第五章 急がば走れ
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5.心のまま
私はきりちゃん、半助さん、与四郎くんと共に忍術学園へと向かっていた。
『アルバイト断ってもらうことになって、ごめんね、きりちゃん。信用問題にならないかしら?』
「大丈夫。ちゃんと話したら全然嫌な顔されなかった。日頃の俺の行いのおかげだよね!」
「なんと言って断りを入れたんだい?」
「母さんに付き添って医者に行きたいって言ったんだ」
「上出来だ」
半助さんはよくやったと頷いた。
嘘までついてついてきてもらって申し訳ない。その上、提供できる情報がこれっぽっちも役に立たないものであったらどうしよう。与四郎くんにもわざわざ足を運んでもらっているし・・・どうにかあの本から役に立つ情報を探さねば。
期待させてしまっていることへのプレッシャーで胃の腑が痛くなってきてしまう。
「皆さん、お久しぶりで~す」
癒しの天使小松田さんが潜り戸から顔を出した。
『お疲れ様です』
「錫高野与四郎くんも来たんだね!皆ぞくぞくと忍術学園に集まってきているよ」
『ぞくぞく?』
私は入門表に名前を記入しながら首を傾げた。
「土井先生の文の内容が先生方に伝わったんだ。それで、帰ってこられる先生は忍術学園に戻ってきたんだよ」
『なんですって!?』
艶本の為に夏休みを中断してきたですと!?
私は気が遠くなるような気がして空を仰いだ。
胃が・・・胃が・・・
「上級生も何人か集まったよ」
胃が・・・胃が・・・・・
「ユキちゃん大丈夫?」
白目を剝く私の目の前で小松田さんが手を振った。
『はっ!大丈夫です。それより、お仕事の引継ぎお願いします』
「うん!」
『皆さん、後で会いましょう』
私は三人と別れて小松田さんと事務室へ。夏休み前半、特に大きな事件もなかったとのことで、事務的な連絡だけで済んだ。
私の仕事は明日から。
そして本について話すのは今夜だ。
事務室を出た私は足早に自分の部屋へと向かっていた。部屋をスパンと開けて元居た世界から持ってきた荷物を引っ張り出し、シンプルな群青色の布製ブックカバーのかかった本を手に取った。
”幕末花乱れ~めくるめく夜に寄せて~“
あぁ、こんなに必死の形相でロマンス小説を読む羽目になるとは。
軍備と言わず生活の知恵だっていい。取り敢えず無駄足を踏ませないために役立つ情報を見つけなくては!
私は目を血走らせながらロマンス小説を読み始めたのだった。
『疲れた・・・。全然読んでいて楽しくなかった』
注釈まで読み終え、ぷしゅーと力尽きた私は床に転がった。夕食を食べ逃してしまっている時間帯になっている。外は暗い。
「ユキ、そろそろいいかい?」
まるでタイミングを見計らったかのように半助さんから声がかかった。
『行きます』
ヨロヨロと立ち上がって廊下へと出る。
「疲れた顔をしている」
『プレッシャーが』
「みんなユキの世界の話を聞きたいだけなんだ。気軽に考えてくれていい」
『そうは思えないですけど』
与四郎くんの知識欲に満ちた瞳を思い出しながら言う。
『半助さんだって期待しているでしょう?』
「ある程度はね。でも、それよりも未知の話について聞けるのが嬉しい。楽しみだ。思えば今までユキについては各々の判断に任せると言われただけだったんだ」
『各々の判断とは・・・私の素性について、聞きたければ聞き、調べたければ調べればよい、ということですか?』
「そうなるね」
『私、人知れず観察されていたんですね』
「申し訳ない」
『いいんです。全くもって気が付かなかったんですからなかったのと同じですよ』
忍術学園に来てから、私は特に怪しい人間だと問い詰められることはなかった。冷たく接せられることもなかったし、怖い思いもしたことはない。先生も生徒も良い人たちで、私は楽しく生活させてもらっていた。
だからと言って、『異世界から来ました!』「ようこそ!忍術学園へ!」とはいかなかっただろう。彼らは忍者らしく私をこっそり調べていたわけだ。握り拳を作った手がフルフルと震える。
『ま、まるで重要人物みたい!』
「は?」
物語でいったらミステリアスなキーパーソンの立ち位置だ。周りを翻弄し、秘密を纏ってセクシーに歩き去って行く美しい女性を想像して胸がトキメク。あの時知っていたら悪い女ぶれたのに!素が知れている今では遅い。
そうこうしている間に話をする場の食堂へとやってきたのだが、食堂に足を一歩踏み入れた私は顔を引き攣らせていた。
思ったより人がいる・・・!
先生方は山田先生、半助さん、斜堂先生、野村先生、厚木先生。生徒は仙蔵くん、小平太くん、留三郎、兵助くん、三郎くん(たぶん。でも態度が三郎くんだ)。雅之助さんに利吉さんまでいる。
「ユキ、俺の隣来るだーよ」
私は与四郎くんと仙蔵くんの隣に座らせてもらうことになった。因みにきりちゃんはお部屋で内職をしている。
「雪野くん。学園長先生から文を預かっている」
『忍術学園にいらっしゃらないのですか?』
「お茶友達と避暑に行かれた」
山田先生から受け取った学園長先生からの文を開いた私は目を点にした。
「なんて書いてあったんだ?」
手紙を開いて持ち、小平太くんに見せる。
“おぬしの思うままにして宜しい”
『ふうむ』
喋りたければ喋り、喋りたくなければ喋らなくても良いということか。なるほど。従いましょう。学園長命令に従い、なんとしても艶本であることは秘密だ。
「それでは早速だが、雪野くんに話をしてもらおうと思います。まずは半助が文をくれた硝石の作り方について」
私は山田先生の言葉に『はい』と頷いてほんのページを捲った。
*注釈21
江戸時代に火薬の原料となる人尿、蚕糞、野草(ヨモギ等)などを原料とし、土壌微生物の――――
『使っている土は、この小説ですと麻畑土』
時々混ぜ直して十分に腐敗した糞尿を・・・
『匂いも酷く、三年から五年もかかるようですよ』
私は話し終えて息をついた。
「なるほど・・・とても有益な情報だった」
山田先生は筆を動かし終えて私の顔を見た。
「ところで、雪野くん」
『はい』
「ど~~~して今まで教えてくれなかったのよっ」
山田先生がまったくもう、と言うようにガックリと頭を落とした。
『これに忍者な皆さんの興味を引くものがあったとは思い出せなくて』
「その本なんだ?」
三郎くんが聞いた。
『時代小説』
「どんな『他に皆さんのご興味を引きそうなものはですね』
私は三郎くんの声を遮って付箋が貼ってある箇所を開いた。
『この世界は私がいた世界の過去ではありません。でも、この世界の雰囲気からすると、三百年後にはこういった銃が出回りました』
なんてロマンス小説なんだ。この本には銃の図が書かれていた。作者の想像力を刺激するためだろう。幕末志士となった主人公はこの銀色に光るリボルバー拳銃でヒロインのピンチを救うのだ。
「この本を見ても?」
『ダメです』
野村先生に即座に言った。
「ハハハ。野村、振られてやんの」
豪快に雅之助さんが笑う。
『これは重大な個人情報が含まれております』
「この本ってユキの事が書いてあるのか」
『留三郎・・・違うけど・・・』
「じゃあ見せろよ」
『やだ』
「はあぁ。いいか、ユキ」
どうやら留三郎は私にお説教をするようだ。
『なによ』
「まず初めに言っておく。俺たちはお前という人間を疑っているわけじゃあない。だけどな、自分がここに来た経緯を考えてみてくれ。異世界からやってきて、その謎は今も残されたまま」
『私を怪しげな人間だと』
「敵の間者や妖術師じゃないことは分かっている。お前は・・・その・・・「馬鹿だ」そう、馬鹿だ。って違う!三郎!俺は濁す言葉を探していたんだッ」
ガターンと立ち上がる留三郎の横で三郎くんがケタケタ笑っている。留三郎がはっきりみんなの気持ちを代弁してくれた(勿論私が馬鹿だということではなく)のは有難かったし、三郎くんが空気を明るくしてくれたのも嬉しかった。
私は本を手に持ち、覚悟を決める。
『折角お集まり頂いたのにご要求に答えられず申し訳ありません。皆さんがこの本に大きな興味を持っていらっしゃることは分かります。でも、これを皆さんの手に委ねることはできませんってあああああああ!!』
仙蔵くんが私の演説中に私の手から本を引っ手繰った。
『返して!』
「ユキの癖にまどろっこしい!」
『いややあああああそれ見られたら出家するううううぅ』
「どういうことなのだ?」
そういう兵助くんは面白そうに自分の席から離れてこちらへとやってきた。他、留三郎、小平太くん、三郎くん、与四郎くんも同じく。
『先生たち止めて下さいよ!利吉さんも傍観決め込んでないで!』
「この騒動の先に何があるのか知りたいからね」
利吉さんがニッコリと笑った。
私の恥しかないわ!
と、兎に角、ページを開かれる前に手を打たなくては。いくら私のいた世界とこの世界とで文字が違うとはいえ、読める漢字もあるだろう。先ほどの留三郎ではないが、最悪の事態を回避して、濁した形で終わらせたい。
『わかった!』
みんなの動きがピタリと止まった。
私はハーハーと上がる息を整え、食いしばる歯の間から小さーい、小さーーい声で早口に『山本シナ先生になら全てお見せできます』と言った。
「あっ・・・」という厚着先生の声を皮切りに、残念そうな視線、思い切りこちらから顔を背ける者、申し訳なさそうな顔が並んだ。
痛い沈黙。
「細かいことは気にするな!ガハハ」
『気にするわ!』
「どっこんじょーーーー!!」
『もはやカオスッ』
「どれどれ濡れ場はどこだ?」
『三郎くん止めてッ。君たちは私の話を聞いてなかったのかな!?』
先ほどよりも興味津々な顔をしてページを捲っている忍たまと与四郎くん。本に群がるその様子は隠れてエロ本を楽しむ思春期男子のようって、それはロマンス小説だし私の本だよコンチクショウ。
もはや私の手を離れてしまい取り返す気力もない。手遅れである。
『出家したい。割と本気で』
「それはよして下さい。私が困ります」
利吉さんがやってきて、私を立ち上がらせた。そして手を引いて、喧騒と離れたテーブルの一番端まで連れてくる。
「子供たちは放っておいて。大人だけで話しましょう」
私は肩に手を置かれて椅子に座らせられた。
「ね?」
『ははは・・・はい。ありがとうございます』
いつの間にか私の恥ずかしい時間を終わりにして元の話へとスマートに戻した利吉さんに感謝。
『そうだ。ファイアーピストンの話をしても?――――――
ファイアーピストンは空気を圧縮して火種を作ることが出来る東南アジアを中心に使われていた発火道具。原理は簡単で手先の器用な忍者さんたちなら作ることも出来るだろう。
『これくらいしか・・・あとはあの本を音読すれば何か出てくるかもしれませんが・・・折角お集まりいただいたのに役立つ情報を提供できず・・・』
「何を言っているんだ。今教えてくれた情報は取扱いに十分注意が必要なほどの重大な情報だよ」
半助さんが眉を下げた。
「ユキさん。お分かりかとは思いますが決してこの話を他言してはいけませんよ」
『分かりました、斜堂先生』
「今日は疲れただろう。休むといい」
山田先生のお言葉に甘えて私は休むことにした。
私のロマンス小説はそのままに(私は色々なものを諦めた)暗い廊下を歩いていくと、地面に石がトンストトンと転がってきた。闇に目を凝らしてみる。何も見えない。
だが、呼ばれているような気がした。
ペンライトを照らし、足元に気を付けて進んでいくと小さな声で名前が呼ばれる。
「ユキ」
『尊奈門くん!』
塀の上にいる忍者服を着た尊奈門くんが顔の覆いを下げてニコニコと手を振った。
『久しぶりだね』
「明日から忍術学園で勤務だって知ったから会うなら今日かなと思ってさ」
『どうして私の勤務日知っているの?』
「だって忍者だもの」
『さっすが。ねえ、忍者さん。塀によじ登るのを手伝ってもらえる?』
「もちろん。今日は縄梯子を持ってきたからそれを使うといい」
私はたらしてもらった縄梯子を使って塀へとのぼり、尊奈門くんの横に腰かけた。
「元気だった?」
『うん。凄く元気。尊奈門くんは?』
「元気にやっているよ」
『怪我とかしていない?』
「大丈夫。心配してくれてありがとう。ここから移動して小屋へ行く?虫よけは焚いておいたんだけど。ここは・・・虫がくるだろう?」
『久しぶりに会ったから落ち着いて話したいんだけど・・・』
「?」
『実は、忍術学園の者として、タコヤキトリ城の人と会うのは良くないとご指摘を頂きまして』
「タソガレドキだよ、ユキっ」
まったくもう、と尊奈門くんが肩を落とした。
『あ!そっか!あぁ、何回聞いても間違えてしまう』
「しかし、そっか。それは困ったね。ユキを困らせてしまうのは僕としてもしたくない。どうしよう」
『本当にどうしよう。尊奈門くんと会えなくなるの寂しい』
「~~~ユキっ!ありが―――――ッ!!」
カンッ
金属音が近くで弾けた。
『うわっ。誰?』
私はペンライトを地面に向ける。誰もいない。後ろで風を感じた。
「ユキ、その人が例の忍者かい?」
後ろに立っている半助さんは夜の闇のせいで顔が良く見えない。しかし、背筋が凍るような声から怒っていることは分かった。当然だ。もう会わないようにと言われていた約束を破ったのだから。
『怒らないで下さい。友達と突然理由を告げずに縁を立つ何てことできませんよ』
私は尊奈門くんの身の危険を感じて、彼を庇うように尊奈門くんに背を向けた。
「そうか」
何がそうかなのかは分からなかったが、半助さんは怒りのボルテージを更に上げたようだった。夏なのにアラスカにいるように体が寒い。アラスカ行ったことないけど。
「前にお願いしただろう?私とそのタコヤキトリ城の忍者を引き合わせて欲しいと」
『あ、はい、えっと、その、実は私の覚え間違えでタコヤキトリ城ではなくタソガレドキ城の忍者さんだと判明しました』
「タソガレドキだと?」
ちゃっちゃら~♪
半助さんの装備【氷点下の冷たさ】に加えて【剣呑さ】もプラスされた。怖っ。
『学園長先生から忍術学園とタソガレドキ城は友好も敵対もしていない城と聞いていましたので今まで仲良くしてきたのですが』
「そうだね。だがあの城は油断ならない。君、名前は?」
「人に名前を聞くなら自分から名乗るべきだろう?」
尊奈門くんがムッとしたように言った。
「いいだろう。私は土井半助だ」
「・・・諸泉尊奈門」
「では、諸泉くん。ハッキリ言わせてもらおう。二度とユキと忍術学園に近づくな」
『そ、そんな言い方!』
私の二の腕がガっと半助さんによって掴まれ、ぐっと痛いくらいの力で持ち上げられる。立ち上がらされた私は不安定な塀の上でよろけそうになるが、直ぐに力強い腕で抱きしめられた。今私は半助さんの左手一本で彼に抱きしめられている。
「ユキは嫌がっているようだが?」
「彼女はただ分かっていないだけだ」
「ユキを馬鹿にしているのだったら許さないぞ?」
「許さない?ユキを騙し、利用しているのはどこの誰だい?」
「っ!そんなことしていない!」
「言い切れるか?」
「っ・・・」
尊奈門くんは黙り込んでしまった。
『あ・・・やっぱり私の事を色々お城の同僚とかに話していたんだね』
「ごめん・・・」
『馬鹿にされなかった?』
「へっ・・・!?」
尊奈門くんから間の抜けた声が上がったので私はクスクス笑ってしまう。
「ユキ・・・?」
『ごめん。可愛い声を上げるものだから』
「ユキ!」
『あはは』
私と尊奈門くんの間の空気は緩やかになった。後ろの氷点下な人は相変わらずですが。
「誰も笑いもしなかったし、怒りもしなかった。でも、何を考えているかも・・・」
『そうなんだ』
微妙なところだな。
「そこの土井半助が言うことも分かるよ。でも・・・もう会えなくなるなんて・・・」
『尊奈門くん・・・』
尊奈門くんの方へ向かおうとした体はぐっと半助さんによって止められた。
「諦めろ、諸泉尊奈門。ユキの為だ」
「――っ」
沈黙が流れ、私も何も言えないまま、尊奈門くんが息を吐き出す。
「分かった」
『尊奈門くん・・・』
「いいんだよ。ユキの事を思えばこそそうしないとね。だけど、会えなくても僕たちの関係は変わらないだろう?」
『もちろんだよ!』
「それならいいんだ。お互い想いあっていれば、ね」
尊奈門くんは表情を柔らかくして、私の好きな優しい笑顔を向けてくれた。
「最後に握手してくれるかい?」
『うん!』
私を抱く腕の力が強まった。
『半助さんっ』
躊躇いがちに下ろされた手。私は慎重に尊奈門くんに近づく。
『おわっと』
「危ない!」
瓦に足を取られて前へと倒れていく私の体は尊奈門くんに受け止められた。
「最後までそそっかしいんだから」
『ごめん』
「でも、こうして最後に抱きしめられて良かった」
『寂しくなるね。お仕事大変だと思うけど、体に気を付けて元気に過ごしてね』
「ありがとう。ユキも元気で」
尊奈門くんの手が名残惜しそうに離れて、彼はシュッと一瞬で闇の中に消えていった。
友情の終わりはこんなにあっさりしたもの――――いいや、会えなくなっても友情は一生だ。
瀕死の尊奈門くんを背負ってきりちゃんと山を下りたことは忘れないし、酒豪選手権大会で再会したあの喜びも覚えている。一緒に蛍を見て、沢山語り合った。私たちはずっと友達だ。
ふう、と息を吐いた私ははたと自分が屋根の上に立っていることに気が付いた。急に怖くなってゆっくりとしゃがむ。
さて、帰ろう。
今夜は尊奈門くんのことばかり考えるだろうなと思いながら私は半助さんを見上げる。
暗闇で脚しか見えないその人は何を考えているのだろうか?
当然怒っている・・・よね?
与四郎くんにはもう会うなと言われていた人に会ったのだもの。半助さんも良い顔はしていなかった。
それでも、こうしても最後に一目だけ会いたかった。
でもそれが、忍者から見ればとても愚かな行いなのだろう。
せめて・・・二度と繰り返さないようにしよう。
『反省します』
多くを言う必要はないだろう。お互い分かっている。
私は既に闇に溶けてしまっている半助さんに小さい声で『おやすみなさい』を言って空中に足を投げた。今は半助さんの助けは見込めないだろう。私はえいっと両手を押して空中に飛び出した。
『痛っ』
捻ってはいないが、右足に負荷がかかった。とはいえ、酷く痛めてはいないし、この気まずい場からさっさと立ち去ろうと思い歩いていると、後ろから諦めたような溜息が聞こえてきた。
「待ちなさい」
その声は怒ってはいなかった。廊下で生徒に呼びかけるような声だ。
振り返って闇を見つめていると、急に体が浮き上がる。
『わっ』
「私はどうすれば良かったんだ?」
そう言いながら半助さんはずんずんと忍術学園に向けて歩き出した。
「止めるべきだったのか?」
喜八郎くんの罠があるのか半助さんは飛んだ。
「諸泉尊奈門と戦うべきだったか?」
私を抱く手に力を込めた。
「あれで正解だったのか?」
独り言は続く。
「この苛々は何処にぶつければいい?」
いよいよ私の存在を忘れたようだ。
そして半助さんは――――
「うわっ」
穴へと落ちた。私を抱いて。
「ユキ!」
半助さんは私を抱いていたことを忘れていなかったようだ。
「重いですよね?どこも痛めませんでしたか?」
半助さんの上からどけようにも穴が小さくて身動きが取れない。
『ご迷惑を。本当に、色々と・・・』
「いや、いいんだ。私こそうっかりしてしまった」
私は体を抱き上げられて、落ち着く場所へ収められた。
半助さんの胸につく頬。大きく息を吐き出すたびに半助さんの胸は上下した。
「いいんだよ」
半助さんは優しく私の背中を叩いた。
「ユキは自分がいけなかったところを良く分かっているね。私が言わなくても十分わかっているだろう。だから、そのことはもういいんだ。だから―――今、私がこうなっているのは私の問題なんだ」
『ごめんなさい。理解が出来ておらず』
「だろうね」
『酷いなぁ』
むくれる私の機嫌を取るように私の背中に回されていた手でトントンと叩かれる。まるで子ども扱いじゃないのよ、もう。
この状況だが、私は特にドキドキしていなかった。
夏の、穴の中で、半助さんに抱きしめられている。
この理解しがたい状況が逆に私を冷静にさせているのだろう。
『半助さんが何を考えているか聞いても無駄ですか?』
「無駄だよ」
『私たちはいつ穴の外に出られますか?』
「私の気が済んだら、かな」
『え~』
「いいじゃないか。さっきは十分に堪えたんだ」
『そのさっきの半助さんの心情が理解できないのですが』
「ここまできたら意地でも言わない」
『あぁ、暑いし、泥だらけだし、考え過ぎて、もう何が何だか』
「ここで寝てしまおうか」
『いいかもしれませんね』
なんか今日は頭を使い過ぎて疲れた気がする。
思考力が低下しすぎて土だらけになりながら穴の中で寝るという半助さんの提案が最高のアイデアだと思えてきた時だった。体に何かが当たった。
「なーにを言っておるんじゃ」
上を見上げると松明の明るい光が目に染みて私は目を細くした。雅之助さんが縄梯子を下ろしてくれたところだったみたい。
「やっと見つけただーよ」
与四郎くんが手を振る。
「塹壕掘りながら一緒にするぞ!どんどーん!」
「ユキ!曲者はどこだ!?俺と勝負しろ!曲者ー!」
「穴の中で逢引きとは趣味が悪いですよ、土井先生」
小平太くん、留三郎、仙蔵くんが穴の縁から顔を出す。
「お前ってやつは本当に、はあぁ。お人よし」
「忍者にはないその純真さが俺は好きなのだ」
三郎くんと兵助くんも顔を出す。
「さあユキさん、上がっていらっしゃい。そこは先ほどの所よりも危険ですから」
利吉さんが私に手を伸ばす。
『半助さん、体勢的に二、三回体を踏ませてもらいますが宜しいですかね?』
「私がユキを抱いて上ればそうならずに済む」
『お!?』
ぐいっと体が持ち上がる。
『流石に無理ですよ!』
「さすがに無理か」
立ち上がって向かい合う私たち。半助さんが肩を竦めた。
「先に行ってくれ、落ちてもいいように見ておくから」
『ありがとうございます』
縄梯子を上って行けば利吉さん。差し伸べられていた手を取れば力強く体が引き上げられる。
「泥だらけになってしまいましたね」
斜堂先生が私の背中の泥を払ってくれ、
「採れたてのラッキョウのようだ!」
と雅之助さんが豪快に笑う。
「さあさあ皆さん帰りますよ」
山田先生に促されて私たちは長屋へと歩いていく。
「なあにも心配することはない」
と厚着先生。
「“おぬしの思うままにして宜しい”。学園長先生の言葉に従うことです」
野村先生が眼鏡を上げながらニコリと言う。
『おやすみなさい!』
まだ私の部屋の灯りはついている。泥だらけの私を見てきりちゃんは何というだろうか?怒るかな?笑うかな?私は走り出す。
心の思うままに
願わくば
いつでもそうあれたら・・・
そうさせてくれようとする人がいる幸せ―――――