[番外編]青の王子は遡る



「――それは、いや…」


 彼は何か口にしようとして声を上げるが、すぐに言葉を呑み込む。
 僅かな沈黙が流れて、目を逸らすことができないまま、時が止まったような感覚を覚えた。そのまま、互いにしばらく見つめ合う時間が続いた。彼の目に疑いや、嘘を探る眼差しはなかった。ただ純粋に、驚いたという表情で。僕だってそうだ。憧れの人物を前にして、息が止まりそうになった。人生で一度だけでいいからお会いしてみたいと思っていた人物が、いざ指先が触れ合う距離に居て身体が動かない。
 実は、僕は本当は眠っていて、僕の都合の良い夢を見ているだけではないのか。そうでなければ、何十年も時代を遡り、イギリスではなくアメリカに居るのも説明が付かない。彼にだって会うことだってないはずだ。

 そんなことを考えていると、ぎこちない動きで手をやんわりと掴まれる。


「ノア、いきなり知りもしない僕を信じてなんて言えないけど」


 僕の手を掴む手は、じんわりと汗で滲んていた。その力は今すぐにでも振りほどいて、逃げようと思えば、簡単に逃げ出してしまえるほどに優しいものだった。ニュート、と動かそうとした口は震えて紡がれることは無かった。代わりにはくり、と口が動いただけで、自分でも思考が纏まらない。

 ――あ、と思った時には既に、誘われるがままに、彼の両腕の中へ抱きとめられていた。僕の背中へ両腕が回され、遠慮気味に撫でられる。あまりにも優しい手付きに、どうしてか胸がつまって、泣きたくもないのに泣きそうになってしまう。応えるように彼の背に回す腕に、無意識に力が入ってしまう。
 自分でも驚くほどに、気を張っていたらしい。密着した箇所から、とくん、とくん、と伝わる鼓動は彼のように優しくて、見知らぬ場所に飛ばされ強張っていた体の力が抜けていく。


「ノア」


 腕の中から彼を見上げれば、ニュートの表情が目に入る――ああ、本気だ。本気で彼は僕の身を案じ、僕を守ろうとしてくれている。


 本当は、元いた場所に戻れるのか、不安に襲われていた。

 この現象が夢ではないことぐらい理解していた。




 元に戻れる保証なんて、どこにも。



「――ノア、君を絶対に一人にしない。僕と一緒について来てほしい」


 そんな不安を打ち消すように、ゆっくりと安心させるような声色で震える身体を、そっと抱き締められる。彼だけが、唯一この場所で頼れる拠り所だった。

 

 




 ニューヨークの街は、物珍しいものでいっぱいだった。
 何十年も前の文化で、乗り物や街並みも随分と違う。僕の目にはあまりにもちぐはぐに映り、あまり見慣れない服装に身を包んだ人々とすれ違う度に、はぐれないようにと繋がれたニュートの手を握る手に力が入る。

「…――この偉大なる街には、人間の輝かしい発明に溢れています!」
「ニュート、彼女は何を?」
演説スピーチだよ」

 手を引かれながら歩く先で、石段の上で話す女性を見上げる集団に足を止める。女性が立つその後ろには、彼女達の組織のシンボルを示す横断幕が掲げられており、鮮やかな黄色と赤の炎の中で魔法の杖を折る両手が描かれている。その横断幕に、自然と眉間に皺が寄る。
 ――彼女、新セーレム慈善協会は純血主義が非魔法使いを差別するように、魔法使いを差別している。どの時代でも、争いは絶えない。これ以上、彼女の演説を耳にするのが心苦しく、ニュートの手を引こうとした瞬間だった。


「――失礼、おおっと!?」


 小柄でふくよかな男性が、足元に置いていたニュートの鞄に躓いたのは。観衆の注目は一斉に彼に向き、僕は膝を付き彼に手を差し伸べた。

「大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫だ。ありがとな、坊ちゃん」

 僕の手を取り、立ち上がった男性は慌てたように観衆を掻き分けて石段を上がっていく。あの様子なら、怪我はないだろう。だけど、それが良くなかった。彼を助けたことによって、演説を行っていた彼女の意識が、こちらに向いてしまった。薄い水色の瞳が、まじまじと観察するかのように僕を見つめる。


「貴方、我が友よ!何を求めていらした?」


 反射的にびくりと肩を震わせた僕を、庇うように自分の背中に隠し、ニュートは彼女と向かい合った。その大きな背中を見つめながら、小さくお礼を告げると、彼はまた僕の手を握った。

「僕は通り掛かっただけで」
「貴方は探究者?真理を追い求めるシーカー?」
「いや、僕は追跡者チェイサーです」

 彼女から目を逸らすように顔を背けると、建物の入り口から出てきた男性が、階段の柱に座り込んでいる物乞いの老人にコインを投げる。指で弾かれたコインを目で追っていると、彼女の演説は終幕に近づくにつれて過激になっていく。


「笑うなら笑えばいい。我々の中に――魔女・・がいるのです!」


 心臓がドクン、と跳ねる。魔女狩りが実際に存在し、火刑に処され火炙りにされたことがあるのは歴史上知っていた。しかし、魔女狩りの標的とされたのは、実際に魔法使いの者もいたが、ほとんどは非魔法使いだった。その悪質な迫害によって、隠匿呪文で今では非魔法使いに見えないようにされているが、実際に体感すると息が詰まりそうだ。


「戦わねばなりません。子供たちの為に。そして未来の為に!」


 どう思います、友よ?とまるで僕自身に問いかけられているようで、目を伏せようとして視界に黒い物体が映る。自然と視線が上に向かい、見覚えのあるその魔法生物を目で追い、オレンジ色の嘴がコインの入った帽子を引き摺りだすのが見えて、あっと思った時には名前を呼んでいた。


「……ニフラー?」


 え?とニュートが慌てて自分の鞄を見下す。その間にも、ニフラーは石段の柱の影隠れようとしている。間違いない。昔、引き寄せられるかの様に初めて読んだ魔法生物の本。そこに描かれていた、ニフラーだ。生憎、誰もニフラーに気付いた様子はない。ニフラーはニュートの視線に気づいたのか、コインを腹にいっぱい詰め込み建物へ逃げ出した。

「ニュート」
「ああ、まずい。急いで追いかけないと」

 僅かに蒼褪めたニュートは、僕の手をしっかり握ると、引っ張るようにしてその場から駆け出した。あのような演説を聞き終えた後だと、なおさら急ぐ気持ちも分かる。魔法使いを糾弾する彼らが、魔法生物の存在を目にすれば――。いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
 ニュートに引っ張られるがまま建物に駆け込み、ニフラーを目で探す。入った先はどうやら銀行のようで、きょろきょろと周囲を見回し、落ち着かない挙動を取る僕達はまるで場違いだった。

「何かお困りですか、お客様?」
「ああ、いえ…」
「……兄さん、ちょっと」
「すみません、弟は病弱で…あちらに座らせても?」
「それは大変だ!ええ、どうぞ!」

 困っている客人だと思ったのか、一人の銀行員に声を掛けられ、咄嗟に心臓を抑えて眉尻を下げる。軽く咳込んで、俯くと表情が見えなくなり、慌てたように銀行員は待合場に設置されたソファに僕達を案内し、別の客人の元へ意識を向けた。僕は何を言っているんだ?一瞬だったとしても、咄嗟にニュートを兄と呼んだことに顔が火照ってしまい、隠すように彼から顔を逸らしニフラーを探す。


「やぁ、今日は何の用?」


 隣から声を掛けられ、振り返ると、そこには先程ニュートの鞄に躓いた男性が座っていた。彼も彼でどこかそわそわと落ち着かない様子で、今度はニュートが答える。

「弟の誕生日プレゼントを買いたくて」
「そうか!坊ちゃん、誕生日だったのか!これ、大したものじゃないけど良かったら受け取ってくれ」
「――ありがとう」

 ……弟。今度はニュートからそう言われ、耳に熱がこもる。ニュートの表情を盗み見れば、目元を和らげていて、この設定をどこか楽しんでいる節がある。全く、今はニフラーを探さないといけないと言うのに。
 煩悩を振り払うように首を振り、男性が鞄を開け取り出した物を見る。それは、焼き立てのパンだった。どれも一つ一つ手が込んでいて、一目見て彼の手作りだと分かった。彼はパン屋を開く資金の相談に来たらしく、一つ手に取って一口齧り、目を見開く。こんなに美味しくて、心が温まるようなパンは初めて食べた。彼がお店を開けば繁盛し、街で愛されるパン屋になるのは間違いない。僕は応援することしか出来なくて心苦しいが、彼が成功することを心から願った。

 ――あ。
 丁度その時だった。ニフラーが女性の靴の装飾品を、器用に嘴で取って盗んでいくのを見つけたのは。ニュートが立ち上がるのを見て、僕は男性の前で膝を付き男性の手を取り、口付ける。触れて分かった、掌は豆ができ、血が滲むようなたくさん努力をした職人の手だ。どうか彼が上手く行くように。元気になる呪文をかける。未成年の魔法使いが学校外で魔法を使うことは禁止されているが、これくらいならばいいだろう。


「…え、あっ…なんだこれ急に元気が……」
「最高の誕生日プレゼントだったよ、ありがとう」
「あっ…、おい!!」


 彼が何か背後で叫んでいるが、今は目の前で器用に金品を盗んで逃げていくニフラーが優先だ。人にぶつからないように足早に追いかけ、ソファの下でじゃらじゃらと金貨を落とし、かき集めるように再びお腹の袋に仕舞うニフラーの姿を目で捉えた。それだけならまだいい。欲に目が眩んだニフラーは、今度は近くに居たペットの犬が付けた首輪にゆっくりと、手を伸ばして掴もうとしている。
 …まずい。動物も、ニフラーが見える。犬は近付いてくる未知の生物に向かって口を開き――吠える。


「――ニフラー!」


 ニュートと挟み込むようにして、慌てて手を伸ばすも、ニフラーはすり抜けて走り出し、今度は僕達では入ることのできない格子を飛び越え逃げてしまった。ニフラーはご満悦のようで、金貨が入った袋を押すカートの上にどっぷりと座り込み、警備員がニフラーを乗せたままカートを押して、エレベーターの中に乗って行くのをただ見つめるしかできなかった。


「おーい、兄ちゃんと坊ちゃん!卵が孵りそうだぞ!」


 え、と反射的に振り返る。そこには、何かの卵を手にした男性がいて、ニュートは閉まりかけのエレベーターと男性を交互に見て、コートに隠した杖を取り出し、男性へと向ける。即座に彼が何をするのか理解した僕は、ニュートの腕を掴んだ。


来いアクシオ


 呪文を唱えた瞬間、卵を手にした男性はニュートの方へ魔法で引き寄せられる。そして目を開けると、僕達三人は厳重に警備された監視を潜り抜け、銀行の金庫に通じた階段に姿あらわしした。ニュートは混乱している男性からそっと孵りかけの卵を受け取ると、卵から小さな青い蛇の胴体が顔を覗かせた。
 ――オカミーだ。魔法生物の誕生する瞬間を目にして、感動していると、ニュートは僕の手の平にオカミーを乗せた。産まれたての幼体の身体はあたたかく、親指の腹で顔を撫でると、二つの飾り翼がついたからだをくすぐったいのか指に絡み付けてきた。

「ふふ、かわいいね」
「ノア、後で他の子達にも合わせてあげるよ」

 ニュートはそう言うと、オカミーを鞄の中にそっと仕舞う。彼の鞄には拡大呪文がかけられており、あらゆる動物に合わせた自然環境が用意されているのは知っていたが、本でしか見たことの無かった魔法生物に会えると聞いて心が躍った。そんなことをしている間にも、ニュートのポケットから顔を覗かせたピケットが施錠された金庫の扉の隙間から中に入ろうとしているニフラーを指差した。ニュートは素早く杖を取り出し、金庫に向ける。


開けアロホモラ!」


 ニュートが呪文を唱えた瞬間、金庫の錠が回りドアが開き始める。同時に、背後から誰かが歩いて来る足音がして、ニュートは杖を後ろへ向けた。


「お前達、金庫の金を盗もうっていうのか?」
石になれペトリフィカス・トタルス!」


 ただ、ニュートが魔法を唱えるよりも、彼が壁に設置された非常ベルを押すのが先だった。天井からは凄まじい警報音のベルが鳴り響き、それを聞き付けた警備員が集まるのも時間の問題だ。それでもニュートは焦ることなく、開いた金庫に足を踏み入れ、金貨をお腹が膨らむまで詰め込んだニフラーを困ったように見下す。ニュートはニフラーの後ろ脚をがっちりと掴んで逆さにし振り降ろす。すると、じゃらじゃらととんでもない量の金品が、降り注ぐように落ちて行く。それでもニフラーは落ちていく金品に対して手を伸ばすから、僕は自分が何かキラキラ輝く物を持ってないか考えた。
 ――ああ、あるじゃないか。僕をここへ飛ばした[#ruby=逆転時計_#イムターナー]が。この時計が触れても作動しないのは分かっている。危険も無い。


「おいで、ニフラー」


 目の前で時計をゆらゆら動かせば、ニフラーは目を輝かせて飛び込んできた。そのまま、僕はニフラーを腕の中に隠し込む。お騒がせした犯人は呑気に、逆転時計を離さないとばかりに抱き締め、ひょっこりと僕の腕から顔を出して、ニュートと僕の顔を見比べている。
 そうこうしている間にも、駆け付けた警備員が僕達に向かって銃を向ける。慌てふためく男性の手を引き、僕の手を掴んだニュートはもう一度 姿くらましをして消える。


「……ニュート?」


 ――一緒にしたはずだった。それなのに、次に僕が姿あらわし した場所は、銀行の表口だった。ニュートの姿も男性の姿もどこにも居ない。入り口は警察官で溢れ、強盗犯が現れたと騒ぎになっている。客は混乱し慌てふためき、人間の波に呑まれるようにして、身動きの取れない僕は段々と銀行から離されていく。

3/3ページ
スキ