汚い
階段を降りながら、漂う匂いにまさか、と足が早まる。
それでも遠慮して男の後から部屋へ入ると、エプロンみたいなのをつけた塔子さんが振り返った。
「ちょうど今出来上がったの!座って待っててね」
そう言われて、男は滋さんの斜め前に座る。とりあえず猫を床に降ろすと、自分より大きな椅子を動かして空いていた男の隣の席に座った。
少しすると、出来立てのふわふわなオムライスが目の前に置かれる。
「……オムライスだ」
多分、今の僕はすごく間抜けな顔をしているに違いない。それほど衝撃を受けた。それを見ていた塔子さんは、柔らかい笑みを浮かべて口にした。
「蛍君がオムライス好きって聞いたから、作ってみたの」
「……っ」
思わず、ごくりと息を呑む。
僕のために好きなご飯を、作ってくれたのが嘘のようで、瞳を隠す為に伸びきった前髪の奥で、動揺した瞳が揺らめく。
「あ、ありがとうございます」
それを悟られないように、僕は机の真ん中に置かれたケチャップに手を伸ばして、一生懸命に誤魔化す。冷めた熱を取り戻すかのように、胸がドクドクと早鐘を打つ。
「良かったな、蛍」
優し気な表情で僕を見つめる男の言葉に、鼓動がまた早くなる。
「う、ん」
心の底から、胸を満たすような感覚。この感情の名前を何ていうんだっけ。
ああ、そうだ。
幸せだ。僕は、幸せなんだ。
「それじゃあ、食べましょうか」
エプロンを外しながら、塔子さんは席に座る。全員が席に揃うと、滋さんが手を合わせて頭を軽く下げた。
「塔子さん、ありがとう。いただきます」
「いただきます」
続けるように三人で手を合わせたら、僕は卵の上にケチャップで絵を描く。描くのはこの家の猫だ。丸くて、特徴があまりない手足の短い猫は、とても描きやすい。
「おや、ニャン五郎かな?」
「まあ!上手ね!」
すぐに僕が何を描いていたのか分かった塔子さんと滋さんが、上手だと褒めてくれる。嘘偽りの無い言葉に、僕は恥ずかしくなって目を逸らした。
「蛍。良ければ、俺のにも描いてくれないか?」
男の言葉に、手が止まる。
まさか、そんなこと言われるだなんて思ってもいなかった。
「無理にとは言わないんだ――」
「や、やる!貸して」
遠慮し始めた男の言葉を遮って、皿を前にずらす。さあ、何を描いてやろう。開きかけのケチャップの蓋をオムライスに向けながら考える。
あ、思いついた。
そう思って、手に力を加えて作業を開始する。きっと驚くだろうな。
「できた」
「ふむ。今度は犬か」
完成した皿を男の前にずらす。滋さんが犬と言ってるけど、違う。男も何か分からないようで考え込んでいる。まあ、分からないのも仕方が無い。
だって、普通の人には見えない妖だから。
「ありがとう。何だか食べるの勿体ないな。せっかく描いてくれたのに」
「また描けばいいだろ」
そこまで言い終えて、僕はそっぽを向く。
僕は一体何を口走っているんだ。そんな僕を揶揄うように男は僕の頭に手を置いてから、一口オムライスを食べる。
「美味しいな」
「塔子さんが作ってくれたんだから、当たり前だろ」
当たり前のことをいう男に、そっけなく返す。だというのに、男は僕の頭を撫で続けながら微笑んでくる。子供扱いして来る男にムカつき、鋭い視線を飛ばす。
しかし、一向にやめる気配が無い。
「蛍は絵が上手だな」
「……別に」
何かが可笑しい。この手を振り払うことは簡単な筈なのに、それが出来ない。
全部、全部、この男のせいだ。