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海だけが知っている

 部屋でヴァイオリンを弾いている時だった。
 ガチャ、という音を響かせて扉が開く。手を止めてそちらを見ればはるかが笑みを浮かべて立っていた。

「はるか、どうかしたの?」
「みちる。ヴァイオリン仕舞って、出かけるよ」
「え?」

 ほら、早く早く、と急かすはるかに従いながらヴァイオリンをケースに仕舞う。
 急かしながらも私の手から取り上げて勝手に仕舞わないのは私がこの子を大切にしているのを知っているから。
 変なところを配慮するのなら練習が終わってから誘って欲しいものだけれど。
 文句を頭の中で並べながらも結局はるかの言うことを聞いてしまうあたり私ってはるかに甘いわよね。

「よし、いくぜ」
「きゃっ! ちょっと、はるか!」

 ヴァイオリンをケースに戻し終えるとはるかは私の手を取って駆け出した。
 慌てなくてもまだお昼を少し過ぎた頃だし、はるかの運転なら何処へだって行けるのに、と思いながらその楽しそうな背中を見つめる。
 そしてふと、前にもこの背中を見た気がすると思った。

◇◇◇

「お嬢様」

 コンコンコン、とノックが聞こえたかと思うと次いで執事の声が響く。
 開いていた教科書やノートをそのままに机から立ち上がって扉の前まで進む。
 扉を開ければ姿勢良く佇んだ羽柴がいた。

「どうかして?」
「天王様がおみえになられています」
「天王さんが?」

 用件を聞くと予想していなかった人物の名前が出てきた。
 目を丸くして聞き返すと羽柴は頷くとお引き取り願いますか? と聞いてきた。

「いえ、すぐ行くわ。少し待っててもらうよう伝えてもらっていいかしら?」

 かしこまりました、と言いながら羽柴は下がった。
 私は急いで机の上を片付けてリップロッドを手にして家の外へ向かう。

『海は荒れていないけれど、天王さんは何かに気付いたのかしら』

 戦士として覚醒し、共に戦い始めてまだ間もないけれど天王さんの成長は凄まじいものだった。
 類稀なるその戦闘センスはやはり太陽系セーラー戦士随一の強さを誇るのだと感心した。
 そんな彼女はどうやら気配を察知するのは少し苦手なようで敵の気配や不穏な空気はいつも私の方が先に読み取っていた。
 遂にそちらも抜かされてしまったのかしら、と少し眉を下げるがそんな顔を天王さんに見せるわけにはいかないから玄関の扉を開く前に一度気を引き締める。
 門の前に着くと天王さんが塀に寄りかかって立っていた。

「お待たせしましたわ」
「いや、僕が勝手に来ただけだから」

 声をかけると天王さんは少し緊張しながらも笑みを浮かべてそう返す。
 私も笑みを浮かべながら天王さんに歩み寄りどうしたのか聞こうとすると急に腕を掴まれた。

「よし、いこう、海王さん」
「え? ちょ、ちょっと、天王さん!?」

 天王さんは私の腕を掴んだまま歩き出す。前を向いたままこちらに背を向ける天王さんの名前を呼ぶが振り返ってはくれない。
 緊張に身体を強ばらせながらもどこか少し楽しそうに見える背中に見惚れていると近くに止めていた黄色のオープンカーの助手席にエスコートされた。
 されるがままにシートに座りシートベルトを付けると天王さんは運転席に回って同じようにシートベルトをする。
 動くよ、と一言呟く天王さんに口を開くが私が何か言う前に車を走らせ始めた。
 しばらく無言の状態で車は進むがそわそわして落ち着かなくなった私は意を決してその沈黙を破った。

「あの、」
「ん?」
「使命、の事で会いに来たのではなくて?」

 そう問いかけると天王さんは視線を前に向けたまま目を細めた。
 そして少し微笑むとうーん、そうだなぁ、と出会ってから初めて聞く優しい声音で言葉を紡ぐ。

「僕としては、デートのお誘いのつもりだったんだけど?」
「え」
「ほら、もう少しで見えてくるよ」

 何が、と聞く前に潮の匂いが鼻をかすめる。思わず前に視線を向けると段々と右側に青い海が見えてきた。

 海を、見ている。天王さんの運転する車に乗りながら。

 その事実を文字にして頭の中で認識した途端、私の顔は鏡を見なくても分かるほどに赤くなってるだろうことが分かった。

「……覚えて、いらしたの」
「そりゃあ、あんな告白されたら忘れられないさ」

 真っ赤な顔を隠すように俯けながらポツリと呟いた独り言は天王さんにも届いてしまったようでくすくすと笑いながらそう言う。
 もう、からかわないでちょうだい、と返すとほら、下ばかり見てないで横を見なよ、と言われる。
 そうね、あなたと反対の方向を見ていれば真っ赤な顔を隠せるものね、とどこか少し開き直って顔を上げる。

「……素敵」
「喜んでもらえて良かったよ」

 天王さんは少し海辺を走らせると駐車場を見つけてそこに車を停めた。
 そして運転席から降りるとまた私をエスコートして砂浜へと連れていってくれる。
 天王さんの横に立ち、太陽を反射させてキラキラと輝く海を見る。いつもより、今までよりキラキラして綺麗に見えるのはきっと天王さんが連れて来てくれたから、天王さんが横にいるから。
 ドキドキとして落ち着かない心臓を抑えるように胸の上に手を乗せる。
 お互いに海を見つめながらしばらく無言で佇む。

「……ありがとう、連れて来てくれて」
「うん」

 天王さんに感謝の言葉を述べると一言だけ返ってきた。けれどそれは無愛想なものではなくて、天王さんの優しい感情が篭った一言だった。
 この人を戦士の道に引き込んでしまったのは私なのに、この人の夢を奪ってしまったのは私なのに、ああ、どうして、私はこんなにも幸せを感じてしまうのだろう。
 ごめんなさい、と心の中で口にしてはいけない言葉を漏らす。

「……僕は、自分で戦士の道を選んだ」
「え……」

 天王さんの言葉に前を向いていた顔を横に向ける。気付けば天王さんもこちらを真っ直ぐに見ていた。

「僕は今までずっと逃げてきた。戦士という運命から。そんな弱虫で情けない僕を、変えてくれたのは君だ。君のおかげで、僕は本当の僕になれる。……だから、ありがとう、みちる」

 天王さんはそう言いながらとても優しい笑顔を浮かべた。
 ずっと、見てきた。私が見てきた天王さんはいつもどこか寂しそうで虚しそうで、仏頂面で人を寄せつけなくて、笑みを浮かべていても心から笑えていない、そんな表情ばかりだった。
 でも、こんな笑顔、初めて見る。
 心から、笑っている。
 心から、慈しんでいる。
 すぅ、と頬を一筋の雫が伝う。それを見て天王さんはまた、泣かせちゃったな、と言うと私の頬に手を添えて親指で拭った。

「……はるかっ」

 私はたまらず天王さんの胸に顔を埋めて、天王さんの名を呼ぶ。
 背中に腕を回して抱きつくとはるかも私の背に腕を回して抱きしめ返してくれた。ゆっくりと私の背中を大きくて暖かい手のひらが行き来する。
 はるかの腕の中は、暖かくてとても安心することが出来た。
 もう、一人じゃない。
 もう、寒くない。
 はるかがいる。いてくれる。

「はるか……はるか……! ありがとう……!」
「うん」

 さっき、心の中で口にした言葉とは真逆の言葉を紡ぐ。
 はるかはやはり一言、そう返しただけだった。
 でも、それで良かった。ううん、それだけで、はるかの気持ちが伝わってきた。

「……これからよろしくな、みちる」
「……ええ、こちらこそ、よろしく、はるか」

 二人で微笑み合う。
 私たちの関係が少し変化した瞬間を見ていたのはお互いと海だけだった。

◇◇◇

「ふふっ」
「どうした? みちる」

 窓の外を見ながら思い出していると運転をしながら一瞬目をこちらに向けたはるかが問いかけてくる。

「いいえ、何でもないわ」
「そう?」

 それ以上特に聞いてこないはるかは何でもないわけでなはい事を理解している。でもそれ以上聞いても無意味だという事も理解している。
 深刻な問題ではない限り無理に聞き出そうとしない、はるかの優しさが私は好き。
 そんな事を思いながら景色を見ているとあら、と気付く。
 今走っているルートは丁度私が思い出していたルートと同じだったから。

「覚えてる?」
「えぇ。今丁度思い出していたのよ」
「そう」

 はるかはあの時と同じように目を細めて微笑む。何か企んでいるわね、と思いながら視線を前に向けると海が見えてきた。
 同じ駐車場に車を停めて私たちは砂浜に降り立つ。
 出発した家からここは少し遠いから日は傾き、あの時青く広がっていた海は今は夕陽でオレンジになっている。

「綺麗ね」
「ああ」

 私ははるかに寄り添ってその肩に頭を預けながらオレンジに染まる海を眺める。
 はるかは私の腰に手を回して抱き寄せた。
 しばらくそうして海を眺めているとはるかがおもむろに動き出す。
 帰るならいつも声をかけてくれるし、どうしたのかしら、と少しだけ離れたはるかを見上げる。
 はるかは私に向き合うと微笑みながら私の左手を取った。
 そして右ポケットから取り出したものを私の指に嵌める。

「……っ、」
「……みちる、僕はみちるが好きだ。みちるを愛してる。今まで人を好きになるとか、愛するとかしてこなかった、分からなかった。そんな僕を君は好きになってくれた、愛してくれた。君のおかげで、僕は人を愛することを知った。そして、その尊さも」

 私は何も言えずただはるかの顔を見上げる。そんな私に構わずはるかは言葉を続ける。

「君がいてくれるから僕は前へ進める。いや、もう君がいないと僕はダメなんだ。だから、これからもずっと、僕と一緒にいてくれないか? みちる」
「はる、か」

 あの時と、同じ。慈しむような笑みに私はまた瞳から雫をこぼす。
 私ははるかの首に腕を回して抱きつく。そして未だに止まらない涙をそのままにはるかの耳元に口を寄せる。

「私だって、もうあなたがいないとダメなのよ、……はるか」

 そう告げるとはるかは嬉しそうに笑って私の腰に腕を回す。
 お互いに隙間が出来ないように、作らないようにピッタリと抱きしめ合う。

「僕、これからも君に迷惑ばかりかけてしまうかもしれないけど、よろしくな、みちる」
「ふふ、もう慣れたわよ。……よろしくね、はるか」

 この世で一番安心する、大好きな温もりの中で私は幸せを感じる。
 瞳を閉じてその温もりを感じているとはるかの大きな手が私の頬に触れる。
 促されるように顔を上げると私と同じように幸せそうな顔をしたはるかがいた。
 私は微笑んで再び瞳を閉じる。少ししてはるかの匂いが強くなり唇に柔らかいものが当たった。
 また、私たちの関係が少し変化する。それを見ていたのは今度は海だけだった。
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