1年生
〜
ハール。フェンサリルの本家に属する人間なら誰しも1度は聞いたことがあり、そして、誰しもが2度と口にしないと誓った名前である。
彼はフェンサリル家現当主の実の弟である。昔からやんちゃばかりしていた問題児であったが、その美貌と愛嬌と、悪辣な方向にのみ回る頭によって、不思議と周りから愛されていた。
しかし、そんな彼を愛していない人が1人いた。実の兄、フィヨルギュンである。第3者から見れば、人気者の弟に嫉妬する兄であったが、実際は逆だった。優秀な兄に嫉妬した弟が、兄に酷い嫌がらせを繰り返していたのだ。
特にハールは兄の物を奪い取ることに執心していた。鉛筆や消しゴムから始まり、教科書、シャツや下着、片一方の靴、手紙など、彼が盗んだ物は数知れない。兄がいくら被害を訴えても、ハールがそこまでするはずないと誰もまともに取り合わず、弟の悪事はどんどんエスカレートしていった。
そしてついに彼は、兄から妻をも奪った。そして、3人目の子供が生まれた頃、1冊の日記を残し、忽然と姿を消したのであった。
ホズは13歳になったばかりの時に、この話を聞いた。父、フィヨルギュンから。
「私はこの日記を読むまで、3人ともみんな私の子だと思っていた」
自室にホズを呼び出した父は、部屋中を忙しなく歩き回りながら、ポツポツと話している。ホズが物心ついた頃から彼は気が触れており、いつも落ち着きがない。昔は落ち着いていて優しい子だったという話を年老いた使用人から聞いたことがあるが、殴られた記憶すらあるホズには、信じがたい話である。
「お前も知っているはずだが、うちは長男が家を継ぐ決まりだ。私たちは子供に恵まれなかったから、バルドルが生まれた時は、まさに天の恵みだと思ったものだ。……なのに! 見ろ、これを!」
目の前に、力強く紙が置かれる音がした。見ろ、と言われても、ホズにはただの暗闇しか見えない。露骨に顔を顰めてみせると、父は舌打ちをした。
「……DNA鑑定の結果だ。お前たち3人の。フリッグは私と妻の子で間違いないがーー」
バン! と大きな音がして、ホズは思わず肩を震わせた。父が机を叩いた音なのだと理解するのに、数秒の間を要した。
「ーーバルドルとお前は、妻と……ハールの子だった! 全部この日記に書かれていた通り! あの宝石のようなバルドルが! よりによってあの悪魔の子だなんて……っ!」
父は首を絞められているかのような声でそう叫び、取り憑かれたように頭を掻きむしっている。ホズは内心、笑いを堪えるのに必死だった。今し方聞いたばかりの話の重要性はまだよくわからないが、こんな恐ろしい父親よりも、声すら聞いたことのない父親の方がマシだと思えたし、何より兄と自分だけの特別な共通点ができたような気がして嬉しかった。
「……おい、何を笑っている」
泥を押し固めたような低い声が、ホズの背筋を凍らせた。少し、笑みが漏れていたらしい。まずいと思った頃には、もう胸ぐらを掴まれていた。
「何が面白いんだ! この悪魔の子め! バルドルとは違って、お前は顔も中身もそっくりだ! あのどうしようもない化け物にな!」
「ぐっ……!」
大人の力で激しく揺さぶられ、身の危険を感じたホズは、咄嗟に拳を握り込み、父の肩を思いっ切り殴り飛ばそうとした。しかし肩があると思ったところには何もなく、おそらくその少し上を通過した拳は、父の左頬にぶつかった。
小さな呻き声と、何かが崩れるような音がして、ホズを掴んでいた手が離れた。中学生ともなれば、ほぼ小さな大人のようなものである。昔から人より少し力が強かったホズは、いつの間にか大人を1人吹っ飛ばせるほどの腕力を備えていたのだった。
「と、父さん? だ、大丈夫……?」
床から低い呻き声が聞こえる。さすがにやり過ぎたかと思って慌てて立ち上がり、手探りをしながら父の方へ足を踏み出すと、急に下から大きな声がした。
「来るなこの悪魔め!」
ホズは動きを止め、一気に湧き上がってきた怒りを鎮めるために奥歯を噛み締めた。父はよく、ホズを人ではない何かのように扱う。今までは目が見えないせいでそんな仕打ちを受けていたのだとばかり思っていたがーーきっと父には自分が、そのハールという人間に見えていたのだろう。ずっと昔から。
迷惑だ。そう吐き捨ててしまいそうになるのを堪えて、ホズは肩から大きく息を吐いた。何を言っても無駄だ。今までもそうだった。
「お、お前……、お前は今、自分が何をしたかわかってるのか……? 父親に手をあげたんだぞ……っ!」
父の震え声が、徐々に這い上がってきた。ホズはまた掴まれたりしないよう、座っていたソファの裏に素早く周り込み、相手の様子に聞き耳を立てた。今の父からは殺気すら感じる。もしこの部屋のどこかにナイフがあって、それで刺されでもしたら。嫌な想像が頭をぐるぐる駆け巡る。心臓の音が、鼓膜を直に叩いてくる。
緊張が高まる中、ホズの耳に、調子の外れた笑い声が飛び込んできた。
「ふふっ、ふは、はははは……っ! ついに、ついに尻尾を見せたなハール!」
完全に狂っている。ホズは恐怖に頬を痙攣させた。部屋の出口は左手側にあったはずだ。だがそちらには父がいる。
「ああ、ああ、酷い、酷いことをしたなハール! ほら見ろ、顔が腫れてしまった! これを見せれば今度こそみんな信じるだろうな! お前が相当な悪党だって!」
今のところ、近づいてくる気配はない。ホズは相手の足音を聞き漏らすまいと、耳に神経を集中させた。
「そうしたら、そう、お前なんか、すぐにこの家から追い出してやるぞ! 誰だって、父親を殴るような悪魔と同じ家には住みたくないだろうからな!」
「えっ……」
思わず声を上げてしまった。家から追い出す? この人はそう言ったのか。兄さんと住めなくなるのは非常に困る。兄さんを1番近くで守らなくてはならないのに。
「ま、待って、何を言ってるの、父さん……! さっきのは父さんが先に」
「私が先に⁉︎ 腫れるほど強く、お前の顔を殴ったって⁉︎」
「っ……」
声がこちらへ近づいてきて、気圧されたホズは1歩下がった。
「正当防衛でも主張して、また逃れようって肚か? 残念だが、そんな上手い話なんかないぞハール! とにかくお前はもう今日限りで勘当だ! せいぜい荷物でもまとめておくんだな! はははは!」
「ま、待って……嫌だ、ごめんなさい……! それだけはやめて……!」
部屋の外へ向かい始めた父の足音を引き止めようと必死に叫んだが、渇いた喉がくっついて、ほとんど声が出ない。震える足は、指1本も動かない。
「ここにいさせて……! 酷いよ、目を覚まして父さん……! 僕はハールじゃない……! こんなのただの八つ当たりだ……!」
それでも力の限り叫び続けていたら、さっきまで聞こえていた高笑いが、ふと止んだ。そして、父の声が急に静かになって響いた。
「……父さんだってわかってる。お前がハールじゃないってことくらい」
聞いたことのないような落ち着いた調子に、ホズは息を呑んだ。
「でもな、お前の顔を見るたびに、私は1つずつ、自分を失っていく気がするんだ」
「父さん……」
「……13年。お前が生まれてから、13年。ずっとずっと、私は自分を削ってきた。……もう、ほとんど残ってないんだ。フィヨルギュンという人間は。……ごめんな、ホズ」
その声は微かに震えながら、扉の向こうへと消えていった。
次の日、早くもホズの処分が決まり、ホズはフェンサリル本家の次男から、しがない使用人へと格下げされた。家から追い出すことに関してはバルドルに猛反対されたらしく、本家の館から使用人の寮へ、部屋を移す程度で済んだ。しかし冷たい地下を通らなければ兄に会えなくなってしまったし、使用人の助けを借りることもできなくなった。
バルドルの計らいにより、かろうじてフィヨルグソンを名乗ることは許されたが、公的には『元々は孤児だったが、今まではそれを隠して本当の兄弟として育てられていた、バルドルの使用人』という扱いになった。本当ならただの使用人となるところだったが、これもバルドルのたっての願いによって、ホズの雇用主は父ではなく兄ということになった。
ここまでの話が、たった一晩で決まったとは考えにくい。おそらく全ては、父がホズを部屋に呼び出した頃には決まっていたのだろう。たまたま殴られたという口実を使っていたが、本当のところ、理由などなんでも良かったのだろう。既にあの家は、当主を中心にすっかりおかしくなっていたのだ。歪んだ鶴の一声で、1人の子供の人生をすっかり変えてしまえるほどに。
離れて住むことになったその日、バルドルは、部屋にやってきた元弟を抱き締めて、泣きそうな声でこう言った。
「……ごめんなさい。もっとしっかり守ってあげられなくて」
「いいよ……兄さん。兄さんが頑張ってくれたおかげで、僕はまだここにいられるんだから」
優しく抱き締め返して、言い聞かせるように呟く。痩せ細った小さな兄の体が腕の中で微かに震えている。
狂った当主を前に何か意見できるような人は、この館には1人しかいない。彼に最も愛されている息子、バルドルだけだ。だがそんな兄だって、弟を庇って、あの父と対立するのは辛かったはずだ。この人は誰よりも、優しい世界が好きだから。
「兄さんは何も気に病まなくていいんだ。僕は毎日会いに来るから。今までと何も変わりはないよ。……大丈夫。僕はずっと、兄さんの傍にいるから」
震える背中をトントンと叩く。昔、ホズが泣いていた時に、兄がよく、こうしてくれた。今度こそ自分が兄を守らなくてはならないのに、また守られてしまった。
「ありがとうございます。ホズ……。貴方は強くて優しい、僕の自慢の弟です。……僕もずっと、貴方の傍にいますから」
太陽の匂いを含んだ温かな声が、耳元で優しく囁いた。この温もりさえ守れれば、他には何を失ったって構わない。親だって、家だって。
ホズは強く強く、そう思ったのだった。
〜
「……僕には、兄さん以外に味方なんかいないんだ。……なのに、最近、兄さんは学校に行けるようになって……友達もたくさんできたみたい。僕には相変わらず、兄さんしかいなかったのに」
ホズはそこで言葉を切ると、首だけ倒して、隣にいるはずのヴァーリの方へ鼻先を向けた。さっきから相槌すら聞こえない。
「……聞いてる?」
恐る恐る問いかけてみると、すぐに返事が返ってきた。
「もちろん。大丈夫だ、一言も漏らさずに聞いているからね」
「そ、そう……。まあ、寝ててもいいんだけどね……時間も遅いし……」
そうは言いつつ、ヴァーリが起きていることに胸を撫で下ろす。
「気遣いは要らないよホズ。君が言いたいことを言い終えるまで、絶対に寝ないつもりだからね」
「……本当に君って。変な子だよね。こんな暗い話、聞いてても楽しくないでしょ」
「何を言うんだ。確かに暗い話ではあるが、君の話なら選り好みなんかしないよ。僕の脳内を占める君の情報の割合が1%でも増えればそれで本望だ」
「うわっ……」
思わず顔を顰めてしまった。彼の言っている言葉が気持ち悪くて。しかしこんな変態でも、孤独なホズにとっては特別な存在なのだ。
だから、ちゃんと言わなければならない。ホズは天井へ向き直り、深く息を吸って、吐いた。
「……話を戻すけど。最近兄さんは、僕の他にも仲のいい人がたくさんできて、毎日楽しそうにしてるんだ。ずっと外に出てみんなと遊びたいって言ってたし、昔からの願いが叶って、今すごく幸せなんだと思う。本当なら僕だって、兄さんの幸せを喜ばなきゃいけないんだけど……」
もう1度深呼吸を挟んでから、ホズは続けた。
「全然喜べないんだ。僕だけの光が、他人に奪われたような気がして。……最低だよね」
ヴァーリに顔を向け、肩を竦めてみせる。相手からの返事はない。ホズは浮かべていた自嘲の笑みを引っ込めて、再び天井を向いた。
「……でも、そんな時にね、君が来てくれたんだ。僕と友達になりたいとか、ずっと傍にいるとか……そんな重たいことばっかり言ってくる、変な子がね」
「変な子って」
不服そうな声を無視して、ホズは話を続けた。
「正直重過ぎて気持ち悪いけど、でもその分安心もするんだ。兄さんが僕から離れても、君だけは僕から離れたりしないって、そんな風に思えるから。……これがどういう意味かわかる?」
「い、いや……」
「……君と友達になりたいのは、好きだとか、興味があるとか、仲良くしたいとか、そういう純粋な気持ちじゃなくて……ただのエゴ。自分勝手な我儘だってこと。僕は、思ったよりずっと、独りぼっちが怖いんだ。この真っ暗な世界で独りにならないために、君のその罪悪感を利用したい。そういう意味」
できるだけ落ち着いた調子で言ってみせたが、心臓はバクバクと嫌な音を立てている。果たしてこれを聞いたヴァーリがどう思うのか。そしてどう結論づけるのか。
緊張で額に脂汗が滲んできた。1秒1秒がやけに長い。6秒くらいを数えたところで、ついに隣が口を開いた。
「ふむ、それは好都合だね。つまり僕らはウィンウィンな関係ってことじゃないか」
「えっ……?」
奇妙なほどに平然としたその声に、ホズはポカンと口を開けた。一体この子は今どんな顔をしているのか。そちらへ向いても、暗闇しか見えないからわからない。
「僕の人生にはどう足掻いても君が必要で、君の人生には僕のような狂った人間が必要なんだろう? フフ……なんて数奇な運命なんだ! 世界は相当、僕に味方したいらしい!」
彼はショックを受けるどころか、興奮気味にそんなことを叫んでいる。まるで喜劇の主人公のように。
「ああホズ、僕は幸せ者だね、やり直すチャンスだけでなく、君と一緒にいられる強固な口実まで貰えるなんて! きっとこれは、僕1人分の幸せじゃない。君の分の幸せも、全部僕が持っているからなんだろうね」
呆気に取られているホズの手を両手で包むように握り込み、ヴァーリは嬉しそうにそんなことを言った。
「ぼ、僕の分の幸せを、君が……?」
「ああ。そうだよ。僕は君を殺した時に、君から幸せも一緒に奪ってしまったんだ。……本来の予言の通りなら、君はバルドルと、幸せに生きられるはずだった」
ヴァーリの声がワントーン下がった。そんな予言など、ホズの記憶にはない。どう返せばいいかわからず戸惑っていると、ヴァーリが静かな調子のまま、再び口を開いた。
「……君の話はそれで終わりかい?」
「え、あ……いや、あと、もう1つ……君に聞いておかなきゃいけないことがあって……さっきの話とは、また少し……関係ないんだけど……」
ヴァーリの質問に背を押されるがまま、そう切り出したが、すぐに尻すぼみになって口をつぐんだ。
「……なんだい?」
彼の声は落ち着いている。まるで、何を聞かれるのかわかっているかのような。
「……き、君はどうして『夢の向こう』で……僕を、殺したの?」
声が自然と震えてしまう。さっき見た悪夢、あれはおそらく、『夢の向こう』ーーつまりは『存在しないはずの記憶』の夢だ。これを聞いておかないと、胸の底の不安が完全に溶け切ることはないだろう。
「ああ……それを聞くということは、やはり君、そういう夢を見ていたね? やけに鮮明な寝言を言うものだから、なんとなく、ある程度は予想がついていたけれど」
落ち着いた声が、苦々しく澱んで、静まり返った室内に響いた。
「君に覚えがないのなら、言わない方が得策かと思っていたけれど……こうなったら隠すのはもうやめよう。君だって秘密を打ち明けてくれたんだ。僕だって、もう1度勇気を出そうじゃないか」
ホズの手を包んでいた温もりがそっと離れ、ヴァーリが起き上がる気配がした。ホズもつられて起き上がり、見えない彼の顔を覗き込む。
「……悪いけど、もう少し起きていてくれ、ホズ。そんなに長い話じゃないからね」
やけに優しい声がそう言って、次いで深い深い呼吸音が聞こえてきた。ホズもそれに合わせて呼吸して、渇いた喉を小さく鳴らした。この子が何を言おうとしているのか、大体察しはついている。
以前ヴァーリは、「記憶の中の僕は、君を殺すためだけに生まれた存在だった」と言っていた。彼がただ狂っていて、ホズを殺したくて堪らなかったのか、それとも、彼にはどうしてもホズを殺さなければならない、相当な理由があったのか。この短い間一緒に過ごしただけでも、前者ではないことはよくわかる。彼は狂ってはいるが、誰かを好んで殺すような人ではない。
つまり、ホズは何か、彼に殺されるようなことをしたのだ。そう、たとえばーー
「ホズ、君は……バルドルを殺したんだ」
ホズは全身から血が抜けていくのを感じた。元から暗いこの世界が、更に闇の奥深くへと落ちていった。
ハール。フェンサリルの本家に属する人間なら誰しも1度は聞いたことがあり、そして、誰しもが2度と口にしないと誓った名前である。
彼はフェンサリル家現当主の実の弟である。昔からやんちゃばかりしていた問題児であったが、その美貌と愛嬌と、悪辣な方向にのみ回る頭によって、不思議と周りから愛されていた。
しかし、そんな彼を愛していない人が1人いた。実の兄、フィヨルギュンである。第3者から見れば、人気者の弟に嫉妬する兄であったが、実際は逆だった。優秀な兄に嫉妬した弟が、兄に酷い嫌がらせを繰り返していたのだ。
特にハールは兄の物を奪い取ることに執心していた。鉛筆や消しゴムから始まり、教科書、シャツや下着、片一方の靴、手紙など、彼が盗んだ物は数知れない。兄がいくら被害を訴えても、ハールがそこまでするはずないと誰もまともに取り合わず、弟の悪事はどんどんエスカレートしていった。
そしてついに彼は、兄から妻をも奪った。そして、3人目の子供が生まれた頃、1冊の日記を残し、忽然と姿を消したのであった。
ホズは13歳になったばかりの時に、この話を聞いた。父、フィヨルギュンから。
「私はこの日記を読むまで、3人ともみんな私の子だと思っていた」
自室にホズを呼び出した父は、部屋中を忙しなく歩き回りながら、ポツポツと話している。ホズが物心ついた頃から彼は気が触れており、いつも落ち着きがない。昔は落ち着いていて優しい子だったという話を年老いた使用人から聞いたことがあるが、殴られた記憶すらあるホズには、信じがたい話である。
「お前も知っているはずだが、うちは長男が家を継ぐ決まりだ。私たちは子供に恵まれなかったから、バルドルが生まれた時は、まさに天の恵みだと思ったものだ。……なのに! 見ろ、これを!」
目の前に、力強く紙が置かれる音がした。見ろ、と言われても、ホズにはただの暗闇しか見えない。露骨に顔を顰めてみせると、父は舌打ちをした。
「……DNA鑑定の結果だ。お前たち3人の。フリッグは私と妻の子で間違いないがーー」
バン! と大きな音がして、ホズは思わず肩を震わせた。父が机を叩いた音なのだと理解するのに、数秒の間を要した。
「ーーバルドルとお前は、妻と……ハールの子だった! 全部この日記に書かれていた通り! あの宝石のようなバルドルが! よりによってあの悪魔の子だなんて……っ!」
父は首を絞められているかのような声でそう叫び、取り憑かれたように頭を掻きむしっている。ホズは内心、笑いを堪えるのに必死だった。今し方聞いたばかりの話の重要性はまだよくわからないが、こんな恐ろしい父親よりも、声すら聞いたことのない父親の方がマシだと思えたし、何より兄と自分だけの特別な共通点ができたような気がして嬉しかった。
「……おい、何を笑っている」
泥を押し固めたような低い声が、ホズの背筋を凍らせた。少し、笑みが漏れていたらしい。まずいと思った頃には、もう胸ぐらを掴まれていた。
「何が面白いんだ! この悪魔の子め! バルドルとは違って、お前は顔も中身もそっくりだ! あのどうしようもない化け物にな!」
「ぐっ……!」
大人の力で激しく揺さぶられ、身の危険を感じたホズは、咄嗟に拳を握り込み、父の肩を思いっ切り殴り飛ばそうとした。しかし肩があると思ったところには何もなく、おそらくその少し上を通過した拳は、父の左頬にぶつかった。
小さな呻き声と、何かが崩れるような音がして、ホズを掴んでいた手が離れた。中学生ともなれば、ほぼ小さな大人のようなものである。昔から人より少し力が強かったホズは、いつの間にか大人を1人吹っ飛ばせるほどの腕力を備えていたのだった。
「と、父さん? だ、大丈夫……?」
床から低い呻き声が聞こえる。さすがにやり過ぎたかと思って慌てて立ち上がり、手探りをしながら父の方へ足を踏み出すと、急に下から大きな声がした。
「来るなこの悪魔め!」
ホズは動きを止め、一気に湧き上がってきた怒りを鎮めるために奥歯を噛み締めた。父はよく、ホズを人ではない何かのように扱う。今までは目が見えないせいでそんな仕打ちを受けていたのだとばかり思っていたがーーきっと父には自分が、そのハールという人間に見えていたのだろう。ずっと昔から。
迷惑だ。そう吐き捨ててしまいそうになるのを堪えて、ホズは肩から大きく息を吐いた。何を言っても無駄だ。今までもそうだった。
「お、お前……、お前は今、自分が何をしたかわかってるのか……? 父親に手をあげたんだぞ……っ!」
父の震え声が、徐々に這い上がってきた。ホズはまた掴まれたりしないよう、座っていたソファの裏に素早く周り込み、相手の様子に聞き耳を立てた。今の父からは殺気すら感じる。もしこの部屋のどこかにナイフがあって、それで刺されでもしたら。嫌な想像が頭をぐるぐる駆け巡る。心臓の音が、鼓膜を直に叩いてくる。
緊張が高まる中、ホズの耳に、調子の外れた笑い声が飛び込んできた。
「ふふっ、ふは、はははは……っ! ついに、ついに尻尾を見せたなハール!」
完全に狂っている。ホズは恐怖に頬を痙攣させた。部屋の出口は左手側にあったはずだ。だがそちらには父がいる。
「ああ、ああ、酷い、酷いことをしたなハール! ほら見ろ、顔が腫れてしまった! これを見せれば今度こそみんな信じるだろうな! お前が相当な悪党だって!」
今のところ、近づいてくる気配はない。ホズは相手の足音を聞き漏らすまいと、耳に神経を集中させた。
「そうしたら、そう、お前なんか、すぐにこの家から追い出してやるぞ! 誰だって、父親を殴るような悪魔と同じ家には住みたくないだろうからな!」
「えっ……」
思わず声を上げてしまった。家から追い出す? この人はそう言ったのか。兄さんと住めなくなるのは非常に困る。兄さんを1番近くで守らなくてはならないのに。
「ま、待って、何を言ってるの、父さん……! さっきのは父さんが先に」
「私が先に⁉︎ 腫れるほど強く、お前の顔を殴ったって⁉︎」
「っ……」
声がこちらへ近づいてきて、気圧されたホズは1歩下がった。
「正当防衛でも主張して、また逃れようって肚か? 残念だが、そんな上手い話なんかないぞハール! とにかくお前はもう今日限りで勘当だ! せいぜい荷物でもまとめておくんだな! はははは!」
「ま、待って……嫌だ、ごめんなさい……! それだけはやめて……!」
部屋の外へ向かい始めた父の足音を引き止めようと必死に叫んだが、渇いた喉がくっついて、ほとんど声が出ない。震える足は、指1本も動かない。
「ここにいさせて……! 酷いよ、目を覚まして父さん……! 僕はハールじゃない……! こんなのただの八つ当たりだ……!」
それでも力の限り叫び続けていたら、さっきまで聞こえていた高笑いが、ふと止んだ。そして、父の声が急に静かになって響いた。
「……父さんだってわかってる。お前がハールじゃないってことくらい」
聞いたことのないような落ち着いた調子に、ホズは息を呑んだ。
「でもな、お前の顔を見るたびに、私は1つずつ、自分を失っていく気がするんだ」
「父さん……」
「……13年。お前が生まれてから、13年。ずっとずっと、私は自分を削ってきた。……もう、ほとんど残ってないんだ。フィヨルギュンという人間は。……ごめんな、ホズ」
その声は微かに震えながら、扉の向こうへと消えていった。
次の日、早くもホズの処分が決まり、ホズはフェンサリル本家の次男から、しがない使用人へと格下げされた。家から追い出すことに関してはバルドルに猛反対されたらしく、本家の館から使用人の寮へ、部屋を移す程度で済んだ。しかし冷たい地下を通らなければ兄に会えなくなってしまったし、使用人の助けを借りることもできなくなった。
バルドルの計らいにより、かろうじてフィヨルグソンを名乗ることは許されたが、公的には『元々は孤児だったが、今まではそれを隠して本当の兄弟として育てられていた、バルドルの使用人』という扱いになった。本当ならただの使用人となるところだったが、これもバルドルのたっての願いによって、ホズの雇用主は父ではなく兄ということになった。
ここまでの話が、たった一晩で決まったとは考えにくい。おそらく全ては、父がホズを部屋に呼び出した頃には決まっていたのだろう。たまたま殴られたという口実を使っていたが、本当のところ、理由などなんでも良かったのだろう。既にあの家は、当主を中心にすっかりおかしくなっていたのだ。歪んだ鶴の一声で、1人の子供の人生をすっかり変えてしまえるほどに。
離れて住むことになったその日、バルドルは、部屋にやってきた元弟を抱き締めて、泣きそうな声でこう言った。
「……ごめんなさい。もっとしっかり守ってあげられなくて」
「いいよ……兄さん。兄さんが頑張ってくれたおかげで、僕はまだここにいられるんだから」
優しく抱き締め返して、言い聞かせるように呟く。痩せ細った小さな兄の体が腕の中で微かに震えている。
狂った当主を前に何か意見できるような人は、この館には1人しかいない。彼に最も愛されている息子、バルドルだけだ。だがそんな兄だって、弟を庇って、あの父と対立するのは辛かったはずだ。この人は誰よりも、優しい世界が好きだから。
「兄さんは何も気に病まなくていいんだ。僕は毎日会いに来るから。今までと何も変わりはないよ。……大丈夫。僕はずっと、兄さんの傍にいるから」
震える背中をトントンと叩く。昔、ホズが泣いていた時に、兄がよく、こうしてくれた。今度こそ自分が兄を守らなくてはならないのに、また守られてしまった。
「ありがとうございます。ホズ……。貴方は強くて優しい、僕の自慢の弟です。……僕もずっと、貴方の傍にいますから」
太陽の匂いを含んだ温かな声が、耳元で優しく囁いた。この温もりさえ守れれば、他には何を失ったって構わない。親だって、家だって。
ホズは強く強く、そう思ったのだった。
〜
「……僕には、兄さん以外に味方なんかいないんだ。……なのに、最近、兄さんは学校に行けるようになって……友達もたくさんできたみたい。僕には相変わらず、兄さんしかいなかったのに」
ホズはそこで言葉を切ると、首だけ倒して、隣にいるはずのヴァーリの方へ鼻先を向けた。さっきから相槌すら聞こえない。
「……聞いてる?」
恐る恐る問いかけてみると、すぐに返事が返ってきた。
「もちろん。大丈夫だ、一言も漏らさずに聞いているからね」
「そ、そう……。まあ、寝ててもいいんだけどね……時間も遅いし……」
そうは言いつつ、ヴァーリが起きていることに胸を撫で下ろす。
「気遣いは要らないよホズ。君が言いたいことを言い終えるまで、絶対に寝ないつもりだからね」
「……本当に君って。変な子だよね。こんな暗い話、聞いてても楽しくないでしょ」
「何を言うんだ。確かに暗い話ではあるが、君の話なら選り好みなんかしないよ。僕の脳内を占める君の情報の割合が1%でも増えればそれで本望だ」
「うわっ……」
思わず顔を顰めてしまった。彼の言っている言葉が気持ち悪くて。しかしこんな変態でも、孤独なホズにとっては特別な存在なのだ。
だから、ちゃんと言わなければならない。ホズは天井へ向き直り、深く息を吸って、吐いた。
「……話を戻すけど。最近兄さんは、僕の他にも仲のいい人がたくさんできて、毎日楽しそうにしてるんだ。ずっと外に出てみんなと遊びたいって言ってたし、昔からの願いが叶って、今すごく幸せなんだと思う。本当なら僕だって、兄さんの幸せを喜ばなきゃいけないんだけど……」
もう1度深呼吸を挟んでから、ホズは続けた。
「全然喜べないんだ。僕だけの光が、他人に奪われたような気がして。……最低だよね」
ヴァーリに顔を向け、肩を竦めてみせる。相手からの返事はない。ホズは浮かべていた自嘲の笑みを引っ込めて、再び天井を向いた。
「……でも、そんな時にね、君が来てくれたんだ。僕と友達になりたいとか、ずっと傍にいるとか……そんな重たいことばっかり言ってくる、変な子がね」
「変な子って」
不服そうな声を無視して、ホズは話を続けた。
「正直重過ぎて気持ち悪いけど、でもその分安心もするんだ。兄さんが僕から離れても、君だけは僕から離れたりしないって、そんな風に思えるから。……これがどういう意味かわかる?」
「い、いや……」
「……君と友達になりたいのは、好きだとか、興味があるとか、仲良くしたいとか、そういう純粋な気持ちじゃなくて……ただのエゴ。自分勝手な我儘だってこと。僕は、思ったよりずっと、独りぼっちが怖いんだ。この真っ暗な世界で独りにならないために、君のその罪悪感を利用したい。そういう意味」
できるだけ落ち着いた調子で言ってみせたが、心臓はバクバクと嫌な音を立てている。果たしてこれを聞いたヴァーリがどう思うのか。そしてどう結論づけるのか。
緊張で額に脂汗が滲んできた。1秒1秒がやけに長い。6秒くらいを数えたところで、ついに隣が口を開いた。
「ふむ、それは好都合だね。つまり僕らはウィンウィンな関係ってことじゃないか」
「えっ……?」
奇妙なほどに平然としたその声に、ホズはポカンと口を開けた。一体この子は今どんな顔をしているのか。そちらへ向いても、暗闇しか見えないからわからない。
「僕の人生にはどう足掻いても君が必要で、君の人生には僕のような狂った人間が必要なんだろう? フフ……なんて数奇な運命なんだ! 世界は相当、僕に味方したいらしい!」
彼はショックを受けるどころか、興奮気味にそんなことを叫んでいる。まるで喜劇の主人公のように。
「ああホズ、僕は幸せ者だね、やり直すチャンスだけでなく、君と一緒にいられる強固な口実まで貰えるなんて! きっとこれは、僕1人分の幸せじゃない。君の分の幸せも、全部僕が持っているからなんだろうね」
呆気に取られているホズの手を両手で包むように握り込み、ヴァーリは嬉しそうにそんなことを言った。
「ぼ、僕の分の幸せを、君が……?」
「ああ。そうだよ。僕は君を殺した時に、君から幸せも一緒に奪ってしまったんだ。……本来の予言の通りなら、君はバルドルと、幸せに生きられるはずだった」
ヴァーリの声がワントーン下がった。そんな予言など、ホズの記憶にはない。どう返せばいいかわからず戸惑っていると、ヴァーリが静かな調子のまま、再び口を開いた。
「……君の話はそれで終わりかい?」
「え、あ……いや、あと、もう1つ……君に聞いておかなきゃいけないことがあって……さっきの話とは、また少し……関係ないんだけど……」
ヴァーリの質問に背を押されるがまま、そう切り出したが、すぐに尻すぼみになって口をつぐんだ。
「……なんだい?」
彼の声は落ち着いている。まるで、何を聞かれるのかわかっているかのような。
「……き、君はどうして『夢の向こう』で……僕を、殺したの?」
声が自然と震えてしまう。さっき見た悪夢、あれはおそらく、『夢の向こう』ーーつまりは『存在しないはずの記憶』の夢だ。これを聞いておかないと、胸の底の不安が完全に溶け切ることはないだろう。
「ああ……それを聞くということは、やはり君、そういう夢を見ていたね? やけに鮮明な寝言を言うものだから、なんとなく、ある程度は予想がついていたけれど」
落ち着いた声が、苦々しく澱んで、静まり返った室内に響いた。
「君に覚えがないのなら、言わない方が得策かと思っていたけれど……こうなったら隠すのはもうやめよう。君だって秘密を打ち明けてくれたんだ。僕だって、もう1度勇気を出そうじゃないか」
ホズの手を包んでいた温もりがそっと離れ、ヴァーリが起き上がる気配がした。ホズもつられて起き上がり、見えない彼の顔を覗き込む。
「……悪いけど、もう少し起きていてくれ、ホズ。そんなに長い話じゃないからね」
やけに優しい声がそう言って、次いで深い深い呼吸音が聞こえてきた。ホズもそれに合わせて呼吸して、渇いた喉を小さく鳴らした。この子が何を言おうとしているのか、大体察しはついている。
以前ヴァーリは、「記憶の中の僕は、君を殺すためだけに生まれた存在だった」と言っていた。彼がただ狂っていて、ホズを殺したくて堪らなかったのか、それとも、彼にはどうしてもホズを殺さなければならない、相当な理由があったのか。この短い間一緒に過ごしただけでも、前者ではないことはよくわかる。彼は狂ってはいるが、誰かを好んで殺すような人ではない。
つまり、ホズは何か、彼に殺されるようなことをしたのだ。そう、たとえばーー
「ホズ、君は……バルドルを殺したんだ」
ホズは全身から血が抜けていくのを感じた。元から暗いこの世界が、更に闇の奥深くへと落ちていった。