ナイトメア



 その時、ドアの向こうから叩敲をする音がし、首領が入室するように声を掛けた。某は、小舟に浮かぶような微睡から一旦思考を中断させ、首領から距離を取ろうとした途端、ドアから太宰さんが姿を現した。


「失礼します」

 蓬髪から覗く、片目に巻いた真っ白な包帯。頸や腕にも其れは在った。平静を装って太宰さんを目視していると、底知れぬ闇を覗かせる鳶色の瞳と目が合い、背筋に得体の知れない恐怖が走る。

 正直に云うと、某はこの人が苦手だ。
 かつて、某や兄さんと姉さんをポートマフィアに勧誘して来たのはこの人。其れだけならば、まだ何とも思わなかった。


「ああ。矢張り此処に居た」
「おや、太宰君。私に用件が在ったのではないのかね」

 太宰さんは、某と兄さんが言葉を交わそうとする度に悉く遮るのだ。只でさえ、某の上司である中也さんと太宰さんの仲が頗る悪い御蔭で、兄さんと会えるのは極僅かだと云うのに。


「いえ、私が逢いに来たのは首領に仕方が無く触れられている雲雀君です」

 其れに、太宰さんは酷く兄さんに峻厳だ。此れが太宰さんの遣り方だと云うの為らば口には出せないが、某は兄さんを傷付ける此の遣り方が気に喰わない。

 まだ沢山ある。考えれば考える程、某は思った以上にこの人が苦手だ。



「―――え」

 そんなことを考えていると、突然腕を引かれた。予想にもしていなかったことに、某はバランスを崩し、某の腕を引いた張本人―――首領の胸の中に飛び込んでしまった。


「す、すみません首領。今すぐに退きます」


 突然のことに、某は動揺を隠せない。

 然し、其れよりも間近で首領の匂いに包まれて、某は哀れ乍ら首領に無体を働いたと云う思考より、もう少し此のままでいたいと云う気持ちが働いた。


「ああ、もう一寸このまま。気に病むことは無い。私が遣りたくて君の腕を引いたのだから」
「え、と……はい」

 首領も、もう少しこのままと云っているので、遠慮がちに首領の背に腕を回してみる。
 本物の首領の方が、私物に付いた匂いよりも色濃く感じる。煙草や香水と云った類の匂いでは無い。脳を痺れさせるような、甘くて苦い大人の香り。

 無意識に、某は首領の頸筋に顔を近付けた。



「―――首領。御巫山戯が過ぎるかと」

 背中越しに聞こえた、身の毛もよだつ太宰さんの冷えた声音に、背筋をビクつかせる。其んな某を宥めるように、首領は某の背中を撫で、弾んだ調子で太宰さんに言葉を返した。


「なあに、一介の意思疎通コミュニケーションだよ」
「私には、地位を利用した只の迷惑行為に見えますが」

「迷惑行為、か。雲雀君は厭がってないようだが、如何かな?雲雀君は厭かい?」

 急に話を振られて、動揺しながらも某は首を左右に振った。首領にこうされるのは嫌いではない。寧ろ、好きなくらいだ。親を知らぬ子供であった某は、父とはこう云う者なのかと思い描き、其の理想に首領を当て嵌める。


「こう雲雀君も云っているよ」
「首領を前にして仰っているからでは?」

 すると、首領は小さく笑い声を上げた。
 不意に腕の中から首領の顔を見上げると、視線がぶつかる。首領は其れさえも愉快なのか、形の良い唇を閉じ、細めた目を太宰さんに真っ直ぐ向けた。


「―――嫉妬かね?太宰君」

 途端、太宰さんの表情から笑みが消えた。
 形だけ浮かべていた何の意味も含まない仮面。己の胸中に、憎悪が湧き上がってくるのを抑えることができない。

 某はこの表情をよく知っている。

 太宰さんが兄さんに、教育と云う名の狼藉を働く時の顔だ。


「ははっ、ははははっ」

 何がそんなに可笑しいのか、突如として大きな声で笑い出し、太宰さんは瞳にうっすらと涙を溜め未だに笑い続ける。
 ただただ某は、呆然とするしかなかった。


「……あぁ。これが嫉妬か」

 漸く収まったのか、小さく太宰さんが呟く。
 嫉妬、と聞いて某は小首を傾げる。この人は一体、誰に何を嫉妬しているのだろうか。

 ああ、考えれば首領に太宰さんが嫉妬何て云う感情を向けることは無い。某にその感情を向けているのだ。
 時折、思っていたことがあった。


 太宰さんは、幼子のようだと。

 そう云っても、容姿がそのように見える、という訳ではない。
 何時の日か小耳に挟んだのだ。太宰さんは、生きる理由を探して居ると。それはまるで、親から寵愛を受けようと必死に求める子供だ。

 ポートマフィアで幹部という地位に就いていても、所詮は手駒にすぎない。本当に、心の底から首領に必要とされているのか、と云えば分からない。そんな関係を、太宰さんは某よりも続けてきた。
 だからだろう。太宰さんは首領の胸の中にいる某の、今の状況が妬ましい程羨ましいのだ。そう考えれば理解できる。

 だとすればこの体制も、もう終わりだ。


「太宰さん、速くに気付けずにすみません」
「え?」

 ここは、素直になれない太宰さんの代わりに某が動かなくては。
 名残惜しいが某は首領から離れると、すっ、と先程己が居た場所へ手を前に出して促す。



「どうぞ」
「―――ふ、ふふッ」

 某は至って真面目に云った心算だったのだが、隣に居る首領から笑い声が聞こえる。どう反応すればいいか最適解が見つからない某は、太宰さんに助けを求める。

 が、とうとう太宰さんも目を細めて笑い出した。



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