まで勉強はしないことだな、と言うとえー、と不満の声が返ってきた。

「ほたる、お勉強を頑張るのは良い事ですが夜遅くまで勉強をするのは健康に悪いですよ」
「そーそー、ほたるは優秀なんだから息抜きもしなくちゃ」
「はるか、あなたの言う息抜きはほとんど勉強をしないことを言うのではないのですか?」

 せつなにじとりと睨みつけられ、誤魔化すように慌ててコーヒーを啜る。
 ほたるはそんな僕たちに関係なくじゃあ息抜きにはるかパパが一緒に遊んでね! と言うので僕ももちろんさ、と返す。せつなははぁ、と一つ溜息を吐いて頭を抱えた。

◇◇◇

 そろそろ、時間かな。
 時計を見上げて僕はせつなとほたるにみちるを迎えに行くことを伝える。

「ではついでに夕飯の食材を買ってきてくれますか?」
「お安い御用さ。何買えばいい?」

 せつなから買うものが書かれたメモ用紙を受け取り車に乗り込む。
 みちるが今度コンサートをする場所は大型の複合施設でコンサートの会場から少し歩けば色んな店に寄ることが出来る。もちろんスーパーもあるから、せつなはそれを見越して頼んだのだろう。
 会場に向かえば丁度みちるが出てくるところだった。

「はるか」
「お疲れ様」

 僕を見つけるなり小走りで寄ってくるみちるは綺麗でもあるけれどそれ以上に凄く可愛かった。
 みちるはいつものように僕の左腕に自身の腕を絡ませた。ぴったりと体を寄せたみちるを確認して僕たちは同時に歩き出す。

「せつなに買い物を頼まれたから、このままスーパーに寄ろう」
「分かったわ」

 会場からスーパーのある方へゆっくりと2人で歩く。すれ違う人が振り返って僕たちを見るけれどまあ、いつもの事なので特に気にしないでそのまま歩を進める。
 少し歩き、大きく開けた場所に到達するとピアノの旋律が耳に届いた。

「ピアノ……?」
「あぁ、ほら、あそこよ」

 みちるの示す方向に視線を向けると1つのピアノが配置され、誰かが弾いているようだった。周りには少しだけ人が集まっていてそのピアノを聞いている。

「ストリートピアノよ。コンサート会場も近いし、大型の複合施設を作る時に設置しようってなったらしいわ」
「へぇ」

 みちるの言葉に相槌を打ちながら少しだけ拙いピアノの旋律に耳を傾ける。恐らく習いたてだろう奏者は緊張しながらも自身の音を紡いでいく。
 懸命に、かつ楽しそうに弾くそのピアノは案外心地の良いものだった。

「……ねぇはるか。あなたも弾いてみて?」
「えっ?」

 突然そんなことを言いながらみちるは微笑むと僕の腕を引っ張ってピアノの方へと歩き出した。
 僕たちがピアノのそばに着くと同時に演奏も終わり、周囲の人たちは拍手を奏者に送る。奏者はその拍手に照れたように、けれど誇らしそうに笑った。
 そして僕はみちるに促されるまま空いたピアノの前に腰掛ける。周囲の人も、新たな奏者を前に期待を募らせた目を向けてくる。

「参ったな……」
「なんでもいいわ。私、はるかのピアノが聴きたいのよ」

 家にもピアノがあるから家でもいいじゃないか、と思うがにこやかに言うみちるに僕はもう白旗を振るしかない。みちるのおねだりを断る術なんて僕には最初から無いのだから。
 ピアノに向き合い、少し思案して周囲を見回す。そしてとある貼り紙を見つけて僕は1度みちるに悪戯っぽい笑みを向けた。

「はるか……?」

 みちるは訝しげに僕の名前を呟くが聞き流してそのままピアノに指を置き、弾き始める。
 僕が選んだのはパッヘルベルのカノン。広く開けたこの場所は暖かな日差しがさしているから聴いていて心地のいいこの曲を選んだ。
 と、周囲の人は思っているだろう。僕のピアノに耳を傾け、歩いていた人たちも足を止める。
 みちるは僕のピアノに耳を傾けながら僕が見つけた貼り紙を見て、意図に気付いたようだ。

「もう、ゆっくり聴きたかったのに」

 文句を呟きながらも顔は笑っている。僕は目でみちるを促した。
 みちるはヴァイオリンを取り出し、僕と視線が合う位置に立って構えた。
 区切りのいいところで、バトンタッチ。これまでピアノだけで紡がれていたカノンはヴァイオリンによって紡がれる。
 ピアノとヴァイオリンの2重奏。僕はプロじゃないし少し調子の外れたピアノでみちると2重奏をするのは少し罪悪感というか、申し訳なさみたいのを感じるけどみちるはとても楽しそうに弾いてくれているからまあいいかと思う。
 みちるのヴァイオリンに合わせてピアノも最後の一音を奏でる。
 2人で微笑み合うと周囲は割れるような拍手に包まれた。一礼をして足早にその場を去る。僕は無名のピアニストだがみちるはプロのヴァイオリニストだ。たちまちに捕まってしまうところだっただろう。

「もう、困った人ね」
「でも、楽しかっただろ?」

 即興だったのに思ったよりいい演奏が出来た、と笑うとみちるもえぇ、こんなに楽しく弾いたのは初めてよ、と笑う。

「今度、はるかの伴奏でのコンサートも開こうかしら」
「僕、君の足を引っ張るだけだぜ?」

 とんでもないことを言い出すみちるにそう返しながらスーパーで買い物をする。
 みちるは僕に手を引かれながら真剣な眼差しで考え込んでいる。これは本当にコンサートを開催されそうだ。

「音楽関係者が黙ってないんじゃないか? 僕はプロじゃないから、そんな奴とコンサートなんてって言われるぜ?」
「そうかしら? ……多分大丈夫よ」
「えぇ……?」

 含み笑いをするみちるに困惑する。
 さ、早く買い物を済ませて家に帰りましょうと今度はみちるが僕の手を引いた。

◇◇◇

 ただいまー、と声を掛けるとリビングからほたるが弾丸のように飛んできた。

「おかえりなさい! はるかパパ! みちるママ! 凄いことになってるよ!!」
「え?」

 ほたるに腕を引かれてリビングに入るとせつなが呆れたような困ったような、でもちょっとだけ誇らしそうな、そんな複雑な表情を浮かべていた。

「全く、あなたたちは何をしているんですか……」
「え? 僕たち、何かした?」

 みちると2人で疑問符を頭の上に浮かべているとせつなからスマホを受け取ったほたるが画面を見せてくる。
 そこにはあるSNSのトレンドに『海王みちる』『天王はるか』『ストリートピアノ』という文字が並んでいるのが見えた。
 よくよく見てみるとそこには僕たちが演奏をしている動画が添付されており、それに多くの人が反応を示しているようだった。

「うわ……ネットに上げられちゃったか」
「あら、凄いことになってるわね」
「何故そんなにも呑気なのですか……!」

 勝手に動画をネットにあげるのは良くないと思う。が、あんな場所でみちるにヴァイオリンを弾かせたのだからある程度撮影されることもネットにあげられることも覚悟していた。

「ふふ、これだけ反響があればコンサートはOKが貰えそうね」
「げっ」

 みちるの言葉に僕は顔を顰め、せつなとほたるは首を傾げた。

「ストリートピアノは誰が弾いたっていいのよ。それに、そこのピアノは他の楽器との重奏もOKってなっていたもの。文句を言われる筋合いはなくてよ?」

 さ、夕飯の支度をするわね、と言ってみちるはキッチンへ向かってしまった。
 残された僕たちはみちるの背中を呆然と見送り、3人同時に別の理由で溜息を吐いた。

「みちるママ、かっこいいねぇ」

 ほたるは感嘆の溜息を。

「別に文句を言っている訳ではないのですが……」

 せつなは決まりが悪い溜息を。

「……やられたな」

 そして僕は諦念の溜息を。
 僕がみちるに2重奏を促した時にはもうこの事を予測していたのか、いやもしかするとピアノを弾いて欲しいと言った時からかもしれない。
 兎にも角にも、今回も僕はみちるにまんまとしてやられたらしい。けれどそれを楽しんでいる僕はとっくの昔にみちるに溺れているんだなと思う。

「夕飯が出来るまでピアノでも弾こうかな」
「はるかパパ、ピアノ弾くの!?  ほたるも聴きたい!」
「私はみちるの手伝いに行きますね」

 用意が出来たら呼びに行きますから、というせつなを見送って僕はほたると防音室へ向かう。
 ほとんど弾かれることのないピアノはしっかりと調律されており数時間前に弾いたピアノよりいい音を奏でる。

『でもやっぱり、あれはあれで良かったな』

 ほたるのリクエストを聞いたり、クラシックの定番を弾いたりして僕は久しぶりのピアノを楽しんだ。
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