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添倉秀樹は落ち着かない

 秀樹は誠人に連れられ、誰もいない教室にやって来た。白い蛍光灯と穏やかな静寂。いつもなら肩の荷を下ろすような環境だが、今の秀樹にとっては監獄のようだった。
「席、選びほーだいだね」
 誠人の無邪気な声が室内に響く。秀樹の頭の中では、初めて誠人の目を見てからずっと、同じ動画が回っていた。誠人の目の奥の錆が顔全体に広がって、逃げ出そうとする秀樹の胸ぐらを掴み、もう片方の手に銀色のナイフを持って、地を震わせる低音でこう言うのだ。「馬鹿な奴だな」
「秀樹くん、この辺りに座ろうよ」
 誠人が端の方の席に座りながら手招きをする。名を呼ばれて秀樹は身を震わせた。
「あ、す、すいません」
「え? ああ、ははは。夢野さんの言ってた通りだな」
 誠人の口がいたずらっぽく笑う。
「君のこと、なんて言ってたと思う? あ、いいよ、ここ座って」
「あ、えと、し、失礼します」
 秀樹は言われるままに彼の隣へ座り、汗ばむ両手を膝の上で握りしめた。背負ったままのリュックに圧迫されて息苦しい。やがて誠人がリュックを下ろすことを提案してきたので、秀樹はそれに従った。息苦しさは変わらなかった。
「で、夢野さんが君のことなんて言ってたかわかる?」
 誠人はどうしてもその話題を続けたいらしく、やっと席に収まったばかりの秀樹に詰め寄った。なんと答えればいいんだろう? 一体何が正解なんだ? なんと言えば無事でいられる? 秀樹の思考回路は既に煙を上げている。しかし、答えを待っている誠人の沈黙と視線が一番恐ろしい。とにかく何か言わないと。
「は、はは、あー。えと、な、なんでしょう。ははは。ちょっと、わかんないです……ははは。……へ、変人、とか?」
 ここまで言ってようやく誠人の沈黙が破れた。
「あは。変人? そんなんじゃないよ」
 ギギ、と椅子が動く音がして、誠人の気配が近づいてきた。廊下の人間にすら聞こえるのを惜しんだ吐息混じりの声が、耳元で囁く。
「ミステリアスで、かっこいいってさ」
「えっ?」
 秀樹は声を裏返して飛び上がった。机の裏に勢いよく膝がぶつかったが、じわりと広がる痛みも全く気にならない。薄い瞼を大きく開いて誠人を見ると、その端正な顔は今、子供じみた笑いに破かれたところだった。
「ぷふっ、あはは。いいね秀樹くん、純粋だ。はははっ。そうかあ。君は純粋なんだね。あはは。はあ、ごめんね、今の嘘なんだ。冗談だよ。ふふっ、あははは」
 目に涙を浮かべて笑い続ける誠人を前にして、秀樹は物語の中にいるような気分に陥った。昔読んだ小説に、こんなキャラクターがいたような気がする。冗談が好きで頭が良くて、無邪気に笑いながら心の中で孤独を飼い慣らしている「変わり者」。同じ変人なら、僕はこうなりたかっただなんて、思ってたことがあったっけ。
「……は、はは」
 秀樹はつられて笑った。笑ってもいい気がした。
「あははははっ」
 口が勝手に歪に曲がり、横隔膜が震えだし、頭の中が白く澄み切って、自分でも驚くほどの大きな声が出た。誠人は気にせず笑い続けている。蛍光灯の光に包まれた誰もいない教室に、二人の賑やかな笑い声が響き渡る。秀樹にはもう、ここが現実であるという実感が無くなっていた。
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