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添倉秀樹は落ち着かない

 誠人が去った後、次の講義に出る気も起きず、秀樹はそのままフラフラと帰宅した。玄関をくぐると、たまたまそこを通りかかった母が目を丸くした。
「あれっ、今日はずいぶん早いじゃない。授業はどうしたの? 休講とか?」
 秀樹は咄嗟にぎこちなく笑った。
「うん。そう」
「そっか、良かったね」
「うん」
 疑うこともなく笑う母から目を逸らし、一目散に自室に入る。冬が近づいているからか、窓の外はもう暗い。秀樹はカーテンを閉めようとして、真っ黒なガラス窓に映った自分の顔に立ち止まった。鼻頭まで伸びた前髪、輪郭のはっきりしないボサボサの頭、?地中に生えていそうな細い顔、前髪から覗く、生気のないギラリとした瞳。誠人の美しいそれとは全く違う。人種どころか種族が違う。
「馬鹿な奴だな」
 窓に映った僕が僕にそう言って、勢いよくカーテンを閉めた。部屋の中が真っ白な静寂に包まれた。
「……シュウ」
 ベッドへ身を投げながら、口に馴染んだその名を呼ぶ。
『卒業するんじゃなかったのかよ』
 シュウはすぐに現れて、呆れた顔で僕を見た。六年くらい前から変わらない、美しい顔だ。見えないけど、シュウは美しい。健康的な輪郭に、秋晴れの空で塗ったような青い長髪、夕陽を閉じ込めたオレンジの瞳。実際に見ることができたらきっと、僕は一日中、目を離せなくなるだろう。
「無理だよ。卒業なんて。僕はやっぱり君がいないとだめだ。普通になんかなれないよ」
 手足を投げ出して、枕を顔の上へ乗せる。洗い立ての匂いが口いっぱいに広がった。
『……そうだな。お前は普通にゃなれねえよ』
 枕が邪魔で真っ暗だけど、僕にはわかる。シュウは今、悔しそうに唇をひねって、腕組みをしている。
「ねえ、シュウ。僕はさ、同じ変人がいると思ったんだ。仲間ができたと思って、とにかく嬉しかったんだよ。だからさ、疑いもしなかった。疑うなんて……できなかったよ」
『……』
「それに僕、あの人と話してる時、君と話してるような気分だったんだよ。話をしても大丈夫だなって、思ったんだ。今思えばそれも失礼だったね。あの人はちゃんと現実の、生身の人間なのに、僕はそれを忘れてたんだ。ははは、もう、馬鹿だ、馬鹿な奴だ。馬鹿にされても仕方ないよ」
 なんだか息苦しくなって枕を投げ捨てる。見慣れた天井が灰色に歪んでいる。シュウがいるはずの場所には誰もいない。
「……シュウ、いる?」
『いるよ』
 頭の中で声がする。芯の通った聞きやすい声。
『……なあヒデ、諦めるのが早すぎるとは思わねぇか?』
 え?
『お前は我占の言うこと信じるのか? そうすぐに人を信じるもんじゃねぇってのはアイツの言葉だぜ』
 シュウ?
『そもそも夢野の言ってることが本当なら、アイツは真実を隠してんだろ? だったらただ隠してるだけって考えるのがスジってもんじゃねぇか』
 そんなこと、僕は思ってない。
『お前は「僕」しか見てねぇから騙されんだ。もっとちゃんと周り見てみろよ。前髪の中に閉じこもってる場合かよ』
 これは、シュウの言葉? 本当に聞こえるようになったの?
『……いや、残念ながら、俺の言葉も思考も、全部お前の中にあるもんだ。お前の本心が、俺の口を借りてるだけだ。いいかヒデ、お前は本当はわかってんだ。気づいてんだよ。我占の言葉の中の違和感に』
 そんな、違和感だなんて
『踏み込む勇気が出ないだけなんだろ? 自分を馬鹿にして罵って、それで全て丸く収まりゃ万々歳、とか思ってんだろ?』
『もっと「秀樹」を見てやれよ。ほら、お前は今どうなってる?』
 秀樹は恐る恐る手の平を掲げた。雨の降りそうな灰色の天井に、肌色のインクが溶ける。一滴、二滴、冷たい水滴が頬へ垂れてきて、一直線に流れて耳の中へ入る。辺りの音がぼやけだして、頭が内側から締め付けられる。思考回路が狭い脳内でショートして、火花が散って炎が燃える。熱せられた肺が沸騰しだし、嗚咽が喉を叩いて喚く。
 ここから出せ! 熱すぎる! 俺たちに外を見せてくれ!
「う、あ」
 秀樹は腕で顔を覆い、口を大きく開けた。
「あああああああああっ!」
 そうか、僕は。
 涙が次々と溢れ出し、秀樹の痩せこけた頬とボサボサの髪を濡らす。
 僕は悲しくて喚きたくて仕方なかったんだ。
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