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夢を抱いてもいいですか

 何時間ほど話し込んだだろうか。そろそろ帰ろうとハナが言って、私たちは駅へと向かうことにした。見上げた空はすっかり暗く、見渡す街は昼より明るい。
「でさ、その師匠は、超強いくせに虫が苦手なの!」
「ははは。いいね」
 ハナの話は止まらない。私は適当な相槌を打ちながら、こっそり歩く速度を早めた。なぜこんなにも、彼女は話し続けられるのだろう。どこかで思考が行き詰まったりしないのだろうか。
「いいでしょ? 映画化したら、絶対このキャラ人気出るよね!」
 ハナは、自分の小説がいつか書店に並び、ベストセラーを記録して大人気コンテンツとなり、ドラマ化して、更に映画化もするのだと息巻いている。それが夢なのだという。
 実際、彼女の小説は面白い。どのキャラクターも魅力的で、物語構成にも無駄がない。そして何より、ハナには文才がある。初めて彼女の文に触れた時、私は心の底から感動を覚えた。薄茶色に染め上げた髪の毛からは想像もつかないほどに凛とした、艶やかな文章。決して重苦しくはなく、それでいて不快な軽薄さはどこにもない。台詞回しも秀逸だった。個性的なキャラクターたちが、物語の中でしっかり生きているのを感じた。一話読み終える頃には、主人公への愛着が湧いていた。
 私は、ハナの小説が好きだ。好きにならざるを得なかった。文章、物語、キャラクター、どれをとっても秀逸だった。
「そうだね」
 私は、少しばかり心を込めて相槌を打った。実際、彼女の作ったキャラクターは、みんな人気が出るような気がする。それに、彼女が綴った物語は全て、人々に許容されるような気がする。
 だからこそ。
「映画化のためにも、ちゃんと書かなきゃね」
「うっ」
 ハナが言葉に詰まり、気まずそうに目を伏せた時、私は自分の言ったことに気がついた。慌てて口を塞いだとしても、もう出てしまったものは仕方がない。
「まあ、そうなんだけどねー」
 ハナは苦笑いを浮かべ、目を泳がせた。さっきまであんなにはしゃいでいたのに、急に、怒られた子供のようだ。
「でもさ、なかなか筆が進まないんだよねー。ほら、トーコもわかるでしょ? アイディアはいくらでも出るのに、いざ文章にしようとすると書けないんだよ」
 ハナの言い訳を聞きながら、私は、鞄に入っているぐしゃぐしゃのルーズリーフを思い出していた。授業中に書こうとしていたのは、長編になるはずの物語の第一話だ。あの時筆が止まったのは、文章のせいではない。キャラクターが動かなくなってしまったからだ。こんなシナリオ、歩いていてもつまらない。もっと面白い話にしてくれと、作者の私を無機質な目で見上げてくるのだ。よく、アイディアを水に例えることがあるが、私のそれは枯れ果てている。
「いや、私はそもそもアイディアが出ないから」
 冗談らしく聞こえるよう、最後にちょっと笑ってみせる。厳密に言えば、アイディアが全くないわけではない。ただ、味気ない泥混じりの水しか出ないのだ。
 こんなの読んだって面白くない。記憶に残らない。楽しくない。
「え、そんなことないよ! 前に書いてたやつ、すごい良かったじゃん!」
 強い力で腕を掴まれ、思考の渦から引き上げられる。驚いて振り向くと、ハナが真剣な表情で詰め寄ってきていた。
「ほら、男の子が、森の中で自分の居場所を探すやつ。私あれ大好きだよ!」
 ああ。実際に森に入った時に書いたやつだ。森の景色を描写しただけの、退屈な物語。もっとワクワクするような冒険がしたいって、主人公は不満げだった。
「あんなの、私じゃ思いつかないよ。それに何より、トーコは文章が上手いよね!」
「ただ読みやすいだけだよ。ハナの方が文章上手いじゃん。話も面白いし」
 言葉に煤が混じる。なんだか今日は自分の機嫌が悪い。昔のことなんか思い出したからだろう。
「えー? 私の文章なんてゴミだよゴミ。話はまあ、自分が面白いなって思うようなものにしてるから……。でも、これが他の人から見ても面白いかは分からないし……」
「面白いよ」
 ハナの話はどれも、どこかで見たことがあるような、人気が出そうなものばかりだ。彼女は、大衆が喜びそうな設定をよく知っていて、自分もその設定を喜んで使っている。売れるためではなく、自分のために、面白い設定を取り入れている。
 私はというと、大衆向けの設定は嫌いな方だ。確かに面白いとは思うが、同時に冷めた気持ちにもなる。流行りのファッションを見せつけられたときのような気持ちだ。だから私は、王道に中指を立てた。
 これで文才と発想力があれば良かったのだが、そんなに都合よくいかないのが人生というものらしい。父がそう言っていた。事実私にはそんなものはなく、「読みやすいけど記憶に残らない」小説を生み出す結果となった。
 でも、ハナは。
「ハナは、ちゃんと小説書けば売れるよ。設定の話ばかりしてないでさ。書けば、ちゃんと映画化もするよ。面白いんだから自信持ってよ。ハナならできるよ、どーせ」
 トゲを吐き捨ててしまったことには気付いたが、どうも謝る気になれない。悪いのは私ではない。書こうとしないくせに夢だけ語るハナが悪いんだ。才能もあるくせに。これは怒るのも仕方ない。私は悪くない。そう胸に言い聞かせ、涼しげにハナを見る。ハナはまた、叱られた子供みたいな顔をしていた。
「でもさ、設定の話してるだけでも楽しいし」
「そんなこと言ってたら、いつまで経っても夢叶わないよ。世の中、黙って面白い小説書いて、人気になって、ちゃんと仕事にしてる人もいるんだよ」
 頭に上った血が冷めてくれない。それどころか、火を焚いたように熱が増していく。
「どーせハナの小説は売れるよ! なのになんで、なんで、何もしないの? 形にしなきゃ意味ないんだよ? 夢は叶えるためにあるんでしょ? 何もしてないのに夢を語るだけなんて、そんなのダサいだけじゃん!」
 ハナは大きな目を丸くした。茶色の瞳が僅かに震えて見えたのは、気のせいではないだろう。
「ごめん」
 紅の剥がれた唇が、弱々しい声を絞り出す。私たちはいつの間にか立ち止まっていた。この人通りの少ない道をもう少し歩いて、角を曲がれば駅に着く。気まずい空気とお別れできる。
「あ、いや、いいの。ごめん、気にしないで。帰ろ」
 気にするに決まってる。最低だ。そう思いつつも、これしか言えない。今すぐここから逃げ出したい。自然と足が動き出し、駅の方へと身体が傾いていく。遠くで電車の発車音が鳴っている。
「待ってよ」
 強く片腕を引かれ、暗く重い声が私に突き刺さる。逃げ場を無くした足が、上半身に引きずられるようにして、乾いた音を立てて止まった。明日の授業、ハナと同じやつだったっけ。ボロボロのスニーカーを見下ろしながら、そんなことを考える。
「なんでそんなにイライラしてるのかは分からないけど、確かに、書いてないのは私が悪いよ。ごめん」
 後ろからハナの声が聞こえる。怒っているのかどうかは分からない。ただ、腕を握る手から少しだけ震えを感じる。私はひたすらスニーカーの汚れを見つめた。
「書かないと夢が叶わないっていうのも、確かだと思う。いくら良い話を思いついても、形にしなくちゃ何も始まらないよね」
 声まで震えている。なんだか私の心臓にまで震えが伝わってくる心地がして、思わず全身に力が入った。
「でもトーコ、さっき、夢は叶えるためにあるって言ったじゃん。あれ、私は違うと思う」
 ふっと、ハナの震えが止まった。私は重たい視線を横へとずらし、彼女の表情を見ようと試みた。だが頭が思うように上がらず、視界に入ったのは白いローファーの輝きだけだった。
「私はね」
 輝きは、ハナの声でこう言った。
「夢は抱くためにあるんだと思う」
 かすかに風が吹き、胸の中で煤が舞った。さっきまで見ていたスニーカーの汚れが、なぜか目の裏に貼り付いて剥がれない。
「抱く……?」
 やっと顔を上げて、恐る恐るハナを見る。街頭の光に照らされた茶色い瞳が、真剣な眼差しを向けていた。
「うん。両腕でしっかりと抱くイメージ」
 ハナは続けた。
「夢って、風船みたいに軽くって、少しでも腕の力を緩めると飛んで行っちゃうものだと思うの。例えば私なんかは、自分と同い年の人が本出してたりすると、それだけで夢を手放しちゃいそうになるんだ。未だに何もできてない私には、こんな夢、無理かもって」
 ハナは視線を斜め下へと逃がし、苦笑した。その姿が自分と重なったような気がして、思わず生唾を飲む。
「でもさ、手放しちゃったら、それまでじゃん。夢を叶えたいなら、叶うまで、夢を抱き続けなきゃダメじゃん。それがどれだけ大きくてもね」
 ハナがゆっくりと視線を上げた。大きな茶色い瞳が、私の目をがっしりと掴む。
「よくいるでしょ、夢を過去の思い出みたいに語る人。自分は現実見てるんです、みたいな人。そういう人を見ると、単に夢を抱き続ける力が無かっただけでしょ、って思う」
 私は、自分の手が汗ばむのを感じた。肺の中に煤が舞い、のどから水分が抜けていく。もうやめて。言おうとした声は音にならず、のどを軽くくすぐるだけだ。ハナの口から溢れる言葉は止まらない。
「私からしたらね、夢は叶えるものじゃなくて、叶うまで抱き続けるものなの。とにかく抱いてればいいの。抱き続ける力がないだけなのに、途中で現実を見たとか言って夢を諦めてる人の方が、何倍もダサいよ。負け惜しみにしか聞こえない」
 可愛らしい茶色い瞳が、力強く尖り、私を刺した。白いワンピースも、白いローファーも、記憶の中の彼女の文章も、全部、全部、私を刺した。世界がぼんやりと滲み出し、傷口からは真っ黒な煤が漏れ出した。頭が熱くなっていき、周りの音が逃げ出していく。だんだんハナの顔もわからなくなっていき、眠りに落ちる時のように、私は暗い谷底へと落ちていった。
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