第3章 小さな動物たち
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10.青猫の陶酔
4つの寮、7つの学年。
ホグワーツには大勢の生徒がいる。
だから全ての生徒に名前と顔を覚えられるのは難しいだろう。
例えばジェームズ・ポッター。
クィディッチが好きな者なら彼の名前を知っているだろうが、そうでない者には知られていない。
例えば、シリウス・ブラック。魔法族の名家の長男で色男の彼も有名だが、マグル出身者の男には彼を知らない者もいる。
だが、彼女の名を知らぬ者はいないのではないかと思う。
灰色がかった白い髪に琥珀色の瞳。
スリザリン寮3年生、ユキ・ルイ・プリンス。
彼女を初めて見た時の衝撃が忘れられない。
まだ入学してから何日も経っていないある日。
授業に行くために5階への階段を上っていた時に運悪く階段が動き出してしまった。
元の位置に戻るまで待つしかない、と立ち止まった私の横を通り過ぎた風。
私の脇を通り抜けた少女は階段の最後の段をダンッと蹴り、5階の廊下へ着地した。
驚きで思わず「あっ!」と声を上げてしまった私に振り返ったユキ先輩は、目の合った私に悪戯っぽく微笑んで5階の廊下へと消えていったのだ。
一瞬で心が奪われた。
私はその時以来、自由な時間はいつもユキ先輩を探してホグワーツ中を歩き回っている。クィディッチ場、図書館、大広間、中庭……
彼女の傍にはいつも誰かがいて、いつも楽しそうに笑っていた。
他とは違う容姿だが、彼女の明るい性格や堂々とした態度、愛らしい表情が逆に変わった容姿を彼女の魅力の一つに変えていた。
他寮の生徒からも上級生からも親しげに話しかけられるユキ先輩は私とは違う。
私にはユキ先輩のように親しく話しかけてくれる友達がいない。
それどころか、同じ寮の同級生は私を無視するか、影で私をクスクスと笑いものにしている。
昔から自分に自信がなかった私は人と話すのが苦手だった。
誰かに話しかけられると緊張して言葉が出てこなくなってしまう。
その様子を見て、みんなは笑うのだ。
だから、人とは違う容姿を気にすることなく、明るく、楽しく、大勢の人に囲まれて毎日を過ごすユキ先輩が眩しかった。
大広間で大好きなチョコケーキを口いっぱいに頬張る先輩。
クィディッチ場で急降下しながらシーカーをブラッジャーから守る先輩。
フィルチさんへの悪戯が成功して茂みの後ろで瞳をキラキラさせて喜ぶ先輩。
ユキ先輩の“充実した毎日”が私の虚しく惨めな毎日に光を与えてくれる。
今のところユキ先輩に話しかける気はない。
話しかけた時にオドオドしてしまって、 ユキ先輩に変な奴だと思われてしまったら耐えられない。
見ているだけで十分だ。
それにしても、とユキ先輩がいる通路の、本棚を挟んで反対側の通路から様子を伺う。
放課後の図書館。
本と本の隙間から見えるユキ先輩。
彼女の隣には今日もあの男、セブルス・スネイプの姿がある。
あいつは一体なんなんだ?
ユキ先輩と同じ寮で同じ学年だからといっても一緒に行動する時間が多すぎる。
ジェームズ・ポッターのようにクィディッチ選手なわけでもシリウス・ブラックのように容姿が良いわけでも名家の人間でもない特に特徴もない地味で目立たない生徒。
はっきり言って目障りだ。
全てにおいて完璧な私の憧れのユキ先輩の横に似つかわしくない。
なぜユキ先輩はあんな男と行動を共にしているのか(調べた結果、当然ながら彼氏ではなかった)謎だ。そして不愉快だ。
あの男をユキ先輩から遠ざけるにはどうしたら――――
「おい」
思考にふけっていた時に突然背後から呼びかけられて心臓がドキリと跳ねる。
振り向けば同じ寮で学年の男子生徒が3人、通路を塞ぐように立っていた。
後ろは運悪く壁になっている。
逃げられない。
意地の悪い顔、嫌な目つきに口の中が急速に乾いていくのを感じる。
逃げられない……
頭がジワジワと痺れていき、上手く息が吸えなくなってくる。
彼らの視線を避けるように俯く。
気分が悪くなってきた。ここから立ち去りたい。
前に進んだらどいてくれるだろうか?
そうさせてくれない事は分かりきっていたが、私は彼らの方へと一歩踏み出した。
しかし、彼らが道をあけてくれるはずはない。
それどころか迫ってくる彼らに追い詰められて背中に壁がつくまで追い詰められてしまった。
「な、な、な何の用?」
「な、な、な何の用?か。ハハハ」
自分でも情けないほどの震えて吃った声は真ん中の生徒に大げさに真似された。
両端の二人からは耳障りな笑い声が起こり、私はさらに身を固くする。
こんな奴らに緊張してしまう自分に腹が立つ。
悔しい……
「なぁ、魔法薬学のレポート課題写させてくれよ。今持ってるの、そうだろ?」
返事をする前に持っていた羊皮紙を取り上げられる。
今回の課題は自分の興味がある治癒薬を5つ調べて提出するという課題。
治癒薬には興味があったから、時間をかけて宿題に取り組んだ。
丁寧にやった課題を誰かに書き写されたくなんかない。
言わなきゃ。返せって言わなきゃ……
しかし、口を開いても緊張で声が出てこない。
私は彼らの前で過呼吸気味に呼吸を繰り返すことしか出来ない。
「へぇ。もう5つ出来てるじゃん」
「俺、2つ貰っていいか?」
「俺は1つで大丈夫」
私が存在しないように目の前で私の宿題を分ける相談をしている彼らが憎い。
どうして私は震えることしか出来ないんだ?
緊張がピークに達し、何かの呪いにかかって自分だけ透明な箱に閉じ込められたようなおかしな感覚に襲われる。
極度の緊張状態に襲われると私はこうなってしまう。
頭がぼんやりして感覚が失われる。
彼らの話し声が遠くなっていく。続いて強いめまい。
ギュッと強く目を瞑る。
暗い視界
暗い瞼の裏に見えたのは憧れの人の顔だった。
美しく、強いあの人。
ユキ先輩と私は違う。
彼女は全てにおいて完璧な私の憧れ。
憧れの先輩に、少しだけ、ほんの少しだけでも近づけたら……
……近づきたい
去っていく彼らの後ろ姿を睨みつける。
「か、返せ、よ」
「ん?何か言った――っ!?」
宿題を持っていこうとする生徒に体当たりをする。
ビリリと嫌な音。
倒れていく私の視界に羊皮紙が裂けるのが見えた。
ガンと床に倒れて全身に痛みを感じる。
頭上で鈍い音がしたのと同時に本が上から降ってくる。
視線を上に上げると、私の羊皮紙を持っていた生徒が本棚に体を打ちつけて顔を歪めているのが目に入った。
「お前……」
さっき湧いてきた力はどこへ行ったのか、睨まれて全身から血の気が引いていく。
数秒前の決意は消えて、頭の中は何も考えられないほどパニック状態。
体を起こしたいが震えて腕に力が入らない。
近づいてくる足。蹴られる―――
「クィレルのくせに生意」
突然切られた言葉。
シンとなった中に聞こえてきたのは小さな唸り声だった。
『ううぅ痛いぃ』
声がするのは本棚を隔てた向こう側。
そしてその声はよく知っている声、ユキ先輩の声だった。
私を含めたその場にいる全員が何が起こったのかを悟った。
床に散らばる本。
本が落下したのはこちら側だけではなかったのだ。
反対側の通路で落下した本にユキ先輩は当たってしまったのだろう。
『どうして本が降ってくるのよー!』
「大丈夫か?」
『う、うん!セブが心配してくれたから。えへへ、もう痛くない』
「僕が心配してたのは本のほうだ」
『!?!?』
「この辺りの本は古いものばかりだろ?……良かった。どこも破れていないようだな」
『ちょ、ちょっと!何が良かったなのよ!私の心配は?薬学大全が頭に落ちてきた私の心配は??』
「お前の石頭ならこの位なんてことないだろ?」
『酷っ。そんな事言ったら泣いてやるんだから!』
「(泣く奴の態度じゃないだろ……)ほら、飴やるから機嫌直せ」
『わーーい』
「プッ、クク、泣くんじゃなかったのか?」
『もうっ!セブはいっつもそうやって私のことからかって!』
本棚の向こうから聞こえてくる会話に私を囲んでいた3人の顔が見る見る青くなっていく。青ざめるのは当然だ。
ユキ先輩は怒らせたら怖い。これはホグワーツでは有名な話。
グリフィンドールの悪戯仕掛け人と肩を並べるスリザリンの白蛇。
4寮の中で一番優秀なビーター。
頭が良く、力も強いユキ先輩。
どこまで本当かは分からないが、ユキ先輩は1年生の時に喧嘩を売ってきた最上級生に闇の魔術を使い、男として再起不能な状態にして聖マンゴ魔法疾患傷害病院送りにしたという黒い噂を持っている。
その噂を思い出したのか今にも泣き出しそうな目の前の彼らに対して私は割と落ち着いていた。
もし彼女と関わることが出来るなら病院送りにされたっていい。
恐れの代わりにあるのは黒い感情。
先ほどのユキ先輩とスネイプの仲良さそうな会話。
心の中はドロドロとした嫉妬でいっぱいになっている。
「どこ行くんだ?」
『決まってるでしょ。私の頭に本を落とした奴に文句言いに行くのよ』
「そうか。迷惑かけるなよ」
『どーいう意味よ』
「あまり図書館で大声出すな。行くならさっさと行ってこい」
『もう、馬鹿!セブの馬鹿!』
ドタドタと足音が聞こえてきてユキ先輩がこちらの通路に向かっていることが分かる。
ユキ先輩……
憧れのユキ先輩とスネイプの仲に憎悪にも似た嫉妬を感じていると突然腕を強く引っ張られて立ち上がらせられた。
同級生に背中を押されて前に押し出されたのと、ユキ先輩が私たちのいる通路に入ってきたのはほぼ同時だった。
目を吊り上げて通路を歩いてきたユキ先輩が私の前で立ち止まる。
『あんたたちね!』
射るような琥珀色の瞳に見つめられた私の総身がゾクゾクと震える。
だが、震えたのは恐怖からではない。
こんな状況なのに私は強い幸福感を感じていた。
ユキ先輩が、憧れのあの人が目の前にいて、私だけを見つめている。
幸せすぎて気絶してしまいそうだ。
「す、すみません、プリンス先輩」
「クィレル、こいつが僕たちに殴りかかってきて」
「こいつは寮でも有名な変な奴なんです。悪いのは全部こいつで」
「うわっ」
ドンと突き飛ばされて体が前に倒れていく。
反射的に前に伸ばした両手。
『!?ごふっ』
「「「っ!?」」」
時が止まったような静寂。
そしてガンっと耳に響く怒鳴り声。
『何してくれんのよッ』
「ごごごごごゴメンナサイッ」
転びそうになって手を伸ばした私の両手が行き着いた先はユキ先輩の両胸だった。
顔がボっと火がついたように熱くなる。
柔らかかった……じゃない!ユキ先輩に消される。
あぁ、でも憧れのユキ先輩にだったらいいかもしれないな……
顔がにやけてしまって下げている頭を上げられないでいると上から大きなため息が降ってきた。
『謝って済む問題じゃないわ。セブからもらった飴なのに!さっき口に入れたばっかなのに飲み込んじゃったんだからねッ」
「え?」
顔を上げると腕を胸の前で組み、口を尖らせているユキ先輩。
予想外の言葉に混乱する頭。
え?胸のことはどうでもいいのですか??
後ろにいた3人と共に絶句していると―――
「あなたたち!ここをどこだと思っているのですか!?」
ユキ先輩の後ろからマダム・ピンスが現れた。
厳格な図書館司書の視線の先には床に散乱している本。
ページが折れ曲がっているものもある。
マダム・ピンスの顔が怒りで見る見る赤くなっていく。
「だ、大事な本をっ―――あなたたちっ―――ここで何があったのです!?」
怒りで顔を真っ赤にさせる彼女の前で縮こまっているとユキ先輩が喧嘩があったようだとマダム・ピンスに説明した。
『私は関係ありません、マダム』
被害者なんです、とその場から立ち去ろうとしたユキ先輩だったが通路の真ん中で仁王立ちするマダム・ピンスが動く気配はない。
「逃がしません。ユキ・プリンス。あなたも罰則を受けてもらいますよ」
『えぇっ!?』
驚き声を上げるユキ先輩に鋭い視線を向けるマダム・ピンス。
「あなたの大声はカウンターまで聞こえていました。図書館では静かにするようにと規則に書いてあるでしょう」
『そんなぁ酷いですよ。私は被害者なんですよ?落ちてきた本で頭をぶったし、セブに貰った飴は「飴!?図書館で飲食していたのですか?」
しまった!と声を詰まらせるユキ先輩を見てマダム・ピンスは満足そうに口角を上げる。
「一人5点ずつ減点します。罰則については後で各寮監の先生にお伝えしておきますから覚悟していなさい」
そう言ってマダム・ピンスはカウンターへと戻っていってしまう。
『ハアァ何で私もなのよ』
ショックで立ち尽くすユキ先輩の横を、今だとばかりに私を脅していた3人が足早に通り過ぎていく。
残された私はユキ先輩と二人きり。
胸がドキドキする。
ユキ先輩にはご迷惑をかけてしまったけど、これをきっかけに少しでもお近づきになりたい。
勇気を奮い起こして口を開く。
「あの」
「ユキ、終わったか?」
私の声と被さるようにして棚の角から現れたのはあの憎きスネイプ。
ユキ先輩は私に背を向けて奴に駆け寄って行ってしまった。
『セブったら聞いてよ。私、被害者なのに減点された上に罰則まで受けることになったんだよ』
「引かれたのは5点だろ?ユキなら直ぐに取り返せる」
『そうだけど罰則もあるし……』
「そんな顔するな。元に戻らなくなるぞ」
『ふぁっ!?もう、セブッ』
「大声出すな。また怒られる」
『うぅ……』
キュッとスネイプに鼻を摘まれたユキ先輩は不満そうな声を出しつつも頬をばら色に染めている。口元には微笑み。
罰則の原因を作った私がここにいるのにユキ先輩の関心は既に私から離れてしまっている。一瞬で先輩の関心を奪った奴が憎い。
それだけでも我慢ならなかったのに、さらにスネイプは私のユキ先輩の手を唐突に握った。
『セブ?』
「医務室に行こう。念のため頭を見てもらったほうがいい」
『ありがと。でも、その……この手は……なんで?』
嬉しさのこもった声。胸がズキズキと痛む。
ユキ先輩の横顔は恋する乙女そのものだった。
尾行してきて薄々気づいてはいたが、今はっきりと現実を突きつけられてしまった。
どうしてあの男なんかを好きに?
胸で渦巻く黒い嫉妬。
無意識にスネイプを睨みつけていた私の肩がビクリと跳ねる。
「あの男……」
ギリリと奥歯を噛む。
ユキ先輩の手を引いて立ち去っていくスネイプが私に投げかけた視線。
警戒するような嫌悪するような視線は「ユキ先輩に近づくな」と言っているように見えた。
「……どうか目を覚ましてください」
遠ざかる彼女の背中を見ながら呟く。
美しく強い、私の憧れの人。
完璧な彼女の隣にあの男は相応しくない。
***
談話室で生徒がくつろいでいる寝る前の時間。
罰則を受けに行くようにフリットウィック教授から指示されてトロフィー室に行った私は呼吸出来ないほど幸せな気持ちに浸っていた。
手を少し動かせば触れてしまう距離にユキ先輩が立っている。
5人いっぺんでは人数が多すぎるということで罰則はふた組に分けられることになったのだ。
幸運なことに私はユキ先輩と二人きり。
「よく来た、お二人さん」
目の前でフィルチが意地の悪い笑みを浮かべているがそれさえも輝いて見える。ユキ先輩とお近づきになれる―――私の心は喜びでいっぱい。
「時々様子を見に来るからサボるんじゃないぞ。さぁ、おいでミセス・ノリス」
杖を取り上げられた私たちはトロフィー全てをマグル式で磨くことになった。
棚にズラリと並ぶトロフィーや盾。
これだけの数があれば一晩中一緒にいられそうだ。
『水道どこだっけ?』
「こ、こっちです。あ、バケツ持ちます」
『ありがとう』
涼やかな声が耳に心地よく響く。
静かな廊下をヒタヒタと歩きながら私は心を落ち着けるために深呼吸を何度か繰り返す。
お近づきにはなりたいが、まずはユキ先輩に謝らなくては。
この罰則を受けることになったのは私が原因。
それに、事故とはいえユキ先輩の胸を触ってしまった。
あの時『飴を飲み込んだ』と言ったのは私に罪悪感を持たせないためだろう。
怒らせたら怖いが普段のユキ先輩は優しい。
「あああの、す、すみませんでした」
あんなに深呼吸を繰り返したのにこのザマだ。
落ち着いて言おうと思ったのに私の声は震えてひっくり返ってしまった。
立ち止まったユキ先輩が私を見る。
吃ってばかりの私はさぞ気の小さい人間に見えていることだろう。
自己嫌悪に陥りながらユキ先輩から視線を逸らして俯く。
『罰則のこと?』
「は、はい。あと、え、えっと」
『……罰則のことなら構わない。君はどちらかというと私と同じでとばっちりを受けた方でしょう?気にしなくていい』
柔らかい声に顔を上げると宝石のように美しい琥珀色の瞳。
その美しさに暫し惚けていた私だが、ハッとして「もう一つ」と謝りにくい方の謝罪をするため口を開く。
「ユキ先輩の、胸を触ってしまって……本当に、その、私は……」
きちんと謝りたいのに緊張で沸騰しそうになる私の口からはまともな謝罪の言葉が出てきてくれない。
あの時のことを思い出して顔まで赤くなっていく。
こんなに挙動不審で吃ってばかりいては完全に変な奴だと思われているだろう。
お近づきになるなど夢のまた夢。
絶望的な気持ちになっていた私だが、ユキ先輩からかけられた言葉は意外なものだった。
『……私も謝りたいと思ってたの』
「え……?」
『あなたは背中を押されて私にぶつかっただけ。それなのに私ったらキツい口調であなたを責めてしまったでしょ』
だからごめんなさい、と私に頭を下げるユキ先輩に驚く。
「あ、頭を上げて、く、ください」
ユキ先輩は何も悪くない。
「そんな、お気になさら、なないで下さい。本当に、えっと、その」
『……許してくれるってこと?』
吃って言葉にならない私に小首をかしげてユキ先輩が聞いた。
その姿が可愛すぎて声が出てこなくなり、仕方なく首を縦に振って自分の意思を伝える。
『よかった……ありがとう。それじゃあ、水汲みに行こうか』
「は、はい!」
ユキ先輩が私を許してくれた。
それどころか、私を気にしてくれていた。
煩いくらい鳴っている胸の鼓動。
バケツに水を入れてトロフィー室へ戻ってきた私たち。
憧れの人と二人きり。
嬉しくて胸がはち切れそうだ。
窓から入る月明かりに照らされる陶器のように白く美しい顔。
もっとあなたの事を知りたい。
勇気をだそう……
「あの、じ、自己紹介、せっかくですから、させていただいても?」
雑巾を絞っていたユキ先輩が顔を上げてキョトンとした顔をした。
唐突すぎたし、改まりすぎたかもしれない。しかし、後戻りはできないのでそのまま自己紹介を続けることに。
「申しお、遅れましたが、わ、私は、クィリナス・クィレルと申します。レイブンクロー寮の、い、1年生です。よろしく、お、お願いします」
息継ぎなしで一気に言う。
握手のために手を差し出そうとしたが、お互い雑巾を持っていたし、緊張で変な汗をかいていたのでやめた。
私をじっと見つめるユキ先輩。
『……名前も寮も知ってたよ』
「私を、ですか……?」
何も言わないユキ先輩に不安になり始めた時に、ユキ先輩はポツリと零すように言った。
ユキ先輩が私なんかを知っていた?
同じ寮のレイブンクロー生からも存在を認識されているか怪しい私をユキ先輩が知っているはずはない。
『意外って顔してるね』
怪訝そうな顔をする私を見たユキ先輩がそう呟いたのと同時に目の前の景色がヒュンと移動した。
背中に強い痛みを感じてうめき声を上げる。
何が起こったのか分からずに頭を混乱させていた私は、喉元に冷たい何かを当てられ、驚いて閉じていた目を開いた。
「ユキ、先ぱ」
『無駄口を叩くな。叫んだら容赦しない』
ピシャリと言われた言葉。
戦慄が体を突き抜ける。
恐怖で血の気がサーッと引いていくのが分かった。
何故だかは分からないが私はユキ先輩に押し倒され、何かは分からないが先の尖った鉄製の物を喉元に突きつけられている。
目の前にあるユキ先輩の顔は今まで見てきた先輩じゃなかった。
私の全てを見透かそうとしている黄色い瞳には何の感情もない。
目は笑っていないのに口元に浮かんでいる微笑み。
恐怖に体が支配されて息苦しくなっていく。
『私をつけるようにお前に指示した者は誰だ』
心臓が凍るような声で言われた言葉に激しく動揺する。
気づかれていた……
ユキ先輩は私がいつも先輩の姿を追っていたことに気がついていたんだ。
「ち、違います。わ、私は……誰かに……指示、なんか」
『嘘はつかない方がいい』
「ッ!?」
チクっと喉に感じた痛みに冗談抜きで命の危険に晒されている事を知る。
体がガタガタと震えだす。
「う、嘘じゃ、ないです。本当に、本当です!」
『では、仲間がいるのか?』
「いません!私ひとりです。絶対に、う、嘘はついてな、ない」
信じてもらわなければ殺されてしまう。叫ぶようにユキ先輩に訴えかける。
真実を見抜こうとするように細くなる黄色い瞳。
誰か助けて――――
叫びたいがそんな事をしたら一瞬で喉を貫かれそうだ。
私を見下ろす黄色い瞳。
『なぜ私をつけ回す?』
「あ、あなたを見ていたいからです」
恐怖で飛んでしまいそうな意識。
緊張でカラカラに乾く口の中。
『見てどうする。目的はなんだ?』
「目的は……えっと、ただ、見ていたいから。理由なんかなくて、あの、日常のささやかな喜びを、その……」
『??意味が分かるように話せ』
顔は先ほどと寸分も変わらず微笑みを浮かべているが口調からは苛立ちが感じられる。
その様子に私は慌てて口を開く。
「だから、見ているだけで幸せ、な、なんです。目的は、し、幸せを得るため、です。あ、あなたは私の、学校生活、そ、そのもので」
『……ったく。さっきから何を』
「あ、あなたが好きなんですっ痛!」
大声で叫んだはずみで体が動いてしまい、突きつけられていた刃物に喉を当ててしまった。傷は深くはないだろうが痛い。
「っ!」
『動くな』
傷口に持っていこうとした手を掴まれる。
怒らせてしまった。
もう、終わりだ。
好きな人になら病院送りにされてもいいだなんて嘘だった。
怖い。死にたくなんかない。
どうしてこんなことになってしまったんだ――――
「え……」
温かい
柔らかい熱を喉元に感じ、驚いて瞑っていた目を見開く。
溜まっていた涙で歪んでいる視界。
『悪かった』
涙がこぼれ落ちてハッキリしてきた視界にユキ先輩の顔が映る。
眉を寄せている先輩からは先ほどの恐ろしさを感じなかった。
「あ……治ってる」
体の上からユキ先輩がどき、喉元に手を持っていく。
傷口も痛みも消えてなくなっていた。
自分の身に起こった不思議にぼんやりしていた私は気を緩めるのが早すぎた事を知る。
顔を上げた私の額に突きつけられたのは取り上げられていたはずの杖。ユキ先輩は偽物か何かをフィルチに渡していたのだろう。
再び感情のなくなった顔が私を見下ろす。
『オブリビ……チッ』
バンッという音とともに私の前から消えたユキ先輩。
「間に合ったようじゃの」
唖然とする私の前にやってきたのはこの学校の校長、大魔法使いアルバス・ダンブルドア。
校長先生はユキ先輩の杖を手元に引き寄せ、縄を出現させて魔法で床に倒れる彼女を縛り上げる。
「校長先生……」
「Mr.クィレル、悪いが今すぐこの部屋から出て寮に戻ってほしい。そして、このことは決して、っ!?」
言葉を切ったダンブルドア校長の顔が青ざめる。
首筋に冷たい感触。
「なんとっ……逃げるとは」
「ユキ、先輩」
『狸ジジィ』
ユキ先輩に人質に取られた私の耳にゾッとするほど冷たい声が響く。
「その子を放すんじゃ」
『あなたがこの子を利用したのと同じように私もこの子を利用させてもらう』
「ご、誤解です」
「その生徒は関係ない!ユキ・プリンス。放すのじゃ」
『逃げ切ったら記憶を消して解放する』
「杖なしでどうする」
『そんなもの誰かから奪うから問題ない。生徒の命が大事なら杖を下ろして私達をこのまま行かせろ』
「くっ……」
苦渋に満ちた顔でダンブルドア校長は杖を下ろした。
それを合図に私はユキ先輩に刃物を突きつけられたまま出口へと後退していく。
私を挟んで睨み合っている校長先生とユキ先輩。
トロフィー室には私の足音だけが響いている。
緊張で張り詰める空気
「アルバス!!」
その空気を破ったのは新たにトロフィー室にやってきた人物だった。
マクゴナガル教授の声を合図に、睨み合っていた二人が同時に動き出す。
「うわっ」
「Mr.クィレル!頭を守りなさい!」
ユキ先輩に突き飛ばされ、尻餅をついた私の目の前をクィディッチ優勝杯が通り過ぎた。
四方から飛んでくる盾やカップを私の喉に突きつけていた鉄製の武器で弾き、身を守るユキ先輩。
こちらへ!と叫びながら私の方へ駆けてくるマクゴナガル教授。
しかし、私の足は部屋の中心へと向かっていた。
「エクスペリアームスッ」
校長先生が鋭い声で呪文を唱える。
杖先にいるのは盾が手に当たって武器を落としたユキ先輩。
私はユキ先輩の前に両手を広げて飛び出した。
『あんた……なんで……』
呪文が直撃した私はユキ先輩とともに後ろ向きに倒れた。
お腹が痛い。
『意味が分からん……私なんかを庇うなんて……』
瞳を揺らして動揺するユキ先輩に微笑みかける。
「やっぱり……何をされても、好き……みたいだから、です……」
いつも完璧なあなたが動揺している。
その表情も可愛い。などと考えながら意識を手放した私はどうしようもない人間なのかもしれない。