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1年生



 コーヒーブレイクを終え、思いつく限りの遊びをやって、買ってきていた惣菜とパンでお腹を満たしたら、気が付くともう日が暮れていた。
 シャワーを浴びに行ったホズを待つ間、ヴァーリはバルコニーに出て、夜の匂いのする風を浴びながら、昼間にホズから聞いた話を反芻していた。

ーー「僕と兄さんって全然似てないんでしょ? 血が繋がっていないからなんだよ」
 バルドルと、血が繋がっていない?
ーー「そう。僕は元々、施設で育った孤児らしいんだ。小さい頃に、兄さんの使用人にするために迎えられて……弟っていう設定で一緒に育ってきたんだ」
 孤児……? 弟という設定……?
ーー「まあ僕には施設にいた頃の記憶なんてないし、兄さんは僕を本当の弟だと思って接してくれているから、特に問題はないけど」

「本当に……?」
 夜風に乗せて、小さな声で呟いた。何度繰り返し思い起こしても、どこかに不自然な気持ち悪さがあって納得できない。
 確かに、あの兄弟に違和感がなかったといえば嘘になる。今朝迎えに行ったホズの家だって、フェンサリル本家の館ではなく、その隣にある建物だ。てっきり、金持ちというのは子供部屋を建物ごと用意するのかと思っていたのだが、あれはどうやら使用人用の寮で、そこの一室がホズの部屋なのだそうだ。
 住んでいる所だけではない。バルドルと遊んだ時は、門限が近くなると大人が車で迎えに来たが、ホズとは暗くなるまで遊んでも誰も来ない。そのことについて以前ホズに問いかけたことがあるが、その時彼は『自分のことなど誰も気にしない』と答えながら、他に何かを言い淀んでいる様子だった。もしかしたら、この話をしたかったのかもしれない。
 ホズがフェンサリルの正当な血筋の者であろうがあるまいが、ヴァーリには何の影響もない。今まで通り、彼の友達となるべく奮闘するだけである。ただ、身の上話をするホズの表情が、吐き気を我慢しているかのように歪んでいたのが気になって仕方なかった。
「ああ、きっと……僕には言えないような何かがまだあるんだろうね……」
 大量の鉢植えのせいで端の方へ追いやられている木製チェアに腰掛け、夜空を見上げて寂しげに独りごちる。
「まあ、僕らは“友達でもない”からね。泊まりに来たのだってバルドルの勧めに従っただけだし、急に身の上話をしてくれたのだって、僕が踏み込んだ質問をしたからだろうし。なんだかんだ一緒に遊んでくれるのも、たまに電話をくれるのも、全部、君が優しいからってだけなんだろう?」
 今夜の空はやけに澄んで、色とりどりの星がカラースプレーのように広がっている。風は強いが、今日は朝から雲一つない晴天だった。ヴァーリは目を細め、痛みを堪えるように笑った。
「……悔しいな」
 満天の星空がどこまでも深く遠い。その中でも一番遠くで輝く淡い光に触れてみたくて、そっと手を伸ばした。届かないとわかっていても。
「……でも、うん。あの星に比べたら、君なんか随分近いね。手を伸ばせば触れるんだし。まだ連絡先を交換してから1ヶ月しか経っていないし。焦るんじゃないヴァーリ。きっといつか、ホズとは友達になれるはずだし、彼のことを隅まで知り尽くせるはずだ。そして、僕がかつて君から奪った尊い幸せを、何倍にもして返せるはずだ。だってーー」
 ヴァーリは薄っすらとした笑みを浮かべると、指で輪を作り、そこからあの遠い星を覗き込んだ。
「ーー僕は絶対、君を逃しはしないから」
 彼のミント色の瞳は沼地のように澱んで、長い睫毛の下でぐるぐると渦巻いている。周りの星々はその渦の中へと吸い込まれて、残された小さく淡い星だけが、くっきりと、彼の視界の中で輝いていた。



「はあ、疲れた……」
 太ももまで伸びた長い髪を拭きながら、ホズは大きなため息を吐いた。
 知らない家でシャワーを浴びるのは、ホズにとっては思った以上に骨が折れる作業だった。かといってこんなところでヴァーリの手を借りるのは嫌なので、仕方のないことである。
 その上、この疲れは何もシャワーだけのせいではない。さっきまでヴァーリが『今日のために用意してきた』と色々なゲームや玩具を取り出してきて、一通りやらされていたのだ。目が見えないホズのためにと、ほとんど音や感触で遊べるような物ばかり集められていた。
「ほんと、よくやるよ……。そんなに僕と友達になりたいかな」
 わざとらしく呆れたように呟く。彼がホズと仲良くしたがる動機は、以前ヴァーリから直接聞いた。どうも彼は『存在しないはずの記憶』でホズを無慈悲に殺したことがあるらしく、それを悔やんでいるらしいのだった。ホズにはそんな記憶はないので、この話を聞いた当時も今も、全く実感が湧かない。
 だが1つだけ、ホズの頭からどうしても離れてくれない言葉を、あの時彼は言った。

ーー僕はそう、君と友達になるために、こうして生まれてきたんだと思う。

「……大袈裟な」
 今度は心底呆れた声が出た。それはつまり、ホズと友達になったらそこで、人生の目的を達成してしまうということではないか。ホズがただ一言、「僕たちは友達だ」と、そう言うだけで。
 そうなったら、ヴァーリはどうするのだろうか。また新たな目標を決めて再スタートでも切るのだろうか。そして、ホズとは用済みとばかりに縁を切るのだろうか。
 それともあるいは、友達になっても、変わらず一緒にいてくれるのだろうか。
「……それはないって。僕なんか盲目で世話が焼けるし、性格も悪いし。あんなに大好きな親友がいるのに、こんな無愛想な友達なんか必要ないでしょ」
 自分に言い聞かせるように、口の中で諦観を転がす。兄以外の人間に対して、変な期待などするものではないのだと、彼は今までのたった十数年の人生の中で嫌というほど学んでいる。
 手探りでバスローブを掴んで袖を通す。これもヴァーリが用意してくれたものだ。おそらく例の親友も使ったことがある。そう思うだけで気分が重くなってきたので、ホズはさっさと扉を開けて、リビングへ顔を出した。
「……ヴァーリくん?」
 存在を確認するために名前を呼ぶと、少しの間を開けて、向こうから窓を開ける音が聞こえてきた。
「ああ、ホズ! 待っていたよ、随分時間がかかったね、やっぱり僕が手伝った方が良かったんじゃないのかい?」
「い、いや、それは絶対に嫌。……でもごめん、待たせちゃって。君はシャワーまだなのに」
「いいんだよ。僕は朝派だからね。それにしても、やっぱり似合っているね、そのミント色・・・・のバスローブ。選んだ甲斐があったよ」
「……選んだ……?」
 ヴァーリの言葉に、ホズは眉を顰めた。
「ああ。君は髪が長いから必要になると思ってね。うちには僕用のしかなかったから、新たに用意しておいたんだよ」
「……そ、そう。わざわざありがとう」
 新品だと聞いて、なんだか嬉しくなってしまった。思いのほか単純な自分が憎い。
「フフ……それより君、本当に髪が長いね。結んでいる時から思っていたけれど、こうして下ろしていると尚更だよ」
 ホズは不思議そうに首を傾げて、自分の髪を持ち上げた。
「え? みんなもっと短いの?」
 他人の髪といえば、兄の長髪くらいしか触ったことがない。姉にも「このぐらいの長さがいいんです」とか言われるので、みんな大体長く伸ばすものだとばかり思っていた。
「まあね。髪の長さなんて人それぞれだけど、君ほど長い人は、男でも女でも珍しいんじゃないかな」
「そ、そうなんだ……」
 なんだか、知らない方がいい雑学を教わったような気分だ。
「てっきり、長く伸ばすのが普通なのかと思ってたよ。洗うのも乾かすのも面倒だし、今度短く切ってもらおうかな……」
「えっ、それはもったいない。そこまで綺麗に伸ばせる人なんてなかなかいないというのに」
「へえ、そうなんだ……。まあ、世界一美しい兄さんの横に立つんだし、一応身だしなみには気を使ってるからね。……姉さんが」
 ホズはそう言って苦笑いした。見えない本人に代わり、ホズの身だしなみは全て姉が管理している。自分がどんな服を着ているのか、どんな髪形をしているのか、実はよく知らないのだ。姉はホズに優しくはないが、バルドルのことで手抜きなどしない人なので、それなりにきちんとした見た目に仕上げてくれているはずであるが。
「なるほど、確かにバルドルは美しいという言葉が良く似合う人だしね。……まあ、君も同じく美しいけれど。やはり兄弟なんだろうね」
 どこかこちらを探るような物言いに、ホズは眉を顰めた。自分と兄の血が繋がっていないという話をしたら、ヴァーリは「そんなはずはない」「なぜそんな嘘を言うんだ」と全く信じようとしなかった。一体何がそんなに気に入らないのかは知らないが。
「そんなお世辞なんか要らないよ。僕が美しいなんて誰からも言われたことないし。それよりドライヤーってある? 髪を早く乾かしたくて」
「ああ、あるよ。こっちへ来たまえ」
 ヴァーリはそう言って、話題を逸らせたことに安堵するホズの手を取り、自分の部屋まで連れて行って椅子に座らせた。
「待っていてくれ。今ブラシとドライヤーを持ってくるから」
「あ、うん、ありがとう……」
 とりあえず礼は言うものの、少し嫌な予感がする。このままここに大人しく座っていてもいいものだろうか。
 躊躇っている間に、ヴァーリが戻ってきた。コンセントを刺す音と、スイッチを入れる音がして、モーター音と共に、頭に温風が吹きつけてきた。
「え、ちょっ、あ、あの、自分でやるから……!」
 嫌な予感が当たり、慌てて後ろを向く。しかしヴァーリは意に介していない様子で、「任せてくれ。ちゃんと丁寧に乾かすから」と、お構いなしに乾かし始めた。驚いたことに案外手際が良く、髪をかき上げる手の力加減も、温風を当てる時間も丁度いいので、ホズはもう黙って正面を向くことにした。
 一通り乾かし終えると、ヴァーリは何の断りもなく、そのままブラッシングまでし始めた。
「……そういえば言ってたね、生命に手を貸すのが好きって」
 大人しく髪を梳かされながら、ホズはポツリと呟いた。
「ん? 急になんだい?」
「……いや、やたら僕の世話をしたがるから、そういうことなのかなって思って」
「ふむ……そういう解釈もできるかもしれないが、そもそも君は本来もっと世話を焼かれるべき人間だと思うよ。盲目というハンデを負っているのだから」
「……。別に、僕は……世話なんか焼かれなくたって……」
 自然と声が小さくなってしまう。自分でも、これが身に余る強がりだと理解している。もし周りに誰もいなかったなら、きっとここまで生きて来れなかったはずだ。ヴァーリには1度、車に撥ねられそうになったところを助けてもらったこともあるのだし。
「そのハンデを自力で埋めるために、君が相当努力していることは知っているよ。実際君はほとんど健常者と同じような生活をしているし。それでも、色々と限界はあるだろう? もっと他人を頼ったって、罪にはならないはずだ」
 どこか慰めるような調子で紡がれる正論に、ホズは反射的な腹立たしさを覚え始めた。
「わかってる! ……僕だって馬鹿じゃない。頼れる人がいるなら、もう頼ってるよ。父さんも母さんも姉さんも、みんな僕のこと嫌いだし。兄さんは体が弱いから、あんまり甘えるわけにもいかないし」
 突き放すように吐き捨てた。自分で言っていて惨めで、肺がギュッと縮む心地がする。兄の光が離れてしまえば、自分は恐ろしいほどに独りぼっちなのだ。家族にも味方はいない。クラスメイトは信用ならない。そしてこの子はーー

「僕はどうなんだ、ホズ」

 不意に暗い天から強い春風が吹き付けて、底に溜まった不安を巻き上げた。

「僕は五体満足で体力もあるし、君のことは好きだし、何よりーー」

 風が途切れたと思うと、急に肩へ何かがのしかかってきて、そのまま羽交締めにされた。突然のことに何も反応できずにいると、ふっと顔の近くまで気配が近づいてきて、耳元を、優しい風が撫でた。

「ーー君が死ぬまで、ずっと傍にいるからね」

「ひぃぃっ!」
 ホズは反射的に悲鳴を上げた。その声色は心地良いのに、紡がれた言葉が怖すぎた。軽いパニックになって暴れると、ヴァーリはより一層強く抱き締めてきた。
「うわあああっ⁉」
 ますます怖くなって更に暴れると、耳元から切実な叫びが聞こえてきた。
「まっ、お、落ち着いてくれホズ! 椅子から落ちたりしたら危ないだろう!」
 その時、ぐらりと重心が傾いた。肝が冷える感覚で我に返ったホズは、慌てて足に力を入れ、バランスを取り直した。
「っ、はぁ……はぁ……な、何が……何が起きたの、今……」
「やっと落ち着いたかい。急に君が暴れ出すから焦ったよ」
 まだ少し混乱しているホズを抱き締めたまま、ヴァーリは肩で大きく息を吐いた。
「え、あ、ご、ごめん。……いや、そもそも君があんなこと言うから……っていうか離れて、気持ち悪い」
 心底嫌そうな顔をして吐き捨て、無理矢理引き剥がそうとヴァーリの腕を強く掴んだ。
「いたっ、わ、わかった、放すから。君は馬鹿力なんだから、手加減くらいしてくれ」
 渋々とヴァーリが離れた。被さっていた温もりが消えたせいか、少し首の辺りが寒い。それを誤魔化すように、ホズは首の後ろで髪を1つに結びながらため息を吐いた。
「はあ。本当にもう……油断も隙もないんだから」
「急にくっついて驚かせたのは悪かったよ。なんだかつい抱き締めたくなってね」
「そこじゃなくて。いや、そこもだけど。ほら……死ぬまで傍にいる、とか。悪趣味な冗談言ったでしょ」
 自分で口に出してみると、その言葉のあまりの重さに舌がヒリヒリする。よくこんなことを言えるものだと呆れていると、後ろからごく真剣な声が聞こえてきた。
「失礼だな。冗談なんかじゃないよ。僕は本当に、君が死ぬその時まで一緒にいるつもりだ」
「えっ……?」
 驚いて振り返る。暗闇の向こうにいる彼の表情はわからないが、笑っていないであろうことは声色から明白だ。
「……と、友達になっても……?」
 震える声が口を突いて出た。無意識に瞼を開けて、暗闇の中へ目を凝らす。答えを聞くのが恐ろしいのか、期待を抑えられないのか、心臓が痛いくらいに鳴っている。
「当たり前だろう。今後もずっと君の傍にいるために、友達になるんだからね」
 あっさりとした返答に、ホズは一瞬、強烈な光を見た気がした。
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