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1年生



 大舞踏会当日の昼下がり、言われた通り少ない荷物だけを持って家を出たホズは、待ち構えていたヴァーリに連れられて、彼の家へとやって来た。アース財閥の所有する9階建ての集合住宅の3階に、彼らは部屋を借りている。そのくらいの高さなら階段でいいと言ったのだが、「君が転んだりしたらいけない」とヴァーリが引かないので、わざわざエレベーターに乗ることになった。
「ああ、こうして君と一緒にいると、ただのエレベーターも楽しいアトラクションのようだ。今ほど低い階に住んでいることを悔やんだ時はないね。このままずっと乗り続けていたい気分だよ」
 ホズの来訪がよほど嬉しいのだろうか、ヴァーリはずっとこの調子である。……いや、彼は元からこの調子だった。仲良くなる前からずっと。
 早くも帰りたくなってきているホズの手を引いてエレベーターを降り、ヴァーリは上機嫌に鼻歌を歌いながら玄関の鍵を開けた。
 扉が開くと同時に、中から風と共に植物の匂いがふわりと香ってきた。そういえば、鉢植えがあるとか言っていたような気がする。ここに来たのは2回目だが、前回は緊張と警戒のあまり気づかなかった。
「君の新たな家へようこそ、ホズ。さあ入りたまえ」
「新たな家って……一晩泊めてもらうだけなのに」
 呆れ気味に呟きながら、ヴァーリに促されるまま中へと入る。短い廊下を抜けた先に、1枚の扉を隔ててリビングがあり、そこから各部屋へ行けるようになっているらしい。まるで新しい住人でも迎えるかのように、ヴァーリは意気揚々と家の説明をしてくれた。
「ーーで、こっちがバルコニーだ。とはいえ僕の鉢植えに占拠されているから、君はあまり近づかない方がいい。万が一足を引っ掛けたりしたら危険だからね」
「外にもあるんだ。鉢植え。花とか好きなの?」
「んー、いや。花が、というより……僕は何かを育てるのが好きなんだよ。この愛しい世界で生きていこうとする生命に、ちょっと手を貸すのが好きなんだ」
「は、はあ。変なの……」
 彼の言っている意味がよくわからず、怪訝そうに首を傾げる。ヴァーリは小さく笑うと、そんなホズの腕を軽く引いた。
「さあ、とりあえず僕の部屋へ行って、荷物を置くといい。そしたらコーヒーブレイクでもしようじゃないか。今日は弟くんもいないから、そこのソファが使えるよ」
 ヴァーリには1つ下の弟がいるらしい。前回ここに来た時にホズも会っているのだが、一言も喋らない上に気配もないので、正直本当に存在するのかはよくわからない。さっき弟の部屋も紹介されたから、きっと実在はするのだろうが。
「君の弟はどこへ行ったの? 友達の家とか?」
「ああ。今朝置手紙があったんだ。今日は彼も友達の家に泊まるらしい」
「へえ、弟も泊まりに……え? と、泊まるってことは……明日まで、この家には君と僕しかいないってこと……?」
 この家に住んでいるのは、ヴァーリと弟の2人だけだと聞いている。両親は遠くで羊牧場をやっているから、こっちに来れないのだとか。
「ああ、そうだよ。やけに都合がいいが……まあ、運が味方してくれたということだろう。喜んで遊び倒そうじゃないか」
 そう言うヴァーリの声は弾んでいる。ホズは胸中に不安が募るのを感じながら、彼に手を引かれるまま、重い足取りで荷物を置きに向かった。



 荷物を置いた後、ヴァーリの勧めに従い、2人はリビングでコーヒーブレイクをする運びとなった。
 この部屋の中央に位置するソファは、肌触りも柔らかく低反発で、とても座り心地がいい。普段弟が占領しているのも頷ける。これで2人用という狭さでなければ文句はなかったのだが。
「……近い」
 すぐ隣に座ってきたヴァーリから少し身を逸らし、ホズは嫌な顔をしてみせた。
「仕方ないだろう、座る所がここしかないんだから。君の家ならもっと広いソファもあるのかもしれないけど、僕らみたいな貧乏人にはこれが限度なんだよ。郷に入っては郷に従え、だ。これくらい我慢したまえ」
 不満げな声が耳の近くで響く。彼の声は、例えるなら春風だ。厳しい冬の終わりを告げる、あの温かさに似ている。暗い雪の中で兄の光だけを浴びて生きてきたホズは、突然吹いてきたこの心地良い風に、少なからず戸惑いと煩わしさを感じていた。
「僕だって、そんなに大きなソファとはほとんど縁なんかないよ。兄さんや姉さんならまだしも。単純に、君の声が近いのが嫌なんだ」
 金持ちの我儘と捉えられたことに少しムッとして、ホズは素直にそう答えた。
「え? 大きなソファと縁がない? ……いやそれより、僕の声が嫌だって⁉︎ だ、誰もがいい声だと称賛する僕の声が……⁉︎」
 対するヴァーリは盛大にショックを受けて、少しばかり声量を落としている。どうやら声には自信があるらしい。だからこそ、駅前でギター片手に歌ったりしているのだろう。正当な自己評価だ。変に自信を失わせるのは本意ではないので、ホズは慌てて首を振った。
「い、いや、僕も君の声は好きなんだけど……好きだからこそ、というか……」
 そこまで言ってホズは、言葉選びを間違ったと後悔することになった。隣から浅く息を吸う音が聞こえてきたからだ。
「い、今君は、間違いなく、僕の声を好きだと言ったね⁉︎ 空耳ではないね⁉︎ ああ……今まで幾多のファンレターをもらってきたけれど、同じことを君に言われると、やたら感動を覚えるのはなぜなんだろうね、ホズ!」
「し、知らないよ……気持ち悪いな……」
 今にも抱きついてきそうな勢いのヴァーリから少しでも逃げるため、肘掛けに縋りついて身を逸らす。彼はいつも大袈裟なのだ。実際はホズ以外の誰に言われても同じくらい喜んでいるのだろう。
 ーー特に、大好きな親友に言われた時などは。
 ふとそんなことを考えてしまい、心の中に暗雲が立ちこめて、ホズは思わず顔を顰めた。暗雲そのものというよりも、それを生じさせる自分が嫌なのだ。この子とは“友達でもない”のに。
「フフ、でもわかったよ。そういうことなら少し離れておこう。君に変な気苦労をかけるわけにはいかないしね」
 ホズの胸中など知らず、ヴァーリは上機嫌にそう言って、端の方に寄った。そうして、おやつのマカロンを1つ摘み、まだ暗い顔をしているホズの肩をつついた。
「ねえホズ、このマカロン美味しいんだよ。ほら、手を出したまえ。君の好きそうな味を渡そう」
「え……あ、う、うん。ありがとう……」
 言われた通りに手を出すと、その上へ軽い物が置かれた。匂いだけでも、これがコーヒー味なのだとわかる。どうやらすっかり、コーヒーが好きな人間だと思われているようだ。おそらく、一緒にカフェに行ってもコーヒーばかり頼むからだろう。実際は、メニューが見えないから、無難な選択肢を選んでいるだけに過ぎないのだが。
「……うん。確かに美味しいね」
 一口齧って、予想通りの味に頷く。それを聞いたヴァーリは嬉しそうに笑い、自分はチョコミント味を摘んで食べた。
「君の口に合ったようで良かったよ。少し奮発した甲斐があった」
「わ、わざわざ高いの買ったの?」
「ああ。だって君が泊まりに来るんだからね。記念に少しいいやつを買ったって、誰も咎めはしないだろう」
「き、記念……」
 大袈裟な、と眉を顰めるホズに、ヴァーリは少し寂しげな顔をして笑いかけた。
「フフ……ああ。僕にとってはね。でも、わかっているよ。今日君がここに来たのは、僕と会いたいだとか遊びたいだとか、そんな理由じゃないんだろう」
 静かに響くその声から、ホズは彼の表情を読み取った。申し訳なさが沸々と湧いてきて、頷くのを躊躇ってしまう。
「……本当の理由を当ててみようか」
 ヴァーリは静かに続けた。
「今夜、君の家で何か大きなイベントがあって……君はそれに出席したくないから、僕の所へ避難してきたーー違うかい?」
 迷いなく出されたあまりにも具体的な正解に、ホズは背筋を冷やして息を呑んだ。
「な……なんで知ってるの。兄さんに何か話を聞いたの?」
「いいや。バルドルからは何も。弟くんの友達に、フォルセティという子がいてね。フェンサリルの分家だというから、君の親戚なんだろう? その彼から聞いたんだよ。丁度今日、大規模なパーティが本家で開催されるってね」
「フォルセティくんか……」
 その子とは何度か会ったことがある。遠い親戚だが、兄によく似た優しい声の持ち主だった。まさかヴァーリの弟と交流があるとは思わなかったが。
「その子……何か、僕の話はしてた?」
「いや、特に。社交パーティは緊張するとか言っていただけだよ。大体僕は話を盗み聞いただけだし、詳しいことは何も聞いていない」
「そ、そう。ならいいけど」
 小さく息を吐くと、ホズは手の中に残っていたマカロンを口に入れ、ゆっくりと咀嚼して飲み込み、姿勢を正した。
「……うん。君の言う通り、僕は今日、ここに避難しに来たんだ。兄さんの勧めでね」
「バルドルが……。彼が避難を勧めるなんて、一体、大舞踏会というのはなんなんだい?」
「別に、大舞踏会自体は普通の社交パーティだよ。親戚とか、近隣の金持ちとかを招いて、食べたり踊ったりするだけ」
 コーヒーを一口飲んでから、ホズは淡々とした調子で続けた。
「でも、僕には少し苦痛なんだ。兄さんと離れなきゃいけなくなるし」
「君は相変わらず兄が大好きだね。バルドルが羨ましいよ」
 少し呆れたような声である。君だって親友が大好きでしょ、と返してやろうかと思った矢先、ヴァーリが不思議そうにこう言った。
「だが、いいのかい? 兄と一緒にいられないから嫌だ、というだけで、本家の次男である君が欠席するなんて。フォルセティくんの話を聞く限り、よっぽどのことがなければ休めないような雰囲気だったけれど」
 ホズは固く口を引き結んだ。実際、フェンサリル家は厳格な家で、こういった大事なパーティに、本家の人間が欠席するなど許されない。そもそも門限を過ぎてからの外出も禁じられているし、ましてや他人の家へ泊まるなどもってのほかである。
 だがそれは、フェンサリルの“血縁者”であれば、の話だ。
 ホズは少し考えた後、困ったように笑って、口を開いた。
「……うん。いいんだ。だって僕はーー主人から今日一日の暇を出された、ただの使用人だからね」
「え……? しよう、にん……?」
 呆然とするヴァーリの向こう側で、強風に煽られた窓が、音を立てて揺れた。
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