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添倉秀樹は落ち着かない

 教室を出た我占さんは、絡みつく人混みを肩で振り払うようにして廊下を進んで行く。夢野先輩は、その背中を見失わないように人混みをかき分け、僕の腕を引く。僕は帽子の角度が気になるフリをして、手で目を隠そうと躍起になっている。やっぱり、前髪がないと落ち着かない。他人の視線を感じる。僕の顔は、お世辞にもかっこいいとは言えない。この視線は、醜い山羊への嘲笑だ。
「秀樹、秀樹?」
 春歌に肩を叩かれ、秀樹は我に返った。
「はい、リュック。持って。重い」
 春歌が差し出してきたのは、秀樹の真っ黒なリュックだった。
「はあ、すみません」
 謝罪を宙に浮かせてリュックを受け取る。ずっしり重たいそれを背負うと、ようやく海から上がれたような心地がして、視界が一気に広がった。自分たちはどうやら大きな壁を背に立っているようだ。大学構内からは出ていないようだが、見覚えのない景色。やけに閑散としているのがまた非日常を演出している。誠人の姿は見当たらない。
「ここは?」
 秀樹は小声でそっと聞いた。春歌は目を見開いて何度かまばたきをした後、「三号棟の裏」と短く答えた。
 三号棟といえば、図書館が併設されている古い建物だ。普段は法学部の人が使っている。秀樹もたまに図書館には行くが、裏には行った試しがない。
「我占さんは?」
 秀樹はまた小声で尋ねた。春歌は片眉をひねり、親指で背後を指した。見れば、三号棟の壁は春歌の横で切れていて、奥にちょっとした空間がある。
「この先で座ってる」
 そう囁く声も表情もいつになく真剣で、秀樹は思わず息を呑んだ。失敗は許されないような気がした。
 緊張で固まっている秀樹をよそに、春歌は忍者のように壁に背を貼り付け、顔だけを覗かせて、誠人の様子を探った。秀樹も、誠人に見つからないかと冷や冷やしながら、春歌の真似をして覗き込んだ。
 先ほど春歌は今いる場所を三号棟の裏だと言ったが、細かくいうなら三号棟の脇とするのが正しい。誠人のいる所こそ本当の三号棟の裏であり、葉の落ちた植え込みと換気扇の音だけが満ち、表を過ぎる人間からは目も意識も向かない場所である。
 二人の視線の先で、誠人は三号棟に背を預け、狭苦しい青空を見上げてため息をついた。ようやく肺に空気が入った、とでも言いたげな、疲れ切ったシルエット。遠くて表情まではわからない。
 しばらくの間、誠人は空を見上げたまま動かなかった。秀樹は春歌に倣って音も立てずにじっと観察していたが、そろそろ同じ体勢でいるのも辛い。早く何か起きてくれ。痺れ始めた足をぶら下げながら、心の中で願った矢先、どんな偶然か誠人が動いた。
 背負っていたリュックを地面に下ろし、中から一本の筒を取り出した。秀樹は、声を上げそうになった口を自分で押さえ、目を細めて筒に意識を注いだ。百円くらいの濃い緑色の筒から、ペットボトルのキャップが顔を出していた。
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