小さい頃の記憶の背景は、いつだって銭湯だった。
祖父母が経営する『
みょうじ湯』は、町の大通りから一本二本も外れた場所にある。ご近所さんや昔馴染みのお客さんが集まるような、小さな小さな下町銭湯。共働きの両親を持つ私の幼少期は、ほとんど番台に上がる祖母の膝の上で過ごしたように思う。
程よい熱気と、壁に取り付けられた扇風機がカラカラ回る音。昔馴染みの人たちが楽しそうに談笑し、赤い顔をしたお客さんが湯上がりの一杯に牛乳を一本買っていく。アイスを美味しそうに食べている子が羨ましくて、私も食べたいとねだるのだけど、祖母はいつも「お腹を壊すから」と言って聞いてくれなかった。
中学に入ってからは祖父母の家に行くことが減って、長期休暇や年末年始などに掃除を手伝うぐらいで、段々と銭湯には顔を出さなくなっていった。だけど、高校卒業後、大学に進み、一人暮らしの初日に狭い湯船に浸かったときほど銭湯を恋しく思ったことはなかった。
祖父母の家からほど近い大学に進学したため、一人暮らしのアパートから通えない距離でもなかったが、勉強やバイトにかまけてやっぱり年末年始にしか顔を出さない孫を、祖父母は薄情者だと拗ねた口調でせっつくのだった。
そうして父親から珍しく電話があったのは、大学二年生の夏。長期休暇が間近に迫り、試験のことも忘れて浮かれていたときだった。
『ばあちゃんが倒れた』
◆◆◆
久しぶりに外から見上げた唐破風の屋根。銭湯『
みょうじ湯』は記憶の中のものよりずいぶん小さく見えた。
まだ暖簾がかかっていない戸を開けて中に入ろうとして、裏口の方から祖父が歩いてきたのがわかった。軍手を脱ぎながら現れた祖父は私に気づいておお、と笑う。
「ずいぶん早かったな」
「昨日のうちに荷物まとめてたから」
着いてからすぐに、銭湯の裏にある祖父母の家に荷物は置いてきた。スマートフォンとメモ道具だけ持って久しぶりの
みょうじ湯との再会だ。
「悪いなあ。ばあちゃんが入院、なんてことになって」
「びっくりしたけど、大事にならなくて良かったよ。それだけで十分」
言葉足らずな父の電話にはたいそう驚いたけれど、どうやら祖母は番台にあがる際に足を滑らせ、左足の太い骨を折ってしまったらしい。手術が必要だったこともあり、一週間ほど入院。その後はリハビリテーション病棟へと移ったのだが、お見舞いに訪れた際には「早く退院したい」と愚痴をこぼしていたほどには元気であった。残念ながら二ヶ月の入院予定なのでまだまだ先だ。
「手伝ってくれてありがとうな。せっかく羽が伸ばせる夏休みに」
「いいのいいの。私
みょうじ湯大好きだし」
「年末しか顔出さないくせによく言う」
痛いところを突かれた。笑ってごまかすとしわくちゃの手に頭を小突かれた。
祖母の怪我がしっかり治るまで。ちょうど私も長期休暇に入ることもあって、とりあえずは二ヶ月間。
こうして私は大学二年生の夏、懐かしの銭湯で貴重な時間を過ごすことになったのだった。
懐かしい場所