添倉秀樹は落ち着かない
「ふふ、今日は誰もいなくて良かったね」
ペットボトルを顔の前に掲げ、誠人は透き通った声で話しかける。秀樹と話している時とは全く違う、毒も錆もない声色。ペットボトルは何も答えない。
「困るよね。せっかく見つけた、二人だけの穴場なんだから」
優しい声が植え込みに吸われていく。
「え? 先週の人? ……ああ、秀樹くん?」
思いがけず自分の名が呼ばれ、秀樹は咄嗟に帽子を目の下まで下げた。気づかれたのだろうか?
「……もう話しかけてこないんじゃないかな。なんか、気が弱そうだったし。あんな態度をとられたら、僕ならもう関わりたくないって思うね」
誠人の口調には、わざとらしい悪人のような寂しさがある。秀樹は少しだけ帽子から目を出した。
「……ああ、うん。確かに、夢野さんが話しかけてこなかったのは意外だったよ。可愛い後輩泣かせちゃったし、さすがにもう、愛想尽かされたかな」
秀樹は眉を潜めた。確かに家で泣いたから、間違ってはいないけど。
「ふふ、どうせね、夢野さんは僕を小説の題材としか見ていないんだ。秀樹くんは単に振り回されただけって感じだったし。結局誰も僕を見てはくれないんだよ。でもね、ミドリ。僕は君さえいれば満足なんだ。君が僕を見ていてくれればそれでいい。ああ、誰にも渡さないよ。僕の大事なーーーー」
「がせぇーん!」
突然、春歌が飛び出した。ペットボトルに頬擦りをしていた誠人は、そのままの態勢で固まり、突飛な訪問者を見つめた。
「ほんっとあんたは寂しいんだから! 別に愛想なんて尽かしてないし!」
春歌の声は、表に聞こえるのではないかと思えるほどに大きく勇ましい。対する秀樹は身を縮こまらせて、変わらず顔だけ出したまま、誠人の反応をうかがった。
誠人はペットボトルをゆっくり顔から離すと、のらりとしゃがみ、リュックに恋人を仕舞った。それから真っ直ぐに立ち上がり、リュックを背負って春歌の前まで歩いてきた。近くで改めて見ると背が高い。毛先を整然と遊ばせた茶髪に、蛍光色の紐がついたスニーカー。片足に重心をかけて立つその姿はファッション雑誌の表紙を彷彿とさせる。あとは甘い流し目でもしてやれば、大抵の女性は黄色い悲鳴を上げるだろう。しかし流し向けられた誠人の目は、以前よりも増して赤茶色く錆び付いていて、秀樹は思わず別の悲鳴を上げそうになった。
「……そのまま大人しく覗き見てれば良かったのに。ミドリとの時間を邪魔するなって、前も言ったよね」
誠人は春歌の鼻先に顔を近づけると、両眉を持ち上げて低く囁いた。やはり、気づかれていたらしい。
「それは、ごめん。でも、誤解されたままって嫌でしょ」
春歌は一歩も引かず、伊達眼鏡を外し、眼差しの切っ先を向ける。秀樹は再びこの先輩を頼もしいと感じた。
「確かに小説の題材として取材はしたけどさ、あたしはそれ抜きにしたって我占のこと好きだよ」
恥ずかしげもなく発された言葉に、誠人の方が一歩後ずさった。明らかな嫌悪を鼻の上へ寄せて春歌を見下ろす。
「ふうん。まっすぐなもんだね。でももう、君を信じるのはごめんだ。だって君は、ミドリのことを他人に話したじゃないか。君の後輩にさ」
氷の槍のごとく降り注ぐ言葉に、今度は春歌が顔を歪めた。
「う、それは。ごめん。つい」
「ごめんで済むの? ミドリのことは誰にも知られたくないって言ったよね? まあ今回はたまたま、相手が根暗なコミュ障だったからいいものの、君みたいなおしゃべり人間に知られたらもう終わりだよ! 人間どもは馬鹿だから、きっと僕らを面白がってつけ回すだろうね。今よりもっとたくさんの人間が僕に群がるようになるだろうね! 君や……君の後輩みたいにさ!」
「ち、ちが、あたしは!」
「いいや違くなんかない!」
語気を強めた春歌の否定は、雷を思わせる怒声に潰された。
「僕に近づくってことは、そういうことなんだろ。君も秀樹くんも、どうせ面白がってるだけなんだろ? 人間以外と仲良くしてる変人がいるって! 僕をおしゃべりの的にして笑おうってんだろ?」
「だからちがっ」
「違う!」
青空へ、声が突き抜けた。三号棟の裏に、無色透明の沈黙が降る。
秀樹は、自分の喉がじんわりと熱を帯びているのを感じた。今のは、僕の声?
秀樹は恐る恐る二人の顔を見た。春歌も誠人も、空鉄砲を聞いた猫のように目を丸くしてこちら見ている。視線だ。注目されている。帽子を下げることも許されない緊張感。
これはもしかして。今なお降り注ぐ沈黙の意味を、秀樹は悟った。二人は僕の言葉を待っているんだ。
ペットボトルを顔の前に掲げ、誠人は透き通った声で話しかける。秀樹と話している時とは全く違う、毒も錆もない声色。ペットボトルは何も答えない。
「困るよね。せっかく見つけた、二人だけの穴場なんだから」
優しい声が植え込みに吸われていく。
「え? 先週の人? ……ああ、秀樹くん?」
思いがけず自分の名が呼ばれ、秀樹は咄嗟に帽子を目の下まで下げた。気づかれたのだろうか?
「……もう話しかけてこないんじゃないかな。なんか、気が弱そうだったし。あんな態度をとられたら、僕ならもう関わりたくないって思うね」
誠人の口調には、わざとらしい悪人のような寂しさがある。秀樹は少しだけ帽子から目を出した。
「……ああ、うん。確かに、夢野さんが話しかけてこなかったのは意外だったよ。可愛い後輩泣かせちゃったし、さすがにもう、愛想尽かされたかな」
秀樹は眉を潜めた。確かに家で泣いたから、間違ってはいないけど。
「ふふ、どうせね、夢野さんは僕を小説の題材としか見ていないんだ。秀樹くんは単に振り回されただけって感じだったし。結局誰も僕を見てはくれないんだよ。でもね、ミドリ。僕は君さえいれば満足なんだ。君が僕を見ていてくれればそれでいい。ああ、誰にも渡さないよ。僕の大事なーーーー」
「がせぇーん!」
突然、春歌が飛び出した。ペットボトルに頬擦りをしていた誠人は、そのままの態勢で固まり、突飛な訪問者を見つめた。
「ほんっとあんたは寂しいんだから! 別に愛想なんて尽かしてないし!」
春歌の声は、表に聞こえるのではないかと思えるほどに大きく勇ましい。対する秀樹は身を縮こまらせて、変わらず顔だけ出したまま、誠人の反応をうかがった。
誠人はペットボトルをゆっくり顔から離すと、のらりとしゃがみ、リュックに恋人を仕舞った。それから真っ直ぐに立ち上がり、リュックを背負って春歌の前まで歩いてきた。近くで改めて見ると背が高い。毛先を整然と遊ばせた茶髪に、蛍光色の紐がついたスニーカー。片足に重心をかけて立つその姿はファッション雑誌の表紙を彷彿とさせる。あとは甘い流し目でもしてやれば、大抵の女性は黄色い悲鳴を上げるだろう。しかし流し向けられた誠人の目は、以前よりも増して赤茶色く錆び付いていて、秀樹は思わず別の悲鳴を上げそうになった。
「……そのまま大人しく覗き見てれば良かったのに。ミドリとの時間を邪魔するなって、前も言ったよね」
誠人は春歌の鼻先に顔を近づけると、両眉を持ち上げて低く囁いた。やはり、気づかれていたらしい。
「それは、ごめん。でも、誤解されたままって嫌でしょ」
春歌は一歩も引かず、伊達眼鏡を外し、眼差しの切っ先を向ける。秀樹は再びこの先輩を頼もしいと感じた。
「確かに小説の題材として取材はしたけどさ、あたしはそれ抜きにしたって我占のこと好きだよ」
恥ずかしげもなく発された言葉に、誠人の方が一歩後ずさった。明らかな嫌悪を鼻の上へ寄せて春歌を見下ろす。
「ふうん。まっすぐなもんだね。でももう、君を信じるのはごめんだ。だって君は、ミドリのことを他人に話したじゃないか。君の後輩にさ」
氷の槍のごとく降り注ぐ言葉に、今度は春歌が顔を歪めた。
「う、それは。ごめん。つい」
「ごめんで済むの? ミドリのことは誰にも知られたくないって言ったよね? まあ今回はたまたま、相手が根暗なコミュ障だったからいいものの、君みたいなおしゃべり人間に知られたらもう終わりだよ! 人間どもは馬鹿だから、きっと僕らを面白がってつけ回すだろうね。今よりもっとたくさんの人間が僕に群がるようになるだろうね! 君や……君の後輩みたいにさ!」
「ち、ちが、あたしは!」
「いいや違くなんかない!」
語気を強めた春歌の否定は、雷を思わせる怒声に潰された。
「僕に近づくってことは、そういうことなんだろ。君も秀樹くんも、どうせ面白がってるだけなんだろ? 人間以外と仲良くしてる変人がいるって! 僕をおしゃべりの的にして笑おうってんだろ?」
「だからちがっ」
「違う!」
青空へ、声が突き抜けた。三号棟の裏に、無色透明の沈黙が降る。
秀樹は、自分の喉がじんわりと熱を帯びているのを感じた。今のは、僕の声?
秀樹は恐る恐る二人の顔を見た。春歌も誠人も、空鉄砲を聞いた猫のように目を丸くしてこちら見ている。視線だ。注目されている。帽子を下げることも許されない緊張感。
これはもしかして。今なお降り注ぐ沈黙の意味を、秀樹は悟った。二人は僕の言葉を待っているんだ。