1年生
〜
「やっぱり僕は……兄さんを殺したんだ」
ホズは消え入りそうな声で呟いた。
彼が覚えている記憶には、そんな事実はない。だが、さっきの悪夢で手の中に感じた弓の感触は、まるで体験したかのようなリアルさがあった。
犯人は、他ならぬ自分だったのではないか。そして今隣にいるヴァーリこそが、本当の、バルドルの復讐者だったのではないか。そんな恐るべき予測は、ヴァーリの話によって、鉛より重い真実へと変わり、ホズの胸を押し潰した。
「ああ。でも君にその自覚があるとは意外だったよ。当時の君は、絶対自分が復讐すると躍起になって、『バルドルの復讐者』を名乗る僕を、酷く嫌っていたからね。いくら血が繋がっているとはいえ、バルドルのことを何も知らないただの殺人鬼なんかに、復讐なんかさせない。……って、そう言われたよ」
「殺人鬼呼ばわりか……自分のことは棚に上げて……」
ホズは口の端を引き攣らせた。記憶の中の自分が、惨めで惨めで仕方ない。
記憶の中の世界では、まだ法整備ができておらず、悪人の処罰も私刑が主だった。特に誰かが殺された時などは、被害者の家族の誰かが必ず、加害者へ復讐の刃を向けなければならない決まりになっていた。当時のホズの父親が誰だったかは覚えていないが、やけに子供が多い人だった。同じ母から生まれたのはバルドルだけだったが、腹違いの兄や弟は何人もいたはずだ。きっとヴァーリも、そのうちの1人だったのだ。
「まあ僕は、復讐のために生まれて、君を殺すその一瞬に全てをかけていたからね。ある意味殺人鬼というのも間違っていないよ。それに、君の方こそ別に、殺人鬼というわけじゃない。君がバルドルを殺したのは必然だからね」
「必然⁉︎ 兄さんに、殺されなきゃいけない理由なんてない!」
ヴァーリの言葉に、ホズは思わずカッとなって声を荒げた。
「あれも僕の我儘だったんだ! 今と同じように、兄さんは部屋から出て、外でみんなと遊び始めて……!」
ホズは記憶の糸をたぐりながら、言葉を紡いでいった。あの頃のバルドルは病弱ではなかったが、心配性の母によって、部屋に軟禁されていた。ホズはそんなバルドルの元へ毎日通って、外の世界の話を語って聞かせていたのだった。
「ある時兄さんは、自分が死ぬ夢を見たんだ。それを聞いた母さんは、世界中の物に、兄さんを傷つけないようお願いした。それで不死身になった兄さんは、部屋から出る許可をもらえたんだ」
部屋から出てきたバルドルを、周囲はすぐに受け入れた。そして、バルドルとの“ある遊び”が流行りだした。
「全ての物が兄さんを避けるから、みんな面白がって、兄さんに物を投げる遊びをやり始めたんだ。僕はすっごく嫌だった! 兄さんがみんなの玩具にされてるみたいで、すっごく、すっごく……!」
しかしバルドルは、なんとも楽しそうに的役になるのだ。物を投げる人々にホズが文句を言うと、バルドルは決まって、ホズを宥めるのだった。
「に、兄さんは……僕じゃなくて、他の人たちの味方をしたんだ……。僕は1人だけ、あの流行りについていけない、堅苦しいやつって言われて……」
そんな時、例の遊びをする集団の声を、離れたところで聞いていたホズに、誰かが声をかけた。
ーーねえ、君は混ざらないの? このままじゃ君、光を失っちゃうかもよ。
「こ、こ、このままじゃ、僕、兄さんにも愛想尽かされて、独りになっちゃうって、こ、ここ、怖くなって……! そ、そいつに言われるまま、渡された弓で……! に、にに、兄さんを、兄さんをぉ……っ!」
頭が痛い。割れるように痛い。奥の方へ閉じ込めていたドス黒い化け物が、脳みそを食い荒らしながら、外へ飛び出そうとしている。
思い出した。思い出してきた。僕は怖かったんだ。自分が兄さんを殺したと、認めてしまうのが。だから忘れることにしたんだ。あの一瞬の静けさを、弓のしなる感覚を。
予言は回避できるものじゃない。いつか兄さんが死ぬことはわかってた。だから僕は、最後まで兄さんを守り切って、それで自分も死のうと思ってた。それなのに。それなのに!
「し、死ぬって、わかってて、も……兄さん、は……いつも、笑って……。だ、大丈夫って……僕を、気遣って、くれて……っ、自分が、1番、怖い……はず、なのに……っ!」
頭痛と、たびたび上がってくる嗚咽で、上手く言葉が出てこない。激しく上下する肩を、誰かが優しく撫でてくれた。それでも、全然止まらない。痛みも嗚咽も、目から溢れる大粒の涙も。
「そ、そんな、素敵な人を、僕は……っ! 守る、どころか……っ! 僕が……! あんなくだらない理由で……っ、こ、ころ……っ、殺したんだぁあ! あぁああ!」
体に力が入らなくなって、腰から上を折るようにして前に倒れた。慣れない匂いのする毛布に顔を埋めて、ひたすらに何かを叫ぶ。もうただ泣くことしかできない。何の言葉も浮かばない。間違いないのは、僕が最低最悪の人間だってことだけだ。あんなに愛してくれた人を、僕は簡単に裏切ったのだ。そしてあろうことか、その事実から逃げて、忘却することを選んだのだ。今、こんな理不尽な環境に身を置くことになったのも、その罪を償うためかもしれない。ヴァーリくんが世界に味方されているのなら、僕はきっと敵に回しているのだ。当然だ。昔も今も、僕はずっとずっと、兄さんを苦しめてばかりいるのだから。
脳を食い破った化け物が、暗い世界に濃い影を落として、こちらを見ている。ぽっかり空いた3つの穴を、縮めたり伸ばしたりしながら。多分あれは、顔だ。笑っている。いや、怒っている。それか泣いている。
ソレは僕を指差して叫んだ。
ーーこの悪魔め!
そうかもしれない。本当にそうなのかもしれない。ああ、神よ。僕は貴方の言う通り、確かに悪魔でした。どうかその御手で裁いてください。どんな罰だって受け入れましょう。今度は追い出されたって構いませんから。兄さんの隣にいたいなんて、そんな贅沢なことは、もう望みませんから。
ソレは笑った。多分、笑った。3つの穴を細く伸ばして、ニッタリと笑った。
そして、ズズズと音を立てながら、ゆっくり近づいてきた。平たい板に5つの細い枝が付いた何かが、ソレの体から伸びて、こちらに飛んできた。あれはきっと、手だ。僕をどこかに連れて行くつもりだ。地獄だろうか。地獄に行けば火に焼かれるらしい。きっと熱いだろう。死ぬよりもっともっと苦しいだろう。助けてって言っても誰も来てくれなくて。
きっとヴァーリくんだって、地獄までは着いて来ないだろう。あの子はきっと天国に行くから。今度こそ僕は、ずっとずっと、独りぼっちになるんだ。この大きな“手”に掴まれたら、僕は。
ーー大丈夫ですよ、ホズ。
ふと、太陽の匂いがした。
気がつけば目の前に、たった1度だけ見た、美しい兄さんの姿があった。兄さんが化け物に笑いかけると、ソレは小さなケルベロスになって、大人しく“おすわり”をした。
そんなケルベロスを撫でた後、兄さんは今度は僕の方を見て、また笑った。真っ暗な世界の中で、兄さんだけが色鮮やかに輝いている。どれがなんという色なのかはわからないけど、きっと兄さんのことだから、髪はきっと太陽と同じ色だ。
太陽色の髪を靡かせて、兄さんは僕の方へ歩いてきた。そして、春風色の瞳を優しく細めて、温かな腕で抱き締めてくれた。
どうして。僕は兄さんを殺した悪魔なんだよ。
僕の言葉に、兄さんは小さく笑って、ゆっくりと首を振った。
ーー貴方は強くて優しい、僕の自慢の弟ですよ。
ーーそんなに不安そうな顔をしないでください。僕はずっと、貴方の傍にいますから。
どれも、記憶の中にある言葉と声だ。
兄さんは僕から離れると、僕の手を両手で包むようにして握って、笑ってみせた。
その笑顔が眩しくて、つい、顔を背けた。こんな風に、兄さんはいつだって、僕に優しかったのに。そんな兄さんを、僕は。
ーーでもそれは……夢の向こうの話でしょう? 今の貴方の手は、僕を殺してなんかない。違いますか?
思わずハッと息を呑んだ。今のは初めて聞いた。少なくとも兄さんの声では初めて聞いた。でも確か、どこかで聞いた。似たような言葉を、誰かが言ってた。
そう、確かあの時も、こうやって、両手で、誰かの手を握ってあげて。どうにか励ましてあげたくて、泣きじゃくるあの子にーー。
ああそうだ。ヴァーリくんに言ったんだ。他の誰でもない、僕が。
そう思った途端、急に辺りが水に沈んだ。そして、僕の体は、何かに引っ張られるようにして、勢いよく水面へと上がっていった。
兄さん!
小さくなっていくその姿に手を伸ばす。兄さんはケルベロスを撫でながら、ただ嬉しそうに笑って、今朝聞いたばかりの声でこう言った。
ーー行ってらっしゃい。お友達とのお泊まり会、楽しんできてくださいね。
〜
気がつけばホズは、ヴァーリの腕の中で泣いていた。後ろから抱き締められているらしく、背中と右肩が温かい。心をあれだけ冷やしていた残雪のような不安は不思議と綺麗に消えていて、春を告げる鳥の鳴き声の代わりに、鼻をすする小さな音だけが、部屋に響き渡っていた。
「……落ち着いたかい?」
優しい春風が耳元で吹いたので、ホズは黙って頷いた。まだ上手に呼吸ができない。
「そうか。良かった。……僕の話はまだ終わっていないんだ。もう少しだけ、聞いていてくれるかい?」
ホズはまた、力なく頷いた。首を振る体力は残っていなかった。
「……ありがとう」
少しばかり強めに抱き締めてから、ヴァーリは静かに話しだした。
「君は確かに、バルドルを殺したよ。そして僕は、バルドルの復讐をするためだけに作られ 、君を殺したんだ。……でも、このことで君が自分を責める必要はない。全ては、予言によって定められていたことだからね」
予言。記憶の中のあの世界では、これほどに重い言葉はない。運命の女神が紡ぐ予言は、占いというよりかは“歴史”に近い。過去ではなく、未来の歴史。そこに書かれた運命は、どう抗ったとしても、絶対に訪れる。バルドルの死も、その1つだった。
「君がバルドルを殺すのだと、そう予言されていたんだよホズ。おそらく君は知らなかったんだろうけどね。運命の女神たちが紡いだ大予言の全貌を知る者は、片手で数えるほどしかいなかったらしいから」
「……知らなかった」
掠れ声で呟く。もしくは覚えていないだけか。いや、知っていたならきっと、ホズはバルドルから離れようとしたはずだ。最愛の兄を殺してしまわぬように。
最初にヴァーリが言っていた『必然』というのは、その言葉通りの意味だったのだ。たとえホズがどれだけ清純な人であったとしても、逃れられない結末だったのだろう。そう思うと、嘘のように胸が軽くなって、息もしやすくなってきた。
「で……でも……それなら、君だって……。僕を殺したことに、そんなに罪悪感を持たなくても、いいんじゃないの……?」
続いたホズの言葉に、ヴァーリの喉から、微かに苦しげな音が漏れた。
「君はどこまでも優しいね……。辛い話を聞いたばかりだというのに、もう僕を気遣ってくれるのか。そういうところ、バルドルにそっくりだよ。見た目は似ていなくても、ちゃんと兄弟だ」
ホズを抱き締める腕が、小さく震えている。声の調子もどこか怯えているような雰囲気だ。ホズはなんだか心配になってきて、彼の小さな手に自分の手を重ねた。初めて罪を告白してくれたあの日と同じように、すっかり指先が冷たくなっている。今度は一体、何を告げるつもりなのだろうか、この子は。そう思って身構えていると、酷く震えた芯のない声が、そっと耳元で響いた。
「……2回なんだよ。ホズ。……僕は2回、君を殺したんだよ」
「え……? に、2回……?」
思わず眉を顰めた。全く身に覚えがない。
「ああ……覚えていないか。僕にとって幸運なんだか、不運なんだか。……全部話すよ。どうか聞いてくれ。僕がどれほど恐ろしいことをしたのかを」
そう言うと、ヴァーリは深く長い息を吐いてホズから離れ、ポツリ、ポツリと話を紡ぎ始めた。
「さっきも言ったが……あの頃の僕は、君を殺す一瞬に、人生の全てを掛けていた。なんせ僕は、そのためだけに生まれた、ただの復讐の道具だったから。……でも本当は道具なんかではなくて、ただ、自分の生まれた意味を失いたくないだけの、“人”だったんだ。君は自分を我儘だとか自分勝手だとか言うけれど、僕はそれに輪をかけて、自分勝手な“人”だった」
その声は既に弱々しく、ともすれば消えてしまいそうだった。彼がどんな悪人だろうと、ホズにくれた優しさの数は変わらない。どれほどの大罪を背負っているのかはわからないが、全部話を受け止めた上で、しっかりと励まそう。ホズはそう思って、重い体をヴァーリの方へ向け、僅かでも聞き漏らすまいと、その小さな声に耳を傾けた。
「やっぱり僕は……兄さんを殺したんだ」
ホズは消え入りそうな声で呟いた。
彼が覚えている記憶には、そんな事実はない。だが、さっきの悪夢で手の中に感じた弓の感触は、まるで体験したかのようなリアルさがあった。
犯人は、他ならぬ自分だったのではないか。そして今隣にいるヴァーリこそが、本当の、バルドルの復讐者だったのではないか。そんな恐るべき予測は、ヴァーリの話によって、鉛より重い真実へと変わり、ホズの胸を押し潰した。
「ああ。でも君にその自覚があるとは意外だったよ。当時の君は、絶対自分が復讐すると躍起になって、『バルドルの復讐者』を名乗る僕を、酷く嫌っていたからね。いくら血が繋がっているとはいえ、バルドルのことを何も知らないただの殺人鬼なんかに、復讐なんかさせない。……って、そう言われたよ」
「殺人鬼呼ばわりか……自分のことは棚に上げて……」
ホズは口の端を引き攣らせた。記憶の中の自分が、惨めで惨めで仕方ない。
記憶の中の世界では、まだ法整備ができておらず、悪人の処罰も私刑が主だった。特に誰かが殺された時などは、被害者の家族の誰かが必ず、加害者へ復讐の刃を向けなければならない決まりになっていた。当時のホズの父親が誰だったかは覚えていないが、やけに子供が多い人だった。同じ母から生まれたのはバルドルだけだったが、腹違いの兄や弟は何人もいたはずだ。きっとヴァーリも、そのうちの1人だったのだ。
「まあ僕は、復讐のために生まれて、君を殺すその一瞬に全てをかけていたからね。ある意味殺人鬼というのも間違っていないよ。それに、君の方こそ別に、殺人鬼というわけじゃない。君がバルドルを殺したのは必然だからね」
「必然⁉︎ 兄さんに、殺されなきゃいけない理由なんてない!」
ヴァーリの言葉に、ホズは思わずカッとなって声を荒げた。
「あれも僕の我儘だったんだ! 今と同じように、兄さんは部屋から出て、外でみんなと遊び始めて……!」
ホズは記憶の糸をたぐりながら、言葉を紡いでいった。あの頃のバルドルは病弱ではなかったが、心配性の母によって、部屋に軟禁されていた。ホズはそんなバルドルの元へ毎日通って、外の世界の話を語って聞かせていたのだった。
「ある時兄さんは、自分が死ぬ夢を見たんだ。それを聞いた母さんは、世界中の物に、兄さんを傷つけないようお願いした。それで不死身になった兄さんは、部屋から出る許可をもらえたんだ」
部屋から出てきたバルドルを、周囲はすぐに受け入れた。そして、バルドルとの“ある遊び”が流行りだした。
「全ての物が兄さんを避けるから、みんな面白がって、兄さんに物を投げる遊びをやり始めたんだ。僕はすっごく嫌だった! 兄さんがみんなの玩具にされてるみたいで、すっごく、すっごく……!」
しかしバルドルは、なんとも楽しそうに的役になるのだ。物を投げる人々にホズが文句を言うと、バルドルは決まって、ホズを宥めるのだった。
「に、兄さんは……僕じゃなくて、他の人たちの味方をしたんだ……。僕は1人だけ、あの流行りについていけない、堅苦しいやつって言われて……」
そんな時、例の遊びをする集団の声を、離れたところで聞いていたホズに、誰かが声をかけた。
ーーねえ、君は混ざらないの? このままじゃ君、光を失っちゃうかもよ。
「こ、こ、このままじゃ、僕、兄さんにも愛想尽かされて、独りになっちゃうって、こ、ここ、怖くなって……! そ、そいつに言われるまま、渡された弓で……! に、にに、兄さんを、兄さんをぉ……っ!」
頭が痛い。割れるように痛い。奥の方へ閉じ込めていたドス黒い化け物が、脳みそを食い荒らしながら、外へ飛び出そうとしている。
思い出した。思い出してきた。僕は怖かったんだ。自分が兄さんを殺したと、認めてしまうのが。だから忘れることにしたんだ。あの一瞬の静けさを、弓のしなる感覚を。
予言は回避できるものじゃない。いつか兄さんが死ぬことはわかってた。だから僕は、最後まで兄さんを守り切って、それで自分も死のうと思ってた。それなのに。それなのに!
「し、死ぬって、わかってて、も……兄さん、は……いつも、笑って……。だ、大丈夫って……僕を、気遣って、くれて……っ、自分が、1番、怖い……はず、なのに……っ!」
頭痛と、たびたび上がってくる嗚咽で、上手く言葉が出てこない。激しく上下する肩を、誰かが優しく撫でてくれた。それでも、全然止まらない。痛みも嗚咽も、目から溢れる大粒の涙も。
「そ、そんな、素敵な人を、僕は……っ! 守る、どころか……っ! 僕が……! あんなくだらない理由で……っ、こ、ころ……っ、殺したんだぁあ! あぁああ!」
体に力が入らなくなって、腰から上を折るようにして前に倒れた。慣れない匂いのする毛布に顔を埋めて、ひたすらに何かを叫ぶ。もうただ泣くことしかできない。何の言葉も浮かばない。間違いないのは、僕が最低最悪の人間だってことだけだ。あんなに愛してくれた人を、僕は簡単に裏切ったのだ。そしてあろうことか、その事実から逃げて、忘却することを選んだのだ。今、こんな理不尽な環境に身を置くことになったのも、その罪を償うためかもしれない。ヴァーリくんが世界に味方されているのなら、僕はきっと敵に回しているのだ。当然だ。昔も今も、僕はずっとずっと、兄さんを苦しめてばかりいるのだから。
脳を食い破った化け物が、暗い世界に濃い影を落として、こちらを見ている。ぽっかり空いた3つの穴を、縮めたり伸ばしたりしながら。多分あれは、顔だ。笑っている。いや、怒っている。それか泣いている。
ソレは僕を指差して叫んだ。
ーーこの悪魔め!
そうかもしれない。本当にそうなのかもしれない。ああ、神よ。僕は貴方の言う通り、確かに悪魔でした。どうかその御手で裁いてください。どんな罰だって受け入れましょう。今度は追い出されたって構いませんから。兄さんの隣にいたいなんて、そんな贅沢なことは、もう望みませんから。
ソレは笑った。多分、笑った。3つの穴を細く伸ばして、ニッタリと笑った。
そして、ズズズと音を立てながら、ゆっくり近づいてきた。平たい板に5つの細い枝が付いた何かが、ソレの体から伸びて、こちらに飛んできた。あれはきっと、手だ。僕をどこかに連れて行くつもりだ。地獄だろうか。地獄に行けば火に焼かれるらしい。きっと熱いだろう。死ぬよりもっともっと苦しいだろう。助けてって言っても誰も来てくれなくて。
きっとヴァーリくんだって、地獄までは着いて来ないだろう。あの子はきっと天国に行くから。今度こそ僕は、ずっとずっと、独りぼっちになるんだ。この大きな“手”に掴まれたら、僕は。
ーー大丈夫ですよ、ホズ。
ふと、太陽の匂いがした。
気がつけば目の前に、たった1度だけ見た、美しい兄さんの姿があった。兄さんが化け物に笑いかけると、ソレは小さなケルベロスになって、大人しく“おすわり”をした。
そんなケルベロスを撫でた後、兄さんは今度は僕の方を見て、また笑った。真っ暗な世界の中で、兄さんだけが色鮮やかに輝いている。どれがなんという色なのかはわからないけど、きっと兄さんのことだから、髪はきっと太陽と同じ色だ。
太陽色の髪を靡かせて、兄さんは僕の方へ歩いてきた。そして、春風色の瞳を優しく細めて、温かな腕で抱き締めてくれた。
どうして。僕は兄さんを殺した悪魔なんだよ。
僕の言葉に、兄さんは小さく笑って、ゆっくりと首を振った。
ーー貴方は強くて優しい、僕の自慢の弟ですよ。
ーーそんなに不安そうな顔をしないでください。僕はずっと、貴方の傍にいますから。
どれも、記憶の中にある言葉と声だ。
兄さんは僕から離れると、僕の手を両手で包むようにして握って、笑ってみせた。
その笑顔が眩しくて、つい、顔を背けた。こんな風に、兄さんはいつだって、僕に優しかったのに。そんな兄さんを、僕は。
ーーでもそれは……夢の向こうの話でしょう? 今の貴方の手は、僕を殺してなんかない。違いますか?
思わずハッと息を呑んだ。今のは初めて聞いた。少なくとも兄さんの声では初めて聞いた。でも確か、どこかで聞いた。似たような言葉を、誰かが言ってた。
そう、確かあの時も、こうやって、両手で、誰かの手を握ってあげて。どうにか励ましてあげたくて、泣きじゃくるあの子にーー。
ああそうだ。ヴァーリくんに言ったんだ。他の誰でもない、僕が。
そう思った途端、急に辺りが水に沈んだ。そして、僕の体は、何かに引っ張られるようにして、勢いよく水面へと上がっていった。
兄さん!
小さくなっていくその姿に手を伸ばす。兄さんはケルベロスを撫でながら、ただ嬉しそうに笑って、今朝聞いたばかりの声でこう言った。
ーー行ってらっしゃい。お友達とのお泊まり会、楽しんできてくださいね。
〜
気がつけばホズは、ヴァーリの腕の中で泣いていた。後ろから抱き締められているらしく、背中と右肩が温かい。心をあれだけ冷やしていた残雪のような不安は不思議と綺麗に消えていて、春を告げる鳥の鳴き声の代わりに、鼻をすする小さな音だけが、部屋に響き渡っていた。
「……落ち着いたかい?」
優しい春風が耳元で吹いたので、ホズは黙って頷いた。まだ上手に呼吸ができない。
「そうか。良かった。……僕の話はまだ終わっていないんだ。もう少しだけ、聞いていてくれるかい?」
ホズはまた、力なく頷いた。首を振る体力は残っていなかった。
「……ありがとう」
少しばかり強めに抱き締めてから、ヴァーリは静かに話しだした。
「君は確かに、バルドルを殺したよ。そして僕は、バルドルの復讐をするためだけに
予言。記憶の中のあの世界では、これほどに重い言葉はない。運命の女神が紡ぐ予言は、占いというよりかは“歴史”に近い。過去ではなく、未来の歴史。そこに書かれた運命は、どう抗ったとしても、絶対に訪れる。バルドルの死も、その1つだった。
「君がバルドルを殺すのだと、そう予言されていたんだよホズ。おそらく君は知らなかったんだろうけどね。運命の女神たちが紡いだ大予言の全貌を知る者は、片手で数えるほどしかいなかったらしいから」
「……知らなかった」
掠れ声で呟く。もしくは覚えていないだけか。いや、知っていたならきっと、ホズはバルドルから離れようとしたはずだ。最愛の兄を殺してしまわぬように。
最初にヴァーリが言っていた『必然』というのは、その言葉通りの意味だったのだ。たとえホズがどれだけ清純な人であったとしても、逃れられない結末だったのだろう。そう思うと、嘘のように胸が軽くなって、息もしやすくなってきた。
「で……でも……それなら、君だって……。僕を殺したことに、そんなに罪悪感を持たなくても、いいんじゃないの……?」
続いたホズの言葉に、ヴァーリの喉から、微かに苦しげな音が漏れた。
「君はどこまでも優しいね……。辛い話を聞いたばかりだというのに、もう僕を気遣ってくれるのか。そういうところ、バルドルにそっくりだよ。見た目は似ていなくても、ちゃんと兄弟だ」
ホズを抱き締める腕が、小さく震えている。声の調子もどこか怯えているような雰囲気だ。ホズはなんだか心配になってきて、彼の小さな手に自分の手を重ねた。初めて罪を告白してくれたあの日と同じように、すっかり指先が冷たくなっている。今度は一体、何を告げるつもりなのだろうか、この子は。そう思って身構えていると、酷く震えた芯のない声が、そっと耳元で響いた。
「……2回なんだよ。ホズ。……僕は2回、君を殺したんだよ」
「え……? に、2回……?」
思わず眉を顰めた。全く身に覚えがない。
「ああ……覚えていないか。僕にとって幸運なんだか、不運なんだか。……全部話すよ。どうか聞いてくれ。僕がどれほど恐ろしいことをしたのかを」
そう言うと、ヴァーリは深く長い息を吐いてホズから離れ、ポツリ、ポツリと話を紡ぎ始めた。
「さっきも言ったが……あの頃の僕は、君を殺す一瞬に、人生の全てを掛けていた。なんせ僕は、そのためだけに生まれた、ただの復讐の道具だったから。……でも本当は道具なんかではなくて、ただ、自分の生まれた意味を失いたくないだけの、“人”だったんだ。君は自分を我儘だとか自分勝手だとか言うけれど、僕はそれに輪をかけて、自分勝手な“人”だった」
その声は既に弱々しく、ともすれば消えてしまいそうだった。彼がどんな悪人だろうと、ホズにくれた優しさの数は変わらない。どれほどの大罪を背負っているのかはわからないが、全部話を受け止めた上で、しっかりと励まそう。ホズはそう思って、重い体をヴァーリの方へ向け、僅かでも聞き漏らすまいと、その小さな声に耳を傾けた。