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添倉秀樹は落ち着かない

 誰もいない小教室の中、知り合ったばかりの二人の青年が大声を上げて笑っている。もうお互いに、何がおかしいのかわからなくなっている。じきに体力が底を尽きてきて、二人はだんだん落ち着き始めた。涙を目に溜めながら、誠人は肩で大きく息をして、半分裏返ったままの声で言った。
「夢野さんはね、君のこと、『面白い奴』って言ってたんだ」
「はは、はぁ、お、面白い、ですか」
 秀樹も涙を手の甲で拭いながら答えた。春歌なら言いそうな言葉だが、秀樹にはどうしても、自分が『面白い』とは思えない。
「どこが、でしょうね……?」
 苦笑いを浮かべて俯き、前髪の下から遠慮がちに問う。
「うーん、なんか、物好きだからね。あの人は」
 誠人の答えは答えになっていない。
「君は夢野さんから僕のこと、聞いてる?」
「ああ、はい。えっと、まあ」
「なんて言ってたの?」
 誠人の真剣味を帯びた声を聞いて、秀樹はようやく自分がここに連れ込まれた理由を悟った。どうしたものか、と口を引き結ぶ。「あいつ一応、隠してるから」と人差し指を口に当てて言う春歌が脳裏に蘇る。今ここで、ペットボトルの話を聞いた、と正直に白状しても良いものか。だからといって嘘を教えるのも何かが違うし、嘘をつくのは得意ではない。絶対にどこかでボロが出る。
「えーっと、まあ、その、色々と」
「へえ、たとえば?」
 悩んだ挙句、曖昧に濁す道を選んでみたが、誠人には全く効果がない。秀樹は首がなくなるまで肩に力を入れて、膝の上で拳を握った。
「あの、その、彼女さんの、話とか」
 そこで言葉を切って、誠人の様子を伺った。前髪の隙間から見えた彼は印象良く笑っていたが、目は最初より錆び付いているように思えた。
「……彼女って、ああ、ミドリのことかな」
 誠人は案外平然としているようだった。秀樹はそれを「もう少し踏み込んでも大丈夫」の意に受け取った。
「はい。多分。あの、その彼女さんが、あの、人間じゃない、みたいな、はは、そんなことを、言って……」
 秀樹は前髪をかき分けて、横目で誠人を見た。表情は少しも変わらない。それがかえって恐ろしい。秀樹は早くも言ってしまったことを後悔し始めた。
「あっ、あの、僕はその、いいと、思います。そういうの。全然」
 罪悪感に追い立てられ、慌てて付け加えると、誠人の表情に、夕焼けに似た薄い影が差した。
「あは。それって本心?」
「え、あ、はい」
「ふうん」
 沈黙がよぎる。一呼吸おいて、誠人が口を開いた。
「……夢野さんが嘘ついてるとか考えないんだね」
「え、うっ、嘘なんですか⁉︎」
 誠人はまた大声で笑い出した。
「あははっ、純粋! やっぱり純粋だなあ!」
「純粋……」
 そういえばさっきもそう言われた気がする。
「はは、そんなこと、ないですよ……」
 秀樹は自嘲気味に笑った。
「あは。そう? 僕からしたら純粋だけどなあ」
 誠人は両腕を頭の後ろに組んで、正面の黒板を見つめた。
「気をつけなよ。詐欺とかに引っかからないようにね」
「……別に、大丈夫です」
 捨て台詞のように吐かれた言葉に、秀樹はなんとなく不満を感じて言い返した。誠人は顔だけこちらへ向けて、口端の片方を、一瞬、皮肉っぽく持ち上げた。
「とりあえず、人の言ってることをそんなに簡単に信じるもんじゃないよ。ましてや僕の彼女がペットボトルだなんて」
 笑い混じりだが、どこか投げつけるような響きがある。顔が笑っていない。いつの間にか、目の奥の錆が全体に広がっている。秀樹は咄嗟に銀色のナイフを探した。当然だがどこにもない。それでもじわじわと、背筋を悪寒が這い回る。
「……正直、そんな冗談を言う夢野さんも、それを信じる君も、失礼だよ」
 誠人の鋭い声に貫かれ、秀樹は両眼を大きく見開いた。よく考えたらその通りじゃないか。普通の人なら、ペットボトルを彼女にするなんておかしな話、まず疑って当然なんだ。冗談と思うのが常識なんだ。そうだ。僕は変人だった。
「……それじゃ」
 誠人は油の足りない音を立てて笑い、呆然としている秀樹を置いて、さっさと教室を出て行った。秀樹はしばらく、一人になったことに気づかなかった。
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