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短編

[chapter:あけぼの色の爪]


「クラーレ、消毒用のアルコールってある?」

ある夜の事、クラーレの診察室を訪ねたのはエウリペだった。

「ありますが……どうしたんですか、リーペ君。ま、まさか怪我を……」

「違う違う。ちょっとね」

苦笑しながらエウリペは手を振るが、嫌な予感に顔を曇らせたクラーレは引き下がらない。
取り出した消毒用のアルコールを後ろ手にして、疑いの目をエウリペに向けた。

「……リーペ君が何に使うかを言うまで、これは渡しません」

「本当になんでもないんだってば」

「それなら、はっきり言ってください」

「……はぁ……」

とうとう根負けしたのか、エウリペは両手を上げた。

「久々にマニキュアしたから、除光液切らしてたのに気づかなくて。マニキュア落としたいから、アルコールを代わりに使いたかったの」

「……それだけですか?」

「うん、それだけ。だから言ったでしょう? 何でもないって」

「それならそうと早く言ってくだされば、すぐに渡したのに……」

「いやー、そんな理由で医療品使っちゃうのもなんだかなーって」

「あはは」と笑うエウリペに、クラーレは軽くため息をついた。
消毒用のアルコールを小さな小瓶に分けてエウリペに渡す。

「これで足りますか?」

「十分十分。ありがとう、クラーレ」

「どういたしまして、リーペ君」

「お礼に、今度クラーレにもマニキュア塗ってあげるからね! それじゃあ、おやすみ」

消毒液の匂いの中にバラの残り香を残してエウリペが去る。
それを見送ったあと、クラーレは自身の両手を見た。

ささくれと、細かい傷だらけの小さな手。
当然爪も小さく、エウリペがやるようなネイルアートが似合うとは到底思えない。

(でも、リーペ君の爪は本当に綺麗です。私とは大違い)

きめ細やかな肌をした手の先、爪を彩る色を思い出す。
綺麗に塗られた爪は、世間でよく例えに使われる貝よりも、宝石に近いだろう。
それらは、普段は人目につかない爪先にも施されている。

そこから男性とは思えない細い脚に思いを馳せた辺りで、はっとクラーレは我に返った。

「な、何を考えて……」

熱くなる頬を誤魔化すように、換気用の窓を開ける。
冷気と共に新鮮な空気を吸い込んで、その倍ほどの息を吐いた。

「…………少しは、手のケアをした方がいいでしょうか……」

夜はまだ更ける。
彼女の爪が夜明けの色に染まるのは、まだ遠い話。


[chapter:あなたに沈む]

とぷん、と沈み込む。
そこは海かもしれないし、湖かもしれない。プールという事も有り得るだろう。もしかしたらもっと別の何かか。
とにかく分かるのは、今自分が沈みゆくのは桃色の液体の中で、底も果ても見当たらないという事だけだ。

(……息は、出来る)

苦しくはない。不快感もない。
あるのはただ、光の届かない場所に沈んでいくような揺蕩う感覚だけだ。

(これから、どうなるんだろう)

このまま沈んでしまいたい気がするし、このままではいけないという気もする。

(……ああ、でも)

きっと沈んだ方が──

ざぶんっ!

「!」

目を見開く。
水面から闇を割いて現れたのは、ささくれと傷だらけの大きな手。

大事そうに、壊れやすい硝子細工を扱うように体を掬い上げるその手に、そっと頬を寄せた。

「……そうだね。アンタ達のためにも起きないと」

落ちた水滴が水面を揺らす。
その音でエウリペは目を覚ました。

「あっ! ……リーペ君っ!」

初めに目に入ったのは、部屋の照明を逆光にしてこちらを覗き込むクラーレ。
目覚めたのを確認した途端にダイブしてきたクラーレの体重が上半身にのしかかり、思わずむせる。

「あっ、すみません……! 大丈夫ですか? どこか悪いところとか……」

「別に無いよ、大丈夫。それより、どうして……」

「私が処方した睡眠薬、多めに飲んだでしょう? リーペ君。そのせいで三日間寝ていたんですよ!?」

「三日……三日間!?」

慌てて確認すると、確かに眠った日から三日間立っていた。

「薬効の他に魔術的作用も働くからくれぐれも飲み過ぎないように、とあんなに注意したのに……。このまま目が覚めなかったら、どうしようって……!」

クラーレの目から涙が零れる。
アメジストのような目から流れる涙は、あの桃色の液体を思わせた。

「ごめんね、クラーレ。心配かけちゃって」

涙を掬うと、しゃくり上げながらクラーレはこちらを睨みつけた。

「本当にっ……、今度からは、ちゃんと時間と用量を守ってください……!」

「分かった分かった。……それよりクラーレ、俺お腹空いちゃった。何か食べるものない?」

「リーペ君のばかっ!!」

結局エウリペが遅い朝食にありつけたのは、それから三十分後の事だった。


[chapter:Gambler wolf]

殺風景な白い部屋に置かれた丸テーブルを囲んで座る者が三人。
彼等は俗に「ウルフ」と呼ばれている。

一人は、明るい茶髪にオレンジの瞳を持つ『リーダー』。
一人は、緑の髪と目の『ファルブロス』。
一人は、桃色の髪に青い瞳をした『アデーレ』。

彼等の前には、リボルバーが一挺。
死を呼ぶ黒が鈍い光を放っている。

彼等を防弾ガラスの向こう側から見下ろすのは、スーツに身を包んだ五十代ほどの男。
黒革の一人用ソファに腰掛けながら、下卑た笑みを浮かべている。

その男を眼鏡越しに睨み付けるファルブロスを、リーダーは視線で制した。
リーダーの意図を察して、ファルブロスは渋々とテーブルの上に目を移す。
そんな二人を他所に、アデーレは目の前のリボルバーをキラキラした目で見つめていた。

「ええと……、『ロシアンルーレット』でしたわよね? 確か、一つだけ弾が入っているこの銃を……」

「順番で自分の頭に向けて撃って、弾を食らったヤツの負けだな」

「楽しそうですわ!」

「この説明を聞いてそう思えるのはお前だけだよ……」

ため息をつくリーダーに、先程の意趣返しとばかりにファルブロスは口を開いた。

「ご安心ください。お二人のどちらかが死んでも、私が責任を持って利用しますので」

「それだけは避けたいところだな」

『最期のお喋りはそこまでだ。そろそろ始めてもらおうか、諸君』

部屋に声が響き渡る。

「装填数は六。その一つだけに弾が入っていて、撃つのは一人二回ずつか。誰から始める?」

「もちろん、リーダーからでしょう」

「上に立つ者の責務、ですわね」

「てめぇら、都合のいい時ばっかり俺を持ち上げやがって……。はあ、分かったよ」

やれやれと言った素振りをして、リーダーは頭に銃口を押し付けた。引き金を引く。

カチリ

チャンバーが回る。

「……まあ、順当だな」

「最初から死なれても、面白くありませんものね!」

「一応、一回目の生存おめでとうございますと言っておきましょう。この流れだと、次は私ですかね」

「そうだな。ほらよ」

リーダーからリボルバーを受け取り、ファルブロスが自身の頭に銃口を向ける。目を閉じて引き金を引いた。

カチリ

チャンバーが回る。

「……私も、中々に運が良いようです」

「次は私ですわね。さあ早くお渡しなさい!」

「はいはい。どうぞ」

「よろしくてよ。さあ、行きますわ!」

ファルブロスからリボルバーを受け取り、アデーレは嬉嬉として銃口を自身の頭に向けた。

カチリ、カチリ

チャンバーが二回、回転した。

「……ごめんあそばせ。二回撃ってしまったわ」

笑うアデーレに反省の色は一切無い。
呆れた様子で、ファルブロスはアデーレからリボルバーを取り上げた。

「仕方ありません。次は私がやります」

「は? 俺じゃねえのかよ!」

「流石に最後まで残るのはごめんです。心配しなくても、貴方に出番が回る確率は二分の一ですよ」

「そういう事じゃなくてだな……っておい!」

リーダーの抗議を無視して、ファルブロスは自身の頭に向けて引き金を引いた。

カチリ

チャンバーが回る。

「……外れくじを引きましたね、リーダー」

リーダーの元へリボルバーが回ってくる。

「……そうだな」

『クックックッ……』

部屋に不気味な笑い声がこだまする。
リーダーの死を今か今かと待ち望む死神の声だ。

「さよならです、リーダー」

「お疲れ様、ですわ」

「ああ、ありがとよ薄情者ども」

リーダーがリボルバーを手に取る。
銃口を頭に向けた瞬間、

「ところで、リーダー。準備が終わったようです。もう演技は必要ありませんよ」

ファルブロスの言葉に、動きを止めた。

「やーっとかよ。ったく、まどろっこしい真似させやがって」

「そうですわよ。こんな事しなくても、さっさと殺してしまえば良かったのに。まあ、ロシアンルーレット自体はそれなりに楽しめましたわ」

「これもお偉方の意向ですので。しかし、お二人にしてはよく我慢した方ですね。なので、今日のご褒美にパイを用意しましょう」

「またかよ! どうせそれ作るのも俺なんだろ!?」

「そうですが、何か?」

『お、おいお前達、何を話し……ぎゃああああ!!」

ずっと高みの見物を決め込んでいた男が、ガラスを突き破って部屋に転がり込んだ。
男がいた場所には、異形の化け物がたむろしている。

「な、何が……なんでっ……」

破片があちこちに突き刺さり悶絶している男に、リーダーが近付いた。
体を震わせる男を、仲間と共に見下す。

「てめぇが何を言われたか知らねえけど、要するにこういう事だ」

男の胸を踏み付けて、銃口を向けた。

「あはっ、いい絵ですわね。今度誰かの幻覚に利用しようかしら」

「そこまで損壊していたら、魂くらいしか使い所がないでしょう。好きにして構いませんよ」

「そーかい」

「こんな事していいと思ってるのか、私はこの国の上層にいる──」

「まあ、未だにご自身の立場を理解していませんの?」

必死な顔をする男に、アデーレが首を傾げた。

「貴方、その上層部に捨てられたんですよ」

ファルブロスの言葉に、男の顔が青ざめる。

「そんな、まさか……」

「残念だったな、人生にリセットボタンがないのが悔やまれるぜ」

愛想笑いと呼ぶにはあまりにもあくどい笑顔を浮かべると、リーダーは迷いなく引き金を引いた。


[chapter:孤独はベッドの中に]

……夜が怖い。

寝るたびに、寝るためにベッドへと入るたびに、あの頃より大分華やかになったパジャマの袖に腕を通すたびに。

……あの頃を、思い出すから。

(でも、そんなことは言えません)

今日もやけにフリルで飾られたパジャマを着ながら、幼い少女は思考する。

少女が『エウリペ・シュトラウス』なる淑女に拾われたのは、数日前の事だ。
常に他人を疑い、疎まれて生きてきた少女を迷う事無く受け入れたその人。
後に『彼女』ではなく『彼』だと知った時は心臓が飛び出るほど驚いたものだが、慣れてしまえばどうともなかった。

…………が。

(……本当に、彼は私に何をしてほしいんでしょうか?)

「何でもする」と持ちかけたのはこちらの方だ。
それに対し、彼は「私の頭脳になってほしい」とだけ告げた。
未だにその真意は掴めないが、自分にしかない何かを求められているのだろうという事だけは理解できた。

(やはり武器の扱いでしょうか。私の家柄の事を知っているとは限りませんし、私自身が話した内容からして、あの人が利用するなら──)

「クラーレ?」

「う、あ……」

扉から突然かけられた声に思わずびくついてしまう。
それを見て、「驚かせてごめんね」と穏やかな声で彼は呟いた。

「あ、いえ、その……」

「ほらほら、子供は寝る時間だよ」

あれよあれよとベッドに寝かしつけられ、優しい手つきで頭を撫でられる。

「おやすみ、クラーレ」

少女の額に軽くキスをすると、彼は部屋の電気を消して去っていった。

「……おやすみなさい」

少女の空虚な声が、広いベッドに落ちていく。

(……やっぱり広すぎます)

明らかに一人用ではないそのベッドは、肌触りからして病院の消毒された無機質なものとは違う。
想像するに、シルクと羽毛が使われているはずだ。
寝心地など比べられるはずもない。

(……でも、眠れない)

消毒液の匂い。見回りの足音。心拍数を測る機械の規則的な音。

それらがないだけで、こんなにも静かだ。

(……うるさいのは嫌いだけど、静かなのは怖いです)

静寂は、死と同義だ。
医療現場ならなおさら。
死にに行くために家を出た身ではあるが、達観するにはまだ幼すぎた。

「う…………」

心細さが募って、思わず涙が零れる。

その時、

「どうしたの?」

「!」

顔を上げると、そこには彼がいた。

「え、もしかして泣いてる? なんで!? 怖い夢でも見た?」

慌てる彼に釣られて、首を左右に振る。

「違うんです。その、このベッドは広すぎて……」

「……寂しいの?」

そこで、はっとした。
最初から孤独だった少女は恐怖と混同してしまっていたが。
その感情は、『寂しさ』だった。

「…………はい」

頷くと、彼は笑って少女を抱き締めた。

「心配しなくてもいいよ、クラーレ。俺はアンタを独りにしない。ずっと一緒にいる。約束するよ。……なんなら今夜から一緒に寝る?」

冗談であろうその言葉を、鵜呑みにして彼の服を握る。

「……お願いしても、いいですか」

それを聞いて彼は一瞬目を丸くしたが、すぐにベッドへ潜り込んで今度は全身で抱き締めた。

「いいよ。今度からはもっとわがままもたくさん言っていい。……甘えても、いいんだよ」

「っ、はい、はい……」

涙が彼の胸元を濡らす。
それでも彼は少女を手放さなかった。

手を取り合い、寄り添って眠る二人はまるで──


[chapter:Give you a curse gift]

「……ふう」

月明かりの中、クラーレは額の汗を拭う。
弾を放ったばかりの相棒は、未だにその熱を持て余している。

眼下には、跡形もなく吹き飛んだ異形の敵。
平たい屋根の上から撃ち漏らしが無い事を確認して、帰路に就こうとした。
瞬間、

「おや、もう帰ってしまうんですか?」

「っ!」

声のした方向に相棒のピョートルを向ける。
その声は、自身が今最も嫌悪感を示す存在──

「……ファルブロス氏、わざわざ撃たれに来たのですか」

「まさか。単純に、貴方に会いに来ただけですよ」

ウルフの幹部の一人、ファルブロス。
飄々とした出で立ちの彼は、隙だらけのようでいて隙がない。
今ピョートルの弾を撃ち込んだ所で、魔術で弾き返されてしまうだろう。

「冗談が下手ですね、貴方。ウルフの幹部が、何の目的もなくうろつく訳無いでしょうに」

「……そうですね、少し訂正しましょう」

彼が手に持っていた魔導書が光る。
すると、どこからともなく青く燃える人魂が彼の周りを旋回し始めた。

「今日は『調達』に来たんです。今宵は満月──魂を取るには丁度いい」

「死んでもなお、仲間を利用する訳ですか」

「ええ。それが私ですから」

ネクロマンサーが微笑む。
こんな日でもなければ、その笑みはまるで聖人のように見えた事だろう。
だが、彼の本性が聖人と程遠い事はよく知っている。

死者を操る魔術。
他人を省みない非道。
そして、クラーレへの執着心。

その全てが、彼を拒む理由になる。

「…………」

黙ってピョートルを構え直すと、彼はかぶりを振った。

「争うのは止めましょう、『こんな日』ばかりは。……貴方が、私のものになると言うなら、止めませんが」

「死んでも、死してなお御免です。私の体も魂も、貴方なんかには絶対に渡しません」

「……さあ、最期にはどうなっているのか分かりませんよ?」

(……本当に、苦手です)

出来る事なら、今すぐにでも振り切ってここから去りたい。
しかし、彼に背を向けて無事でいられるかは分からない。
そのジレンマに歯ぎしりしたくなる。

「まあ、ともかく──貴方に会いたかったのも事実ですよ?ㅤどうしても伝えたい事があったので」

「何ですか?ㅤ冥土の土産に聞いてあげますよ」

「それは随分とお優しい」

くすくすと小さな笑い声を上げると、彼は一息置いて

「お誕生日おめでとうございます、クラーレさん」

そう言った。

「なっ……」

予想外の言葉に絶句する。

「どうして、貴方なんかがそんな事……っ!」

「個人の誕生日を知る方法など、いくらでもあるんですよ。記念すべき貴方の誕生日に何もしない、というのは流石に勿体無いですからね。……残念ながら、プレゼントまでは用意出来ませんでしたが」

「そんなもの要りません!!」

怒りで臓腑の奥が焼ける。
ああ、あまりにも彼が忌々しい。
よりにもよって、自分が生まれた日を祝われてしまうなど──

「おやおや、そんなに怒らなくても。私の言葉がそんなにも気に触りましたか?」

「ええ。今すぐにでもその顔にありったけの弾丸を撃ち込みたいくらいには」

「それはおっかない。……魂の回収も終わって、言いたい事も言えましたし。私はこれで失礼します」

「待ちなさい!!」

ピョートルが火を噴く。
着弾と共に舞い上がる煙。

『いつか訪れる貴方の死が、貴方にとって正しいものである事を祈っていますよ』

どこからともなく響く声と共に、彼は姿を消していた。
今回も、取り逃してしまった。

「本当に、悪趣味な人ですね……!」

愛しい人達にかけられた言葉を上書きするように彼の声が響く。

『お誕生日おめでとうございます、クラーレさん』

(いいえ、あんな言葉なんてすぐに忘れてやります)

頭を振って気を取り直すと、クラーレは早足でアジトへの道を戻り始めた。
一刻も早く、心地よい彼らの声を取り戻すために。
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