午前十一時を過ぎた頃だった。まだ営業中の印である暖簾をかけていないはずの戸ががらりと開く音がする。「よーう、いるかい」と通る声が銭湯内に響いた。
「ああ、毎度ごくろうさんです」
「どうも。それにしてもずいぶん早い再開だねえ、まだ先かと思ってたよ」
祖父の後に続いて脱衣所まで出て行くと、番台の傍らの戸から顔を出す、青い帽子を被ったおじさんの姿があった。肩に白いタオルをかけて首元の汗を拭っている。手には『原田牛乳』と印字されたケースが。
ああ、そうか。うちが長年ご贔屓にしている牛乳屋さんだ。納品に来てくれたんだ。
「今はリハビリするのに病棟移して、まあ大丈夫そうだってんで、こっちもぼちぼち」
「ああそう。早く元気になって戻ってくるといいね。ここいらみんな寂しがってるよ」
と、おじさんが浴室から出てきた私を見て、「あれえ」と目を瞬かせた。
「もしかして
なまえちゃんかい」
「そうそう。夏休みだから手伝えるって言ってくれて、うちのに代わって今日から番台に上がるんだ。おかげでこんなに早く再開できた」
近寄ってこんにちは、と挨拶すると「いやあ大きくなったなあ」と笑顔を弾けさせたおじさんはかぶっていた帽子を脱いだ。つるりと光る頭。お、おお……!
「
なまえちゃん、覚えてる? 原田のおじさん」
「ええと」
「覚えてないか〜、残念! まあ
なまえちゃんがまだこんくらいの時だったからなあ。今何歳? ……二十歳! やーそりゃあおっきくなったわけだ」
こんくらい、とずいぶん下の方で手をかざすので本当に小さい頃お世話になっていたのだろう。現金なことに、おじさんのことは抜けているが原田牛乳は大好きだ。久しぶりに飲みたいなあ。
「今何してるの」
「大学で勉強してます」
「そう。大学行ったの。すごいね」
原田さんは、祖母が転倒した時にちょうどその場に居合わせたらしく、あのときはみんな大騒ぎだったよと笑った。「ああ、いてて」と本人は割と冷静なのに周りがたまげちゃって「救急車!」「かつげかつげ!」「親父さん呼んでこい!」と大混乱だったらしい。慌てすぎて誤解を生んだ父の電話の話をすると「気持ちわかる」と原田さんは笑った。
しばらく世間話をしてあと原田さんが帰っていき、牛乳の補充を終えると、販売しているお風呂グッズの備蓄チェック。そうして準備は大方終わり。使用した桶の消毒等は閉店後の作業だ。番台での精算はコンビニのバイト経験があるので問題ない。
それじゃあもう解散かなと思っていれば、そうだそうだ忘れてたと祖父はあるものを取り出した。
これ、と渡されたのは左右に開くタイプの小さなカード。片面に大きく書かれた文字に、つい間抜けな声を上げてしまった。
「ポイントカード? おじいちゃん、そんなの作ったの?」
銭湯も時代と共に変わっていくものなんだよ、と祖父は自慢げ。
片面六個で両面十二個の欄。行書体でただ一文字『湯』と書かれた判子が一つ二つ押されたそれに苦笑いした。これ、使ってる人いるのかなあ。
そうこうしているうちにお昼。
ご飯を食べたら、一時間の昼寝を必ず取る。当方、十六時から二十四時までの営業なので、お客さんが帰ってから浴室の掃除をしてそれからようやく就寝となる。大体深夜の二時頃。なので十三時の昼寝はとても貴重な睡眠時間だ。
十四時。ボイラー室の釜に薪をセットし火をつけ、お湯を沸かし始める。十五時には、温まったそのお湯を撒くことで開店前から浴室を暖めておく。お客さんに寒い思いをさせないためだ。こうして、銭湯はお客さんを迎えるために備えるのである。
祖父が『
みょうじ湯』と書かれた紺色の暖簾を戸口にかける。最後にまた玄関口の掃き掃除をして。銭湯『
みょうじ湯』開店です。
自分たちの履物は専用の靴箱にしまい、中に入った。
番台には祖父と交代で座る。私は開店後の夕方帯と深夜帯の番頭さんになる。ただ、初日は様子見ということで、まずは祖父が番台にあがるところを見ることになった。
「まあ、
なまえはコンビニでバイトしてたもんなあ」
「うん」
「それとほとんど変わらないよ。来るお客さんも顔なじみが多いし、じいさんばあさんばっかりだからな。今更照れることもないだろ」
「うーん。たぶん」
からから笑う祖父に曖昧に頷いてみせた。そもそも番台とは、簡単に言ってしまえば見張り台のことである。
基本は、入浴料の支払いや貸し出しタオルをはじめとした販売しているお風呂グッズの会計を行う。牛乳やアイスといった飲食物もそう。いたって通常の接客業のそれと変わらない。あとはその高く設置された見張り台から脱衣所の監視をすることである。
浴場の見張りと聞くと居心地の悪さを覚える人が多いだろう。番台が脱衣所の中にある形は昔ながらの様式を引き継いでいるわけなのだが、今をときめく銭湯はそういった現代の意見を汲んで、背面に脱衣所がくるような形や完全に独立したフロントを設けているところが多い。
そもそも高度経済成長期以降、お風呂が各家庭にあるのが当然の現代。娯楽を兼ねたスーパー銭湯などの入浴施設も増え、純粋な銭湯には行ったことがないという人も多いだろう。ご新規さん獲得は目下、全国の銭湯経営者すべてに言える目標だ。
その点うちは家族経営の、しがない小さな下町銭湯。ご近所さんに愛されて何十年、といった具合で、昔ながらの番台形式に異議を唱える人はいない。銭湯『
みょうじ湯』はご贔屓にしてくださっている常連さんと共にゆっくりと現代の波に乗っていくスタイルなのである。ポイントカードも、たぶん。
さてここで少し考えどころなのが今回、私が番台に座ること。
私は幼少期のほとんどを祖母の膝の以下略なので、銭湯内を見張る感覚は覚えている。あとは裸を見るという点については結局、慣れの問題だろうなと思う。銭湯そのものを幼い頃から利用していた身としては家族以外の裸なんて見慣れたものだ。
大体、うちの銭湯の客層がオーバー六十のおじいさまおばあさま方なのだ。たまに銭湯マニアを語る人やその若い夫婦が訪れるくらいで、先ほどの祖父の言葉が全てを語っている。
ましてやこちらは仕事をしている身。あくまで監視。万が一、窃盗、盗難なんてことが起こらないように。鍵付きのロッカーに荷物は預けてもらうが、どうしても心配な貴重品があれば番台に預けることもできるしね。
「今日営業再開することは身近な人には言ってあるけど、ご近所さんには伝わってないから人も少ないだろうし、ゆっくりしてな」
「はーい」
銭湯では、一番風呂狙いのお客さんが開店待ちをしていることがある。うちにも熱心な常連さんたちがたまに並んでいたりするが、祖父がわざとかそうでないのか、ゆるりと再開したこともあって。
カラカラカラ。カラカラカラ。
壁に取り付けられた扇風機の回る音が静かに響く。
八月一日。月曜の夕方。初日はとても静かな幕開けとなった。
夏のはじまり