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夢を抱いてもいいですか

 私には夢があった。随分小さい頃の話だ。
 小説家になりたい。両腕に抱えた夢を、爛々とした笑顔で見せた。
 難しいんじゃねぇかなぁ。父は答えた。
 まあねー。そう返しながら、悔しくて悔しくて、両腕に力を込めた。込めすぎた。夢は音もなく破裂した。
 焦げ臭い匂いと共に、夢は真っ黒な煤へと変わった。
 私は煤を、夢だったそれを、強く強く抱き締めた。絶対に離してなるものかと、胸の中に閉じ込めた。既に光のないそれを、大事に大事に抱き締めた。

 今、切り裂かれた胸から、黒い煤が抜け出していく。あるべき場所に帰るため、天へ向かって昇っていく。
 暗い谷の底に落ちた私は、煤が逃げてしまわぬよう、胸の傷口を両手で塞いだ。それでも指の隙間から、冷たい煤が漏れ出していく。
 私は諦めてなどいない。現実を見て夢を捨てた、ダサい人間なんかじゃない。私はずっと、この胸に、抱き続けてきたんだ。どれだけ自分の文章が嫌いでも、描いた物語が陳腐でも、才能の優劣に打ちひしがれても、決して離してこなかった。
 目頭が熱くなり、頬に一筋の感情が伝う。煤は無情にもすり抜けていく。胸が少しずつ軽くなっていくのを感じる。それがなんだか、ゾッとするほど心地よい。
 煤の最後の一粒が出ていくまで、私は抗い続けた。抵抗も虚しく終わってからは、ただ上を見上げて、煤が昇っていく様を見送った。遥か上空に見える真っ白な地上へ、私の夢が去っていく。
 真っ黒で、粉々で、乾き切った、薄汚く、輝きの無い、私の夢。よくよく見れば、なんて無様な姿だろう。これではまるで。
 私は足元へと視線を投げた。ボロボロの、茶色く薄汚れたスニーカーが、苦しそうに並んでいる。
「さすがにもう、捨てないとな」
 本当は、ずっと前から気づいていた。
 私が抱いていたのは、夢の亡骸だったのだ。
 


 あの日、急に泣き出した私を、ハナはとても心配して、何度も謝って、可愛いハンカチを貸してくれた。
「トーコを元気づけようと思ったの」
 次の日の授業前、ハンカチを受け取りながら、ハナは気まずそうに言った。
「トーコの小説、私は大好きだよ。トーコなら小説家になれるって信じてるの。でもなんか、自信無くしてるみたいだったし、もし夢を諦めかけてるなら、止めなきゃって思って。トーコはいつも私の話を楽しそうに聞いてくれるでしょ? 私、あれがすっごく嬉しくて。私が夢を抱き続けていられるのは、トーコが話聞いてくれるからだよ。だから、私もトーコを助けてあげたかったの。でもまさか泣くとは思わなくて。本当にごめんね」
 今はハナの方が泣きそうな顔をしている。
「そっか。ありがと」
 私は微笑んだ。昨日から、胸の中が妙に軽い。視界も賑やかで、ハナの謝罪にも誠意を感じる。
「でも、ごめんね、ハナ」
 大きな茶色い瞳が、不安そうに私を見る。
「そんな、なんでトーコが謝るの。あれは私が悪いんだって」
「ううん、そうじゃなくて」
 私は、視線を自分の足へと落とした。並んでいるのは、昨日、帰り際に買った白いスニーカー。シミ一つない新品だ。
「私、しばらく、小説書くのやめるよ」
 一瞬の沈黙。
「うそでしょ?」
 見上げれば、ハナの驚いた顔。いや、驚いたというより、絶望に近いだろうか。私は慌てて付け加えた。
「あ、別に、ハナのせいじゃないよ。自分の夢とちゃんと向き合ってみたら、なんか、辛くなっちゃって。一旦、小説から離れてみようかなって」
「じゃあ、もう、トーコの小説読めないの?」
 ハナは転んだ後の子供みたいな顔をしている。それがなんだか可笑しくて、少し嬉しくて、思わず頬が緩む。
「しばらくは、ね」
「え、それじゃあ、またいつか書いてくれるかもしれないってこと?」
 茶色の目に光が宿る。私は首をどちらに振ろうか、暫し考えた。
 昨日ハナと別れた後、新品のスニーカーを選びながら、夢について思考を巡らせた。
 私が抱いていた夢の亡骸は、もう天の彼方へと消えてしまった。この胸の中は空っぽだ。清々しく、それでいて虚しい感覚。きっと、夢を諦めた人はこんな気分なのだろう。なるほど、虚しささえ無ければ悪くない。
 この虚しささえ無ければ。
 そう思った時、ふと、真っ白なスニーカーが目に止まった。ハナが履いていたローファーのように輝いていて、瑞々しく、生き生きとしている。そういえば、今履いているスニーカーも、元々はこんな色だった。最初は真っ白に輝いていたはずだった。その輝きに惹かれて、私はこの靴を買ったのだ。履き心地も良かったし、靴紐が黒いのもカッコいいと思ったし、履いて歩くと誇らしい気分になれた。
 新しいスニーカーは紐まで真っ白だが、これもこれでカッコいいし、誇らしい。今度こそ、汚さないように使いたい。
 私はもう一度、自分の足元で輝く新品のスニーカーに視線を落とし、それから、ゆっくりと首を縦に振った。
 この空っぽの胸中に、また、真っ白な夢を抱けたその時は。
「うん。多分、また書くと思うよ。小説」
 ハナの顔に、満面の笑みが咲く。薄紅を引いた形の良い唇が何かを言おうとする前に、私は言葉を続けた。
「だからさ、ハナの小説の話、もっと聞かせて。良い刺激になるかもしれないし」
 ハナは笑顔を輝かせ、何度も何度もうなずいた。
「うん、うん、もちろん! あ、じゃあ、これから授業サボって喋る?」
「何言ってんの。授業は出るよ」
「えー」
 渋々と肩を落とすハナがなんだか可笑しくて、つい笑ってしまう。すると、つられてハナまで笑い出す。なんだかよくある青春の一ページのようだ。
 こういう王道な終わり方も、まあ、意外と良いものかもしれない。
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