鷲は飛び立ち青き空を舞う



 最初の授業は魔法史。マグルが、マグルの歴史を学ぶように、魔法史では魔法界や魔法生物の歴史を学ぶ。扉を開けて中へ入ると、数人席に座っていたが、まだ何人かは来ていないようだった。

 それも仕方が無いだろう。ホグワーツへ入学したばかりの土地勘も何もない一年生が、いきなり、はい此処です、なんて言われても迷路のような校内で簡単には辿り着けない。
 何処に座ろうか迷っていると、少し大きな声でノアを呼ぶ声がした。

「ノア、隣に来てよ!」
「いま行くよ」

 軽く腕を振りながら、名前を呼ぶ女の子の隣にノアは座る。彼女もノアと同じく、今年組み分けによってレイブンクローになった一人の一年生だった。

「おはよう、アリサ」
「ええ。ノアもおはよう!」

 元気よくノアへ挨拶を返すと、アリサは不思議そうに辺りをきょろきょろと見渡した。

「みんな、まだ来ないのかなぁ?あと少しで授業が始まっちゃうよ」
「そうだね。そろそろ来ないと…」

 そんな話をしていると、時計の針が授業開始の一分前を指す。
 そして、秒針が僅かに動いたと同時に勢い良く扉が開けられ、静かな教室に残りの生徒が駆け込んで来た。


「さあさあ、席に座りなさい」


 息を荒げて床に両膝を付けている生徒に心の中で称賛を送っていると、ゴーストが黒板を通り抜けて登場した。驚いたことに、魔法史の授業はホグワーツの授業で唯一、ゴーストが教える学科らしい。
 確かに歴史を教えるなら、今を生きている人間よりも、何百、何千年と時を過ごしているゴーストが教えた方が適確で適任だ。


 授業が始まって早々、夢の世界へ旅立ってしまう生徒が数人いた。教科書を単調に読み上げる先生の声が、子守歌に近いのが要因だろう。

 ノアは教科書を目で負いながら、隣でうたた寝しているアリサの肩を揺すって起こす。

「アリサ。…アリサ?」

 びくっと肩を揺らしたアリサは、一瞬、ノアに視線を向け一度起きるも、数秒先生の声を聞くと瞼が閉じて行く。


「今日の授業はこれで終わりです」


 そんなことを繰り返している間に、魔法史の授業は終わってしまった。
 ふう、と息を吐いてからノアは席を立ち上がる。先程まで読んでいた教科書を閉じ、もう一度アリサの肩を強めに揺らす。

「起きるんだ、アリサ」
「んーー」

 ノアに肩を揺すられたアリサは、今度は瞼をゆっくりと持ち上げて目覚めた。まだ眠いのか、アリサは寝ぼけ眼まなこを擦りながらノアを見る。

「授業は終わったよ。ほら、起きないと」
「――わ、私としたことが!」

 思考が鈍っているのか暫しの沈黙の後、勢い良く身を起こした拍子にアリサの教科書が床に落ちる。ノアはそれを腕を伸ばして拾い上げると、放心しているアリサの手の上に置いた。

「大丈夫だよ。先生は、教科書通りに授業を進めていた。もう一度、教科書を読めば授業通りさ」
「本当?」
「嘘はつかないよ」
「ああ、ありがとうノア!貴方のおかげで授業についていけそう!」

 抱き着かんばかりの勢いで詰め寄られ、ノアは一瞬きょとんと眼を見開いてから、困ったように笑みを浮かべた。

「アリサは、大袈裟だなぁ」
「いいえ、本当のことよ!私にとっては、こーーんなに助かったんだから!」

 次の授業がある教室に向かう為に廊下を歩きながら、謙遜するノアに向かって、アリサは大きな身振りで感謝の気持ちを伝えようと必死に腕を動かす。

 けれど、ノアにとって本当に感謝されることでもなかった。
 
 ノアにとっては、困っている人を助けるのは息をするのに等しい。それを感謝されるのは、心を擽られたようにむず痒しかった。


「分かったよ。アリサの気持ちは十分伝わってきた」
「…本当に?」

 階段に差し掛かった時、子供を嗜めるように苦笑したノアに、アリサは眉根を寄せて真剣な表情をして振り返る。


「…――あっ」


 途端、階段が独りでに動き出し、バランスを崩したアリサは足を踏み外した。体が後ろへ傾き、ふわりと宙に投げ出される嫌な浮遊感が身を包む。


「―――アリサ!」


 瞼を固く閉じた瞬間、アリサの体は、ぐい、と力強く抱き寄せられた。恐る恐る瞼を開くと、間近に見える距離に、心配そうに揺れ動く青い瞳がアリサを見下ろしていた。

 恐怖で蒼褪めている間に、ノアはアリサの片腕を掴んでもう片方の手で腰を抱き寄せる。


「大丈夫かな?」
「あ、ありがとう」

 ノアはアリサの体勢をゆっくりと戻して、両手で彼女の手を優しく包む。


「わ、私…!ノアが助けてくれなかったら、もしかしたら――」
「落ち着いて、アリサ。君はこうして無事だった。それでいいじゃないか。もしかしたらなんて、考えなくていいんだ」

 アリサは両手を包む手を握り返すと、初めて笑顔を浮かべた。

「…そうね!」

 ノア達と同じく、教室移動の為に廊下に居た生徒はこの光景を目の当たりにして固唾を呑んだ。先程まで飛び交っていた話し声は消え、廊下はしんと静まり返っている。

 誰もが、ノアに視線を集中させていた。


「―――王子様」


 静寂を破るように、誰かが口にした言葉が廊下中に響き渡った。

 ある一人の生徒が見惚れていると、ノアが落ちた教科書を拾うために振り返る。たった一瞬ではあるが、ノアの青々とした瞳に自分の姿が映った。

 凛としたその姿は、まるで窮地に陥ったお姫様を救い出す王子そのものだ。


 一瞬でノアに魅入られた生徒達は、恍惚として噂を広める。


 レイブンクローのあの子は、青の王子だと。



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