添倉秀樹は落ち着かない
ただ夢中だった。我占さんの言葉を聞いているうちに、呼吸がしづらくなってきて、溺れるかと思ったから叫んだ。一刻も早く息がしたかった。それだけだった。
水面に顔を出したら、二人の人間が僕に注目を寄せていた。心臓が早鐘を打つ。視線を遮るものは何もない。肺が少しずつ凍りついていく。氷柱の割れる音が骨にまで響く。
混乱を始めた頭の中で記憶が言う。
「ひできってなんかヘンだよな」
確か小学生の頃だった。クラスのお調子者の一言をきっかけに「ヒデキ菌」が大流行して、僕は常に注目の的だった。たくさんの視線を浴びた。
あれは数え切れないほどの嘲笑、嘲笑、嘲笑、嘲笑、嘲笑だった!
『しっかりしろヒデ!』
聞き慣れた僕の声で、高速再生されていた記憶が止まった。鮮やかな視界に先輩と我占さんが映り込む。そうだ、今は、何か言わなくちゃ。落ち着かないと。落ち着こう。我占さんに言いたいことがあったはずだろう。
「あの、違うんです」
秀樹は考えをまとめるために一旦口を閉ざした。誠人は小さく「秀樹くん……?」と言ったきり、黙って次の言葉を待っている。
「面白がってなんかないんです」
落ちっぱなしの枯れ葉がビニール袋みたいに地を滑る。
「あの、確かに、あなたに興味を持ったのは、彼女さんの話を聞いたからです。でも、その、面白いとかじゃなくて。ただ……気になったんです」
「……わかるよ。変な奴だって思ったんでしょ」
誠人のぶっきらぼうな声が降ってくる。
「それで、顔を一目見てやろうと思ったんでしょ?」
「そんな、そうじゃなくて……ただ、友達に……」
「は?」
短い威圧感。危うく引っ込みかけた言葉を引き止めて、秀樹は小さくうなずいた。
「と、友達に……というか、ただ、仲良く話してみたかったんです」
口が重い。これ以上、何を言えばいいかわからない。靴がコンクリートの地面と擦れてザリリと鳴いた。
「そういうおかしな友人が欲しくなったってこと? はっ、ずいぶん失礼だな」
秀樹の代わりに誠人が口を開く。その吐き捨てるような言い草に、春歌が再び声を荒げた。
「ちょっと我占、そんな言い方はないんじゃないの? この子、普段全然話しないのに、あんたのことだけは自分から聞いてきたんだよ? 本当にただ仲良くしたいんでしょ。あたしも、そう思ったからあんたに紹介したんだよ?」
「……ふん、信じられないな。高校生の時も、君たちみたいな奴がたくさんいてさ。友達なんて皮を被って僕を笑っていたんだよ。それと同じことを、君たちがしない保証なんてないだろ?」
そう言う声にどこか寂しさを感じ、秀樹はハッと顔を上げた。誠人の視線は枯れた植え込みを彷徨っている。
『ちょっとお前に似てるよな』
いつだったか、シュウが言った言葉を思い出す。確かあれは、そう、先輩の小説を読んだ時だ。主人公の「皐」がなんだか他人とは思えなくて、つい読むのをやめてしまった、あの時だ。
『いや、こんなんじゃあねえな。むしろ正反対だ。こいつは反発してるが、お前はいい子ちゃんを演じようとしてる』
そうだ、そんなことも言っていた。もし、我占さんのこの態度が、秀逸なアドリブなのだとしたら。だとしたらきっと、この人は僕と同じでーーーー
「あ、あの、あります! 保証!」
気づけば口が開いていた。我占さんが、片眉を潜めて僕を見る。保証とはなんだ、聞かせてみろと。そう言っているように見える。
保証。僕が彼を笑わない、絶対的な理由。ーーーーあれしかない。言わなくちゃ。
ザリッ。音を立て、秀樹は一歩前に出た。
「あの、僕も、僕にもいるんです! 人間以外の友達が!」
「えっ、ちょっと秀樹?」
「……嘘でしょ、そんなまさか」
「本当なんです! ここに、ここにいるんです!」
指差した方向には、何もいない。しかし一際大きな声で放たれた訴えに、誠人も春歌も、口を開けることができなかった。
再び注目を全身に浴びながら、秀樹は思い切り、息を吸った。晩秋の冷たい空気が、体の中で熱へと変わる。
「……見えないけど、声も聞こえないけど、いるんです! いつも、僕が一人の時に、一緒に話をしてくれる、大事な友達なんです! 名前はっ……名前は、シュウっていって、夕焼け色の瞳がとっても綺麗なんです!」
一息で言い切ると、少しずつ、熱が消えていく心地がした。もう一度、深く息を吸う。澄んだ空気が頭へと巡る。それでもまだ言葉は途切れない。
「我占さんの話を聞いた時、仲間だって、仲間がいるって思ったんです。だから、話がしたかったんです。もっとよく知りたいって思ったんです。面白がってなんかありません。笑ったりしません。本当なんです……」
そろそろ限界がやってきた。だんだんと小さくなる声。落ちていく視線。冷え始めた頭が、はっきりと春歌たちの視線を感じている。必死すぎただろうか? 頭がおかしいと、変なやつだと、思われただろうか?
背の高い三号棟のひび割れた壁が、日の沈みかけた空を切り取って三人を見下ろしている。冬を思わせる秋風が、乾いた音を転がしていく。冷え込み始めた空気に、そっと、誠人の声が乗った。
「わかったよ。もういいよ」
秀樹は首を起こした。誠人は鼻でため息をつき、眉を八の字に曲げて、秀樹を見下ろしている。その目の奥に巣食っていた赤錆が、音も立てずに溶け出して、下から真っ黒に輝く瞳が現れていく。この人は、こんな顔をしていたのか。
「君みたいな人が、あんな熱の入った嘘をつけるわけがないし」
誠人は目をゆるく細めた。
「いいよ。信じる。疑ってごめん。……もしもまだ、僕と仲良くしようと思ってくれるなら」
そう言って、右手を差し出した。言葉の先は無かったが、秀樹が理解するには十分だった。
「あの、僕、人間が……怖いんです。だから、今まで全然、友達とかいませんでした。でも、あなたと初めて話した時、なんだかとても感動したんです。ずっと話をしていたいって思ったんです。あの、だから、僕としては……」
おもむろに持ち上がった震える右手は、誠人の手の近くまで行って、急に止まった。
「でも、いいんでしょうか。僕はつまらない人間です。我占さんは楽しくないかもしれません。僕は、こうして話ができただけでも満足なので……」
「プロポーズの返事か!」
叫んだのは春歌だ。つらつらと言葉を並べていた秀樹の右手首を掴むと、差し出された手の中へと問答無用に押し込んだ。慌てて意味不明な声を発する秀樹を尻目に、誠人は空いている手で口を押さえて笑っている。
「いいじゃん秀樹、せっかくこいつが仲良くしようってやってくれてんだから。ね、我占。いいよね?」
「ふふ、もちろん。……僕も、先週君と話した時、ちょっと楽しいと思ったよ。でも、そう簡単に人を信用するわけにはいかなくてね。あの時は突き放したりしてごめんね」
「あ、いえ、別に、もういいんです……」
「そう? なら良かった」
誠人は一瞬右手に力を入れ、するりと離れた。骨張った自分の手が申し訳なくなるような、肉付きの良い健康な手だった。
ついに太陽が地平線へ差し掛かり、オレンジ色の光が三人を包み込む。夢かもしれない。夕陽に染まった自分の手の平を見て、秀樹は思った。
『残念だが現実だぜ』
瞳と同じ色の空を背に、青い髪をなびかせて、シュウが笑いかけてくれたような気がした。
水面に顔を出したら、二人の人間が僕に注目を寄せていた。心臓が早鐘を打つ。視線を遮るものは何もない。肺が少しずつ凍りついていく。氷柱の割れる音が骨にまで響く。
混乱を始めた頭の中で記憶が言う。
「ひできってなんかヘンだよな」
確か小学生の頃だった。クラスのお調子者の一言をきっかけに「ヒデキ菌」が大流行して、僕は常に注目の的だった。たくさんの視線を浴びた。
あれは数え切れないほどの嘲笑、嘲笑、嘲笑、嘲笑、嘲笑だった!
『しっかりしろヒデ!』
聞き慣れた僕の声で、高速再生されていた記憶が止まった。鮮やかな視界に先輩と我占さんが映り込む。そうだ、今は、何か言わなくちゃ。落ち着かないと。落ち着こう。我占さんに言いたいことがあったはずだろう。
「あの、違うんです」
秀樹は考えをまとめるために一旦口を閉ざした。誠人は小さく「秀樹くん……?」と言ったきり、黙って次の言葉を待っている。
「面白がってなんかないんです」
落ちっぱなしの枯れ葉がビニール袋みたいに地を滑る。
「あの、確かに、あなたに興味を持ったのは、彼女さんの話を聞いたからです。でも、その、面白いとかじゃなくて。ただ……気になったんです」
「……わかるよ。変な奴だって思ったんでしょ」
誠人のぶっきらぼうな声が降ってくる。
「それで、顔を一目見てやろうと思ったんでしょ?」
「そんな、そうじゃなくて……ただ、友達に……」
「は?」
短い威圧感。危うく引っ込みかけた言葉を引き止めて、秀樹は小さくうなずいた。
「と、友達に……というか、ただ、仲良く話してみたかったんです」
口が重い。これ以上、何を言えばいいかわからない。靴がコンクリートの地面と擦れてザリリと鳴いた。
「そういうおかしな友人が欲しくなったってこと? はっ、ずいぶん失礼だな」
秀樹の代わりに誠人が口を開く。その吐き捨てるような言い草に、春歌が再び声を荒げた。
「ちょっと我占、そんな言い方はないんじゃないの? この子、普段全然話しないのに、あんたのことだけは自分から聞いてきたんだよ? 本当にただ仲良くしたいんでしょ。あたしも、そう思ったからあんたに紹介したんだよ?」
「……ふん、信じられないな。高校生の時も、君たちみたいな奴がたくさんいてさ。友達なんて皮を被って僕を笑っていたんだよ。それと同じことを、君たちがしない保証なんてないだろ?」
そう言う声にどこか寂しさを感じ、秀樹はハッと顔を上げた。誠人の視線は枯れた植え込みを彷徨っている。
『ちょっとお前に似てるよな』
いつだったか、シュウが言った言葉を思い出す。確かあれは、そう、先輩の小説を読んだ時だ。主人公の「皐」がなんだか他人とは思えなくて、つい読むのをやめてしまった、あの時だ。
『いや、こんなんじゃあねえな。むしろ正反対だ。こいつは反発してるが、お前はいい子ちゃんを演じようとしてる』
そうだ、そんなことも言っていた。もし、我占さんのこの態度が、秀逸なアドリブなのだとしたら。だとしたらきっと、この人は僕と同じでーーーー
「あ、あの、あります! 保証!」
気づけば口が開いていた。我占さんが、片眉を潜めて僕を見る。保証とはなんだ、聞かせてみろと。そう言っているように見える。
保証。僕が彼を笑わない、絶対的な理由。ーーーーあれしかない。言わなくちゃ。
ザリッ。音を立て、秀樹は一歩前に出た。
「あの、僕も、僕にもいるんです! 人間以外の友達が!」
「えっ、ちょっと秀樹?」
「……嘘でしょ、そんなまさか」
「本当なんです! ここに、ここにいるんです!」
指差した方向には、何もいない。しかし一際大きな声で放たれた訴えに、誠人も春歌も、口を開けることができなかった。
再び注目を全身に浴びながら、秀樹は思い切り、息を吸った。晩秋の冷たい空気が、体の中で熱へと変わる。
「……見えないけど、声も聞こえないけど、いるんです! いつも、僕が一人の時に、一緒に話をしてくれる、大事な友達なんです! 名前はっ……名前は、シュウっていって、夕焼け色の瞳がとっても綺麗なんです!」
一息で言い切ると、少しずつ、熱が消えていく心地がした。もう一度、深く息を吸う。澄んだ空気が頭へと巡る。それでもまだ言葉は途切れない。
「我占さんの話を聞いた時、仲間だって、仲間がいるって思ったんです。だから、話がしたかったんです。もっとよく知りたいって思ったんです。面白がってなんかありません。笑ったりしません。本当なんです……」
そろそろ限界がやってきた。だんだんと小さくなる声。落ちていく視線。冷え始めた頭が、はっきりと春歌たちの視線を感じている。必死すぎただろうか? 頭がおかしいと、変なやつだと、思われただろうか?
背の高い三号棟のひび割れた壁が、日の沈みかけた空を切り取って三人を見下ろしている。冬を思わせる秋風が、乾いた音を転がしていく。冷え込み始めた空気に、そっと、誠人の声が乗った。
「わかったよ。もういいよ」
秀樹は首を起こした。誠人は鼻でため息をつき、眉を八の字に曲げて、秀樹を見下ろしている。その目の奥に巣食っていた赤錆が、音も立てずに溶け出して、下から真っ黒に輝く瞳が現れていく。この人は、こんな顔をしていたのか。
「君みたいな人が、あんな熱の入った嘘をつけるわけがないし」
誠人は目をゆるく細めた。
「いいよ。信じる。疑ってごめん。……もしもまだ、僕と仲良くしようと思ってくれるなら」
そう言って、右手を差し出した。言葉の先は無かったが、秀樹が理解するには十分だった。
「あの、僕、人間が……怖いんです。だから、今まで全然、友達とかいませんでした。でも、あなたと初めて話した時、なんだかとても感動したんです。ずっと話をしていたいって思ったんです。あの、だから、僕としては……」
おもむろに持ち上がった震える右手は、誠人の手の近くまで行って、急に止まった。
「でも、いいんでしょうか。僕はつまらない人間です。我占さんは楽しくないかもしれません。僕は、こうして話ができただけでも満足なので……」
「プロポーズの返事か!」
叫んだのは春歌だ。つらつらと言葉を並べていた秀樹の右手首を掴むと、差し出された手の中へと問答無用に押し込んだ。慌てて意味不明な声を発する秀樹を尻目に、誠人は空いている手で口を押さえて笑っている。
「いいじゃん秀樹、せっかくこいつが仲良くしようってやってくれてんだから。ね、我占。いいよね?」
「ふふ、もちろん。……僕も、先週君と話した時、ちょっと楽しいと思ったよ。でも、そう簡単に人を信用するわけにはいかなくてね。あの時は突き放したりしてごめんね」
「あ、いえ、別に、もういいんです……」
「そう? なら良かった」
誠人は一瞬右手に力を入れ、するりと離れた。骨張った自分の手が申し訳なくなるような、肉付きの良い健康な手だった。
ついに太陽が地平線へ差し掛かり、オレンジ色の光が三人を包み込む。夢かもしれない。夕陽に染まった自分の手の平を見て、秀樹は思った。
『残念だが現実だぜ』
瞳と同じ色の空を背に、青い髪をなびかせて、シュウが笑いかけてくれたような気がした。