添倉秀樹は落ち着かない
次の西洋中世史の時間、もう少しで終わりのチャイムが鳴る頃に、春歌は鞄からニット帽とマスクと伊達眼鏡を取り出した。
「今日のために買ったの」
マスクを付けながら、春歌は小声でそう言った。口元が見えずとも、三日月型に細められた瞳を見れば、彼女が楽しそうにしていることはわかった。この人はきっと、ジェットコースターに乗る時もこんな顔をするに違いない。秀樹はため息をつきたくなるのを我慢して、斜め前方に座っている我占誠人の後ろ姿を見た。三、四列ほど離れているとはいえ、静かな教室の中だ。こちらの声が聞こえているのではないかと心配したが、見たところ気にしていないようだ。行儀よく伸びた背筋に隣に置かれたリュック。彼は先週と変わらない。きっと我占さんには、僕とこれ以上関わる気はないだろう。僕だってそうだ。ましてや後をつけようだなんて。
気乗りしない秀樹には作戦があった。幸いこの講義は人が多い。チャイムが鳴ったと同時に、出口へ向かって生徒たちの波が寄せる。秀樹はただこの波に飲まれて、春歌とはぐれてしまえばいい。講義が始まる前から、秀樹の脳内では、作戦成功のシミュレーションが何遍も再生されている。
「秀樹、秀樹。はい」
膝の上に何か柔らかいものが当たる感触がある。秀樹は慌てて脳内シミュレーションを止め、机の下を覗いた。膝の上には春歌の手が置かれている。女性の手は柔らかいと、小説の中で何人もの男が言っているが、まさかここまでとは。毛糸で編んだ手袋にも似ている。間もなく春歌の手が離れても、砂糖菓子のような感触だけは残った。
「前髪を上げてさ、これ被ってみ。イケイケな感じで。あたしの予想が正しければ、それだけで別人になるはずだから」
被る? イケイケ? 疑問を胸に、よくよく膝の上を見てみれば、そこにはズボンの色とよく似た焦げ茶色のニット帽が置かれていた。秀樹は急に熱を持ち始めた耳を指先で冷やしながら、ニット帽を摘み上げる。
「これを、僕が?」
春歌の目が再び三日月型に細められた。すでに伊達眼鏡までかけていて、彼女の顔の生来の剽軽さに磨きがかかっている。どこからどう見てもおふざけだ。もしもこの人に僕とシュウのことを探られたら、きっと、怒りも失望も諦めてしまうに違いない。
「ちゃんと前髪を上げてね」
春歌が念を押してくる。前髪を上げるだなんて、もう数年くらいやってない。ニット帽を眺めながら、どうしたものかと眉を潜めていると、背後からペンケースを漁る音が聞こえてきた。それは瞬く間に教室中に広がっていき、チャックを閉める音、ノートを閉じる音、コートを椅子の背から引っ張り上げる音が加わった。作戦決行の時が近い。
「ほら秀樹、片付けて。チャイム鳴るよ」
そう言った春歌はもう鞄を肩にかけている。黒いマスクに、丸い縁の伊達眼鏡、そしていつの間にか被っているのは緑色のニット帽。秀樹に渡した物の色違いのようだ。眼鏡の下から放たれる視線の圧力に負け、秀樹も急いで私物をリュックに放り込んだ。一緒にニット帽まで仕舞いそうになり、はたと手を止める。
『なあヒデ、本当に逃げちまうのか?』
突然、シュウが沈痛な面持ちで聞いてきた。
『もしお前が逃げたら、夢野はどう思うんだろうな。こんなものまで用意して、楽しみにしてたのに。大体、断る手段なんざいくらでもあっただろ。ここで逃げて、お前は後悔しないんだな?』
(それは……)
シュウの言葉が終わると同時に、教室内の喧騒が高波へと変わった。頭上では進撃開始のチャイムが鳴っている。
「ほら被って!」
「えっ、わっ!」
春歌の手が伸びてきて、秀樹の前髪を額の上へと押し上げた。急に明るくなった視界に驚き、目を瞑って固まった。春歌は秀樹の手から容赦なくニット帽をひったくり、前髪を押し込むようにして頭に被せた。出来栄えは乱雑で、片目だけ帽子の中に隠れてしまっている。しかし春歌は気にもせず、「よし、これで平気! 行くよ!」と秀樹のリュックを掴んだ。
「あっ。ちょ、ちょっと、待って……」
「はやくっ」
帽子の角度を慌てて直す秀樹の腕を引き、春歌は生徒の波へと突っ込んでいく。喧騒に飲み込まれながら、シュウが苦々しく笑った。
『逃げるなんて考える方が難しかったみてぇだな』
秀樹は転びそうになるのを堪えながら、心の中で苦笑いを返した。
「今日のために買ったの」
マスクを付けながら、春歌は小声でそう言った。口元が見えずとも、三日月型に細められた瞳を見れば、彼女が楽しそうにしていることはわかった。この人はきっと、ジェットコースターに乗る時もこんな顔をするに違いない。秀樹はため息をつきたくなるのを我慢して、斜め前方に座っている我占誠人の後ろ姿を見た。三、四列ほど離れているとはいえ、静かな教室の中だ。こちらの声が聞こえているのではないかと心配したが、見たところ気にしていないようだ。行儀よく伸びた背筋に隣に置かれたリュック。彼は先週と変わらない。きっと我占さんには、僕とこれ以上関わる気はないだろう。僕だってそうだ。ましてや後をつけようだなんて。
気乗りしない秀樹には作戦があった。幸いこの講義は人が多い。チャイムが鳴ったと同時に、出口へ向かって生徒たちの波が寄せる。秀樹はただこの波に飲まれて、春歌とはぐれてしまえばいい。講義が始まる前から、秀樹の脳内では、作戦成功のシミュレーションが何遍も再生されている。
「秀樹、秀樹。はい」
膝の上に何か柔らかいものが当たる感触がある。秀樹は慌てて脳内シミュレーションを止め、机の下を覗いた。膝の上には春歌の手が置かれている。女性の手は柔らかいと、小説の中で何人もの男が言っているが、まさかここまでとは。毛糸で編んだ手袋にも似ている。間もなく春歌の手が離れても、砂糖菓子のような感触だけは残った。
「前髪を上げてさ、これ被ってみ。イケイケな感じで。あたしの予想が正しければ、それだけで別人になるはずだから」
被る? イケイケ? 疑問を胸に、よくよく膝の上を見てみれば、そこにはズボンの色とよく似た焦げ茶色のニット帽が置かれていた。秀樹は急に熱を持ち始めた耳を指先で冷やしながら、ニット帽を摘み上げる。
「これを、僕が?」
春歌の目が再び三日月型に細められた。すでに伊達眼鏡までかけていて、彼女の顔の生来の剽軽さに磨きがかかっている。どこからどう見てもおふざけだ。もしもこの人に僕とシュウのことを探られたら、きっと、怒りも失望も諦めてしまうに違いない。
「ちゃんと前髪を上げてね」
春歌が念を押してくる。前髪を上げるだなんて、もう数年くらいやってない。ニット帽を眺めながら、どうしたものかと眉を潜めていると、背後からペンケースを漁る音が聞こえてきた。それは瞬く間に教室中に広がっていき、チャックを閉める音、ノートを閉じる音、コートを椅子の背から引っ張り上げる音が加わった。作戦決行の時が近い。
「ほら秀樹、片付けて。チャイム鳴るよ」
そう言った春歌はもう鞄を肩にかけている。黒いマスクに、丸い縁の伊達眼鏡、そしていつの間にか被っているのは緑色のニット帽。秀樹に渡した物の色違いのようだ。眼鏡の下から放たれる視線の圧力に負け、秀樹も急いで私物をリュックに放り込んだ。一緒にニット帽まで仕舞いそうになり、はたと手を止める。
『なあヒデ、本当に逃げちまうのか?』
突然、シュウが沈痛な面持ちで聞いてきた。
『もしお前が逃げたら、夢野はどう思うんだろうな。こんなものまで用意して、楽しみにしてたのに。大体、断る手段なんざいくらでもあっただろ。ここで逃げて、お前は後悔しないんだな?』
(それは……)
シュウの言葉が終わると同時に、教室内の喧騒が高波へと変わった。頭上では進撃開始のチャイムが鳴っている。
「ほら被って!」
「えっ、わっ!」
春歌の手が伸びてきて、秀樹の前髪を額の上へと押し上げた。急に明るくなった視界に驚き、目を瞑って固まった。春歌は秀樹の手から容赦なくニット帽をひったくり、前髪を押し込むようにして頭に被せた。出来栄えは乱雑で、片目だけ帽子の中に隠れてしまっている。しかし春歌は気にもせず、「よし、これで平気! 行くよ!」と秀樹のリュックを掴んだ。
「あっ。ちょ、ちょっと、待って……」
「はやくっ」
帽子の角度を慌てて直す秀樹の腕を引き、春歌は生徒の波へと突っ込んでいく。喧騒に飲み込まれながら、シュウが苦々しく笑った。
『逃げるなんて考える方が難しかったみてぇだな』
秀樹は転びそうになるのを堪えながら、心の中で苦笑いを返した。