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添倉秀樹は落ち着かない

 日本文学科の二年生、高橋冬子がハコに入ってきた時、秀樹はまだ頭を抱えたままだった。
「おはよう。添倉くん。どうしたの」
 冬子に声をかけられた秀樹は、自分が現実世界の住人であることを思い出して咄嗟に顔を上げた。視界を覆う乱れた前髪を慌ててかき分けると、現れた冬子と目が合った。筆先のような睫毛の下から覗く細い瞳に、秀樹は一秒たりとも耐えられず、血が巡りだした頬を隠すように前髪をぐしゃぐしゃに乱し直し、弾かれるように視線を床へ投げつけた。そうしておいてすぐに、はたから見た自分が大変な失礼をしていることに気づき、背筋から肺まで一気に氷が張った。
「あ、と、すいませ」
 わずかばかりに吸い込んだ酸素をふんだんに漏らしながら、視線を床へ向けたままで息も絶え絶えに謝った。頭の中には、数分前のやり取りを「うまくやった」時のビジョンがループ動画のように回っている。高橋さんに声をかけられたら、自分はにこやかに笑って、愛想よく、ちゃんと相手の目を見て、何か一言言えば良かった。「大丈夫です」だとか、「おはようございます」だとか。ちゃんと聞こえるような、印象の良いハキハキとした声で、軽く返事をするだけで良かった。なぜあの時目を逸らしてしまったのだろう。きっと失礼な変人だと思われただろう。そして、失望されてしまっただろう。
「あ、ううん。びっくりさせてごめん。もしかして寝てた?」
 慌てた様子の冬子の声が、ループ動画の停止ボタンを押した。その毒のない調子に、秀樹は思わず頭を上げた。前髪の隙間から覗き見た冬子の顔は、秋晴れの空のように穏やかに笑っている。秀樹は肺の氷が溶けていくのを感じた。
「あ、いえ、大丈夫です。起きてました。その、ちょっと疲れてて」
 口を歪めて笑ってみせながら、何か探し物をしているかのようにリュックを漁る。
「そっか」
 冬子はそれだけ言うと、ハコの中央に窮屈に置かれた机を回り、秀樹から少し遠いところにあるパイプ椅子に座った。
 再び訪れた静寂。しかし今回はハコの外のように息苦しい。一挙手一投足を冬子に見られているような気がして、呼吸すらもマニュアル通りにやらなければならないような気がしてくる。
 高橋さん、僕と二人だと暇なんじゃないか。
 重苦しい静寂に煽られて、秀樹の頭の中を、冷たい手のような不安が駆ける。
 添倉くんってつまらない。そう思われても仕方ない。僕は所詮つまらない。愛想も悪くて話も下手で、何を考えているのか分からない。僕は学校へ行くようになってからずっとそういう人間をやっている。他人から見た自分はいつだって変人だ。
 それでも。秀樹は前髪に隠れるようにして冬子を覗き見た。墨で描いたような凛々しい瞳に僅かな笑みを乗せ、スマートフォンの小さな画面に夢中になっている。機嫌は良さそうで、退屈もしていないように見える。秀樹は冬子に聞こえないように深く息を吐き、俯いて嬉しそうに口を歪めた。
 まだ大丈夫だ。多分、まだ、嫌われてはいない。高橋さんは、僕がどれだけどもっても、俯いたまま喋っても、気にせず優しく接してくれる。あの人の中での変人のラインには触れていない。でも、もし。
 秀樹はふと、数分前の自分を思い出して寒気を覚えた。誰もいない部屋の中で、誰にも見えない友人と、一人ぼっちで楽しく会話する男。もう来年で二十歳になる男だ。秀樹の正体がこれだと知れば、冬子はどう思うのか。それを想像することなど、秀樹には恐ろしくてできなかった。
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