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添倉秀樹は落ち着かない

「あー、助かったよー! いやー、持つべきものは後輩だねえ」
 西洋中世史の講義前、春歌はびっしり書かれたノートを秀樹に見せながら冷や汗を拭った。二人は同じ史学科なので、たまに講義が被る。春歌は大体同学年の友達と共に固まって講義を受けているのだが、西洋中世史だけは一人らしく、当然のように秀樹の隣を陣取る。テンションにはついていけないが、嫌いというわけではないので、秀樹も何も言わずに座らせている。
「に、してもさあ」
 春歌は肘を机の上へ突き出して、秀樹の顔を覗き込んだ。前髪の隙間からでも、ニヤニヤと笑っているのが見てとれる。
「昨日のメッセージは正直驚いたよ。秀樹でも誰かに興味を持ったりするんだね」
「……はは」
 無遠慮な言葉に、秀樹は乾いた笑いで応じた。前髪の向こうで、春歌のニヤけた顔が離れる気配がする。
「まあいーや。いつもノート写させてもらってるし、恩返し代わりに教えてしんぜよう」
 春歌は秀樹のペンケースから勝手に一本ペンを取り、指揮棒のように持って空中に寝かせた。
「あの人」
 一瞬何のことかわからず、秀樹はペンを見つめた。すると春歌は、あっちあっち、と言いながら、ペンの先を振ってみせた。秀樹はハッとして、ペン先が示す方へ目を向けた。
 そこにいたのは、大学生の男だった。
 程よく長い茶髪にワックスをつけて、奇抜でも地味でもないファッションに身を包み、壁際の一番端の席に座り、隣の椅子には大きめのリュックを置いている。秀樹は、こういう人間を構内で何人も見たことがある。この後、講義が始まるギリギリの時間に友人が現れて、軽い言葉を交わしながら、リュックの代わりに座るのだ。秀樹はそんな未来を頭の中で再生した。
「普通の人でしょ」
 春歌が囁き、ペン先でリュックを指す。
「あの中に入ってんのよ」
 秀樹は息を呑んでリュックを見つめた。普通の人が使っていそうな、普通の鞄。この中に、本当に、彼を変人たらしめる元凶があるというのだろうか。いくら見てもその真偽はわからないと知りつつも、秀樹は目を逸らすことができなくなった。
「で、名前なんだけど」
 春歌は広げていた自分のノートに、秀樹のペンで力強く字を書き始めた。秀樹は名残惜しくもバッグから目を離し、できあがっていく文字を観察した。
「我占誠人」
 その上に、カタカナで小さな文字が付け加えられる。
「ガセン マサト」
 我占誠人。ガセンマサト。当然のことだが初めて見る名前だ。よくある四つの漢字とありふれた六つのカタカナが、こうも鮮烈な印象を与えるものか。秀樹は再び息を呑み、我占誠人の後ろ姿へ視線を戻した。こちらを振り返る気配はなく、黙々と何かを書いている。あれは一体何をやっているのだろう。自分の世界に入っているのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていると、隣で春歌が小さく、悲鳴のような声をあげた。何事かと見れば、その顔は真っ青だ。
「テスト勉強やってない……。この休み時間中にノート見直すつもりだったのに……忘れてた……」
 それを聞いた秀樹の顔からもみるみるうちに血の気が引いていった。この講義の小テストは単位に直結する。ペンを春歌に取られたままであることも忘れ、バタバタと慌ててノートを開いた途端、けたたましいチャイムの音が嘲笑うように響いた。
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