第二章 十人十色
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10.体調管理
「・・・に、やって・・・」
「ユキちゃ・・・け、だよ・・・」
なんか騒がしい。
ぼんやりとした頭にガンガン響く声に眉を顰めながら寝返りをうつ。
朝っぱらから騒いでいるのは誰?五月蝿いなー。
ガンガンやまない声を遮るために布団を引っ張って頭までかぶる。
「ふふ、ユキちゃん大胆」
『!?』
私の目は一気に覚めた。
突如近くで聞こえた声に心臓が飛び出しそうになる。
「いい加減に起きろっ」
布団が剥がされて急に目の前が明るくなり目を細める。
徐々にハッキリしてくる視界。
私が震えているのは寒いからではない。
「おはよう」
『・・・・・。』
横に伊作くんが寝ていたからです。
「もう起きちゃうなんて残念」
目の前の伊作くんはそう言って私に微笑んだ。
ダメだ。寝起きの頭には衝撃が強すぎる。
「ユキ、さっさと布団からでろ」
『私が!?』
体が宙に浮いてビックリ。
『追い出す相手を間違っている!』
私を抱き上げた留三郎に断固抗議する。
ぬくぬくの布団が遠ざかっていっちゃう!
『そのセリフは伊作くんに言うべきだよ!』
「伊作に言ってもきかないからな」
・・・確かに
冷静に言う留三郎から視線を下に移すと、
伊作くんが何の悪びれもない顔で寝転がっていた。
さすが魔王、伊作
「起きたんならさっさと自分の部屋戻れ」
留三郎が私を床におろしながら言った。
「そうだ、ユキちゃん。新野先生から伝言。体調が優れないなら今日は無理しないようにって」
伊作くんの話によると新野先生は急に往診が入って早朝に外出したそうだ。
「倒れたのは貧血もあるけど、疲れのせいもあるっておっしゃってたよ」
『疲れねぇ・・・』
そういえば半助さんも疲れが溜まっている時期だって言ってたっけ。
全く自覚はないけど。
「ユキ、具合は?」
ちょっとフラフラする気もするけど、お腹が減っているせいだと思う。
朝ごはんを食べればきっと元気な私に戻る。
『すっかり元気だよ』
珍しく私を気遣ってくれる留三郎に笑顔で答える。
「無理は禁物だよ?」
心配そうに顔を曇らせてる伊作くん。
『気分悪くなったら休むから心配しないで』
「約束だよ?無理はダメだからね!」
『約束するからだいじょーーぶ』
心配してくれてありがとう。
ニコリと笑って伊作くんに頷いた私は彼らに手を振って保健室を後にした。
トテトテと冷たい廊下を歩く。
今何時だろう?どこからかイビキが聞こえてくるからまだ朝早い時刻みたいだけど・・・。
今は何時なんだろう?と思いながら歩いていると廊下にポツンときりちゃんの姿があった。
『きりちゃん』
小さい声で呼びかけると、きりちゃんはパッと私の方を振り向いてタタタッとこちらに駆けてきた。
『おはよう』
「どこ行ってたの!?」
私たちの声が重なる。
気のせいか動揺しているように見えるきりちゃん。
「目覚めたらユキさんいなくて、待っても帰ってこなくて・・・」
震えているきりちゃんの声。
いなくなって不安な気持ちにさせてしまったみたい。
『ビックリさせてごめんね』
廊下に膝をついてギュッと抱きしめる。
「ホントだよ。どこ行ってたのさ・・・」
耳元でボソボソと呟くきりちゃん。
『昨晩、長湯して気持ち悪くなっちゃってね。新野先生に診てもらって、そのまま保健室に泊まったの』
「倒れたの!?」
狭い忍術学園。
誰かに聞けば分かってしまうことだからと思って正直に話したが、私の言葉に彼は激しく動揺した様子。
弾かれるように私から体を離して私を見るきりちゃんの瞳が揺れている。
心配してくれるのは嬉しいが、これ以上私のことで顔を曇らせるきりちゃんを見たくない。
『一人で潜水大会したのが悪かったのかなぁ』
「へ?」
すっとぼけた顔で言う。
きりちゃんの表情が不安げな顔から呆れた顔に変わっていった。
「一人でそんなことしてたの?」
『うん』
「夜中に?」
『うん・・・』
「変なの」
『変だね』
にやっと口角を上げた私を見てきりちゃんが吹き出した。
笑顔が戻ってよかった。
ほっとしながら一緒になって笑う。
「安心したら眠くなっちゃったよ」
大きな欠伸をして眠そうに目を擦るきりちゃん。
「わっ!?」
『布団まで運んであげる』
「は、恥ずかしいよ」
『嫌?』
「嫌じゃないけど・・・」
『それなら、まだみんな寝てるしいいじゃない。ね?』
そう言って腕の中のきりちゃんに微笑むと、
きりちゃんは恥ずかしそうに笑みを零しながら私の首に腕を回した。
「・・・あ、そうだ。忘れないうちにいっておかなきゃ」
きりちゃんがウトウトしながら私を見上げた。
『なあに?』
「五年生の竹谷八左ヱ門先輩がユキさんを、迎えにきてね・・・ふああ」
毎朝、庭で待ち合わせをしてからモンちゃんの散歩に向かう私たち。
時間になってもこない私を迎えに来てくれたみたい。
「竹谷先輩にユキさんのこと話して、先輩、ふあぁ心配してて」
『わかった。探しに行ってみるね』
私の返事を聞いたきりちゃんはトロンとした目で微笑んだ。
可愛らしい顔に自然と顔が綻ぶ。
眠りを誘うように指できりちゃんの体をトントンと叩いていると、程なくして彼は夢の中に入っていった。
は組長屋に入る廊下を曲がり歩いていると、ガサガサと茂みを揺らして八左ヱ門くんが庭に現れた。ナイスタイミング!
私を見つけて口を開いた彼を静かに、と手で制す。
『(おはよう。ちょっと待ってて)』
「(おう)」
きりちゃんを布団に寝かせて草履を履いて庭に出る。
『お待たせ』
「おはよう」
『モンちゃんの散歩ごめんね』
「俺は大丈夫だけど、きり丸がえらく心配してたぞ」
『うん・・・心配かけちゃって・・・』
「朝っぱらからどこ行ってたんだ?」
『朝というか・・・・』
私が八左ヱ門くんに昨日お風呂で倒れたことを話すと、彼は心配そうに眉を寄せた。
「今日は部屋で大人しくしてたほうがいいんじゃないか?」
『疲れてる自覚ないよ。昨日は貧血気味だったからのぼせただけだと思うし』
「・・・無理すんなよ」
『うん。ありがと』
色々な人に心配をかけて反省すべきところなのだけど、気にかけてもらえるのが嬉しくて私の顔はどうしても緩んでいってしまう。
「何笑ってんだ?」
『わ、笑ってないよ。それより朝ごはん行こうよ』
「おうっ(よかった、意外と元気そうだ)」
誰かに「倒れたけど平気?」と聞かれた時にニヤニヤしては外聞が悪い。
私は表情を引き締めて食堂へと走り出した。
「っ待て!寝巻きのまま行く気なのか!?」
『あ・・・・』
やれやれと言ったように笑う八左ヱ門くん。
表情だけでなく心の方も引き締めが必要なようだ。
***
『校内回ってきまーす』
「気をつけてね~」
もうすぐ皐月。
花の落ちた桜からは青い若葉が生えて太陽の光に輝いている。
『猫ちゃん!』
見回りという名の散歩をしていた私の目に一匹の猫が映る。
小さな三毛猫の子猫。
枝を行ったり来たりする子猫はどうやら木から降りられなくなってしまった様子。
『猫助けだニャー』
ふざけた語尾をつけながら木に登っていく。
小さい頃から柿やビワの木に登ってたから木登りは得意なんだよね。
足袋で登りにくかったが私は子猫がいる枝まで登ってこられた。
『ほら、こっちおいで』
猫の鳴き声を真似しながら呼びかけると子猫は警戒しながらも私のところに来てくれた。
手の届くところまであと少し。
『あっ』
子猫は伸ばした私の腕の上をタタッと駆けて反対側に生えていた枝を通って塀に飛び移り、あっと言う間に姿を消してしまった。
せっかく登ったのに拍子抜け。
『無事ならいいけどね』
子猫ちゃんと戯れたかったのに残念。
ハァと軽く息を吐き出し、少々虚しい気持ちになりながら木から下りるために足場を探す。
まずい
船に乗っているかのようにグラリと視界が揺れて手に力を入れる。
ズルっと木から滑り片足が空中に投げ出される。
全身からどっと汗が噴き出し、心臓が早鐘を打つ。
目眩がおさまらない。気持ち悪い。
しかも目の前が一瞬暗くなった。このままだと危ない。
早く下に降りよう。
脂汗をかきながら震える手足で下に降りていく。
『ン・・・』
真っ暗になった視界。
薄れていく意識の中、しがみつこうと木に爪を立てた。
なんか騒がしい。
「ユキちゃ・・・け、だよ・・・」
朝と同じだな、と思いながら目を開けると、
いたのは朝と同じく伊作くん。
真横ではなく今度は私を覗き込んでいる。
『伊作、くん・・・』
「気がついたかい?」
ぼんやりとした視界に映る伊作くんの顔が青い。
『顔色悪いよ』
「人の心配してる場合じゃないよ、もう」
伊作くんはそう言って、気持ちを落ち着けるように長く息を吐き出した。
「どこが痛む?」
『腕、かな・・・』
「頭は?」
『打ってないみたい』
私の答えに伊作くんの表情が少しだけ柔らいだ。
「医務室に―――」
『少しこのままでもいい?グラグラする』
「わかった」
『ありがとう』
体に力が入らない。息を吐いて瞳を閉じる。
伊作くんが慎重な手つきで私の顔にかかる髪を払い落としてくれた。
『周りの人の言葉を聞かないとダメね』
目を瞑ったまま言うと、大きな手が私の頭を撫でた。
「そうしてくれると安心するよ」
『ごめん・・・』
自己嫌悪の波が襲う。
情けなくて涙が滲む。
目を閉じていたのに涙が目尻から零れしまい、頬を伝って流れ落ちていく。
『私って馬鹿』
「そんなことない。今は少し心も体も疲れてるだけさ」
優しい伊作くんの言葉に涙を我慢することが出来ず、次から次へと涙を零してしまう。
泣き顔を見られたくなくて両手で顔を覆おうとしたが、伊作くんが私を優しく制した。
「顔に血がついちゃう」
困ったように言う彼から自分の掌に視線を移すと掌にいくつも縦に入った傷から血が出ていた。
「消毒と包帯を巻こう」
伊作くんは竹筒に入っていた水で私の傷口を洗い、傷薬を塗り、包帯を巻いてくれた。
『手際いいね』
「そんなに見られると緊張しちゃうよ」
『伊作くんが保健委員みたいに見える・・・・痛ッたあぁ』
包帯をキツく巻かれて口から悲鳴が漏れる。
「冗談が言えるってことは保健室に移動しても大丈夫かな?」
容赦ないな、この人。
私は黒い微笑みの前で、首振り人形のようにコクコクと頭を上下に振った。
「気分が悪くなったら休憩するから言うんだよ」
『はーい。お願いします』
素直に返事をすると伊作くんは優しく微笑んで私を保健室に運んでくれた。
昨日と同じ場所に布団を敷いてくれた伊作くん。
優しい時は本当に優しいよね。この優しさが一生続けばいいのに。
「ユキちゃん、服脱いで」
くるりと振り向いた伊作くんが言った。
褒めたそばから魔王復活だなんてユキさんは悲しいよ!
「頭は大丈夫だったみたいだけど、腕と背中、痛むんでしょ?」
嘆き悲しんでいると伊作くんが言った。
腕と背中?目を瞬いてぐいっと体をひねってみる。
『ッ!?』
ズキンッと痛みが体に走り声にならない悲鳴をあげながらうずくまる。
『気付かなかった・・・』
「気づいてなかったんだ・・・」
伊作くんが可哀想なものを見る目をして苦笑した。
「湿布を用意するから服脱いでね」
失礼なこと思ってすみません。
棚から薬品を出す伊作くん。
ハッカのような香りが医務室に漂い始める。
今の伊作くんはお医者さん。
変に恥ずかしがるのもおかしいと思い、私は男らしく(もちろん上衣を持って前は隠すけど)服を脱ぐ。
ブラだけって寒ッ。
首を回して鳥肌の立つ右腕を見ると青黒い痣。
うわー酷い。痛みに気付かなかった自分の神経を疑うよ。
トン トン コロコロコロ――――
首を回して後ろを見るとコロコロと包帯が転がってきた。
トントンコロコロ、伊作くんの手から次々と包帯が落ちてくる。
『痛っ』
包帯に手を伸ばした瞬間ビリっと痛み。
また怪我してるの忘れてた。
そういえば、たしか来たばっかりの時も保健室でこんなことあったっけ。
ふと思い出し、思わずクスリと笑ってしまう。
『ちょうど一ヶ月前にも伊作くんに無理は禁物だよって言われ・・・伊作くん?』
包帯を渡そうと顔を上げると、伊作くんは目を見開いて固まっていた。
私に名前を呼ばれてハッと我に返った伊作くん。
「ご、ごめん。すぐに湿布するね」
私のそばに来て、後ろ向いてくれるかな?と言う伊作くんの顔は真っ赤。
恥ずかしそうに私から意識的に視線を逸らす彼を見て、伊作くんに意識されていることが分かり、私も急に恥ずかしくなる。
「あの、これ外してもいいかな?」
震える伊作くんの声。ブラが邪魔みたい。
私も緊張で上手く声を出すことができず、首を縦にブンブンと振るので精一杯。
「失礼します」
『――っ!』
「ご、ごめんね!」
『う、ううん。気にしないで』
伊作くんの指が背中に触れて体がビクリと反射してしまう。
緊張して自分の呼吸音が、唾を飲み込む音がやたらと大きく聞こえる。
「痛かったら言ってね」
『ハイ!』
必要以上に大きい声を出してしまった私は赤い顔をさらに赤くさせた。
伊作くんったらいつもの魔王っぷりはどこに行ったのよ!
本気で照れる彼にどう接したらいいか分からない。
「終わりました」
『ありがとうございました』
ぎこちなく言葉を交わす私たち。
伊作くんは震える指でブラのホックを留めてくれた。
彼に気づかれないようにそっと息を吐き出す。
あー緊張した。これで普通に会話できるよ。
よかった、よかったとホッとする私の前に影。
振り向けば背中からこちらに倒れてくる伊作くん。
「わあっ」
『危ない!』
立ち上がって彼の背中を押し戻そうとした私は力加減を間違えた。
タックルに近いような勢いで伊作くんの背中に突進してしまった。
『痛た―――あ』
目を開けるとすぐ近くに伊作くんの顔。
勢い余って伊作くんを押し倒してしまったみたい。
私たちの顔は火が付いたようにボっと赤くなる。
しかも私たちの間に漂う何とも言えないこの空気――――
「ユキちゃん・・・」
『伊作、くん―――っ!』
そっと頬に触れられ体が跳ねる。
伊作くんの瞳には優しい輝き
ゆっくりと私の首に回る伊作くんの大きな手
もしかして、この感じは、もしかしなくてもキス!?
近づく伊作くんの顔。恥ずかしさで目を開けていられなくなり、ギュッと目を瞑る。
耳に響く軽快なスパンッという音。
え・・・・スパンッ?チュッじゃなくて??
スーーと横から吹き付ける風
「失礼します!新野先生、し、失礼しました!!」
スパンッと戸を閉めたのは真っ赤な顔の二年生、川西左近くん。
大変なものを見られてしまった・・・。
誤解を解きに行きましょう。大至急で!
精神的なダメージでよろめきながら立ち上がる。
「行っちゃうの?」
左近くんを追いかけようと戸に向かう私は振り返る。
『誤解を解きに行かないと』
寝転んだまま不満そうな顔を向ける伊作くんに私はふっと笑う。
「誤解されたままでいいんじゃないかな?」
『よくないよ』
この感じ。伊作くんはいつもの腹黒大魔王に戻ったみたい。
「ユキさんが善法寺伊作先輩を襲ってたああぁぁぁ」
『オオォォイ!どうしてそうなったッ!?』
戸を開けた瞬間聞こえた左近くんの叫び声。
伊作くんがプッと吹き出した。
『だ、誰かに聞かれたら誤解の無いように答えね』
「もちろん!ありのまま話すよ」
『・・・(不安だ)』
いってらっしゃい、と笑顔の伊作くんに見送られながら保健室を飛び出す。
「ユキちゃ~ん、上衣着なくていいの?」
数秒後、私は真っ赤な顔で保健室に戻ることになった。
***
『疲れたー』
自室に戻って布団に倒れる。
瞬く間に広がった私がお風呂で気絶したという噂。
しかし、この噂は私が伊作くんを保健室で襲ったという噂で黒く塗りつぶされ、広がったのと同じ速度で皆の頭から消去された。
楽しそうに噂に火つける伊作くんのせいで私がどれだけ大変な目にあったか・・・。
特に仙蔵くんとか、仙蔵くんとか、仙蔵くんとか大変だったよ!
枕に顔を埋めて大きくため息をついていると戸を叩く音。
今日泊まりに来る三治郎くんかな?
ススッと戸を開ける。
『いらっしゃい。あ、きりちゃん?』
廊下に立っていたのは枕を持ったきりちゃんだった。
『三治郎くんは?』
「無理言って順番変えてもらったんだ」
『そうなの・・・』
どうしたのかな?
枕をギュッと握り締めるきりちゃんに目を瞬く。
『さあ、おいで』
にこっと笑って中へと誘うときりちゃんは枕をポンと投げ出して私に抱きついた。
きりちゃんの重さにグラリと揺れながら受け止める。
『どうしたの?』
私はしゃがんできりちゃんを抱きしめた。
押し殺した声で泣いている。
『きりちゃん、ヨシヨシ。大丈夫よ』
あやすように背中をゆっくり叩くと、胸の中のきりちゃんは何度も頷いた。
寝巻きが冷たくなるほど涙を流し続けるきりちゃん。
「どこにもいかないで・・・」
小さな声。
「ユキさんがいなくなったら・・うぅ、イヤだよ。
そばに・・ヒック、いて。いなくならない、でよ。お、お願い、だから・・」
きりちゃんの頭を撫でていた手が止まる。
私の目にも涙が溢れてきた。
『行かないよ。どこにも行かない』
嬉しさに胸が優しく痛む。
たった一ヶ月。されど一ヶ月。
この世界に来て初めて会った、この世界の人。
事務員が生徒を贔屓してはいけない。
でも、私の中できりちゃんは特別だった。
『どこにも行ったりしないって約束する』
きりちゃんの顔を両手で包み、頬を伝う涙を拭う。
「約、そく?」
つっかえながら言うきりちゃんに優しく頷く。
『えぇ、約束―――おっと』
「ユキさん、大好き」
『私も。きりちゃんが好き』
再び胸に飛び込んで来たきりちゃんを抱きしめる。
そして暫く強く抱きしめてから、私はきりちゃんを抱いたまま立ち上がった。
『回しちゃえっ!』
「わあっ」
湿っぽさを吹き飛ばすようにきりちゃんを高く持ち上げてクルクル回る。
驚いた顔の彼に笑いかけると、彼の表情も崩れていく。
「ユキさん」
『なあに?』
「エヘヘ、何でもない!」
布団の中で笑みを零すきりちゃん。
彼のためにも自分を大切にしよう。
小さな体を抱きしめながら、そう思った。