少し経つと、ご近所さんや祖父母の昔馴染みさんたちがちらほらと来店された。しかしほとんどが祖母の怪我を心配してくださって顔を出し、「通りかかったら暖簾出てるんだもの」と祖父のゆるり開店に驚いた人ばかりだった。あとは私という孫がいることの驚き。
「まあー!」
「おっきくなったわね」
「何歳になったの?」
「今何してるの」
と、午前中に原田牛乳のおじさんとした会話が延々とリピートされている。おじいちゃんよく平気だなあ孫ってそんなに可愛いいものなのかなあと笑みを浮かべながら私はまた「はたちになりましたあ」と答えるのであった。
挨拶や世間話を交わすだけでお湯に入っていく人は今のところいない。お客さんの切れ間を見計らい、祖父がボイラー室まで連れていってくれた。ごうごうと音を立てて燃え盛る釜の中を二人で覗き込んで、具合を窺う。これはとても大事なこと。釜の薪は四、五十分ごとに補充して火の勢いを守らなければならない。すっかりぬるくなった湯を提供する銭湯なんて言語道断だ。
しかし、やはり火力調整は素人目では難しく、しばらくは祖父が釜の監視をすることに。祖父が番台に上がっている間は私が頻繁にボイラー室に顔を出すようにし、携帯でやり取りをしようと取り決めた。
そうして時間は経ち、夕方十八時を過ぎるとまばらにお客さんが入ってくる。開店を知った常連さんたちだ。さっきぶりですね。
「やあ。いらっしゃい」
「どうも。最近は夕方になってもまだ暑いねえ」
「ほんと勘弁してほしいよ」
雑談を交えながら手早く入浴料の支払いを済ませる。常連さんが多いので、タオルや石鹸を桶に入れて持参される方が多く、貸し出しタオルなどのやり取りもまばらだ。番台の様子をうかがいながら、店内の掃除やお客さんの世間話に付き合った。
なるほどこんな感じでいいのかと雰囲気を掴む頃には十九時になっていて、
「
なまえ」
番台から降りたおじいちゃんが手招きする。手持ち無沙汰に窓を拭いていた雑巾を片付け近寄ると「ほら」と紺色のエプロンを渡された。祖父もつけているエプロンだ。
「いいの?」
「番台に上がるからには
みょうじ湯の看板背負ってもらわないとな」
得意げな祖父の笑顔を尻目にエプロンをつける。見下ろした胸元には『
みょうじ湯』と書かれていて、背中に回した紐を結ぶと自然と気持ちも引き締まった。
そうして番台に上がる、前に、深呼吸をひとつ。たった三段の踏み台から番台に上がって、少しだけ窪み、人一人分が座れるだけの畳が敷かれたそこに腰を下ろした。
ロッカー。マッサージ機。二人がけのすのこベンチ。カラカラ回る扇風機。牛乳のショーケース。洗面台。体重計。ガラス戸の向こうの積み上げられた桶。浴室のタイル……。
ぐんと高くなった目線は一目で店内を見渡すことができた。
ただ、目の前の景色を背景に蘇ってくる、一番の記憶は────
「
なまえ」
「! はい!」
おじいちゃんに名前を呼ばれて我に返る。傍を見れば常連のおばさまがにこにこして原田牛乳を差し出していた。
「お会計、いい?」
「も、もちろんです」
小銭を受け取るときに少しだけ触れた指先がとても暖かかった。
なまえちゃんにお会計してもらったから、牛乳がいつもより美味しいわ。そんなことを言って、おばさまは湯上りの火照った頬に冷たい牛乳瓶をあてた。なんだか私まで、そうしたくなった。
呼びさます