鷲は飛び立ち青き空を舞う



 窓から差す光に、ノアはぼんやりと瞼を開けた。
 まだ朝と言うには早い時間だが、ゆっくりとベッドから身を起こすと、パジャマから制服に着替える。新品の黒のズボンに、白いワイシャツ。少し肌寒い為、その上からセーターを着て、慣れない手つきで青に銀が入ったネクタイを締める。

「これで良し、っと」

 それにしても、とノアは昔を思い出す。こんなに何かに苦戦したのは、孤児院にいる幼い年齢の女の子の髪を結った時以来だ。最初は慣れなくて、くしゃくしゃになっても笑って許してくれたっけ。
 不意にそんな幸せな記憶を思い出して、何だか皆に会いたくなって来た。

「…何か悩み事?」
「―――え?」

 突然背後から声がして、振り返るとそこには灰色がかった美しい女性が居た。


「い、いつからそこに?」
「ついさっきよ」


 それを聞いて、見苦しい着替え姿を見せなくて良かったと胸を撫で下ろす。だが、同時に疑問に思った。

 彼女は、一体誰なんだと。


「ええっと…。貴女はゴースト、でいいのかな?」
「…ええ」

 ノアの問いに、灰色のゴーストは静かに頷く。いざ本人から告げられると、ノアはどうしていいか分からなくなった。初めて出会う彼女の存在は、ノアに取って未知だったのだ。
 そんな時、実際に触れてはいないが、薄っすらとした手がノアの髪に触れる。

「そろそろ広間へ行った方が良いわ。…また、話しましょう」

 その声は、別れを惜しむような、何かに謝るような、優しい、哀調に似たものを帯びていた。ノアが驚いて顔を上げると、最初から居なかったかのようにゴーストの姿は消えていた。



 広間へ入って来るその姿を見るなり、フレッドとジョージはノアの肩を鷲掴みにして詰め寄った。反射的にノアは後退りしたものの、逃がさないと言わんばかりに二人は身を乗り出して距離を埋める。
 あの組分けが終わった後、二人はノアに聞きたいことが沢山あった。それはもう、寝るのも惜しいくらい。

 なのに、なのに――。

 その張本人は、へらり、と気が抜けるように笑って片手を上げる。


「やあ、おはよう。フレッド、ジョージ」
「あ、おはよう。…――じゃない!」


 そう叫ぶフレッドに、ノアは不思議そうに首を傾げて、頭には疑問符を浮かべた。


「俺達、聞いてないぞ!」
「まさか、君がこの学校を創設した四人のうちの一人―――」


 ―――レイブンクローの血縁者だなんて。


 それを聞いた直後、ノアは動揺に瞳を揺らして困ったように目線を床に落とした。決して、秘密にしていた訳ではない。

 ノア自身、姓を知ったのは昨日が初めてだった。

 勿論、知っていたのなら真っ先に伝えていた。このことを知った二人は、"僕"という存在を忘れて、物珍しさに目の色を変える人間に変わってしまうのだろうか。
 そんな未来が思い浮かんで、堪え切れずに拳を握っていたが、それは杞憂に終わった。


「なあ、相棒。こんな面白いことは滅多にないよな?」
「ああ、相棒。ノアのおかげでいいことが思いついた!」


 目線を上に向けると、二人は悪戯を思いついた悪魔のような笑みをノアに目を向けていた。困惑しているノアを他所に、一度フレッドとジョージはその場を離れると、耳元でお互いに囁き合い、暫くして戻って来る。

「ノア!今からゲームをしよう!」
「え、げーむ?」

 先程と同じように、ノアに詰め寄ったジョージは、そうさ!と言ってゲームの説明をする。

 至ってルールは簡単。俺達がホグワーツで七年間過ごす間、ノアにはある本の登場人物の喋り方を真似してもらう。勿論、俺達に何もないわけじゃない。ノアが見事に七年間やり通せることが出来たら、俺達は何でも言うことを聞く。

 説明を聞き終えると、ノアは挑戦的な笑みを浮かべた。

「言ったね?」
「ああ、男に二言は無い!」

 こうして、未来に語り継がれるだろう三人のゲームは始まった。


「それじゃあ、さっそくこれ!」

 そう言ってジョージに渡されたのは、幼児から大人まで楽しめる物語の本だった。年少組によく読み聞かせをしていたノアは、今でもはっきり覚えていた。
 軽く本に触れるなら、一人の青年が道中で仲間になった三人の御供を連れて、ある物を探しに冒険に出る、と言った話だ。

「僕が真似するのはリーダーでいいの?」
「ああ!」

 元気良く頷いたフレッドに、ノアは内心申し訳ない気持ちになった。この本は何回も読んでいるから、ただ口調を真似るだけなら造作もない。二人が提示したゲームのルールには、ノアに対するペナルティが一切ない。

 抗議しようと二人を見るも、目を輝かせて今か今かと待ち受けている二人を見て、ノアは深く息を吸う。

 リーダーである青年は、柔らかな口調で物腰も柔らかい好青年っと言った感じの風貌で、非の打ち所のない人間。困っている人間が居れば、救いの手を差し伸べる。


 ――僕は君達のことを、冒険の同行者である以前に良い友人だと思っている。

 だから、例え冒険が終わったとしても、僕の良き友であって欲しい。


「…これでいいかな?」

 真っ直ぐ、自分達の瞳を見て言われたノアの言葉に、フレッドとジョージは小さく息を呑む。それは、確かに青年の口調であった。そしてノアの思いが籠った願いでもあった。


「ああ、我王よ。心配せずとも、俺達は永遠に友人だ!」
「ああ、我王よ。俺達はどんなに離れていても、友人さ!」


 フレッドとジョージはその場で跪き、考える間も無く即座に言葉を返した。同時に、ノアとの出会いを思い出す。
 最初に出会った時は、やけに身に纏う空気が輝いて見えて目を瞬かせた。次にであった時は、濁りの無い澄んだその瞳が、蒼空を映す硝子に見えて綺麗だと思った。


 ――そうして、君を知ったあの日。

 驚かなかった、と言えば嘘になる。
 でも、名前や血筋で物事を考えるの愚者の考えだ。たった数日一緒に居て、欲が少ない純粋無垢で優しい人間だと知った。だからこそ、ノアは危うい。容貌の美醜にあまり興味はないが、あどけなさを残しつつ色白の肌に浮かぶ薄紅の唇は、同い年だと分かっていても蠱惑でアンバランスな色気を感じる。同じ人間なのか疑うような、なんと言えばいいか分からないが、目の前で微笑むノアの色白の肌に赤みを差した頬を見ていると、イケない雰囲気を感じてしまう。
 それなのに、いざ話せば砕けた幼げな口調がとびだしてきて、邪な気持ちを抱いてしまう人間は少なくないだろう。


 だから俺達は、君を守るためにゲームをする。

 君が闇に呑まれないように。周りを取り巻く悪意を知り、曝される前に。


「ありがとう」


 君が俺達を必要とする間だけは、必ず。



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