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添倉秀樹は落ち着かない

 あれから、西洋中世史の講義の後に三号棟の裏へ行くのが習慣になった。春歌は講義でほとんど来れないため、秀樹と誠人の二人で話すことが多かった。誠人は普段話しかけると他人行儀な愛想笑いを返してくるだけだが、人目のない所では実に親しく笑った。
「久しぶりの友人だから、何したら良いかとかよくわからないんだけどさ、とりあえず、君にだけは改めてちゃんと紹介するよ」
 友達になった次の週、誠人はリュックから例のペットボトルを取り出して言った。
「この子が、僕の愛しのミドリ。二年前くらいだったかな、大学受験の年の、七月五日に出会ったんだ。ほら、どうだい、可愛いだろう?」
 大切そうに両腕に抱え、秀樹の背の高さに合わせて腰をかがめた。腕の中を覗き見ると、ただのペットボトルが、まるで赤ん坊のように眠っている。確かにこうして見ると可愛いような気もしなくもないが、他人の彼女に向かって、赤ん坊のように可愛いと言う気にはなれない。秀樹が答えに困っているうちに誠人が離れ、ペットボトルは見えなくなった。まさか怒らせてしまったろうかと、まえがみのすきまから表情を窺うと、そこには満足げな笑みがあった。
「はは、あまりの可愛さに言葉を失っちゃったかな? いくら君でもミドリは渡さないよ」
 根はポジティブなのかもしれない。
「だ、大丈夫です。取りませんから」
「そう? ふふ、まあ、無理だと思うしね。君がいくら頑張っても、ミドリは僕しか見てないからね」
「はは……」
 秀樹は口を歪めて空笑いをこぼした。きっと人間同士の惚気話も似たようなものなのだろう。自分にもいつか、彼のように、恋人を自慢できる日が来るのだろうか。ぼんやりとそう考えた時、青水晶の向こうにふと黒髪の女性の姿が浮かんだ。同じサークルの高橋冬子だ。血が頬へ向けて駆け上がるのを感じ、秀樹は手で首筋を扇いだ。
「ああ、今日はなんだかあったかいよね。もう少しで冬なのに、また夏が来たみたい」
 暑がっているように見えたらしく、誠人は呑気に目を細め、額に手をかざして太陽を見上げた。
「はは、そ、そうですね」
 気分を誤魔化すために、秀樹も鼻先を上へと向けた。邪魔な前髪をかき分けて見た空は、雲一つない澄み切った夕方に満ちている。まだ日が沈むには早く、東から西にかけて、青、紫、オレンジのグラデーションが広がっている。秀樹は無意識にスマホを出した。カメラを起動して、パシャリと切り取る。
「あれ、何か撮った?」
 音に気づいた誠人が近づいてきた。
「空? なかなか綺麗に撮れてるね」
 風景画の一片のような笑みを向けられ、秀樹は慌てて俯いた.
「い、いえ、あの、写真はあんまり得意じゃなくて。モデルが、いいんです。空が綺麗なんです」
「ふうん」
 誠人は秀樹のスマホから顔を離すと、もう一度空を見上げた.
「ああ、確かにね。なんか魔界みたい」
「ま、魔界?」
「そうだよ。禍々しい」
「え、そんな」
「じゃあ君なら何に例える?」
「え、きゅ、急に言われても……えーと」
 前髪を額の上まであげて、もう一度、青とオレンジのグラデーションを見る。強い西日に焼かれた青色が次第に紫色を帯び、緩やかな波にさらわれて夜へと消える。
 秀樹はそっと目を細めた。
「僕なら……奇跡の通り道、ですね」
「あはは、何それ。なんだか君って、小説書きって言葉がよく似合うよね」
「そ、そんな、本物の小説書きなら、もっと良い文句が浮かぶはずですよ」
「はは、そうかな?」
 誠人は笑いながらリュックを背負い直した。
「さて、と。そろそろ帰ろうか」
「あ、はい」
 二人は歩き出したが、まだ三号棟の裏から出る前に、誠人が立ち止まって自分のスマホを取り出した。
「そうだ。連絡先、交換しよう。さっきの奇跡の通り道、送ってよ」
 平然とそんなことを言うものだから、秀樹は耳まで血が駆け上ってくるのを感じ、写真一枚送るのに二十分ほどを要してしまった。
 駅で誠人と別れた後、頭の中でシュウが意地悪そうに笑った。
『奇跡の通り道だってよ』
 何か無難なことを言うべきだったのかもしれない。秀樹は心底後悔したが、仕方のないことだった。
 確かに僕にはそう見えたのだから。
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