まっさらな一枚のそれに手を添えて、端と端を合わせるとき。白の面積がするりとなくなっていくのを見ると、記憶の中のとある光景が思い出される。
それは初めて鶴を折ったときのものだ。
背後から伸びてきて次の折り方を指し示す祖母の手と、もたもたして角をぴったり合わせないうちに次を折ってしまう私の手。当然、出来上がりを考慮しないで折られた初めての鶴はお世辞にもよくできたとは言えない出来だった。
だというのに、ただの一枚の紙が私の手で生き物の形を成したのが嬉しくて、番台の縁に目立つように飾ったのである。それを見つけたお客さんが「まあ上手だね」と褒めてくれたので、私は意気揚々と二羽目を折った。
一羽二羽であれば邪魔にならないので黙認してくれていた祖母だったが、次第に三羽四羽五羽と増え、番台の縁をあっという間に埋めた。ぐずる孫を大人しくさせるための解決策として持ち出された折り紙だったのに、逆に面倒ごとが増えてしまった祖母の心中はいかがだったろうか。それでも、褒められたのが嬉しくて見上げた先の祖母の顔は、いつだって綻んでいた。
そう。ちょうど今のように。
「
なまえは本当に折り紙が好きねえ」
記憶のものより幾分か皺の増えた祖母がそう言って、相好を崩した。
今日は水曜日。
みょうじ湯は定休日だ。いつもより簡単に銭湯内の掃除をし、祖父と私は祖母のお見舞いに病院へ来ていた。
今は病室に私と祖母だけ。祖父は担当医の人と話があるようで、さきほど部屋を出て行ったところだ。
「好きにさせたのはおばあ、ちゃん」
「そうだった?」
照れ隠しに束から二枚目を引き抜く私なんか無視して、祖母はテーブルに置かれた折り鶴を懐かしそうに眺め、「ずいぶん上手になったわね」と褒めてくれた。
小さい頃から私のそばにあったもの。すっかり癖になってしまったもの。折り紙。
ルーティーンといえば聞こえはいいだろうが、何か考え事をしたい時は手が勝手に動き出す程には染み付いたものだった。私は、折り紙が好きだった。
小学生の時、周りの友達にもてはやされた。中学生の時、仲の良い子がやたら褒めてくれた。高校生の時、みんなが夢中になるのはスマホの中のものだった。
綺麗な作品だと言われていたものは、ただの手遊びの産物と成り果て。私が人前で折り紙をすることは滅多になくなった。
簡単に言えば、折り紙は子供っぽかったのだ。
「
なまえ、あともう何羽か折ってくれない? お隣さんとか小さい子に配りたいから」
佐々木さんと、久保さん、池田さん。まーくんとなっちゃん、さらちゃん、はやとくん、かなちゃん……。
続々と上げられていく名前にわかったわかったとストップをかけた。折り紙は小さい子に大人気らしい。
まっさらな一枚のそれに手を添えて、端と端を合わせる。
白の面積がするりとなくなっていく。
「ねえ、おばあちゃん」
「んー?」
「折り紙って、子供っぽいよね」
「そうかしら」
「そうだよ」
子供っぽい。しっくりきた表現は自分で自分の心に鎖をかけたようだった。
聞いておいて決めつける私に祖母は首を傾げたあと、にっこり目尻を下げる。
「おばあちゃんだったら、こんなに綺麗に折れるんだぞって、自慢しちゃうけどな」
出来上がった鶴は、テーブルの上で凛と顔を上げていた。
折り紙