二十一時前。番台交代の時間が近くなり、私は物置から埃をかぶって見つかった手桶と柄杓を持って
みょうじ湯の玄関前にいた。
掃除をして綺麗になった木製の手桶には、外の水道から汲んできた水がためてある。柄杓ですくってさっと撒く。打ち水である。
大きなビルがなく、街灯が少ないので光源といえば通りの家々の灯りと、近くの自販機、それから
みょうじ湯のものくらい。そのほの暗い通りをぐるりと見回した。
一通り撒いたから、そろそろ戻ろうか。エプロン置いてきちゃったから取りにいかないと。
「あ、ほら。あそこだ」
聞こえてきた声の方へ顔を向けると、二人分の影がこちらに歩いてきているところだった。背の高い影と低い影。親子かと思えば、暗闇の合間の光に当たった背の高い影の主は、ずいぶん若い人のようだった。
つばのある帽子をかぶった二十代くらいの男性。日差しがないとはいえまだまだ蒸し暑いというのに長袖長ズボン。
もう一つの低い影もあらわになる。少し長めの黒髪ストレートの少女。こちらはTシャツに半ズボンの夏らしいルック。
よくよく見れば二人とも脇にお風呂グッズの入った桶を挟んでいた。お客さんのようだ。若い人とは珍しい。
「こんばんは。ごゆっくりどうぞ」
まだ少し距離があったので、それだけ声をかけ、エプロンを取りに行くために裏の家へと向かった。
◆◆◆
番台を祖父と代わる。先程の若い二人はやはりお客さんで間違いなかったようで、ただいま入浴中。他にお客さんがいないこともあって、二人は声を張っておしゃべりをしているようだった。
当然、男湯と女湯は仕切り壁で区切られているものの、天井部分のあいた空間により会話ができる。反響して内容まではわからないものの、楽しそうな声にじんわりと笑みがこぼれる。仲がいいんだなあ。
さて、まだかかりそうだということで手に取ったのは折り紙。昨日の病室でのことが思い出されたが、振り払うように手を動かし始めれば出来上がるのは折り鶴。それをなんとなく眺めていたら、とあることを思いついた。一段低くなった足元に置いておいた紙袋を漁れば果たして底の方に目当てのものはある。
悩むよりも、自分の気持ちと向き合う方がつらかった。
手を添え。
吸い込み。
吐いた時には。
折り紙が私を凪いだ世界へ引き込んでくれた。
「わあ」
そんな声がすぐそばで聞こえてはっとする。傍を見れば、湯上がりの少女が番台の縁に手をかけ私の手元を覗き込んでいた。
「すごい。とてもきれいだ」
そう、顔を上げて私をまっすぐ見た瞳。大きなその瞳は澄んだ青色をしていた。
すべての顔のパーツが清純と並び、湯上がりで烏の濡れ羽色に輝く黒髪ストレートの女の子。ハーフ美少女である。
肩にかけたタオルでその黒髪を拭いながら、
「これ、全部折ったのか?」
「えっ、あ」
これ、と番台の縁に無造作に散らばる折り鶴を指差される。
祖母が思った以上に折り鶴を喜んでくれたので、千羽鶴を作ろうと思った。
少しだけのつもりが、気づけば手元は鶴だらけ。声をかけられるまで気づかないなんて、やってしまった……お客さんがいるのに折り紙なんか。
「──うん。千羽鶴、作ろうと思って」
「誰か病気なのか?」
「おばあちゃんが骨折で入院したの」
「もしかして、
みょうじのおばあさんの……」
「そう。孫です」
「しばらくやっていなかったのはそういうことだったのか」
どうやら前から
みょうじ湯を知っているらしい女の子は、骨折はもう大丈夫なのか、と祖母を心配してくれる。
「『早く帰りたい』って、リハビリ頑張ってるよ」
「それは良かった。なるほど、それで千羽鶴なんだな」
女の子はうんうんと納得した様子で千羽鶴の一羽をつまむ。
千羽鶴に使う鶴は、糸でお腹の部分を通して一羽一羽繋げるので膨らませず翼も広げていない。また、通常の折り紙は十五センチ四方が基本だけれど、千羽鶴用の折り紙なんかも売られていて、七.五センチと小さいサイズである。
少し背伸びして番台の縁を覗いていることに気づいて、一番最初に折った、唯一千羽鶴仕様ではない鶴を取って手渡した。はあ、とため息をついて女の子は手の中の鶴を眺める。そんなに熱い目で見られると恥ずかしい。
「すごくきれいに折られている……」
「それくらい誰にでも折れるよ」
あまりにも大げさな口調で言うので苦笑して返した。「そんなことない」と女の子はかぶりを振る。
「杉元は鶴折れるか?」
「鶴? あー、折り紙か」
女の子がすぎもと、と声をかけたのは反対側。タオルで髪を拭きながら、気づかないうちに男性が歩み寄っていたのだった。
少し驚いてその顔を見る。しんなりした黒髪をかきあげた凛々しい顔には、三本の傷が走っていたからだ。両目の下を横断するように一筋。その一筋を十字に右と左に一筋ずつ。少し鋭い瞳と湯上がりで火照った頬の間を横断するように。
番台の縁に散らばっている折り鶴を見つけた男性はどうかなあと苦笑いした。
「ずっと昔に一回か二回折ったくらいだからなあ。折り方も忘れてると思う」
「私は折り方は覚えているが、こんなにきれいに折れる自信はない。端から端まで針金が仕込んであるんじゃないかってくらいぴんと伸びて見える」
そうだねえ、なんてのんびり返す男性と女の子の関係性がすぐにはピンとこなくて思考は考察まで及ばない。何より顔の良い二人に挟まれて少したじたじだった。
「お姉さんは他にも何か折れるのか? 犬とか、猫とか、熊とか、鹿とか、リスとか」
「ちょちょ、お姉さん困ってるよ」
「い、いやそんな」
「狼とか!」
やけに動物で攻められる上にそこいくんだ?
きらきら輝く青い瞳は段々マイナーなチョイスになっていく動物たちを折れると信じてやまないようだった。
くま……くまならイケるかも!
ふたり