運命と踊る


「ルイン、水と濡らしたハンカチをお願いできるかな」
「はい、只今」

硬い顔をしたルインが執務室を出ていく。
友人の腕に抱かれたままの彼女が、身につけた宝石を愛おしそうに撫でる。

「このブローチは、まるで騎士様の瞳のようですね…側にいてくださるような安心感があります」
「あぁ、彼の瞳によく似ているね」

そう言って、ちらとこちらを見た友人の視線には、何かの含みを感じた。
己の瞳の色に似ているというのか。
選ぶ時には何も考えず、ただ彼女に似合うだろうかと思って直感的に選んだだけだ。
無意識に、己を想起させるものを彼女に贈ったというのか。
……待て。
それは随分と恥ずかしいことをしたのではないか。
あれを撤回して、他の物を送り直すべきでは。
変えてこようと口にしようとした瞬間、友人の左手が上げられた。
制止を意味する動きに、何も言えずに口を閉じるしかなかった。

「……それに、深い意味は無い」
「そうだね、君がクレアに似合うと思って用意したものだ。素敵だと思うよ」

今は何を言っても墓穴を掘ることになりそうだ。
それ以上は口にしないことに決めた。


己と友人が準備に奔走する間、彼女は神殿に籠ることになった。
王家の神聖な場所である神殿に、不用意に近づく輩はいないだろう。
ルインを定時連絡用に日に数度遣わせ、様子は把握している。
妹の危機に敏感な友人が穏やかに過ごしているということは、彼女に異常はないらしい。
あの歌うように心地よい声を聴くことができないのは多少物足りなさを生んだが、それも無視をしているうちに気にならなくなった。

「アレク」

普段よりも硬い声音。
執務室に灯る蝋燭の灯りが、友人の白い顔から余計に生気を失わせて見える。
緊張しているのか。
それとも、最愛の妹を戦乱の渦中に連れ出すことを後悔しているのか。
神殿に籠っていた妹は、明日の早朝に帰ってくる。
それまでに出征の支度を済ませ、彼女の身支度が整い次第、戦地に赴く予定になっている。

「頼みがあるんだ…私の唯一無二の友人に」
「俺にできることならば」
「あの子を…私の最愛の妹を、あらゆる災禍から護ってほしい。賭けの事も、あの子の想いも抜きにして、それだけを頼みたいんだ」

友人がすべてを賭けるのは、彼の妹の為だけだ。
友人は、妹に救われた。
それは己も知っている。
それが友人にとって、あらゆるものを投げ捨てて生きていた彼が、人生を捧げたいと願うほどの救済だったのだ。
彼が妹を愛するのは、神を崇拝しているようなものなのだ。
決して誰にも侵されることのない神聖な存在。
その絶対的な存在を護れと言うならば、己はそれをただ遂行するだけだ。
友人の安寧と救いの為に。

「──あぁ、必ず」
「…酷い人間だと嗤ってくれ。幾度もともに困難を乗り越えてきた友人より、無垢で愛らしい妹を優先する私を」
「お前が酷い人間なら、この世はクズばかりだな」
「ふふ、そうかもね」

ようやく笑みを溢した友人は、手に取ったグラスをこちらに傾けた。
ふっと肩の力を抜いて、悪戯めいた笑顔を向ける。

「今回の報賞は何が良いか、ちゃんと考えておくんだよ」
「気が早いな」
「当たり前のことさ。私と君がいるんだ、負けるはずがないだろう?」
「お前は随分と肝が太くなったな」
「良いお手本が側にいるからね」

戦場を目前とした夜とは思えぬ和やかな空気の中。
ここには居ない少女の姿を思い描いていた。



「ただいま戻りました」
「お帰り、クレア。道中異常は無かったかい?」
「はい、ルイン様が護衛に来てくださいましたので」

数日ぶりの再会に、友人は嬉しそうに頬を緩めて出迎える。
その腕に飛び込む彼女も、友人によく似た笑みを浮かべている。
全身にサッと目を滑らせ、外傷も乱れもないことを確認した。
彼女の一歩後ろに控えるルインに目をやれば、酷く疲れた顔を向けられた。
同行していたルインは疲弊しているらしいが、恐らく彼女の安全に細心の注意を払っていたのだろう。
国王の最愛の妹姫を護衛するというこの国において一番やりたくない仕事を押し付けているのだから、たまには労ってやらなければ気の毒かもしれない。
細やかなミスさえ許されない環境に身を置いているルインは、どんどん豪胆になっていけるだろう。
使える右腕がいて良かったと、そんなことを改めて思った。

「ルイン、支度しろ」
「はい、すぐに済ませます」

ルインを連れて、庭園に向かうことにした。
予定通りであれば、出征を待つ騎士団はそこで友人の到着を待っているはずだ。

「では、我々も支度をしようか」
「はい」
「クレア、お前の気持ちの整理も含めてゆっくりで良いからね。私はいつまでも待てるから、悔いの無いようにやりなさい」
「はい…お兄様」

信頼する侍女とともに自室に戻る妹を見送ると、友人も庭園に現れた。
緊張した面持ちの騎士団員たちに向けて友人が激励の言葉を送ると、高揚した団員たちが背を伸ばし、口々に友人を讃える。
あまり人前に出ず、元国王派に反乱分子と見なされ、これまで騎士団とも積極的に関わってはいなかったはずの友人の真価は、これなのだと思う。
線も細く、頼りなげな風貌でありながら、生まれながらの素養が、自然と他者を魅了して取り込めてしまえるのだ。
ここには、かつて友人を見下していたはずの人間しかいないのに。
既に彼らは、友人の風格に圧倒され、友人を崇拝している。
この光景に満足感を覚えるほどには、友人を誇りに思っている。

「皆様、お待たせしました」

彼女の声が庭園に響くと、友人は一瞬苦しげに顔を歪めた。
それもすぐに取り繕い、普段よりも強張った面持ちの彼女も団員たちの前に立たせる。
普段のドレスではなく、華美さや女性らしさを抑えたパンツスタイルの彼女の姿に、胸が焦がされるような気がした。
友人が贈った耳飾りと己が贈ったブローチを身につけた彼女は、己を見て寂しげに笑いかけた。
友人の一歩後ろに控えていた己も移動させられ、彼女と並べられる。

「─今回、君たちが命を預けるのはこの二人だ」

友人の唐突な言葉に、意識が引き戻された。

「私は後方に控えて戦況に合わせた指示を出す程度しかできない。しかし、この二人は君たちの最前線に立って皆を率いる。真に君たちを導くのはここに立つ二人であることを胸に刻みなさい」

こちらを見て、悲しげに笑った友人の覚悟を悟る。
もう彼女を逃がす術はない。
ならば、数多の団員たちに彼女を護らせたいのか。
慣れぬ役を演じてまで、彼女の安全が優先されることを願って。

「…君に、すべてを託すよ」
「あぁ、命に代えても」
「それはダメだよ。君は生きるんだ」
「難しい注文をするな」

笑い飛ばしてやる余裕は無かった。
彼女を護れるなら、本当に命を懸けても惜しくはないのだ。
ルインを呼び、馬の支度をさせる。
友人の手によって馬上に案内される彼女の方は見ないようにした。
これ以上心を掻き乱されるのは避けたかった。
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