ナイトメア



「此れはまた、酷い隈だ」
「はぁ」

 何度も往復するように指の腹で目の下を撫でられ、某は間の抜けた声を上げる。対して、某の目元を撫で続ける――首領は困ったように眉を下げた。


「……白衣ソレ。まだ着ているのだね」
「はい」

 首領の視線が下へ下がり、向けられている場所が羽織だと理解すると、ああ、と納得した。某が着ているこの白衣は、某がまだポートマフィアに入ったばかりの頃、慣れない空間に息苦しさを感じ、長い廊下の隅で蹲り、襲い来る睡魔と戦っていた時に首領から譲っていただいたものである。


「確か、君は雲雀君だったかな?」

「誰、アンタ」
「私かい?……そうだな。私は、しがない医者だよ」

 今思えば、無理のある嘘だったが、昔の某は首領を医者だと簡単に信じて、着いて追いでと云われると素直に後を続いた。首領がエレベーター付近まで近づいて行くと、警備をしていた黒服が揃いも揃って頭を下げる。
 明らかに、医者に対しての態度では無い様子に、目を瞬かせたのを神妙に覚えている。


「ほら、雲雀君。追いで」

 其の間にも首領は、手慣れた様に昇降機の操作をし、某に向かって手招きをした。初めて乗った昇降機の浮遊感は、今でも忘れられない。


「此処には慣れた?」

「……ぜんぜん。にいさんにも、ねえさんにも会えないし気持ち悪い」
「ふふふ。素直だなぁ」

 硝子張りの昇降機から、段々と小さくなっていく建物を眺め乍ら首領と他愛も無い会話を交えていると、昇降機の動きが止まった。扉が開くと、何処までも続く毛足の長いカーペットが目に入る。

 矢張り、貧民街と違って塵や埃何てモノは微塵たりとも無い。



「少し此処で待っててね」

 首領は某に其れだけ伝えると、長い廊下の先に姿を消した。




 待っている間、暇で無かったと言えば嘘になる。ほんの少し、某は昇降機の上と下へ行く押釦を交互に連打し、扉が開閉するのを楽しんで待った。


「お待たせ、雲雀君。此れ、着てごらん」
「―――白衣?」

 首領が再び某の前に現れた時、手に持っていたのは一枚の白衣だった。


「なんで白衣もってきたの?」
「御呪いだよ。雲雀君が寂しくならないようにする、ね」



 少しばかり、昔のことを思い出していた某は、頬を緩めて白衣の袖を鼻先に持って行った。


「何だか、首領の匂いがして落ち着くので」

 数年経って、其の匂いは褪せて来てはいるものの、首領の匂いは未だに残っている。確かに数年前、首領が云っていた御呪いは効果的だ。
 今となっては、この白衣は首領を身近に感じられる、某に取って落ち着くアイテムだ。


「―――ッ」
「……首領?」

 反応をしなくなった首領を不思議に思い、某は首領の顔を覗き込む。其れでも反応が無いことを心配になって見つめ続けていると、ぽんっと頭に手を置かれた。


「君は其れを判ってやっているのか。……否、判っていないだろうなぁ」

 首領は困ったように大きく息を吐き乍ら、ゆらゆらと優しく其の手を動かし某の頭を撫でる。目を瞑れば、首領の体温が手の平から伝わって来て、とても落ち着いた。



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