添倉秀樹は落ち着かない
部会から帰ってきた秀樹は、母と笑顔で挨拶を交わし、自室に入ってサークル誌を開けた。次の部会では、作品の読み合わせがある。互いの作品を読み合い、アドバイスを出し合って、各々の力を伸ばす。餅文の活動の中では最も真面目なものだ。
春と夏の読み合わせでは、秀樹は何のアドバイスもできず、「いいと思います。僕は好きです」しか言うことができなかった。実際英樹から見た先輩たちの作品はどれも素敵で、自分の知恵を借りる場所など見当たらないように感じていた。大体、先輩方は実力者揃いだ。高橋さんは小学生の頃から書いているらしいし、夢野先輩は賞をとったことがあるらしい。あひるんばさんに至っては、経験や実績を聞かずとも、作品を見るだけで空の人だと思い知る。まだ小説を書き始めて一年も経っていない素人の僕が、建設的な意見を言えるとも思えない。
そんなことを考えながら、秀樹は最初の作品を読み始めた。作者は「那由多月華」春歌のペンネームだ。
ーーーー
チロリン。チロリン。
鈴の音が鳴る。
これは神様の挨拶よ。母が言う。
「神様はいつも私たちを見てくれてるの」
「ぼくのことも?」
幼い僕が言う。
「もちろん。葉月のこともね」
母の顔は、夏の太陽を背にして真っ黒に輝いていた。
「起きなさい! 葉月! 遅刻したいの⁉︎」
やかましい声で目が覚めた。のっそりと起き上がり、手探りで眼鏡を探す。寝ぼけ眼で時計を見ると、まだ六時三十分だった。
「もうちょっと寝れんじゃん」
怒り任せに舌打ちして、ボサボサの髪の毛を引っ掻き回す。
「朝ごはんもうできてるからね! さっさと下りてきなさい!」
階下から母の怒声が聞こえる。
「るっせえよババア」
煮えた泥のような言葉を小さくこぼす。返事はない。どうせ誰も聞いちゃいない。もしも今大声で怒鳴ったら、母は驚いてくれるだろうか。
ふと寒気がして肩を抱いた。こんな時間に布団から出たからだ。冬の朝は寒い。いっそもう起きるのもいいな。朝ごはんでも食べようか。
ひんやりと冷たいフローリングに裸足をつけて、母の待つ一階へ下りる。リビングのドアを開けると、ゆるい暖房の風と焼けたウインナーの匂いが冷えた頬を撫でた。きっとこれが恵まれてるってことなんだろう。眉根を寄せて、そんなことを考える。僕が部屋に入ってきたことに気がついた母は、顔だけで振り返って目を丸くした。
「あら皐! 起こしちゃった? ごめんなさいね」
「……マジでふざけんなよ」
謝られたら途端に怒りが消えていったが、それを悟られてしまわぬよう、精一杯不機嫌そうに答えてみせる。すると母は皮のむけた唇を一文字に結んで、困ったように眉を潜めた。僕は、母のこの顔が心底嫌いで、たまらなく好きだ。だって僕のことを考えている顔だから。
ついニヤけそうになるのを隠すために俯いた、その時。
ヒヤリ。僕のくるぶしを、冷気が掴んだ。
「あ、おはよー皐。早起きだねえ」
続いて背後から響く、間の抜けた声。
僕は夢から引き剥がされたような絶望感に肩を叩かれ、青ざめて振り向いた。
僕より少しだけ綺麗な顔をした双子の兄、葉月が、あくびをしながらそこに立っていた。
「葉月! なに呑気にしてるの! もうすぐ行く時間でしょ!」
注目の的が変わった。葉月はもう一度あくびを一つして、気怠げにリビングへ足を踏み入れた。きっと兄は今、暖かな風と香ばしい匂いの歓待を受けているに違いない。
「はーいはい。ほんと毎日毎日うるさいなぁ」
「葉月がしっかりしてないからでしょ!」
母は唇を引き結んで、慈しむように眉を潜めた。僕はこの顔がたまらなく嫌いだ。大嫌いだ。
「あれっ、皐、朝ごはん食べないの?」
背中に声がかけられる。いつの間にか僕は、リビングから出ようと踵を返していた。
「いらない」
煮詰めた泥のような言葉を頭の後ろから吐き捨てて、勢いのままに冷えた廊下へと逃げ出した。
ーーーー
『ちょっとお前に似てるよな』
はじめの方を読み終えると、秀樹の口からシュウの言葉が飛び出した。
「僕ってこんなかな」
笑い混じりに返しつつも、なんだか先を読む気になれず、後のページをバラバラとめくる。
『いや、こんなんじゃあねえな。むしろ正反対だ。こいつは反発してるが、お前はいい子ちゃんを演じようとしてる』
シュウはまだ何か続けようとしていたが、秀樹は口を閉ざして阻止した。これ以上は、シュウの減らず口を借りても言いたくない。
外を車が二、三台走っていく音が聞こえる。時計の秒針が、壊れかけのバネのような音を立てている。他の作品を読もうとしても、集中力が続かない。もうやめよう。秀樹は冊子を閉じてベッドへ置いた。表紙では皐が本を読んでいる。その退屈そうな目が、一瞬、自分を見たような気がして、秀樹は思わず冊子を裏返した。
春と夏の読み合わせでは、秀樹は何のアドバイスもできず、「いいと思います。僕は好きです」しか言うことができなかった。実際英樹から見た先輩たちの作品はどれも素敵で、自分の知恵を借りる場所など見当たらないように感じていた。大体、先輩方は実力者揃いだ。高橋さんは小学生の頃から書いているらしいし、夢野先輩は賞をとったことがあるらしい。あひるんばさんに至っては、経験や実績を聞かずとも、作品を見るだけで空の人だと思い知る。まだ小説を書き始めて一年も経っていない素人の僕が、建設的な意見を言えるとも思えない。
そんなことを考えながら、秀樹は最初の作品を読み始めた。作者は「那由多月華」春歌のペンネームだ。
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チロリン。チロリン。
鈴の音が鳴る。
これは神様の挨拶よ。母が言う。
「神様はいつも私たちを見てくれてるの」
「ぼくのことも?」
幼い僕が言う。
「もちろん。葉月のこともね」
母の顔は、夏の太陽を背にして真っ黒に輝いていた。
「起きなさい! 葉月! 遅刻したいの⁉︎」
やかましい声で目が覚めた。のっそりと起き上がり、手探りで眼鏡を探す。寝ぼけ眼で時計を見ると、まだ六時三十分だった。
「もうちょっと寝れんじゃん」
怒り任せに舌打ちして、ボサボサの髪の毛を引っ掻き回す。
「朝ごはんもうできてるからね! さっさと下りてきなさい!」
階下から母の怒声が聞こえる。
「るっせえよババア」
煮えた泥のような言葉を小さくこぼす。返事はない。どうせ誰も聞いちゃいない。もしも今大声で怒鳴ったら、母は驚いてくれるだろうか。
ふと寒気がして肩を抱いた。こんな時間に布団から出たからだ。冬の朝は寒い。いっそもう起きるのもいいな。朝ごはんでも食べようか。
ひんやりと冷たいフローリングに裸足をつけて、母の待つ一階へ下りる。リビングのドアを開けると、ゆるい暖房の風と焼けたウインナーの匂いが冷えた頬を撫でた。きっとこれが恵まれてるってことなんだろう。眉根を寄せて、そんなことを考える。僕が部屋に入ってきたことに気がついた母は、顔だけで振り返って目を丸くした。
「あら皐! 起こしちゃった? ごめんなさいね」
「……マジでふざけんなよ」
謝られたら途端に怒りが消えていったが、それを悟られてしまわぬよう、精一杯不機嫌そうに答えてみせる。すると母は皮のむけた唇を一文字に結んで、困ったように眉を潜めた。僕は、母のこの顔が心底嫌いで、たまらなく好きだ。だって僕のことを考えている顔だから。
ついニヤけそうになるのを隠すために俯いた、その時。
ヒヤリ。僕のくるぶしを、冷気が掴んだ。
「あ、おはよー皐。早起きだねえ」
続いて背後から響く、間の抜けた声。
僕は夢から引き剥がされたような絶望感に肩を叩かれ、青ざめて振り向いた。
僕より少しだけ綺麗な顔をした双子の兄、葉月が、あくびをしながらそこに立っていた。
「葉月! なに呑気にしてるの! もうすぐ行く時間でしょ!」
注目の的が変わった。葉月はもう一度あくびを一つして、気怠げにリビングへ足を踏み入れた。きっと兄は今、暖かな風と香ばしい匂いの歓待を受けているに違いない。
「はーいはい。ほんと毎日毎日うるさいなぁ」
「葉月がしっかりしてないからでしょ!」
母は唇を引き結んで、慈しむように眉を潜めた。僕はこの顔がたまらなく嫌いだ。大嫌いだ。
「あれっ、皐、朝ごはん食べないの?」
背中に声がかけられる。いつの間にか僕は、リビングから出ようと踵を返していた。
「いらない」
煮詰めた泥のような言葉を頭の後ろから吐き捨てて、勢いのままに冷えた廊下へと逃げ出した。
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『ちょっとお前に似てるよな』
はじめの方を読み終えると、秀樹の口からシュウの言葉が飛び出した。
「僕ってこんなかな」
笑い混じりに返しつつも、なんだか先を読む気になれず、後のページをバラバラとめくる。
『いや、こんなんじゃあねえな。むしろ正反対だ。こいつは反発してるが、お前はいい子ちゃんを演じようとしてる』
シュウはまだ何か続けようとしていたが、秀樹は口を閉ざして阻止した。これ以上は、シュウの減らず口を借りても言いたくない。
外を車が二、三台走っていく音が聞こえる。時計の秒針が、壊れかけのバネのような音を立てている。他の作品を読もうとしても、集中力が続かない。もうやめよう。秀樹は冊子を閉じてベッドへ置いた。表紙では皐が本を読んでいる。その退屈そうな目が、一瞬、自分を見たような気がして、秀樹は思わず冊子を裏返した。