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1年生

〜フェンサリル家

「……最近、家の中が騒がしいな……。暖かくなってきたし、そろそろあれの時期が近いのか……」
 制服に袖を通しながら、ホズは1人、自室でため息を吐いた。
 中世から脈々と続く由緒正しき大貴族、フェンサリル家。現代の社会制度により、その地位はただの肩書きと化したが、昔の慣習は今も色濃く残っている。毎年春が近づくと行われる『大舞踏会』もその1つである。フェンサリル本家の館に親戚や近隣の貴族を集め、無事に冬を越せたことを盛大に祝うのだ。もっともこれは建前で、本当の目的は、フェンサリルの財力と威光を示すことだが。
「今更威光も何も無いのに。馬鹿馬鹿しい」
 扉に耳を当て、忙しない廊下の音を聞きながら、ホズはうんざりと吐き捨てた。足音が止むのを待って外へ出ると、壁に手を添わせて廊下を進み、誰にも会わないことを願いながら地下へと向かう。
 冷たい手すりに縋って1段ずつ階段を降りていると、下から使用人の声と足音が2つ近づいてきた。
「なんでまだ発注できてないの?」
「懇意の店が廃業してしまったようで……」
「なら早く別の店を……はっ、待って、しっ」
 一人がホズの存在に気づいたらしく、もう一人へ合図をして端へ寄り、二人で息を潜め始めた。いつからだったか、この家の使用人はホズとすれ違う時、こうして気配を消そうとする。全盲である彼の通行の邪魔をしないように、という理由らしいが、本当はただ“厄介者”と関わりたくないだけなのだろう。
 しかしホズも負けず嫌いなので、そんな彼らの前で歩き疲れた風を装って立ち止まってみたり、わざと和やかに話しかけてみたりしては、戸惑う様にこっそり笑っている。そんなだから更に嫌われるのだ、と姉からはよく叱られているが、知ったことではない。兄にさえ嫌われなければ、ホズの世界が曇ることはないのだから。
「おはようございます、フッラさん、グナーさん」
 今回もすれ違いざま、和やかに挨拶をする。グナーが何か答えようとするのをフッラが制止し、後には無言だけが残った。グナーはまだ入ったばかりの新人なので、この家の暗黙のルールを理解できていない。そんな彼女をこれ以上困らせるのも良くないかと、ホズは返ってこない挨拶を待つこともなく階段を降りていった。
 ひんやりとした空気と、反響する足音で、自分が地下まで降りてきたことを理解する。最後の1段を降りて2歩前に進み、右を向いて手を伸ばすと、冷たい鉄の扉に指先が触れる。厳重なロックを外して開けると、コンクリートの臭いが満ちた地下通路が現れた。
 ーー兄のいる“本館”に繋がっているのだ。



 本館の扉をくぐり、壁に張られた細いロープを頼りに兄の部屋へと向かう。ホズが迷わずに来れるように、と兄が付けてくれたのだ。毎朝地下から上がって来てこのロープを手繰るたび、兄の優しさを手の内に感じて、気配を消している使用人など気にならなくなる。
 ロープの終点まで来ると、そこにはもう兄の部屋の扉がある。細かな装飾の施された木製の扉を数回ノックし、できるだけ明るい声色で中へ話しかけた。
「おはよう、兄さん。支度できた?」
「あっ、ホズ! おはようございます。どうぞ入ってください。今丁度、支度が済んだところですから」
 最愛の兄の、少しばかり弾んだ声を聞き、ホズは口元を綻ばせて肩の荷を下ろした。兄の声を何かに例えるなら、太陽の光を存分に含んだ洗い立てのタオルだろうか。そんなことを考えながら、扉を開けて中へと入る。常に真っ暗なホズの視界の中にあって、この部屋だけはほんの少し明るい気がするから好きだ。
「兄さん、体調はどう?」
「ふふ、今朝も大丈夫ですよ。やっぱり、薬を変えてから調子良いみたいです」
「そっか……良かったね」
 そう答えながらホズは、自分の笑顔が引きつっていないかどうか心配で仕方なかった。
 優しくて病弱なホズの兄バルドル。以前はずっとこの部屋で寝込んでいたのが、彼の言う通り薬を変えてから元気な日が続くようになり、今では毎日のように学校へ通えている。クラスにも問題なく馴染めたようで、友達も多いらしい。
 それまでは、バルドルにもホズしかいなかったというのに。
「……行こう、兄さん。鞄はどこ?」
「ここです。でも今日は軽い方なので、自分で持って行けますよ」
「何言ってるの。調子が良いとはいえ兄さんは疲れやすいんだから無理しちゃ駄目だよ。ほら、僕は力強いから。遠慮しないで」
 にこやかに笑い、手を差し出す。
「うーん……そう、ですね。わかりました。ありがとうございます、ホズ」
 少し迷っていたものの、結局バルドルは鞄をホズの手へ預けた。
「ううん、いいんだよ。こうして兄さんの役に立てるのが僕にとっては一番幸せだから」
 そう言って笑ってみせる。本当のことではあるが、最近は少し打算もある。兄の生活に少しでも自分の存在を食い込ませていたいのだ。



 定められた通学路を、ホズとバルドルは並んで歩く。白杖を使いたがらないホズの腕をバルドルが引いているので、正確にはバルドルの方が半歩前にいるが。
 本当はバルドルだけは車で送迎されるはずだったが、本人がホズと一緒に歩きたいと珍しくわがままを言ったので、こうして徒歩での通学を許されている。その代わりに2人の数メートル後ろには、“バルドルの”ボディーガードが2人、道行く人々に緊張感を与えながら着いてきている。
「……そういえばホズ、今年の大舞踏会はどうしますか?」
 他愛も無い話の後、ふとバルドルが声を潜めてホズに問いかけてきた。
「どうするって?」
 できる限り何気ない調子で応じる。兄の質問の意図はわかっているのだが。
「……僕が常に一緒にいられればいいんですが、そうもいきませんし……もし嫌なら、ホズは無理に出席しなくてもいいんですからね」
 優しい声色と言葉に、ホズは思わず黙り込む。兄の明察の通り、大舞踏会にいい思い出などホズにはない。バルドルは父親に連れられて方々へ挨拶に行ってしまうし、そうでなくてもパーティにはバルドルの婚約者であるナンナも来ているため、2人に遠慮してしまって、ホズは自ら1人になろうとしてしまう。そうして1人になると、途端にあちらこちらから『噂話』が聞こえるようになる。もう慣れたことではあるが、息を詰まらせてまで参加したいとは到底思えない。
「あ、そうだ。ヴァーリくんに連絡をしてみるのはどうですか?」
 嫌な記憶を振り返っていたホズは、兄の突然の提案に驚き眉を顰めた。ヴァーリというのは、去年からホズを執拗に追い回している一つ下の後輩のことだ。ホズが高等部に上がり、校舎が別々になっても尚続く彼の執念に恐怖を覚えていたのだが、先月のバレンタインの日に彼としっかり話す機会があり、ストーカー行為の理由を知ってからは少しだけ仲が良い。そう、本当に少しだけだ。
「ど、どういうこと? まさかあの子を舞踏会に呼ぶの?」
「いいえ。さすがに、無関係な人間を招待することは出来ませんから。逆ですよ。ホズが遊びに行くんです」
「えっ……? で、でも、舞踏会は夜だし、夜に遊びに行くのはさすがに……」
「ふふ。お泊りですよ、ホズ。ご迷惑でないようなら、ヴァーリくんの家に泊めてもらうんです。どうですか? すっごく素敵だと思いませんか?」
 楽しげな兄の声に、ホズは思わず絶句した。最近ほんの少しだけ仲が良いとはいえ、校門や家の前で待ち伏せする変なストーカー男の家に盲目の弟を泊めようとする、その無邪気さが恐ろしい。あくまでもバルドルにとっては、ホズに初めての友達が出来た、という認識でしかないのだが。
「で、でも、泊まるのはさすがに迷惑だと思うし……いくら舞踏会が嫌でも、外に逃げるほどじゃないよ。耐えられなくなったら自分の部屋に戻ればいいんだし」
「でも、ホズ……」
「大丈夫、大丈夫だから。僕のことは気にしないで」
 努めて明るくそう言ってみせるホズの腕を、バルドルは少し強く握った。
「いいえ、気にします。ホズはもっと、楽しい思い出を沢山作るべきなんです。嫌な話を聞くよりも、一人きりで部屋にこもるよりも……お友達と楽しく遊んでいてほしいんです。……どうか、兄の我儘を聞いてはくれませんか?」
 口調は丁寧だが、バルドルの声色には一種の強制力がある。柔らかいが頑ななその声で頼まれてしまうと、どうしたって、我儘を聞くしかなくなってしまう。ホズがまた何も言えずにいると、バルドルは小さく笑って、こう付け加えた。
「……それに、ヴァーリくんならきっと、すっごく喜びますよ。ホズに泊めてほしいなんて言われたら」



『とっ、泊まりたいだって⁉︎ 来週末、君が僕の家に⁉︎  あ、ああ、もちろんいいよ! 大歓迎だ! 嬉しいよホズ、君からそんなことを言ってくれるだなんて!』
 スマホから鳴り響くハイテンションな声が気持ち悪くて、ホズは思わず通話を切りそうになった。大舞踏会の日付が正式に決まったので、兄に頼まれた通り、ヴァーリに泊めてほしいと連絡したところ、このような返事が返ってきたのだ。彼はいつもこんな感じである。バルドル以外の人間にここまで素直な好意を向けられたのは初めてで、正直どうしていいかよくわからない。
 大体、彼のこれが『好意』なのかどうかすらよくわからない。バレンタインの時に彼から“本命”チョコを貰ったが、その時彼ははっきりと「本気で作った普通のチョコだ」「他意は全くない」と言った。照れ隠しに嘘をつくような子でもないので、きっと本当にそうなのだろう。つくづくよくわからない変な子だな、とホズはどこか他人事のように考えている。
『しかしまた、どうして急に? 君から連絡をくれるだけでも珍しいのに、泊まりたいだなんて。何か事情でもあるのかい?』
「それは……まあ、当日話すよ。電話口でするような話じゃないから」
『ふむ、わかったよ。じゃあ、また来週末に。荷物は少なめにして来たまえ。うちには来客用の備品が色々と揃っているからね』
「へえ……よく人を泊めてるの? 前に会わせてくれたあの親友とか?」
 どうでもいい質問が口をついて出た。
『ああ。モージもよく来るし、弟くんの友達もよく泊まりに来るんだよ。だから来客には慣れている。安心したまえ』
 ヴァーリのあっけらかんとした返答に、ホズは胃が重くなるのを感じた。彼が誰と仲良くしていようが、“友達ですらない”自分には、関係などないはずなのに。
「……うん、安心しておく。ありがとう」
 自分でも驚くほどに淡白な声だった。
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