添倉秀樹は落ち着かない
解放を告げるチャイムが鳴った。秀樹は、記憶の断片だけで埋めた答案用紙を前の人へ手渡しながら、横目で我占誠人を探した。彼は丁度後ろの人から答案用紙を受け取るところだったが、向こうを向いていたので顔はわからなかった。
「ねえ秀樹」
声をかけてきたのは、清々しい顔をした春歌だ。
「我占と話してみる?」
秀樹は喉を詰まらせた。我占誠人と話す? そんなこと、微塵も考えていなかった。
「まあ、一癖も二癖もある奴だけど、基本誰にでも優しいから。ね、ほら、早く。早くしないと行っちゃうから」
春歌はもう立ち上がり、秀樹のリュックを抱えている。秀樹は急かされるままに荷物をまとめ、重い腰を持ち上げた。
我占誠人はもう歩き出していて、疲れ切った生徒たちの波に乗って今にも教室から出ようとしているところであった。この講義は人口が多い。我占誠人と秀樹たちとの距離はざっと生徒二十人分といったところか。教室を出てしまえばはぐれてしまう。もう諦めるほかないなと秀樹が安堵していると、前にいた春歌が大声で我占の名を呼んだ。その声が届いたらしく、我占誠人が歩みを止めずにこちらを振り返る。思いがけず顔を見る機会ができたが、秀樹はいつもの悪い癖が出て、咄嗟に俯いて他人のフリをした。
「外で待ってて!」
春歌が叫ぶ。周りの人たちが驚いて注目する。降り注ぐ視線に、秀樹はますます肩を狭め、我占誠人がどうなったのか確認することもできずに歩き続けた。
教室から出ると、聞き慣れない男の声が頭上からかけられた。
「あはは。びっくりするからやめろって」
「ごめんごめん。どうしてもあんたに会わせたい奴がいてさあ。ほらこの子、あたしらと同じ史学科。後輩の秀樹」
春歌に肩を叩かれ、思わず震える。秀樹は下を向いたまま、すっかり固まっていた。愛想よく笑いたいのに表情筋がピクリとも動かない。なんと言って逃げようかと、そればかりが頭の中を駆け巡る。この人と話したくないと言えば嘘だが、話したいことがあると言っても嘘になる。
「ああ、前に言ってた子か。僕は誠人。よろしくね、秀樹くん」
秀樹は、そのどこか安心するような温かい声に引かれ、恐る恐る顔を上げた。前髪の向こう側に、優しく微笑んだ唇が見える。
「あ、よ、よろしくお願いします……」
愛想笑いと称した歪な笑みを携えて、弱々しい挨拶を返す。言葉を交わしてみると、我占誠人というのが自分と同じ人間だという実感が湧いてきて、少しずつ緊張が解けていくのを感じた。その時秀樹は、どこからか女子のひそひそ話が聞こえてきているのに気がついた。その悲鳴まじりの静かな騒音に胸がざわつき、心臓が震えだす。僕の無様な姿を笑っているのだろうか。気にかかって耳をすますと、話し声はだんだん鮮明になってきた。
「授業終わったところかなあ」
「ほら見てめっちゃモデルみたい」
「話しかけてもいいかな」
「えーでも誰かと話してるっぽくない?」
姿を見ずとも、女子たちが誠人に注目しているらしいことはわかった。それでも自分に飛び火しやしないかと身構えていると、突然、春歌が素っ頓狂な声をあげた。
「あー! 次の講義始まっちゃう! じゃ、ごめんね秀樹、我占、あとは若いお二人で!」
春歌は早口でまくしたて、秀樹と誠人の背を叩き、飛び立つ鳥のように去っていった。突然のことについていけず呆然とその背を見送っていると、誠人が落ち着き払った調子で声をかけてきた。
「秀樹くん。この後少しだけ時間ある?」
秀樹は急いで時間割を確認した。次の講義まであと四時間はある。
「あ、はい」
深く考えずにそう答えると、誠人の口が緩やかな弧を描いて笑った。
「じゃ、君さえ良ければ、少し話しない? 君のこと、夢野さんからよく聞いててさ。一度話してみたいと思ってたんだ」
嬉しそうな声。秀樹は最初意味がわからなかった。この人は誰と話しているんだろう? まさか僕じゃないよなあ。僕と話したがる人なんて、とうに絶滅しちゃったはずだよなあ。
「あ、ダメかな。ごめん、初対面なのに」
誠人の悲しそうな声が、秀樹を現実へと引き戻した。僕と話したがっている人がいる。目の前にいる。
『勇気出せよ』
頭の中でシュウが背中を押してくる。
「あ、いえ、そうじゃなくて」
秀樹は一度言葉を切ると、肺が凍りついてしまわぬよう、ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐いた。それから手汗を袖で拭って、前髪をかき分けて、誠人の目をしっかり見てーーーー
あ、れ。
誠人の顔は、芸能人のように整っていて、精巧に作られた人形のようだった。一寸の狂いもない笑みがそこにはあった。
「いいの?」
誠人は美しく無邪気に目を細めた。
「は……はい」
秀樹は無意識にそう答えていた。指先から血の気が引いていく。真綿を飲み込んだような違和感が食堂を下る。
「あは。ありがとう。嬉しいよ」
目の奥が。完璧な笑顔の中で唯一、目の奥だけが、無機質に錆び付いていた。
「ねえ秀樹」
声をかけてきたのは、清々しい顔をした春歌だ。
「我占と話してみる?」
秀樹は喉を詰まらせた。我占誠人と話す? そんなこと、微塵も考えていなかった。
「まあ、一癖も二癖もある奴だけど、基本誰にでも優しいから。ね、ほら、早く。早くしないと行っちゃうから」
春歌はもう立ち上がり、秀樹のリュックを抱えている。秀樹は急かされるままに荷物をまとめ、重い腰を持ち上げた。
我占誠人はもう歩き出していて、疲れ切った生徒たちの波に乗って今にも教室から出ようとしているところであった。この講義は人口が多い。我占誠人と秀樹たちとの距離はざっと生徒二十人分といったところか。教室を出てしまえばはぐれてしまう。もう諦めるほかないなと秀樹が安堵していると、前にいた春歌が大声で我占の名を呼んだ。その声が届いたらしく、我占誠人が歩みを止めずにこちらを振り返る。思いがけず顔を見る機会ができたが、秀樹はいつもの悪い癖が出て、咄嗟に俯いて他人のフリをした。
「外で待ってて!」
春歌が叫ぶ。周りの人たちが驚いて注目する。降り注ぐ視線に、秀樹はますます肩を狭め、我占誠人がどうなったのか確認することもできずに歩き続けた。
教室から出ると、聞き慣れない男の声が頭上からかけられた。
「あはは。びっくりするからやめろって」
「ごめんごめん。どうしてもあんたに会わせたい奴がいてさあ。ほらこの子、あたしらと同じ史学科。後輩の秀樹」
春歌に肩を叩かれ、思わず震える。秀樹は下を向いたまま、すっかり固まっていた。愛想よく笑いたいのに表情筋がピクリとも動かない。なんと言って逃げようかと、そればかりが頭の中を駆け巡る。この人と話したくないと言えば嘘だが、話したいことがあると言っても嘘になる。
「ああ、前に言ってた子か。僕は誠人。よろしくね、秀樹くん」
秀樹は、そのどこか安心するような温かい声に引かれ、恐る恐る顔を上げた。前髪の向こう側に、優しく微笑んだ唇が見える。
「あ、よ、よろしくお願いします……」
愛想笑いと称した歪な笑みを携えて、弱々しい挨拶を返す。言葉を交わしてみると、我占誠人というのが自分と同じ人間だという実感が湧いてきて、少しずつ緊張が解けていくのを感じた。その時秀樹は、どこからか女子のひそひそ話が聞こえてきているのに気がついた。その悲鳴まじりの静かな騒音に胸がざわつき、心臓が震えだす。僕の無様な姿を笑っているのだろうか。気にかかって耳をすますと、話し声はだんだん鮮明になってきた。
「授業終わったところかなあ」
「ほら見てめっちゃモデルみたい」
「話しかけてもいいかな」
「えーでも誰かと話してるっぽくない?」
姿を見ずとも、女子たちが誠人に注目しているらしいことはわかった。それでも自分に飛び火しやしないかと身構えていると、突然、春歌が素っ頓狂な声をあげた。
「あー! 次の講義始まっちゃう! じゃ、ごめんね秀樹、我占、あとは若いお二人で!」
春歌は早口でまくしたて、秀樹と誠人の背を叩き、飛び立つ鳥のように去っていった。突然のことについていけず呆然とその背を見送っていると、誠人が落ち着き払った調子で声をかけてきた。
「秀樹くん。この後少しだけ時間ある?」
秀樹は急いで時間割を確認した。次の講義まであと四時間はある。
「あ、はい」
深く考えずにそう答えると、誠人の口が緩やかな弧を描いて笑った。
「じゃ、君さえ良ければ、少し話しない? 君のこと、夢野さんからよく聞いててさ。一度話してみたいと思ってたんだ」
嬉しそうな声。秀樹は最初意味がわからなかった。この人は誰と話しているんだろう? まさか僕じゃないよなあ。僕と話したがる人なんて、とうに絶滅しちゃったはずだよなあ。
「あ、ダメかな。ごめん、初対面なのに」
誠人の悲しそうな声が、秀樹を現実へと引き戻した。僕と話したがっている人がいる。目の前にいる。
『勇気出せよ』
頭の中でシュウが背中を押してくる。
「あ、いえ、そうじゃなくて」
秀樹は一度言葉を切ると、肺が凍りついてしまわぬよう、ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐いた。それから手汗を袖で拭って、前髪をかき分けて、誠人の目をしっかり見てーーーー
あ、れ。
誠人の顔は、芸能人のように整っていて、精巧に作られた人形のようだった。一寸の狂いもない笑みがそこにはあった。
「いいの?」
誠人は美しく無邪気に目を細めた。
「は……はい」
秀樹は無意識にそう答えていた。指先から血の気が引いていく。真綿を飲み込んだような違和感が食堂を下る。
「あは。ありがとう。嬉しいよ」
目の奥が。完璧な笑顔の中で唯一、目の奥だけが、無機質に錆び付いていた。