翌日。室内で扇風機が回っていてもうだるような暑さを感じる今年の夏。私が暖簾を掛けに外に出ると熱気がむわり全身を包んだ。
まとわりつくような暑さ。薄情なことに、受け取った時はとても誇らしかった
みょうじ湯エプロンが少しじれったいほどだ。
「どうだった初日は?」
サンダルをつっかけたおじいちゃんが玄関先に出てくる。「掃除が一番大変」結局、一番大変だったのは閉店後の浴室、浴槽掃除だった。深夜二時を過ぎていたにもかかわらず、「だろうなあ」と笑う祖父の方が私より元気だった。若者として顔が立たないので、少しくらいお年寄りらしくしてほしいものだ。
◆◆◆
夕方十七時から十八時頃は年配の方が多く見られた。
みょうじ湯が一番混むのはこの時間帯だと祖父も言う。外が暗くなる前にといらっしゃるので、(見栄を張った言い方をすると)ターゲット層がそれくらいの
みょうじ湯ならではの特徴だ。
夕飯の時間帯である十九時から二十一時は客足はまばらで、常に一人か二人は湯上がりの牛乳を飲んだり新聞を読んだりしてくつろいでいるような、のんびりとした雰囲気が脱衣所に漂っている。この時間帯は祖父が番台に上がる時間なので、その間に私は夕飯やお風呂を兼ねた休憩を祖父母家で取ることになっている。
二十一時を過ぎると再び私の担当。銭湯あるある、お勤め人の通う時間帯だが、
みょうじ湯のターゲット層ではないためかなり静けさを出す。それでもたまにご近所さんが顔を出すので油断できないが、あまりにも客足が途絶えるようであれば最近は閉めるようにしているらしい。
ふわあ。
あくびを隠そうとしないのはお客さんが誰もいない証拠。
こうなると思って、私はあるものを座布団の下から引っ張り出した。
がらり。
意識の隙間に差し込むように聞こえてきた扉の開閉音。お客さんだ。はっと顔を上げて見た時計は二十二時半を示している。男湯側のすのこが軋む音が聞こえた。
からりと今度は軽い音がして開かれた傍らの戸に振り返り「こんばんは」と声をかけた。こちらを見上げたその人は、驚いたように背筋を伸ばした。
「
なまえ?」
名前を呼ばれて、私もはたとその人の顔を見る。特徴的な鼻をした坊主頭の男性。あれ。もしかして。
「坊主のお兄ちゃん!」
口走ってから我にかえる。出てしまったものは戻しようがないのに今さら口をおさえた。
「あ、ご、ごめんなさい」
「いや、気にしてない」
私よりもずっと年上のその人は怒るでもなく「懐かしいなあ、その呼び方」と小さく笑った。
番台に座る祖母の膝の上から見下ろすと綺麗に剃り上げられた坊主頭がまず視界に入るものだから、私の幼い頭に一番に刷り込まれた呼び名。坊主のお兄ちゃん、改め、月島基さんだ。
月島さんは私が小さい頃、例の両親の仕事の都合でこの銭湯に入り浸っていたとき、よくお世話になっていた近所のお兄さんだった。
少しいかつい目元から伸びる頬のしわと特徴的な低い鼻。それから黒い坊主頭。
中学の部活帰りにこの銭湯に通う癖がついた月島さんは、お年寄りが多い客層の中で大変珍しい方で、湯上りに休憩しているところを幼い私はよくじゃれて回った。きっと年頃の男子に幼い小供をあしらうのは大変だっただろう。けれど邪険に扱われることはなく、ややぶっきらぼうながらも構ってもらえたので私はあっという間に懐いた。
湯冷めするし、手のかかる孫の面倒ついでにしばらく休んでいきなさいとよく祖母に言い寄られてどうしたものかと困った顔をしていた月島さんの顔を思い出した。
そんな月島さんの銭湯通いは高校、大学と続いていたようだけれど、私が中学に上がり、銭湯に顔を出す機会が減ったことで、必然的に会うことは少なくなっていった。それがこんな形で再会するなんて。
「それにしても驚いたな、何年振りだ?
なまえが中学の頃ぐらいだから……七年? 八年か? となると今は」
「はたちです」
もうそんなになったのかと月島さんは苦々しく言った。俺も老けたわけだとため息をつくのでふと考える。確か私と月島さんはちょうど十歳離れていたはず。……月島さん、三十歳かあ!
そう意識してしまえば途端に口がぴしりとかしこまる。昔は敬語なんて使わなかったのに、さっきなんか思いっきり「坊主のお兄ちゃん」なんてあだ名で呼んだのに。
「月島さんがまだうちの銭湯通い続けてたなんて私の方がびっくりしました」
「さすがに実家は出てるが、勤務先から通えないこともないんだ。
なまえは今、何してるんだ」
昨日散々した会話を思い出して「大学で勉強してます」と笑いを含んで答える。
今は他にお客さんがいないことだし、見下ろし見上げたままの会話は失礼だと思って番台から降りた。視点がお互い逆になる。
「おばあさまのことは聞いた。手術もしたんだって?」
「はい。無事終わって、まだ病院でリハビリ中です」
「そうか」
本当に懐かしいなあと月島さんは笑みをこぼす。
「おばあさまにはよく牛乳を奢ってもらって、湯上りでもない
なまえも一緒になって飲んで腹壊してたよな」
「えっ。なんですかそれ」
「なんだ、覚えてないのか。さみしいな」
今は一人暮らしで大学に通っていること。今回の祖母の入院で、この夏季休暇中は祖父母の家に泊まり込みで営業を手伝うことにしたこと。実家から
みょうじ湯再開の連絡があって会社帰りに寄った。勉強は楽しいか。楽しいけど難しいです、と。しばらくそんな話をした。
「あ、おじいちゃん呼んできましょうか? 」
「家の方か? 休まれてるなら日を改めても」
「いや、今ならボイラー室だと思います。ちょっと待っててください」
今日は挨拶できたんだと言う月島さん。明日朝が早いので今度ゆっくりできる時に入りに来るとのことだった。
祖父を呼びに行くため脇を通り過ぎようとしたとき、
「そういえばそれ、まだ続けてたのか」
と顎をしゃくられる。月島さんの視線を辿った先は番台の上にいくつか散らばっているもの。
折り鶴だった。
「あっ、いやこれはその」
番台に駆け寄って散らばるそれらをかき集める。隠していたものが見つかってしまった心地だった。
これはその、の後が続けられなくてあたふたしていると、月島さんはふと笑った。
「昔から、好きだったもんな」
ぽろりと、番台から折り鶴が落ちた。
このとき私はタイミング悪く思い出してしまった。
私の初恋が、月島さんだったことを。
坊主頭のお兄ちゃん